『あゝ、大森捕虜収容所 戦中、東京俘慮収容所の真相』
責任表示:八藤雄一 著
出版者:共伸出版
出版年月日:2004.8
非売品
POW研究会 POW Research Network Japan | 会員による出版物
俘虜収容所の所員だった人が会員というのは心強いわな。
"占領軍は、「大森こそ日本軍残虐の本営」として乗り込んで来たが、著者はその烙印に反証しつつ、一方では、日本軍人の中にみられた不正・腐敗も赤裸々にえぐり出している。"
という微妙な記録。
自費出版のパンフレットのような、本文105ページ。
誤記の訂正がしてあり、著者ご本人の手によるものと考えられる。
巻末には手書きの図版出所一覧貼付。
商大を出て三菱重工に入社するが、短現に応募したものの、選考で漏れ、兵士として兵役につく。
親戚や同級生に向けては肩身が狭かったようだ。
甲幹の選考にも漏れ、乙幹として東京俘虜収容所の主計軍曹として14か月勤務。
おかげで戦地に行かずに済み、経理事務や食糧備品等の調達担当という立場で直接俘虜に言うことを聞かせなければならない役回りでもないため、客観的に俘虜と接することができる。
夕食後に俘虜のところに遊びに行き、会話の中で英語の表現を教えてもらうなど、馴染む。
俘虜の評判の良かった所員の何名かにカウントされる立場。
所長の評価は悪く、士官登用も握りつぶされ、やがて左遷された由。
戦後は戦犯追及に怯えることもなく(フルブライト留学1期生の光栄にも)、キャタピラー三菱に転じ、同社で定年までサラリーマンを全うする。
塞翁が馬。
その後、元俘虜との交流などに積極的に当たる。
元俘虜が懐かしがって会ってくれるというのは、人格が立派で乱暴なことをしなかった証拠といえよう。
当時つけていた日記を出版したらどうだとの声があるが、BC級戦犯として訴追された人物に関する記載も多数あるため、微妙。
大田区郷土資料館に任せている由。
もう誰にも遠慮はいらないとばかりに、当時の所長や同僚らのうちで部下や捕虜への対応が問題ありと思われる人物を、実名を挙げて酷評。
「私は貝になりたい」の作者や、(戦犯追及を逃れた)逃亡記をものした人物らも、俘虜に大変残酷に接した唾棄すべき人物として、"品性下劣な"所長と並んで酷評。
うーむ。
俘虜に支給されていた賃金(著者は在籍中、毎月俘虜代表に付き添って三菱銀行支店に預金に行っていた由)が、終戦のどさくさで消えていた!(インタビュー記事を下記にリンク)などの疑惑に満ちた怪しい組織?
終戦の際に俘虜にまとめてきちんと支払った他の収容所では、街に出た元俘虜らが豪遊した(使い切るぞ!)というエピソードも。
「平和島」の由来
実務英語研究会(PESA) / Letters between Mr.Martindale and Mr.Hatto
たった15歳で捕虜になったジョー・アレグザンダー氏とのインタビュー
Q:最近、謝罪を受け取る為に川崎の鉄工所を訪問なさったそうですね。そのお話を聞かせて頂けますか。
A:はい。それは2003年のことです。その頃までに私には、以前の日本訪問中に知り合った2人の友人がいました。捕虜の歴史を研究していた長澤のりさんと大森捕虜収容所の職員だった八藤雄一氏です。彼は戦時中もよい人でした。
証言・大森捕虜収容所:06年夏・平和島から/3
戦後、消えた預金 /東京
ミツジのブログさん
大森捕虜収容所の主計軍曹がすでに「アンブロークン」の主張を否定していた
「日本の捕虜=奴隷」をとことん強調して映像化したのが映画「アンブロークン」である
「アンブロークン」・元捕虜と元看守の手紙
さらに追記:
某誌(正確には某報)への寄稿で、著者の近況およびご定年後の諸々判明。
日本ギア工業をへて、攻玉社短大事務長を歴任された由。
公益社団法人 トンボと自然を考える会 顧問、なんだって。
責任表示:八藤雄一 著
出版者:共伸出版
出版年月日:2004.8
非売品
POW研究会 POW Research Network Japan | 会員による出版物
俘虜収容所の所員だった人が会員というのは心強いわな。
"占領軍は、「大森こそ日本軍残虐の本営」として乗り込んで来たが、著者はその烙印に反証しつつ、一方では、日本軍人の中にみられた不正・腐敗も赤裸々にえぐり出している。"
という微妙な記録。
自費出版のパンフレットのような、本文105ページ。
誤記の訂正がしてあり、著者ご本人の手によるものと考えられる。
巻末には手書きの図版出所一覧貼付。
商大を出て三菱重工に入社するが、短現に応募したものの、選考で漏れ、兵士として兵役につく。
親戚や同級生に向けては肩身が狭かったようだ。
甲幹の選考にも漏れ、乙幹として東京俘虜収容所の主計軍曹として14か月勤務。
おかげで戦地に行かずに済み、経理事務や食糧備品等の調達担当という立場で直接俘虜に言うことを聞かせなければならない役回りでもないため、客観的に俘虜と接することができる。
夕食後に俘虜のところに遊びに行き、会話の中で英語の表現を教えてもらうなど、馴染む。
俘虜の評判の良かった所員の何名かにカウントされる立場。
所長の評価は悪く、士官登用も握りつぶされ、やがて左遷された由。
戦後は戦犯追及に怯えることもなく(フルブライト留学1期生の光栄にも)、キャタピラー三菱に転じ、同社で定年までサラリーマンを全うする。
塞翁が馬。
その後、元俘虜との交流などに積極的に当たる。
元俘虜が懐かしがって会ってくれるというのは、人格が立派で乱暴なことをしなかった証拠といえよう。
当時つけていた日記を出版したらどうだとの声があるが、BC級戦犯として訴追された人物に関する記載も多数あるため、微妙。
大田区郷土資料館に任せている由。
もう誰にも遠慮はいらないとばかりに、当時の所長や同僚らのうちで部下や捕虜への対応が問題ありと思われる人物を、実名を挙げて酷評。
「私は貝になりたい」の作者や、(戦犯追及を逃れた)逃亡記をものした人物らも、俘虜に大変残酷に接した唾棄すべき人物として、"品性下劣な"所長と並んで酷評。
うーむ。
俘虜に支給されていた賃金(著者は在籍中、毎月俘虜代表に付き添って三菱銀行支店に預金に行っていた由)が、終戦のどさくさで消えていた!(インタビュー記事を下記にリンク)などの疑惑に満ちた怪しい組織?
終戦の際に俘虜にまとめてきちんと支払った他の収容所では、街に出た元俘虜らが豪遊した(使い切るぞ!)というエピソードも。
「平和島」の由来
実務英語研究会(PESA) / Letters between Mr.Martindale and Mr.Hatto
たった15歳で捕虜になったジョー・アレグザンダー氏とのインタビュー
Q:最近、謝罪を受け取る為に川崎の鉄工所を訪問なさったそうですね。そのお話を聞かせて頂けますか。
A:はい。それは2003年のことです。その頃までに私には、以前の日本訪問中に知り合った2人の友人がいました。捕虜の歴史を研究していた長澤のりさんと大森捕虜収容所の職員だった八藤雄一氏です。彼は戦時中もよい人でした。
証言・大森捕虜収容所:06年夏・平和島から/3
戦後、消えた預金 /東京
ミツジのブログさん
大森捕虜収容所の主計軍曹がすでに「アンブロークン」の主張を否定していた
「日本の捕虜=奴隷」をとことん強調して映像化したのが映画「アンブロークン」である
「アンブロークン」・元捕虜と元看守の手紙
さらに追記:
某誌(正確には某報)への寄稿で、著者の近況およびご定年後の諸々判明。
日本ギア工業をへて、攻玉社短大事務長を歴任された由。
公益社団法人 トンボと自然を考える会 顧問、なんだって。