そもそも学校で学ぶような学習内容で、人生にとって真に意義深いものがどれほどあるのだろうか。
なんてこと言っちゃうと、あまりにも極論過ぎますが。
学習として捉えて学びえてきた知識なんて、継続して使わなければいずれは頭の片隅に追いやられて見えなくなっていく。
四則計算だって漢字だって、日常的に使って初めて自分のものとなる。
使わなければ忘れていく。確実に。
インプットした知識は、日常生活の中で消化しながらアウトプットすることで、初めて知恵に変容すると思うんだ。
かつての生活は確かに不便で快適とはいかなかっただろうけど、人ってより過ごしやすく、便利に生活することを望むから、生活の中で考えることはご先祖様にとっては必然だった。
火種を絶やさないように、灰を被せて温存する。
冬は寒いから、残り火でお湯を沸かしていつでも使えるように。
紐でも袋でも敷き物でも履き物でも、わらさえあれば大抵は作り出せる。
必要だから自分たちでどうにかする。
ないと不便だから、自分たちの知識をフル活用しなくちゃ。
頭を使えば使うほど快適になる生活だったから、おのずと生活のなかに思考の場が増えていった。
金銭主義の現代社会では、この思考の部分が分業化されてる社会なんだ。
まさにアイディアが金になる社会だからね。
より便利な生活を営むために、考える場を預かっているのはそれぞれの企業。
そしてその恩恵は、金さえ払えば手に入る。
考えなくてもいい。お金さえ払えば誰かがやってくれる。
考えなくてもいい。やり方にさえ従えばすべてがうまくいく。
考えなくてもいい。だって、生活には困らないもの。
近現代になって、日常の中での思考する場がものすごいスピードで減少している。
思考力が低下している?
そりゃそうだ、そういう社会を望んでいたんじゃないの、ニンゲンは。
不便な生活に戻ろうっていうわけじゃない。
江戸時代の生活は素晴らしいから、時代を逆行して生活を戻しましょうとも思わない。
裏の顔も見えないまま、時代を羨むことは意味のないことだから。
それじゃ、結局何も変わらない。思考を預ける場を企業から歴史に移行しただけだもの。
そろそろ第三の道を模索してかなきゃ。
より快適な生活を営むために金を出す生活から、知識から生まれてくる知恵をひねり出す生活へと、シフト変更する必要性を、今ものすごく感じてるんだ。