増田カイロプラクティックセンターの近況レポート

筋骨格・神経・アレルギー(NAET)・感情の統合療法。
増田裕D.Cのブログ

2006年3月6日 セミナー準備

2006-03-06 20:31:59 | 近況
増田院長記

○本日から3日間臨時休診。3月19日から21日にかけてのNAET BASICセミナーの準備である。私と斉藤が初めて日本で教えるセミナーである。3月の第1回目の参加人数はいろいろ手際が悪くて定員の30名を若干オーバーした。会場のスペースの関係からこれが限度である。

 まず、プレゼンの内容の検討、修正、完成をめざす。これが一番大事である。下敷きはDr. Deviのものがある。これに加えて、これまでの自分たちの臨床経験や日本の受講生が戸惑っていることなどを勘案して、今考えられる日本人向けのベストのプレゼンを用意しようと思う。必要な写真は一通りそろえることが出来た。2度復習してから、プレゼンの分担を決める。大体、増田、斉藤の順を繰り返す。経絡のところは野澤先生の応援を頼む。

 次に、当日の配布資料作りである。これはもう一応そろっているが、細かな点の点検である。1、プレゼン、2、問診表、3、プロトコル、4、急性プロトコル、5、感情の自己治療、6、食事制限表、7、特に卵、牛乳、小麦に関する細かな情報、8、参考文献、9関連商品の購入の仕方など。

 第3に、当日の受付に関する準備。ネームタッグ、受講サイン表。
 
 第4に、実技のテーブルの用意(9台)。フェースペーパーの用意。パソコン、プロジェクター、延長コードの用意。英文資料の用意。
 
 第5に、基本バイル15項目の作成。
 
 第6に、会場の下見。これは2度目を行い、ホテル側と確認。セミナー参加者に宿泊費の割引の確認。

○プレゼンの準備は結構楽しい。日本人はとても細かなことに気づく習性があるので、そうした要求にもキチンと応えられるものにするには、やはり日本人が作成するプレゼン(と言ってもほんのわずかな補完にすぎないが)が一番かなと思う。

 それに、セミナー終了後、翌日のオフィスで受講生が使えるようにして帰すのが私たちの最大の目標である。実技も事細かに見ていくつもりだ。 

○昔の知り合いから電話あり。NAETセミナーに受講したい旨の電話である。5月のセミナーに応募するように促す。一日中、セミナー準備をしているが、疲れが患者を診ているのと診ていないのでは全然違う。今日はそれほど疲れない。

○昨日読んだ「<対話>のない社会」(副題:思いやりと優しさが圧殺するもの)が非常におもしろかった。著者は私より2歳上のベビーブーマーの一人だが、この人に全面的共感する。私はまったく常識人で普通の人間だと思っているが、回りから言わせると、どこか変わっていると見られる。恐らく中島氏も同様の感慨をお持ちのようだ。とくに、町のどこにも見られる無内容な標語。これに非常に怒りを覚えている。全く同感である。景観を汚し、税金の無駄遣いをし、市民の自己責任を促さず、絶えずお上が管理するというこの姿勢は全くの愚民政策である。
 折々にこの本の紹介をしようと思う。

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2006年3月5日 花粉の成分

2006-03-04 23:41:07 | 近況
増田院長記

○花粉症の季節である。花粉症は典型的なアレルギー疾患であると考えられている。つまり、花粉という抗原に対してリンパ細胞の抗体とくに免疫グロブリンE(IgE)が産生される。この抗原抗体反応の結果、ヒスタミンやプロスタグランジンなどの炎症物質が分泌され、花粉症特有の症状を誘発する。鼻グズグズ、目が痒い。

 では、花粉とは何か?スギだヒノキだ、秋ならブタクサだイネだとか言われるが、あまりその成分にまで言及されることは少ない。そこで成分をインターネットで調べると-。あまり、的確な資料が見当たらないものの、だいたい以下のような成分になるようだ。
 1、炭水化物(糖質)。単糖類、多糖類、デンプン。
 2、たんぱく。この比率は最大35%にも及ぶ。
 3、脂肪。
 4、ビタミン類。とくに、BやCが多い。
 5、ミネラル。カルシウム、カリウム、鉄、銅、マグネシウム、リン、ケイ素、硫黄などが多い。
 6、酵素。これも一種のタンパクである。
 7、抗生物質
 8、水分
 9、その他

 こうしてみてくると、花粉とは非常に栄養価の高い「食物」であることが判る。 この濃縮栄養素に対するアレルギーが花粉症の正体である。

 だから、NAETで卵のアレルギーを治療するだけで、花粉症が数段軽くなる理由も当然である。だから、治療では卵、カルシウム、ビタミンC、ビタミンB、砂糖といった基本的な項目を治療する。一挙に実際の採取した花粉で治療しても事態はただ混乱するだけのことが多い。 

 花粉でIgEの反応があるということは、炭水化物、タンパク、脂肪、ビタミン、ミネラルなどに対する抗体抗原反応にIgEが関与していることを意味する。花粉症はアレルギー反応であるとは認められていても、個々の栄養素に対する反応までもアレルギーであるとは西洋医学の中ではなかなか認められていない。しかし、現実はかくも明白である。したがって、食品アレルギーと花粉アレルギーは値が一緒である。

○この炎症物質のヒスタミンであるが、脳内でも分泌される。ところが、脳内での役割はストレスを和らげる働きがある。このため、花粉症などに抗ヒスタミン薬を使うと、BBB(脳血管障壁)を通過してしまい、脳内のヒスタミンの役割を抑えてしまう。抗ヒスタミン薬を服用すると眠くなってしまうのはこのためである。

○ところで、年々花粉症の患者数が増えているという。それはなぜか?また、年々スギ花粉の猛威がひどくなるのに、一向花粉症に罹らない人もいる。こういう「人種」の人のなかには花粉症に罹る人を理解できないものもいる。問題はどうして花粉症に罹る人と罹らない人がいるのか?

 花粉症とは花粉の成分に対するアレルギー反応である。炭水化物、タンパク、脂肪、ビタミン、ミネラルに対するアレルギーである。これらの栄養成分に対するアレルギーはおそらく、両親あるいは隔世遺伝で祖父母からもらっている場合が多い。
 
 個々人の生体エネルギーと花粉の個々の栄養素のもつエネルギーが反発し合う関係になると、アレルギー症状が生まれる。このアレルギー体質は内在的なもので、遺伝的な要素が大きい。しかし、この遺伝的要素も環境との相互作用の結果が情報として遺伝されているのであって、なにか環境とは無縁な人間身体内部の組織のことではない。したがって、この内因(遺伝的要素)は外因(環境)からの影響を受けている。
 スギ花粉が大量に発生すると、この外因による要素が過度に刺激されて、この遺伝的要素が活性化される。だから、症状もきつくなると考えられる。

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2006年3月4日 競争相手は患者そのもの

2006-03-04 21:38:37 | 近況
増田院長記

○前に書いたセブンーイレブンの「16歳からの経営学」の続きを書く。
 「顧客のために」と考えがちな人は「顧客とはこういうものだ」「顧客はこうあるべきだ」と決め付けて発想する->売り手としての過去の経験をもとに考えようとする->やがて変化に置いていかれうまくいかないと顧客のほうを責める。
 この「顧客」を「患者」に置き換えると、すべてわが身のこととなる。

 「顧客のために」と「顧客の立場で」の違いを別の角度からも論じている。物事の考え方には「川モデル」と「井戸モデル」の2つがある。顧客は川の向こう側にいると考える。「顧客のために」はこの発想だという。この川モデルには2つの問題があるという。まず、調査データや分析データからは誰が考えても同じような答えが出るため、ものまねになってしまう。次に、顧客ニーズがめまぐるしく変わる変化の時代には、顧客のニーズはもう先に行ってしまう。
 一方、井戸モデルは自分の井戸を掘り下げていくと、自身の持っている買い手としてのニーズが湧き上がってくる。掘り進むと地下水脈にぶつかり、顧客の井戸と繋がっている。この地下水脈こそ顧客もまだ気づいていない潜在的ニーズに当たるというわけである。これが「顧客の立場」で考えるということである。

 いつも大事な観点は自分が患者だったらどういうケアやサービスを受けたいかを考えることだ。以前どこかで話したことがあるが、患者の立場で考えれば、4000円出してフランス料理を食べるのがいいか、それともカイロの先生の治療を受けたほうがいいか、そういう選択の問題である。だから、私の競争相手はディズニーランドであるとバカみたいなことをいうのは、まさに市民の立場から考えれば当たり前のことなのだ。
 
 セブンイレブンの価値は「われわれの競争相手は同業他社ではなく、日々、めまぐるしくニーズが変化する顧客そのものである」という。われわれの競争相手は繰り返しいうが、整形、按摩マッサージ、整体、リフレクソロジーなどではない。患者そのものなのである。

○自分の井戸を掘り下げていくためには、自分を客観的に見ることが必要だという。つまり、「もうひとりの自分」から「自分」を見る。自分(主観)->自分は売り手であると同時に顧客としての心理も持っていることに気づく(客観)->自分の中にある潜在的なニーズを掘り起こしながら仮説を立てていく(主観)->仮説が独善に陥っていないか、自分たちの目指すものからずれていないかすり合わせる(客観)ー>仮説をもとに発注する(主観)->POS(販売時点情報管理)データで検証する(客観)

 何事もこの主観と客観の2つの往復が大事である。能の創始者である世阿弥は演技する自分を見る観客の目を自分の中に持たなければいけないという。また、プロの作家は自分の書いた原稿を他人の目で評論しながら推敲する。この他人の目を経ていない文章を読まされるほうはたまったものでない。イチローも自分の打撃を他人の目で修正する。この自己客観視能力がないと、斉藤孝によると、「オレ様ゾーン」に入り、何も裏づけはないのにむやみに自信だけはある輩を生む。しかし、破綻は目の前にある。

 カイロプラクターにもむやみに自分のアジャストがうまいと思っている人もいる。実際は強すぎて人に怪我をさせていても気づかない。本当にうまい人はあまり自慢しないものだ。

○本日は当初臨時休診の予定だった。予定を急遽変更したので、土曜日だというのにそれほどの患者数が入っていない。私の担当の患者数は20人であった。斉藤先生は29人である。彼女の場合、回数のかかるアレルギー患者ばかりである。

○30代の2人の男性患者。1人は両膝の痛み、もう1人は坐骨神経痛である。両膝の痛みの方は病院で原因不明とされた。坐骨神経痛の方は整形外科医院で「椎間板ヘルニアではない」とされたものの「その初期症状かもしれない」と言われた。要するに原因はわかりません、ということだ。本日4回目の治療であるが、ほぼ痛みは解消した。膝痛のかたは、膝関節に関与している筋肉や靭帯が多方向にバランスを失った結果である。坐骨神経痛の方は腰椎の機能障害のほかに殿筋の圧痛が原因であった。いずれも筋骨格系のストレートの楽なケースであった。これは西洋医学が最も不特異とする分野で、逆に私どもが最も得意とする分野である。
 
○プロ野球に典型的な2つの型のファンがいる。巨人ファンと阪神ファンである。巨人ファンは負け試合は見ないという。ところが,阪神ファンは長い間の不振をずっと見続けてきたものだから、負け試合も見るし、勝ち試合だったら、天下を撮ったような大騒ぎとなる。つまり、阪神ファンは阪神のいいところも駄目なところも全部ひっくるめて阪神を愛しているのである。

 私はこの姿勢が大事だと思うのですね。もちろん、こうした愛が阪神を長くだめにしてきたという議論もあるけれども、ここでもプラス面を考えたい。国の歴史、民族の歴史を考える上でも、こうした庶民の感性を大切にしたい。端的に、日本の民族の歴史にはプラスの点もマイナスの点もある。それを正当に率直に見ることから始める。他国の批判はひとまずおいて、自分で自分の中を見つめることが大切なのではないかと思う。

○昨日、電気屋に行って「MAC mini」を買ってきた。これは国際会議用にいいというので購入してきた。それにカメラとマイクロフォン。しかし、MACに特有のマウスとキーボードが必要なことがわかり、日曜日に買いに行くことにする。MACはこれまで一度も使ったことがないのでどうなるか。何事も挑戦である。

○コンピュータついでに、ひとこと。今、私はカイロ神経学とNAETの受講生との連絡を全部メールで行っている。これがないと、日常的な連絡がほとんどできなくなる。受講生は是非インターネットに入りメールを使えるようにして欲しい。インターネットはオレには無理だという人は、「私は飛行機は嫌だから船にしたい」と言っているに等しい。今の時代にはインターネットは最も便利で安価な方法なのである。

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2006年3月3日 民族を考える

2006-03-02 22:22:36 | 近況
増田院長記

○昨日の続き。タイトルはとても難しいので、日本の民族のどこが好きかどこが嫌いか、全く個人的見解で述べたが、その続きである。

 好きな点の続き
 1、雑食文化。何でも食べる食文化のように、異なる文化を貪欲に吸収してしまう胃袋の強さ。古くは中国、韓国から、近代では主としてオランダ、英国、フランス、ドイツなどのヨーロッパ、戦後は圧倒的にアメリカから文化を導入して独特の文化を作っている。つまり、伝統文化の中に超近代もあるというモザイク文化。

 2、忘れていましたけれども、800万の神のいる多神教の文化。これも、1神教のキリスト文化やイスラム文化よりもはるかにいいと思います。

 3、町並みが清潔である。いろんな店のサービスが抜群に良い。これは諸外国に行くとよくわかりますよ。

 4、何でもかんでも訴訟になるわけではなく、訴訟は最後の手段として残されている。
 
 5、外食が安い。諸外国に行けばわかるけど、日本ほど外食が安い国はないと思う。私は助かります。 

 嫌いな点の続き
 1、伝統をいとも簡単につぶしてしまう。結構日本にはこの手の破壊は伝統なのか?織田信長は革命児として伝統文化の破壊者であった。これにはプラス面もある。軍国主義は全く日本の伝統と相容れない。日本の文化の100%破壊者であった。日本の文化を誇る京都で京都タワーとか京都駅とか、自分の観光的価値を低下させてもなんとも思わない鈍感さ。これがどのように関連しているかわからないが、嫌な点。

 2、高度成長やその後の産業政策で、日本の緑の国土(森の国)を破壊し、安価な食品輸入で日本の農業を衰退させようとする陰謀。

 3、天皇家にあまりにも人間的要素がなくなっている。一番非人間的な空間である。雅子様は非常にかわいそう。今の皇太子も孤立しているのではないか。古来、天皇は歌を詠み、文化を楽しんだ。後鳥羽天皇の歌は帝王の歌である。天皇家にもっと人間的な自由を!

 4、官尊民卑の風潮。勲章に弱い体質。

 5、年齢を意識する社会。新聞でも雑誌でも人を紹介する時必ず年齢を入れないと収まりが悪いとする風潮。年齢なんか関係ないじゃん。

 6、TVのワイドショー。これに餌食にされたら本当に怖い。勉強せずにインタビューする記者やレポーター。正義ぶるジャーナリスト。これは嫌ですね。

 7、肩書きを振り回す御仁。組織の力と個人の力を混同している人々。

○本日、イリスコーダー(瞳孔計測器)を使って、83歳の女性と38歳の女性の2人の治療前後の瞳孔径を測定した。高齢の婦人は非常に小さな初期瞳孔径で、暗順応も低い。つまり、暗くてもそれほど瞳孔が開かない。治療後測定すると、初期瞳孔径は大きくなり、暗順応後の瞳孔も治療前より大きくなった。これがどの程度の有意性があるのかが問題。一方、中年の女性は初期瞳孔径が大きい。暗順応では若干大きくなるだけ。治療後は初期瞳孔径は小さくなり、暗順応後の瞳孔径も治療前より小さくなった。これはどうやら年齢別の2つのパターンを示しているのではないかと推測される。

 つまり、高齢者の場合、治療後は瞳孔が大きくなり、若い人の場合、治療後は瞳孔が小さくなるのではないか、という仮説である。 

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2006年3月2日 民族の歴史 

2006-03-02 10:03:15 | 近況
増田院長記

○どこの民族の歴史にもいい点と悪い点がある。ちなみに日本民族にも素晴らしい側面とどうしようもない否定的側面がある。ちょうど個人が長所と短所を持っているように。このことを率直に認めることが大切なのではないか。否定的なことばかり見るのでは「自虐史観」になってしまうし、日本には万世一系の天皇の歴史があるのではないかという賛美だけでは「皇国史観」になってしまう。
 
 まず、歴史観と歴史とを絶えず峻別する。この態度が必要なように感じる。
 現在、女性天皇の是非をめぐり論議がくすぶっているが、論議の中で反対派は「万世一系」を持ち出しているが、これが事実でないことは、現在の皇統が南北朝時代の北朝の流れなのに、後醍醐天皇の中興以来、南朝が正統して扱われている。そしてこの天皇はまさに異形の天皇で、大の密教好きであった。天皇家といえば、神道となるが、事実はこのように違う。

 それはさておき、思い浮かぶままに、日本の優れたところを列挙してみよう。
 1、漢字を文字として採用し、ひらがな、カタカナを生み出して、在来の大和言葉、外国語の中国語、近代では西洋の外来語を使い分ける、類まれな文化を創造した。こうした文字の創造は世界に類のないことだと思う。
 
 2、ギリシア・ローマ文化には及ばないが、遠くヨーロッパが蛮族の時代であったころ、すでに文学が盛んであった。しかも源氏物語等の世界初の女流文学が誕生した。これは日本の誇りですね。天皇も歌詠みとして文化の頂点にいた。
 
 3、やや飛ぶが、偉大な画家であるゴッホは日本の浮世絵の画家たちに憧憬と尊敬の念を持っていた。フランスの印象派は浮世絵から誕生した。西洋かぶれの文明開化の明治時代、貴重な浮世絵が海外に流出した。本当に浮世絵は素晴らしいですね。また、春画のほうもすごいけどね。カーラジオで聞いていたら、今年、ボストン美術館所蔵の日本の浮世絵コレクションが里帰りして、神戸、名古屋、東京で展示されるそうだ。是非見に行かなければならない。しかし、ボストン美術館!!である。これが実に嘆かわしい。日本の恥だ!
 
 4、鎌倉時代に突如仏教の隆盛がある。どの宗派も偉大な指導者を生み出し、民衆に布教していった。このエネルギーはとても素晴らしいことだと思う。しかも、日本独自の仏教のとらえ方である。
 
 5、今の宗教界の退廃。ほとんどみな冠婚葬祭の儀礼宗教に堕してしまっている。心、魂、精神の拠り所になっていない。これは、江戸幕府に宗教が牙を抜かれしまったためか。故人につける戒名にお金次第でランクがある。これは本当に堕落だと思います。 
 
 6、嫌な点は軍国主義。今の「会社すべて」主義。文化の素晴らしさを否定する点で両者は同じ。日本の伝統とは全然あっていません。最も優れた政治家、外交官、経済人、セールスマンは非常に文化に精通した知識人です。それ以外はバカにされるだけ。実にその手の者が多いのは嘆かわしい。

 7、俗に言う島国根性ですね。長いものに巻かれろ。自分の意見を持てない。自分の意見を聞かれて、まず他人はどう思っているかを推察する。他人の意見にすり合わせる。これでは独創的な意見とかアイディアは絶対出てきませんね。

 8、しかし、協調とか協力を大切にする文化は大事で、この個人の自立と尊重という立場を踏まえて、相互に協力するということが大切だと思う。

 9、失敗から学ぶという率直さが特に近代において絶対的に欠けている。たとえば、あの戦争にどうして負けたのか、いまだきちんとした総括が出ていない。あの日露戦争も実は勝利と言えないほどの「薄氷の勝利」だったのに、その戦争の総括が出されていない。ただ、神話化されただけである。バブルで何が問題だったのか、いまだ総括されていない。総括がないということ、喉元過ぎれば熱さを忘れずで、いつかまた同じ過ちを犯す。

 10、江戸時代の読み書きそろばんの伝統。俳句の大衆文化、お手前の女性のお茶文化など、国民の広いそうに渡る文芸、文化の伝統。これは素晴らしいですよ。

 さて、隣の中国を考えると、即座に思うのは、漢字や仏教や儒教や律令制度や貨幣やほとんどすべての分野で先進国として日本の師としての存在であった。日本は中国なくして存在しない。しかし、日中の外交文書に署名した日本の外務大臣が自分の名前を漢字で署名したら、中国側は笑ったという話がある。つまり、漢字とは中国だけの文字だと思っている偏狭な中華思想があるのですね。
 中国を語るとき、この中華思想ほどどうにもならぬイデオロギーはないと思う。東夷、西夷、南蛮、北狄はすべて周辺国として蔑まされた。元寇なるはその最たるもので、今でも中国の歴史教科書は日本の古代を蔑称の倭と述べている。また、本居宣長の指摘するごとく、日本には歌心=恋心の伝統があるのに、中国にはない、といった指摘もある。関曠野氏は戦前の中国への侵略は西洋的な帝国主義的経営というよりは、東アジアにおける儒教的「中華」と「夷狄」の秩序・位置関係の再編を目指したものであったと見るほうが真実に近いと述べている。つまり、日本が「中華」であるという国体思想。ここにも中華思想の影が及んでいる。

 アメリカの歴史を考えれば、偉大なリンカーン大統領を産んだ民主主義の歴史があるかと思えば、黒人奴隷やその後の人種差別もあり、なお今日実態として差別がある現実、あるいは帝国主義的な使命感に燃えた十字軍的他国への干渉、グローバリズムのような経済覇権主義がある。あくまで議論を大切にする文化もあれば、政治的暗殺の歴史もある。世界の知脳を集めて、最高の科学芸術を発揮する。ジャズやロックの文化もあれば、宇宙開発でのすばらしい貢献もある。つまり、良いところ悪いところ、巨大な国だけに、そのスケールも大きい。機会の均等があるかと思えば、その後の結果不平等の格差社会がシビアな現実がある。留学した経験で言うと、アメリカと日本を足して2で割る感じがとてもいいのだが。

 どの国を見ても、良い面と悪い面がある。それを率直に認めることが大事なのではないかと思う。それが共通の理解になることが実は相互の理解になるのではないか。ヨーロッパでもナポレオン1人の評価をめぐって共通の理解は得られないという。私は当たり前だと思う。愛国心とはこの良い面悪い面全部含めてのことである。自己愛だって家族愛だって良い面と悪い面全部丸ごとひっくるめての話である。良い面ばかりでは美談であれ事実とは遠い。

 オーストラリア人に愛国心はあるか。当然ある。あるに違いない。しかし、それを歴史に結び付けていないだけである。歴史の端緒はアボリジニの原住民を除けば、囚人の流刑地であった。もし、愛国心を歴史に基礎づけようとすると、この作業はとても困難である。愛国心は歴史とは別個に立てられるべきだ。だって、どうしようもない両親でも、いやだからこそ、愛せるのではないですか? 国でもおんなじことが言えるでしょ? どうしようもないものの、いやどうしようもないからこそ、愛せるのでは?

 思いつくままに。

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2006年3月1日 「患者のために」と「患者の立場になって」

2006-03-01 23:56:14 | 近況
増田院長記

○セブン-イレブンの「16歳からの経営学」鈴木敏文が教える「ほんとう」の仕事、勝見明著、先生鈴木敏文・野中郁次郎、の中に「顧客のために」と「顧客の立場で」はどこが違うのか?というメッセージがある。まずわかりやすい例として「子どものために」叱っている親は子どものためと言いながら実は「親の都合」で叱っている場合が多いことを紹介する。同様に、顧客のためという心情は顧客についての決め付けや思い込みとなり、お客様への押し付けであり、うまく売れないと責任をお客に転嫁する。常に買い手の視点である顧客の立場で考えることが大切、という。

 この本は図式で次のように説明している。「顧客の立場で」考えられる人->自分の中にもある顧客の心理を呼び起こして発想できる->仕事を離れれば自分も買い手になることに気づいている->自分も変化を起こしている1人として考えることができる。すごいですね。しかもこの本のすごいところは「顧客の立場になって」考えることは誰にもできることだと言い切っていることだ。

 話がやや飛ぶが、○○のため、というのはどうやら常に押し付けになる恐れがある。昔から言うではないか。「情けは人のためならず」。これは誤解されている。「情けをかけるとかえってその人を駄目にするから情けを掛けるような優しい態度は逆効果である」といったふうに。しかし、これは「情けは人のためではなく自分のためである」という無償行為のすがすがしさを言っているのですね。○○のため、という響きは抗し難い力がある。子どものため、会社のため、国のため。しかし、偽善の偽は「人の為」と書く、と相田みつをがどこかで書いていた。

○以前から私は優れたドクターになるためには、自分が患者の時には立派な患者になるようにしなければいけないし、市民社会にあってはよき消費者でなければならない、と感じていた。要するに、普通の市民の立場に立って考える、ことを基本にしようということだ。治療の現場では、常に患者の立場に立って考えることが大事だと考えてきた。「患者のため」という思い込みは極力避けるように努めてきた。だから、患者の立場に立って考えれば、薬も必要だし、西洋医学の治療との併用も納得がいくし、オフィスを休みにしなければいけないときには、緊急用に信頼できる先生に紹介するといったこともしている。これは患者の目線に立てばはっきりしている。患者は安心感が欲しいのである。

 また、痛みを速く取って欲しいと思う患者さんの気持ちを理解できるのである。患者の立場に立つ、ということが実はEMPATHY(同感)なのである。改めてそのことに気がつく。

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