増田カイロプラクティックセンターの近況レポート

筋骨格・神経・アレルギー(NAET)・感情の統合療法。
増田裕D.Cのブログ

2006年3月22日 セミナー終了

2006-03-22 22:53:21 | 近況
増田院長記

○3日間のNAETベーシックセミナーを終えた。これまでDr.Deviの元で勉強したすべての集積した知識と4年余の臨床経験が教える際に役立った。それに、教え方は日本流に若干アレンジして、実技中心に必要な座学を付け加える形にした。いずれにしても、1回のセミナーですべてを理解することはむずかしい。何回も受講してほしい。しかし、私がこのテクニックを手探りで学び始めた時と比べると、日本の受講生は何十倍も幸せだと思う。

 第1に、日本語で理解できる。
 第2に、私が理解できにくかった所を理解した上で、教授している。
 第3に、実技についてかなり手取り足取り教えている。
 第4に、教える側が常に学習している。

 教え方は漸次改善していくにしても、私としては持てるものをほぼ100%教えたと思っている。1回目のセミナーとしては過不足なく教えることができたのではないか。細かいことはしばらくして総括してみようと思う。

 参加者は定員をオーバーする36人であった。会場はいつもお世話になっているホテルで行ったため、地の利人の和があり、非常に便利だったが、ややスペースとしては手狭であった。しかし、神は小さなものに宿る、という。それに、静岡にこれだけの人数の人が参加していただけたのは望外の喜びであった。感謝。


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2006年3月16日 しばらくのお休み

2006-03-16 13:39:11 | 近況
増田院長記

○昨日からこの近況レポートをしばらくお休みします。NAET BASICセミナーの準備があるため、満足のことが書けません。あしからず。

○再開は3月22日(水)の予定。以上


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2006年3月14日 資料作り

2006-03-14 23:42:28 | 近況
増田院長記

○本日は午後休診。NAET BASICセミナーの資料作りを行う。本日はプレゼン用の資料をコピーする。プレゼン用だけでA4で59枚になる。それ以外の関連資料を入れると92枚ほど。受講生35人分と事務局スタッフ用3人分を入れて38人分X92枚だから、総計約3500枚になった。すごい労力が入りますね。さて、これをどうファイル化するかだが、これがちょっと思案のしどころである。

 昨年のBASICよりも格段といい資料ができたと自負している。問題はこの資料を利用しながら、どううまく話ができるか、どう実技を教えられるか、である。
後はくそ度胸で乗り切るしかない。

○セミナー初日の夜は懇親会を予定したところ、参加者が30人となった。受講生35人中30人の参加である。ドクター、デビは「NAET FAMILY」を強調していた。みな家族の一員である。そうした意味からも、お互いを知ることは楽しみである。会場の中華飯店に人数の確認をする。明日はわが女性軍が細かなメニューの打ち合わせをする。

○「現代免疫物語」(岸本忠三、中嶋彰共著、日本経済新聞社刊)を読むと、アレルギーを起こす免疫グロブリンE抗体を発見したのは日本人であった話が載っている。石坂夫妻である。ブタクサの花粉症がIgA抗体によることは知られていたが、IgEはそれよりはるかに少量の抗体であった。その血液中に含まれる少量のIgE抗体をいかに分離精製するか、その困難な仕事をやり遂げ、それを自分や他の日本人研究者の背中を使って実験し、確かにアレルギー反応がでることを見届けた。実に1966年のことである。アレルギーの発見には日本人医学者の貢献もあるわけなのだ。

○昨日今日と肌寒いが、この寒氣の中を満月がくっきりと光を照らしている。食事をした後ドライブインでコーヒーを飲みながら、瞳孔測定器を使ってどうアレルゲンを同定していくかその話し合いをした。まずは明日からスタッフで試行することに。

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2006年3月13日 慢性鼻炎

2006-03-13 09:09:10 | 近況
増田院長記

○本日は非常に寒い日であった。やはり春には一直線には行かないようだ。3日間の予定で遠方から来られていた2人の患者さんが帰られた。あと隣の県から来られている方が短期集中治療のために1週間の予定で治療に来られている。集中して徹底的に治療して結果を出そうというわけで、治療を受けるほうも行うほうも大変である。共同作業である。

○「マンデル博士のアレルギー治療法」(桐書房)という本をざっと眺めると、西洋医学の中でも2通りのアレルギーのとらえ方がある。ひとつは正統派の考え方であり、もうひとつは異端の非正統的考え方である。
 
 正統的な考え方とは抗原(アレルゲン)に対して免疫グロブリンE(抗体)が産生され、この抗体が肥満細胞の表面に付着し、再度アレルゲンが侵入した時に、肥満細胞がヒスタミンなどの炎症物質を分泌するために起こる侵害性の症状をアレルギー反応という。いわゆる抗原抗体反応がアレルギーであるとする考えである。したがって、アレルゲンの特定が臨床上の重要な発見となる。これまでの研究では多様な異種タンパクがアレルゲンとして同定されている。
 この立場からすると、カルシウム、ビタミンC、ビタミンB、ビタミンA、ミネラル、塩、穀物、あるいは化学物質や電磁波など、NAETがアレルゲンと考えているものはアレルゲンでない、ということになる。しかし、これは臨床上大いなる疑問である。
 
 非正統的な考え方とはこの狭い抗原抗体反応以外にもアレルギー反応を認める立場である。この本の翻訳者である河野泉先生は米、小麦、大豆などの日本人の主食が主な食品アレルギーの原因であると見ている。西洋医学の医師の中にも、食品アレルギーを積極的に認めるグループもいるが、たいていはダニ、ホコリなどにとどまり、食品アレルギーを認める人々は少ない。

 NAETでは、基本15項目と言って、BBF、Egg mix、Calciumu mix、Vitamin C mix,B complex mix、Sugar mix, Vitamin A mix, Iron mix, Mineral mix, Salt mix, Grain mix、Yeast mix、Acid, Base, Hormoneをアレルギー治療の根本に据えている。これは身体の構造と機能のコアとなるべき必須栄養素である。来れれらの必須栄養素とエネルギー的に反発し合う関係にあると、不快な症状が生じるだけでなく、栄養不足となり、毒が蓄積される。 

 こうして見てくると、NAETは非常に大きな有力な代替医療のひとつであるが、西洋医学の中にも一脈通じるグループがいることは、NAETがあながち荒唐無稽な治療術だと即座に否定されるべきものではない。むしろ、本当のアレルギー治療の淵源に根ざしているかもしれないのだ。

○本日、遠方から2歳児が母親に連れられて来院した。慢性的な鼻炎である。息を立てて呼吸をしている。苦しそうだ。BBFを5回治療する。簡単なスクリーニング検査をすると、基本項目のほぼすべてに反応が見られた。次回からの治療方針を述べる。医者からは鼻の問題はない、アレルギーも卵白に多少反応があるが気にするほどのことはない、アデノイドが大きいのが口呼吸の原因だろう、ということである。まず、睡眠時の口呼吸と覚醒時の口呼吸では少し機序が違う。この子供は起きている時も音を立てて呼吸をしている。鼻づまりがあるのだ。これがどうして鼻の問題がないと言えるのか、理解に苦しむ。

慢性的中耳炎も慢性的鼻炎も根っこは同じである。基本項目を1つずつ除去していけば、必ずやトンネルを抜けられるはずだ。

○昨夜、ぎくっとすることがあった。母親が非常にお世話になった人のことをすっかり忘れてしまったかのような感じだったので、恐怖が走った。これは本当の認知症か。少し話がこんがらかったため少し失念したようで、今日は治療しに来院したときにはもうなんでもなかったのだが、冗談で言っている分にはどうということもないが、認知症も本当だったら大変だ。若いスタッフが増えるので、お袋を巻き込みながら、いろんな刺激を与えていく必要があるのかもしれない。
 その一環として、渡辺先生の車をオフィスから近くにあるお袋の実家に置かせてもらうことにした。これで朝晩の2回は人と触れることになる。

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2006年3月12日 歓迎会

2006-03-12 20:52:59 | 近況
増田院長記

○本日は日曜日。いつもは桐井さんがOFFなので2人でやっていたのだが、渡辺先生がいて3人体制となった。何かと楽である。よくも今まで2人でやってきたのだなあと感慨深い。通常では午後から休診であるが、いろいろと診なくてはいけない患者さんが多く、夕方5時すぎまで診療。オフィス全体で診た患者数は38人であった。診療後、ささやかな新入ドクターの歓迎会をかねた食事会を持つ。

○スタッフの狭い事務室が見違えるようにきれいになった。オフィス用の白い明るいパソコンデスクを導入したので、3台のコンピュータが余裕を持って並べられるようになった。左から、国際インターネット用のMACミニ、次にインターネット用のパソコン、一番右はオフィス事務用のパソコンである。ディスプレイは皆薄型の液晶画面。ハードはデスク下に収納。机の上はかなり余裕がある。上にはレーザープリンターとカラープリンターが1台ずつ、それにスキャナー1台。全部合わせても40万円ぐらいである。機能はアップしてこの価格。隔世の感がありますね。もちろん、MAC以外のパソコンは2,3年前に一番安いものを購入したもので、ワードやエクセルが入っていないものであった。

 オフィスの中で一番整理整頓ができていなかった空間が少しでも快適になるのは気分がいい。次の問題は、デスクの前に座った場合の背中側にある書類の収納をどうするかである。今まで既存の本棚、衣類収納の小型タンスなどで間に合わせていたが、これを奇麗なオフィス用の棚に替えようかと考えている。

○いよいよ来週はNAETベーシックセミナーである。プレゼンの内容の詰めを行い、完成させて、コピーをとらなくてはいけない。この最後の仕事が残されている。火曜日までにプレゼン内容をまとめる。

○交通事故の鞭打ちの患者さん。15回の治療でほぼ首、肩の痛みはなくなり、頭痛もしなくなった。しつこく残っていた左顎の不快感もとれた。ただ、左腕が重いという不定愁訴があったのだが、これも良く調べて、上腕骨の変位や肩鎖関節や回旋腱板の問題がみつかり、これらを矯正して肩関節のモビリゼーションをすると、ずいぶん軽くなった。強制保険の適用を受けているので、全力でカイロの成果を見せるために努力している。

○静岡県東部から愛知県まで通院していた女性が紹介で当院を訪れた。静岡を通り過ぎていたわけだが、通院先の先生に「静岡なら増田先生のところがいいでしょう」と言って紹介してくれたそうだ。感謝!当方は知らないのだが、こうした諸先生方の紹介で来院される患者さんが相当数いるので、この場を借りて御礼申し上げる。1回の治療で腰痛はかなり楽になり喜んで帰っていただいた。アレルギーの症状もあるので、前段の治療を行い、次回からアレルギー治療も行うことにした。
  
○このところ股関節の悪い患者さんが多い。いずれも中年以上のご婦人である。変形性股関節症と診断され、股関節部と大腿3角の痛みが特徴である。一番痛みのひどかった人も当初から診ればずいぶんと軽減している。しかし、構造的弱点を抱えているだけに、どれだけ機能的アプローチが可能か、挑戦している感じだ。

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2006年3月11日 初仕事

2006-03-11 21:55:51 | 近況
増田院長記

○本日は久しぶりの忙しい日であった。平日はたいてい40人ぐらいの患者数であるが、本日の担当の患者数は私が30人、斉藤先生が30人で合計60人であった。遠方からの患者さんは1日2回3回と診るケースも。本日は新しくオフィスの仲間に加わった渡辺織江先生の助けで、ほぼ予定通りスムーズに仕事がはかどった。あと10人ぐらいなら、やれそうな余力を残して終わった。とてもよく気がつき、テキパキ仕事をしてくれるので、あとは早く患者さんを診られるようになってくれるのを待つばかりだ。渡辺先生が第一線で働けるようになったら、とてつもなく大きな力になる。5月のベーシックセミナーではオフィスを休診しないで、渡辺先生にオフィスの留守を任せることにした。

○渡辺先生のメッセージ。

「初めまして、渡辺織江です。
3月11日より、こちらのスタッフの一員となりました。
斉藤先生と同じRMIT大学日本校を卒業し、その後栃木県大田原市にある国際 医療福祉大学にて生理学教室に在籍し、自律神経に関する研究を行いました。
昨年、静岡県に戻り富士宮市にて臨床に携わりました。2006年春、増田カイロプラクティックセンターにて新たなスタートができることを大変うれしく思います。至らない点が数多くあるかと思いますが、一生懸命勉強しますので温かく見守ってください。
どうぞよろしくお願い致します。」


○オフィスの事務室が余りにむさくるしく、雑然としている。国際インターネット会議用にMACを1台導入したのを機会に、コンピュータが3台きれいに並べられるオフィス用のパソコンデスクを購入し、夜遅くまでその作業をした。このブログを書いている間には終わりそうにもない。

 

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2006年3月10日 新スタッフの登場

2006-03-10 22:52:17 | 近況
増田院長記

○明日から新スタッフがわがオフィスに加わる。渡辺織江先生である。斉藤先生の2年後輩のRMIT日本校の卒業生である。卒業後、大学院で研究をされ、臨床現場での経験を積まれて、当オフィスに来られた。静岡県は富士市の出身。

 当面はこのオフィスのやり方に慣れてもらう。患者ケアのもろもろのサポート、問診、簡単な検査、それからオフィスの清掃・整理・整頓など何から何までやってもらう。4月のアクティベータセミナー受講後、患者のケアにも本格的に携わってもらう予定だ。それまで、アクティベータの復習、練習をする。斉藤先生に次ぐわがオフィスの第3の柱になってもらいたい。

 来年には第4の柱になってもらうドクターの採用も内定している。それから、もう1人のスタッフの採用も予定しているので、来春には6人体制でやっていくことになる。それぞれがよきライバルになって、一所懸命に患者の立場に立ちながらケアを行う。プロ野球でも優勝するチームは内部のライバル競争が熾烈である。それと同じように、私自身もウカウカできないような、内部での競い合いがとても大切となろう。
   
 渡辺先生の活躍を期待したい。1人では何もできない。協同の力が真の力を発揮する。

○以前にも報告した心不全寸前の状態であった高齢のご婦人はかかりつけ医から「不整脈はなくなりました」と太鼓判を押されたそうだ。「薬を多めに出したからかなあ」と不思議な顔をしておられたとか。「カイロのことを話そうかと思ったけどどういう反応をされるかわからなかったからやめにしました」。BBFとEgg mixを丁寧に治療した結果である。

○The Neurology of Eye Movement(眼球運動の神経学)の英文と翻訳による要約を始めた。今月末にあるカイロ神経学の新たな教材作りである。「眼球運動の調査:特徴と目的論」「前庭-視運動系」「サッケード系」「平滑追跡と固視」「注視の保持とその神経網」「共視運動のための指令の統合」「眼-頭部運動」「寄せ眼球運動」など。これは自分のためにも一度まとめておかねばならない。

○患者さんの一人が教えてくれた。「新版 花粉症の科学」(斉藤洋三、井手武、村山貢司著、化学同人刊)。免疫学とアレルギー学についての専門書であるが、これを読むと、花粉のアレルギーの正体は花粉の異種タンパクあるいは糖タンパクである。これはIgEという特異的な抗原抗体反応の観点からだけ、花粉症を眺めたものであるが、それにしても、NAETでもEgg mixをきちんと治療しなさい、と口を酸っぱくして言っているのもむべなるかな、である。やはり、タンパクに対するアレルギーをきちんととると、花粉症は大幅に軽減するからである。

○昨日までの勤皇が今日から朝敵となる。まさに幕末の会津藩がそうであった。無念、松平容堂、白虎隊!その心中いかばかりか。これまであまりにも勝者の視点、国家権力の視点に立った官製の歴史ばかりが教えられてきた。しかし、勝てば官軍でいいのか。偽勅の問題といい、民権運動圧殺といい、上からの憲法発布といい、その後の目的も理念もない対外膨張政策といい、征服させられた江戸の文化の観点から近代100年の歴史を相対化してみるのが大事ではないか。たかだか4世代前のことである。

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2006年3月9日 偽勅

2006-03-09 20:03:38 | 近況
増田院長記

○3日間の臨時休診を終えて、本日から診療再開である。黙々と患者さんを治療し続ける。例の道路のくぼみで首を傷めた美容師さんは本日で3回目の治療だったが、すっかり調子が良くなり、首の痛みもなくなった。首の伸展も正常に戻った。「先生のおかげです。これで示談にしようと思います。これからは自費にします」。ここに来る前の整体ではなんと50回以上通院してよくならなかったのに、当院に来ると劇的に良くなる。このほか、治療の進展が遅々としている人もいる。意外と難しい人もいるので、これらについては後日報告したい。

○文芸春秋三月特別号をコンビニで立ち読みしていたら、例の藤原正彦氏の書いているものが眼に止まった。 
 
 「先日、大東亜戦争を論ずるテレビ番組を見ていたら、ある出演者が「戦争に大義があったかなかったかどうでもよい。負ける戦争を始めたことが許せない」と語っていた。勝ち戦なら認めるが負け戦はどんな理由であろうと許さない、正義や信条より勝ち馬に乗れ、ということであろう。こんな意見が公器で語られるようでは、世も末である。戦争とは自国だけでするものではない。勝っても恥ずべき戦争があるし、負けても賞賛されるべき戦争がある。」

 この言説は一般論としてはその通りだと思うが、藤原氏があの戦争についてどのように考えておられるか、これだけではわからないが、私としてはあの戦争は目的も理念もなく国民やアジアの諸民族に惨禍をもたらした最悪の戦争だと考える。昭和天皇は常に非戦論だったが、2.26事件以降貝のように口をつむぎ、「立憲君主制」の幕の内側に隠れてしまった。後に「もし私が非戦をはっきりすれば、日本は内戦状態となり、私も殺されていたかもしれない。あの戦争よりもっと悲惨な結果を招来したかもしれない」と述懐している。これには多少自己弁護も含まれている気がするが、しかし天皇すら身の危険を感ずるほどの軍部専制があったのだ。

 「偽勅を背負い錦の御旗を掲げた薩長は、江戸城を開城させた後、なんと奥羽諸藩に会津追討令を出した。京都で苦汁を飲まされた恨み、公武合体派への見せしめ、先帝に寵愛されていたことへの嫉妬もあったろう。天皇のためにもっともつくした会津に朝敵の汚名をきせ征討の挙に出たのである。御所に大砲を撃ちこんだ賊軍が突如として官軍となり、御所を守った会津は賊軍となったのである。ついで会津藩主松平容保に、開城、城と領地の没収にとどまらず、死罪をも決定した。恭順を申し出た徳川慶喜には死罪は免ぜられていた。錦の御旗と戦い、東北地方全域の人民を疲弊させる戦争を避けようと、容保は恭順を嘆願したが、聞き届けられなかった。これでは戦わざるをえない。奥羽諸藩は、年若い天皇を手中に操りながら天下に号令する薩長を不快に思っていた。奥羽諸藩は、宗家徳川への義を貫き、主君容保の汚名をそそぐため、全滅してでも戦う、という会津武士に同じ東北人として同情もした。そして私怨を晴らすための戦争を始めようとする薩長に反発し、奥羽列藩同盟を結び会津を助けることにした。東軍対西軍となったのである。」

 藤原先生は「時代遅れの日本男児」(山本夏彦)らしく、真正面から事実に向き合う。ここはすごくかっこいいですね。薩長憎し!である。薩長の暴力集団によって日本の近代史はのっとられてしまった。江戸の当時世界最高といわれた文化が徹底的に排除された。後の軍国主義に至る道がすでにここに敷かれたのである。その淵源がこの偽勅にある。安部首相待望論があるが、どうして長州出身者に日本人はこれだけ甘いんでしょうね。

 偽勅問題。これは着目に値する。議論するに値する。ここから推論するに、日本を救ったのは内戦を回避した徳川慶喜ということになるし、内戦回避と主君の名誉回復を生涯の課題とした勝海舟ということになる。日本の近代史はすべて薩長の視点から書かれている。すべての歴史は常に「勝ち組史観」である。しかし、もう一度、江戸幕府=負け組みの眼から歴史を眺めてみる必要がありそうだ。

 実際、維新政府後、徳川慶喜は静岡に蟄居させられるが、後に名誉を回復されて明治天皇と謁見している。当たり前でしょ。慶喜はな~んにも悪いことしていないのだから。そんなことは明治政府は先刻ご存知のわけである。慶喜は朝敵でもなんでもないのだから。これは静岡人の身贔屓ではありませんよ。

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2006年3月8日 花粉症のメカニズム

2006-03-07 23:57:58 | 近況
増田院長記

○花粉症に罹る人と罹らない人がいる。その違いは何か? また、年々花粉症に罹る人の割合が増加している。昔から春のスギ花粉はあったのに、近年の増加の原因は何か?これを考えてみよう。

 まずその前に、簡単に花粉症のメカニズムについて述べておこう。花粉をアレルゲン(異物、抗原)として認識すると身体内に免疫グロブリンというタンパクの抗体、特異的にIgEという抗体が産生される。この抗体は鼻粘膜にある肥満細胞の表面に付着する。そして再度花粉が侵入してIgEの抗体レセプターと結びつくと、肥満細胞はヒスタミンなどの炎症物質を分泌するため、鼻水、くしゃみ、鼻づまりが起こる。これが簡単な花粉によって惹起される抗原抗体反応による花粉症のメカニズムである。

 しかし、これだけでは、花粉症に罹る人がいる一方、花粉症に罹らない人が大多数いることを説明できない。問題は、身体が花粉を異物(抗原)として認識するかしないかという敏感性にあるからだ。敏感であれば、花粉を抗原と認識してIgEが産生される。敏感でなければ、IgEは産生されない。

 この敏感性はどこから来るのだろうか?これはDr. Deviも言っているし河野泉先生も言っていることだが、アレルギーは非常に遺伝的要因が大きい。ほとんどが遺伝的要因によるとも言っている。

 この場合、DNA、RNAといった遺伝子だけでなく、遺伝子の発現を規制する染色体のその他の規制タンパクも含めた遺伝情報を指していると考えるべきだろう。前にも紹介したが、Biology of Beliefは次のように述べていた。

「遺伝子の発現形態の研究者たちの発見によると、栄養、ストレス、感情などの環境からの影響がその基本的設計図を変更することなくこれら遺伝子を修正する。そして、これらの修正は次の世代に継承される。ちょうど、DNAが2重ラセンを通じて継承されるのと同じように」

 潜在的にこうした遺伝的要因が広汎にあると見てよいだろう。花粉症に誰でも罹る遺伝的要因を持っているのである。ところが、その遺伝的要因が発現するかしないか、それはもっぱら環境の条件に左右される。

 この意味で、遺伝的要因の強い人は敏感性が高く、遺伝的要因の弱い人は敏感性が低いとみていいだろう。しかし、その敏感性も、環境の条件の変化により、変化せざるをえない。

 食品アレルギーの増大、大気汚染の進行、ストレスの増大、水質汚染の増大、化学物質や電磁波障害など、環境からの刺激により、花粉症が増大、悪化の一途をたどっているのではないか。今や5人1人は花粉症に罹っていると見られている。

 これは花粉が悪いという外因論でもなく、あるいは身体内部の遺伝的体質が問題であると言う内因論でもなく、環境と遺伝子の相互作用としてのアレルギーに問題がある。言わば<内外因論>とも呼ぶべき総合的視点を要求される。NAETはこれに的確なアプローチを提供しているように思う。 

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2006年3月7日 破綻の淵源 続き

2006-03-07 21:02:04 | 近況
増田院長記

○本日はセミナー準備2日目。アメリカから英文テキストと注文していた壁に貼るチャートが届いた。ホテル側から電話があり。関連の温泉のレストランで食事を用意できる旨の話である。それでお願いする。資料の用意はいろいろこまごましたことで、何か大きな仕事をした達成感がないまま、1日が過ぎた。でも、このように準備万端にしておけば、大舞台を無事にやり通せるだろう。

○あの戦争の破綻の淵源の続きを書く。関曠野著の「民族とは何か」を読むと、私なりに次のようにまとめられるのではないか。

 1、大義名分のないクーデターによる明治維新政府は権威として天皇を担ぎ出した。王政復興の大号令である。また衰退しかけていた尊王攘夷を利用し扇動した。すでに薩摩は薩英同盟を結び、英国に留学生を出していたというのに。天皇の権威を借りた政権であったため、私のこれまでの知識で言えば、<顕教>としての天皇親政、<密教>としての立憲君主制という使い分けが行われたことの根拠がここにある。つまり、国民に対しては絶対君主としての天皇親政、つまり国民は天皇の臣民であり、絶対服従を要請され、他方、権力者にとっては利用するだけの立憲君主制なのである。

 2、正統性の非常に弱い政権であったため、国書の受諾を拒否された韓国に対して<征韓論>が出た。つまり、国威の動揺を抑えようとした。つまり正統性の強調がまず対外政策に現れた。

 3、大陸への膨張政策の淵源は江戸時代の国学にあった。日本の儒学は江戸時代に独自な展開を見せ、日本こそ東アジアの<中華>であるという国体論を生んだ。これが、明治政府の富国強兵の政策の思想的屋台骨となった。

 4、日本の東アジアへの侵出は帝国主義の経済的基礎がないので、ヨーロッパのような帝国主義的な経営というものではない。むしろ、この国体論に基づく、東アジアの華夷秩序の再編の意図が、当時の列強によるアジア分割の流れの中に無自覚のまま流れ込んで、とめどもない漂流を遂げることになった。だから、客観的にはとてつもない侵略なのだが、その主観的意図においては東アジアの儒教的華夷秩序の再編であるという意識があり、この主客のギャップがある。

 5、だから、大陸進出の目的も理念もなにもないまま、機会主義的にその場しのぎで展開することとなった。帝国の<利益線>とか<生命線>とか言われても、国内は説得できるかもしれないが、他国を説得させることはとても無理である。だから、普遍的理念も目的もないと言わざるをえない。あとになって、<五族協和><大東亜共栄圏>がとってつけたように唱和されたが、まるきり根拠に欠けていた。

 6、植民地政策も英国とは違って、まるきり日本の価値観を一歩的に押し付けるものであった。だから、戦後も日本への反発がきつい。これが英国との根本的な違いである。

 こうして考えると、歴史にもし<If>があるなら、このような破綻の淵源に対して、ストップをかけられなかったのか? いくつかの要素がある。

大政奉還をはたした徳川慶喜はどうして<錦の御旗>の前にもろくも崩れてしまったのか?

江戸文化を極度に忌み嫌った明治政府に対して、江戸の教養を持った知識人が沈黙せざるをえなかったのはなぜか?

明治の民権論がどうして敗北したのか?

明治憲法に「君臨すれども統治せず」の意味合いを含めた「天皇は神聖にして犯すべからず」というなにやら恫喝にも似た条項がどうして入ったのか?この1条が後々日本を厄難に追い込むのである。

 やはり、数百万人もの犠牲を払うところまで、とことんいかねばこの国の誤った進路にストップがかからなかったのか? こう考えると、大久保利通や岩倉具視の政治的犯罪、江戸儒学の国体論の危うさ、日露戦争の総括など、今でもきちんと歴史的に抑えておく必要があると思う。

 それから、日本の民族を語る場合、どうしても天皇について語らないわけにいかない。まず、神話の時代を除いて、天皇の時代が始まったのは、天武天皇の時からである。それから藤原氏の摂関時代には天皇はもう御神輿に過ぎなくなる。源平の時代は武家社会の到来を予告した。その後、鎌倉、室町、江戸と500年の長きに渡って、天皇の位置は京都のお公家さんだった。鎌倉時代はなお東西2重権力状態だったが、それも時代を経ると実質的な政治権力は武士政権に移行する。これも日本史の伝統なのだ。明治以降たかだか100年ちょっとの時代が例外なのだ。
      

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