植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

袁術の野望とその終焉1

2011年09月10日 20時54分51秒 | 三国志
 以前、袁紹を最大限に擁護した「袁紹の言い訳」を書きましたが、今回はもっと無謀な袁術擁護です。実は袁術ってむちゃくちゃ凄かったんだ論を勝手に展開してみます。根拠はありませんので、よろしくです。

 まず、192年の情勢です。袁術の同盟者は公孫サンと、陶謙です。袁紹側が曹操と劉表です。土地でみると公孫サンが精強で、幽州と渤海郡を抑えています。また、田楷を青州に派遣しています。袁紹は渤海を除く冀州です。曹操がエン州で、陶謙が徐州で、問題の豫州はこの時代定かではないのですが、孫堅・公孫越が袁紹側の周キンと争って負けたとあるのですが、かといって周キンが治めた形跡がなく、周キンは揚州の丹陽郡に居るので、豫州は孫堅の死後、孫賁が引き継いだと見ています。ちなみに袁術自身は、荊州の南陽郡のみです。荊州の南郡が劉表です。
 この情勢で、公孫サンが袁紹を攻略すべく侵攻し、界橋の戦いが起こります。そして時同じくして陶謙がエン州に侵攻しています。界橋の戦い自体に袁術の意思は働いて居ないでしょうが、これと連携した陶謙の侵攻はどう考えても袁術の差し金です。この機会に袁紹、曹操を滅ぼそうと言う考えです。
 しかし、予想に反して界橋の戦いで公孫サンが負けると、陶謙もさっさと兵を引いてしまいます。



 193年になると袁術に合流する武将も多く、袁術が最も兵力を保有していたと言ってもいいかもしれません。南陽郡は袁術が放蕩な生活をおくった為、荒れ果てたとありますが、袁術は造園の1つも行っていないので、さすがにいくら袁術1人が贅沢しても郡が疲弊するとは思えません。恐らく袁術が抱えていた兵が多すぎて、南陽郡1つでは養えなくなり疲弊したと考える方がスマートです。
 この強大な袁術と李カクは同盟を結ぼうと、太傅(総理大臣クラス)の馬日テイを派遣し、袁術を左将軍に任じます。記述では袁術がこの後曹操に敗戦し寿春に逃げた後のことに取れるのですが、そんな落ち目になってから同盟を結ぼうとするよりも、その前だと考える方が自然です。
 この馬日テイは、関東つまり洛陽より東の統治を任じられていました。東はこんな感じで群雄が割拠して争っているので、これを平らげるもっとも早い手段は、袁術に袁紹・曹操を倒してもらって、袁術が統治する世の中を作ることです。袁紹は馬日テイが仕える献帝を排除して劉虞を立てようとしているので、組するなら袁術なのです。
 こんな背景があり袁術は袁紹・曹操を打ち倒す大儀を得たのと、抱える兵力によって南陽郡が疲弊したと言う理由があり、大軍を率いて曹操のエン州に攻め入ります。勿論、袁術は并州の於夫羅や張燕と同盟して、袁紹を攻めるように依頼します。 こうして満をじして行われた「匡亭の戦い」は青州軍を得て、さらに巧みな戦術を繰り広げる曹操にあっさり惨敗し、しかも南陽郡は劉表が取ったので、袁術は仕方なく、逃げに逃げて揚州の寿春に落ち延びることになります。
 一方、袁紹は於夫羅には名将 麹義、張燕には客将として来ていた人中の呂布をぶつけます。結果は勿論楽勝です。また、青州にも息子の袁譚を遣わして田楷を駆逐します。これによって袁紹は并州に青州を得てします。

袁術の野望とその終焉2
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