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所属:後漢→独立
年齢:約68歳(200年の時 ※62歳で死亡)
董卓に続いて基本から除いている群雄です。陶謙と言うと演義では弱々しく(まあ病気ですから)、そして人の良い文官のイメージが強いのですが、実は陶謙はバリバリの武将で、皇甫嵩の元で西羌討伐で活躍します。その後、張温の下で韓遂討伐に参加しますが、酒宴で張温の指揮能力への不満をブチまけると言う豪胆なことをやっています。
その後、徐州刺史に任命され徐州の黄巾賊を一掃し、以後徐州を根拠地に群雄として割拠していきます。徐州の内政面では黄巾の乱で荒れた州の治安を戻し、この地を安定させます。徐州には強行仏教集団のボス 笮融や、天子を僭称するような不届き者 闕宣などの曲者豪族が割拠していましたが、笮融は支配下に置き、闕宣は一度同盟を組んだのち、隙をみて殺すと言った荒業を行っています。また、陳登や王朗・糜竺と言った有能な士を登用したことも、徐州を安定させた一因でしょう。
外交面では、朝廷を牛耳った董卓やその後の李傕・郭政権とも上手く付き合うことで、州牧の地位を得ています。また、王朗を会稽郡の太守に任命させることで、その勢力を揚州にまで伸ばします。
しかしこの状況が一変する事件が起きます。曹操の父 曹嵩が領内で部下によって殺害されます。当時、陶謙は公孫瓚・袁術と組んで、袁紹・曹操と敵対していました。その為、殺害は陶謙の指示ともされます。どちらにしろこの事件で怒った曹操に攻められます。曹操は当時、地盤を固めなければならない時期だった為、まさか攻めて来るとは思わなかった陶謙はこれを防ぐことが出来ず、徐州奥深くまで攻め込まれやっと防戦に成功し、兵糧の切れた曹操軍を撤退させます。しかし、曹操軍は先々で徐州の領民をことごとく虐殺したため、徐州は復興できないほどのダメージを負ってしまいます。
翌年、曹操は再び兵糧蓄えると徐州に侵攻します。主将の曹豹や、援軍として駆けつけていた劉備も撃破されますが、曹操の本拠地で張邈・張超・陳宮・呂布が反乱を起こした為、再び曹操軍は撤退します。
この2度の侵攻で心労を煩った為か陶謙は病となり、2人の息子が不出来だった為、徐州のことを劉備に託すように糜竺に遺言して亡くなります。後に、多くの家臣や名士に推される形で劉備が徐州牧の地位を引き継ぐこととなります。
こんな経歴から判るとおり陶謙は善人ではなく、謀略もやってのける野心家の群雄です。しかし、曹操の徐州虐殺の事件によって後世に書かれた呉書や演義では陶謙は徳のある人物のように描かれ、曹操の虐殺を一掃酷いものとして際立たせています。逆に魏書では虐殺を少しでも正当化するかの様に、陶謙は笮融や、闕宣を従わせ、用済みとなればそれらも殺す悪人として描かれています。その為に本来の陶謙の姿が判らなくなってしまっています。
能力ですが、統率は曹操は相手が悪すぎたとして、普通に軍を率いて武功を上げ、少なくとも張温よりは有能だったと判断して3、武力は武人として最低はあったと言うことで2、政治は内政面・人材登用で優れた実績を上げていたので(特には優れていたわけではないが…)3、知力も数々の外交や朝廷への工作、徐州を支配するまでの豪族の取り込み手腕などを行っていたのでこちらも3としました。良い能力なのですが飛躍するほどの能力は無いということで4無しです。
最後に、陶謙は何故 劉備に徐州を譲ったか? と言う疑問が挙げられます。勝手な解釈ですが陶謙の遺言を聞いたのは糜竺なのです。糜竺は劉備のことを熱烈に気に入っており、妹を嫁に出すわその後ずっと劉備と放浪生活を共にするなどの熱の入れようです。さすがに糜竺の捏造ってことは無いでしょうが、死ぬ間際の陶謙に糜竺は強く劉備のことを触れ込んだのでは無いでしょうか?
年齢:約68歳(200年の時 ※62歳で死亡)
董卓に続いて基本から除いている群雄です。陶謙と言うと演義では弱々しく(まあ病気ですから)、そして人の良い文官のイメージが強いのですが、実は陶謙はバリバリの武将で、皇甫嵩の元で西羌討伐で活躍します。その後、張温の下で韓遂討伐に参加しますが、酒宴で張温の指揮能力への不満をブチまけると言う豪胆なことをやっています。
その後、徐州刺史に任命され徐州の黄巾賊を一掃し、以後徐州を根拠地に群雄として割拠していきます。徐州の内政面では黄巾の乱で荒れた州の治安を戻し、この地を安定させます。徐州には強行仏教集団のボス 笮融や、天子を僭称するような不届き者 闕宣などの曲者豪族が割拠していましたが、笮融は支配下に置き、闕宣は一度同盟を組んだのち、隙をみて殺すと言った荒業を行っています。また、陳登や王朗・糜竺と言った有能な士を登用したことも、徐州を安定させた一因でしょう。
外交面では、朝廷を牛耳った董卓やその後の李傕・郭政権とも上手く付き合うことで、州牧の地位を得ています。また、王朗を会稽郡の太守に任命させることで、その勢力を揚州にまで伸ばします。
しかしこの状況が一変する事件が起きます。曹操の父 曹嵩が領内で部下によって殺害されます。当時、陶謙は公孫瓚・袁術と組んで、袁紹・曹操と敵対していました。その為、殺害は陶謙の指示ともされます。どちらにしろこの事件で怒った曹操に攻められます。曹操は当時、地盤を固めなければならない時期だった為、まさか攻めて来るとは思わなかった陶謙はこれを防ぐことが出来ず、徐州奥深くまで攻め込まれやっと防戦に成功し、兵糧の切れた曹操軍を撤退させます。しかし、曹操軍は先々で徐州の領民をことごとく虐殺したため、徐州は復興できないほどのダメージを負ってしまいます。
翌年、曹操は再び兵糧蓄えると徐州に侵攻します。主将の曹豹や、援軍として駆けつけていた劉備も撃破されますが、曹操の本拠地で張邈・張超・陳宮・呂布が反乱を起こした為、再び曹操軍は撤退します。
この2度の侵攻で心労を煩った為か陶謙は病となり、2人の息子が不出来だった為、徐州のことを劉備に託すように糜竺に遺言して亡くなります。後に、多くの家臣や名士に推される形で劉備が徐州牧の地位を引き継ぐこととなります。
こんな経歴から判るとおり陶謙は善人ではなく、謀略もやってのける野心家の群雄です。しかし、曹操の徐州虐殺の事件によって後世に書かれた呉書や演義では陶謙は徳のある人物のように描かれ、曹操の虐殺を一掃酷いものとして際立たせています。逆に魏書では虐殺を少しでも正当化するかの様に、陶謙は笮融や、闕宣を従わせ、用済みとなればそれらも殺す悪人として描かれています。その為に本来の陶謙の姿が判らなくなってしまっています。
能力ですが、統率は曹操は相手が悪すぎたとして、普通に軍を率いて武功を上げ、少なくとも張温よりは有能だったと判断して3、武力は武人として最低はあったと言うことで2、政治は内政面・人材登用で優れた実績を上げていたので(特には優れていたわけではないが…)3、知力も数々の外交や朝廷への工作、徐州を支配するまでの豪族の取り込み手腕などを行っていたのでこちらも3としました。良い能力なのですが飛躍するほどの能力は無いということで4無しです。
最後に、陶謙は何故 劉備に徐州を譲ったか? と言う疑問が挙げられます。勝手な解釈ですが陶謙の遺言を聞いたのは糜竺なのです。糜竺は劉備のことを熱烈に気に入っており、妹を嫁に出すわその後ずっと劉備と放浪生活を共にするなどの熱の入れようです。さすがに糜竺の捏造ってことは無いでしょうが、死ぬ間際の陶謙に糜竺は強く劉備のことを触れ込んだのでは無いでしょうか?
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