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所属:後漢→袁紹
年齢:約54歳(200年の時)
官渡の戦いで烏巣の補給物資を守れず、しかも演義ではその原因は酒飲みまくっていたことにされている淳于瓊です。しかし彼は実はそんなに酷くは無い指揮官です。袁紹と同郷で早くに朝廷に出て霊帝に仕えます。霊帝は黄巾の乱の後、朝廷の力では反乱を抑えることが出来なかったことを痛感して、自らの直属の部隊を創設します。それが西園八校尉です。ここには袁紹や、曹操といった当時30代の若手のホープが抜擢されており、その中に淳于瓊も任命されています。このことから当時 淳于瓊は新進気鋭な若者だと認識されていたと思われます。その後、少帝弁に仕えた後、董卓が実権を握ると朝廷を脱出して、袁紹の配下となります。当時袁紹の元には同郷の郭図や、同じく洛陽から脱出した許攸などが配下になっていたので、自然な流れだったのでしょう。
その後、淳于瓊は袁紹陣営の中でも重鎮として扱われます。献帝を迎え入れる迎え入れないと袁紹陣営の軍師達の間で意見が分かれた際、参謀達に混じって唯一武将として意見を述べており、迎え入れない意見を通しています。そして沮授の監軍の権限が大きすぎると、郭図の進言で3つに分割された際に、沮授・郭図と共にその地位に任命されています。つまりこの時点で袁紹陣営において沮授・郭図と同位のNo.2の地位だったと言うことです。この地位は数十万と言われる袁紹軍の1/3を管轄し、その兵を養う軍事物資の調達から、行政における一切を任されると言ったものです。
そして迎えた官渡の戦いでは、その初戦 白馬の戦いで主力として出陣します(顔良は先方)。しかし結果は荀攸の計略によって、顔良が孤立して討ち取られてしまいます。その後、袁紹は延津で文醜を失うものの、その後は兵力で勝る袁紹軍はじわじわと押して優位に立ちます。この戦いは曹操側の資料である魏書では割愛されている為に、この功績が誰のものかが判りませんが、淳于瓊も戦果を上げていたのではないでしょうか。そして不利となった曹操軍から投降者が相次ぐと、袁紹軍本陣では兵糧が不足し始めます。そこで淳于瓊に烏巣にある補給物資を取ってくる命令が下されます。
しかし、この情報は裏切った許攸によって曹操の知るところとなり、曹操は烏巣に奇襲を行います。曹操軍は5千、淳于瓊軍は1万。淳于瓊軍は有利と見て打って出ますが、曹操軍の勢いは盛んで烏巣の陣に籠もって防衛します。袁紹はこの時、軽騎兵の援軍を送っていたので、長引くと不利になると判断した曹操は、さらに突撃と火矢による焼き討ちを行います。この苛烈なまでの攻撃によって淳于瓊軍は混戦となり、多くの将兵が討ち死にし淳于瓊自身も捕まり見せしめに鼻を削がれて曹操の前に連れ出されます。淳于瓊は戦いに負けた理由を曹操に問われると、堂々と「戦いは時の運であった」と言い切ります。淳于瓊の能力を惜しんだ曹操は配下にしたいと思いますが、許攸が鼻を削がれた淳于瓊はそのことを許さないであろうと進言し、曹操も諦めて処刑します。
どうしても魏書からですとその活躍が見えにくいのですが、統率は最低3は上げても良いかと思います。武力は武将として最低限戦える範囲で2、政治・知力は正史を見れば三都督として軍事を総括できる能力や、袁紹に進言できる立場などからこちらも最低限出来る範囲の2・2としました。
年齢:約54歳(200年の時)
官渡の戦いで烏巣の補給物資を守れず、しかも演義ではその原因は酒飲みまくっていたことにされている淳于瓊です。しかし彼は実はそんなに酷くは無い指揮官です。袁紹と同郷で早くに朝廷に出て霊帝に仕えます。霊帝は黄巾の乱の後、朝廷の力では反乱を抑えることが出来なかったことを痛感して、自らの直属の部隊を創設します。それが西園八校尉です。ここには袁紹や、曹操といった当時30代の若手のホープが抜擢されており、その中に淳于瓊も任命されています。このことから当時 淳于瓊は新進気鋭な若者だと認識されていたと思われます。その後、少帝弁に仕えた後、董卓が実権を握ると朝廷を脱出して、袁紹の配下となります。当時袁紹の元には同郷の郭図や、同じく洛陽から脱出した許攸などが配下になっていたので、自然な流れだったのでしょう。
その後、淳于瓊は袁紹陣営の中でも重鎮として扱われます。献帝を迎え入れる迎え入れないと袁紹陣営の軍師達の間で意見が分かれた際、参謀達に混じって唯一武将として意見を述べており、迎え入れない意見を通しています。そして沮授の監軍の権限が大きすぎると、郭図の進言で3つに分割された際に、沮授・郭図と共にその地位に任命されています。つまりこの時点で袁紹陣営において沮授・郭図と同位のNo.2の地位だったと言うことです。この地位は数十万と言われる袁紹軍の1/3を管轄し、その兵を養う軍事物資の調達から、行政における一切を任されると言ったものです。
そして迎えた官渡の戦いでは、その初戦 白馬の戦いで主力として出陣します(顔良は先方)。しかし結果は荀攸の計略によって、顔良が孤立して討ち取られてしまいます。その後、袁紹は延津で文醜を失うものの、その後は兵力で勝る袁紹軍はじわじわと押して優位に立ちます。この戦いは曹操側の資料である魏書では割愛されている為に、この功績が誰のものかが判りませんが、淳于瓊も戦果を上げていたのではないでしょうか。そして不利となった曹操軍から投降者が相次ぐと、袁紹軍本陣では兵糧が不足し始めます。そこで淳于瓊に烏巣にある補給物資を取ってくる命令が下されます。
しかし、この情報は裏切った許攸によって曹操の知るところとなり、曹操は烏巣に奇襲を行います。曹操軍は5千、淳于瓊軍は1万。淳于瓊軍は有利と見て打って出ますが、曹操軍の勢いは盛んで烏巣の陣に籠もって防衛します。袁紹はこの時、軽騎兵の援軍を送っていたので、長引くと不利になると判断した曹操は、さらに突撃と火矢による焼き討ちを行います。この苛烈なまでの攻撃によって淳于瓊軍は混戦となり、多くの将兵が討ち死にし淳于瓊自身も捕まり見せしめに鼻を削がれて曹操の前に連れ出されます。淳于瓊は戦いに負けた理由を曹操に問われると、堂々と「戦いは時の運であった」と言い切ります。淳于瓊の能力を惜しんだ曹操は配下にしたいと思いますが、許攸が鼻を削がれた淳于瓊はそのことを許さないであろうと進言し、曹操も諦めて処刑します。
どうしても魏書からですとその活躍が見えにくいのですが、統率は最低3は上げても良いかと思います。武力は武将として最低限戦える範囲で2、政治・知力は正史を見れば三都督として軍事を総括できる能力や、袁紹に進言できる立場などからこちらも最低限出来る範囲の2・2としました。
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