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所属:孫策→孫権
年齢:約23歳(200年の時)
故郷が徐州なので戦乱を逃れ、後に呉郡で孫策・孫権に仕えます。最初に江夏の黄祖を食い止める役目を受けます。その際、黄祖の部下の黄射が攻めてきますが、これを寡兵で迎撃し徹底的に破った為、黄射は二度と攻めてこなくなったと言います。その後山越討伐などいくつかの戦功をあげます。そして213年に濡須に曹操が攻めてきた際は、悪天候により董襲などが戦死する最中、徐盛の船も座礁し敵軍に孤立する状態となった。味方の兵は死を覚悟しますが、徐盛は果敢に敵に攻撃をしかけ、敵軍に攻撃を諦めさせ無事帰還します。
215年の合肥の戦いでは、張遼軍に攻められ負傷、自軍の旗を奪われてしまいますが、味方に救援されます。221年に孫権が蜀との戦争に備える為に魏と同盟すると、その見返りとして曹丕から呉王の位を授かった際、魏の使者が孫権に傲慢な態度を取りました。魏の臣下となる都合、孫権も張昭をはじめとする家臣達も腸煮え返りながら我慢をしていたところに徐盛が進み出て、自分達が不甲斐ないために、この様な恥を受けると言い号泣します。魏の使者は感服し、呉がいつまでも魏の臣下では居ないだろうと感じたといいます。
その後の劉備との夷陵の戦いや、魏との三方面の戦いでも功績を挙げます。そして224年曹丕自らが呉に大挙して押寄せた際は、総司令官となるべき陸遜が荊州方面に赴いていた為にこれに当たれなかった際、自ら指揮官に志願します。そして、他の者が無駄だと言う中、長江沿いにハリボテの城壁を延々と築きます。長江に到着した曹丕はこれを見て、呉の備えが完璧だと騙されて撤退します。
演義ではここで味方の将軍の1人が勇んで、曹丕に攻撃を仕掛けた為、開戦となり、徐盛も仕方なく戦います。そして徐盛は火計を仕掛けて、曹丕に赤壁を越える壊滅的な損害を与えたことになっています。
某SLGではこの演義の誇張によって統率が高くなっていますが、朱然の方が戦果が多いのでやや蒙将ぎみの統率3、武力4としました。政治はやっていないので1、知力は最後の城壁の策を評価して3です。
年齢:約23歳(200年の時)
故郷が徐州なので戦乱を逃れ、後に呉郡で孫策・孫権に仕えます。最初に江夏の黄祖を食い止める役目を受けます。その際、黄祖の部下の黄射が攻めてきますが、これを寡兵で迎撃し徹底的に破った為、黄射は二度と攻めてこなくなったと言います。その後山越討伐などいくつかの戦功をあげます。そして213年に濡須に曹操が攻めてきた際は、悪天候により董襲などが戦死する最中、徐盛の船も座礁し敵軍に孤立する状態となった。味方の兵は死を覚悟しますが、徐盛は果敢に敵に攻撃をしかけ、敵軍に攻撃を諦めさせ無事帰還します。
215年の合肥の戦いでは、張遼軍に攻められ負傷、自軍の旗を奪われてしまいますが、味方に救援されます。221年に孫権が蜀との戦争に備える為に魏と同盟すると、その見返りとして曹丕から呉王の位を授かった際、魏の使者が孫権に傲慢な態度を取りました。魏の臣下となる都合、孫権も張昭をはじめとする家臣達も腸煮え返りながら我慢をしていたところに徐盛が進み出て、自分達が不甲斐ないために、この様な恥を受けると言い号泣します。魏の使者は感服し、呉がいつまでも魏の臣下では居ないだろうと感じたといいます。
その後の劉備との夷陵の戦いや、魏との三方面の戦いでも功績を挙げます。そして224年曹丕自らが呉に大挙して押寄せた際は、総司令官となるべき陸遜が荊州方面に赴いていた為にこれに当たれなかった際、自ら指揮官に志願します。そして、他の者が無駄だと言う中、長江沿いにハリボテの城壁を延々と築きます。長江に到着した曹丕はこれを見て、呉の備えが完璧だと騙されて撤退します。
演義ではここで味方の将軍の1人が勇んで、曹丕に攻撃を仕掛けた為、開戦となり、徐盛も仕方なく戦います。そして徐盛は火計を仕掛けて、曹丕に赤壁を越える壊滅的な損害を与えたことになっています。
某SLGではこの演義の誇張によって統率が高くなっていますが、朱然の方が戦果が多いのでやや蒙将ぎみの統率3、武力4としました。政治はやっていないので1、知力は最後の城壁の策を評価して3です。
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