いきなりタイトルに同潤会なんて出してしまいましたが、これをご存じない方には、ちょっと説明が必要かもしれませんね。
同潤会とは何か、ウィキペディアから引用してみましょう。
同潤会アパートは、関東大震災後に発足した財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅のこと。
関東大震災では木造で密集した市街地が大きな被害を受けたため、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅供給を行うことが目的であった。主に都市の中間層(サラリーマンなど)を対象とした。
東京では青山、代官山が有名ですが、横浜にも平沼と、ここ山下町168番地にあったのです。
この写真は昭和50年代。取り壊される直前だったと思います。
真ん中を通る道路の奥は善隣門。左に写っている建物は中土木事務所で、右側の建物が山下町アパート1号館、同潤会アパートと言っていました。
ゼブラボールペンの看板がかかっているお店は文具の「明文堂」です。
昭和30,40年代には理髪館、前田タイプ商会、志良井ベーカリー、模型玩具の小川商店なんていうお店が1階に並んでいました。
アパートは2棟建っていて、1号館は中庭のある「ロの字形」でした。ここに住んでいたわけではないのですが、ときどき中庭を覗いて、「ああ、なんだかヨーロッパの住宅みたいだなあ」なんて思ったりしていたものです。
2号館はΠの形をしていました。
ほんとうにいい建物でしたね。内部は見たことありませんでしたが、おそらく部屋なんかも良かったのではないでしょうか。
そして、たぶん住んでいる人たちも素敵な人々だったんだろうと想像しています。
それにしても、このアパートの写真が少ないのは残念です。
昭和50年代に取り壊されたと記憶していますが、その跡地には現在、レイトンハウスという高層マンションが建っています。
懐かしい同潤会アパートにクリックしてね
同潤会とは何か、ウィキペディアから引用してみましょう。
同潤会アパートは、関東大震災後に発足した財団法人同潤会が東京・横浜に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅のこと。
関東大震災では木造で密集した市街地が大きな被害を受けたため、不燃の鉄筋コンクリート造で住宅供給を行うことが目的であった。主に都市の中間層(サラリーマンなど)を対象とした。
東京では青山、代官山が有名ですが、横浜にも平沼と、ここ山下町168番地にあったのです。
この写真は昭和50年代。取り壊される直前だったと思います。
真ん中を通る道路の奥は善隣門。左に写っている建物は中土木事務所で、右側の建物が山下町アパート1号館、同潤会アパートと言っていました。
ゼブラボールペンの看板がかかっているお店は文具の「明文堂」です。
昭和30,40年代には理髪館、前田タイプ商会、志良井ベーカリー、模型玩具の小川商店なんていうお店が1階に並んでいました。
アパートは2棟建っていて、1号館は中庭のある「ロの字形」でした。ここに住んでいたわけではないのですが、ときどき中庭を覗いて、「ああ、なんだかヨーロッパの住宅みたいだなあ」なんて思ったりしていたものです。
2号館はΠの形をしていました。
ほんとうにいい建物でしたね。内部は見たことありませんでしたが、おそらく部屋なんかも良かったのではないでしょうか。
そして、たぶん住んでいる人たちも素敵な人々だったんだろうと想像しています。
それにしても、このアパートの写真が少ないのは残念です。
昭和50年代に取り壊されたと記憶していますが、その跡地には現在、レイトンハウスという高層マンションが建っています。
懐かしい同潤会アパートにクリックしてね
私がこの30年来ずっと気になっていた住宅のことを質問して、
その住宅が「同潤会アパート」であったことを教えていただきました。
さっそく検索してこちらのブログにたどりつきました。
独特の雰囲気がとても気になって、おそるおそるアーチをくぐると、
中庭のあるロの字型の低層住宅でした。
一階は、ちょっと半地下のようになっていたように
記憶しています。
中国の方も住んでいたのか、異国の香りがしました。
あれ以来ずっと気になっていたのですが、一度も訪ねることなく、
いつの間にか取り壊されていたのですネ。残念です。写真を拝見して、懐かしさでいっぱいです。
ありがとうございます。
ストロングビルの見学会に行かれていたんですね。わたくしも行ってましたよ。
横浜の中心部にあった古い近代建築がどんどん壊されていきます。
旧生糸検査所・旧三菱銀行横浜支店・旧川崎銀行横浜支店・総通横浜ビル…
藤森教授が言ってました。
「東京には古い橋や建築がまだまだあるけど、《残っている》のではない。残してきたのだ。《残す》という意思があったからだ」と。
ストロングビルはホテルの下層部分に復元するという話ですが、これはもう本物絵ではありません。ハリボテですね。
総通横浜ビルがその最たるものではないでしょうか。人間にたとえれば、皮膚だけ移植したような造りです。
それでも、完全になくしてしまうよりは、まだましなのかもそれません。
中華街の同潤会アパート。これは残念でした。せめて写真集ができるくらい、あのとき撮影しておけばよかったと、今になって思っています。
同じことは今でも起きています。何気ない風景ですが、ある日、突然その姿が消えていくなんてことがあるのですから、気になる部分はこまめに撮影しておきたいものです。
コメント、ありがとうございました。
2日も追加でなさってくださったようで、ちょうど解説が始まる時間に到着して、ラッキーでした。
1日の写真ほどではないですが、でも沢山の方がカメラ片手にいらしてましたヨ。
代替わりを重ねた洋館は、痛みも激しいし、どうしてもペンキの塗りが厚くて、
オリジナルを想像するのが大変ですが、それでも残せるものなら残して欲しいですネ。
これだけ愛好の方がいらっしゃるなら、その声と力を結集して「残す」働きかけができないものかしら、と思いました。
吉田教授が、「フェリスのカイパー講堂斜め向かいにあった洋館も、数年前に取り壊された」と、
おっしゃってました。
時々、ファッション誌のロケなどに使われていたようでしたが・・・残念ですネ。
あそこから山手教会へ行く途中左手の7,8階建てのマンションは
まだあるでしょうか?
以前、お部屋の売り出しでモデルルームになってるところに通りかかって、
見せていただいたことがあります。
外人向けのマンションらしく、窓が大きくて、ものすごく広くて、
なぜか洗濯室が別に上階にあったのが印象的でした。
大事な風景がいつのまにか消えてしまうのは、本当に淋しいですネ。
あっけなく取り壊されてしまいました。
馬車道の旧川崎銀行や三菱銀行など、あまりにも
ぶざまで、いさぎよく壊してほしかったです。
赤レンガ倉庫は残りましたが、以前の港独特の
ハードボイルドさがなくなってしまったのは
残念です。
建物も生物同様、強いものだけ生き残るのかも
しれません。マンモスや恐竜のように、大きいから
生き残れる訳ではなさそうです。
そういう意味で、関東大震災と大空襲を
くぐり抜けてきた旧警友病院は、あの辺りで
一番好きな建物です。
意外と強烈な遺伝子を持つ建物として思いつくのは、
オリエンタルホテルや、徳永ビルなのかも
しれません。
特に徳永ビル、狛犬やら灯篭やら、すけすけのブロックやら、様式も文化もちゃんぽんで、今一番
気になる建物です。
ストロングビルは下層部分に模造品を貼り付けるようですね。
なんだか偽装建築のような気がします。
オリエンタルホテルは戦後の建物だと思いますが、それでもかなり古くから建っているようです。
そのスクラッチタイルを貼り付けた正面の雰囲気はなかなかのものですね。
おそらく内部も相当ステキなのではないかと想像しちゃいます。
穀物検定協会のビルも気になっています。
他に、建物ではありませんが、太平道にある駐車場の門柱とか、同發菓子工場の門柱なども。
徳永ビルの狛犬、灯篭、すけすけのブロックは気がつきませんでした。
今度行ったら見て来ます。
ビル見てきます。このビル、全く気がつきません
でした。
太平道の門柱、ストリートビューで確認しました。
この通りは、なかなか歩く機会がなく、以前
清川寿司がどこにあるか探したときに、歩いた
くらいでした。
今日は、水上タクシーに乗って、ぶらぶらしようと
思います。
水上タクシーで川面から見る長者橋、とても
素敵です。
私のメールアドレスはホームページ「週間 ハマる横浜中華街」のトップページ左下に問い合わせ質問受付リンクがありますので、そこからお入りいただければと思います。
さっそくメールさせていただきました。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
(先の投稿は削除いただければ幸いです)
写真を探し、やっとたどり着きました。
1号館1階に住んでました。
パン屋でお昼のお弁当を買い、文房具屋で学校の物を買い、プラモデルで遊び、ブランコからよく落ちました
ありがとうございます。
また、捨身を見にお邪魔させていただきます。
ご訪問ありがとうございます。
そしてコメントも。
いいところに住んでおられたのですね。
私は住んでいたわけではないのですが、
写真を見るたびに懐かしく思います。
こういう住宅がどんどんなくなっていくのが、
さびしいです。