
平成23年(2011)まで常盤町2丁目に「三春」という名の酒場があった。店頭には小料理の看板が出ていたが、敷居の高くない、気安く呑めるお店で、まだ若かった(昭和の終わりごろ)私は同僚や後輩たちと一緒によく呑みに行ったものだ。 ここの名物は焼酎をジンジャエールで割った「ホースネック」という酒。我々はこれを呑むために通っていた。もちろん肴も旨かったことは言うまでもない。 以前の記事にも書いたことだが、このお店を経営していたのは、戦後すぐ関内で画廊喫茶「三春」(のちのホースネック)を立ち上げた牧野イサオの息子さんだった。 牧野イサオが「三春」を始めるまでの経歴については、『市史通信』第9号(2010年11月25日発行)に詳しく書かれている。そこから引用すると… 牧野は明治40年生まれで、関東学院を卒業したあと、映画カメラマンの助手を経て「横浜毎朝新報」の記者となった。その後、満州の「奉天毎日新聞」に招かれて編集局長に就任するが、体調を崩し 昭和11年(1936)年に一旦帰国。 横浜で「布哇報知」の極東総局長となった彼は従軍記者として再び中国大陸に渡った。 昭和13年(1938)に帰国したが、その後「奉天毎日新聞」に招かれ、また満州に渡る。 いくつかの新聞社を渡り歩いたあと、戦争が終わる1年ほど前に「東亜新聞」に移り、そして終戦。 昭和21年(1946)に北京から帰国し、翌年、尾上町に喫茶「三春」を開店した。 牧野イサオによると、当時は酒類を扱うことができない期間があったのだが、コーヒーカップの焼酎にレモンを浮かべ、それを“レモンジュース”として提供していたという。 その後、米軍からジンジャエールが放出されたので、牧野はトラック1台分を購入。焼酎にこれを混ぜたものをホースネックと名付けて売り出したところ大ヒットしたそうだ。 焼酎会社はこれを新聞1ページ分で宣伝したため、瞬く間に日本全国にホースネックが広まったのである。 戦後、野毛の洋食「キムラ」で出していた酒に、焼酎+生姜汁+砂糖+炭酸というのがあった。ホースネックとよく似た感じだが、両者の間には何か関係があったのだろうか… 昭和27年(1952)、尾上町の「三春」は港町5丁目に移転し、店名も「ホースネック」と変更。場所はウナギの「わかな」横だった。 ![]() ![]() ここが彼の自宅&お店&活動拠点で、横浜生まれの作家・北林透馬と一緒に立ち上げた横浜文芸懇話会、横浜ペンクラブ、日本愛妻会などの事務局にもなっていた。 こんなことを念頭に置いて、牧野イサオが書いていた酒の話を続けようと思うが、長くなりそうなので今日はここまでね。 続きは次回へ。 ![]() |
ホースネック。。飲んでませんでした!(>.
トイレでゲボ事件もあったし…
ご迷惑をおかけしました。