500円のブタまんで有名な「江戸清」が、大規模な改築に向けて工事中である。 と同時に、先ごろ同社の社史も発行された。 『世紀を超えて 江戸清115年のあゆみ』 今まで「江戸清」というのは、巨大なブタまんを売る肉屋さんというイメージしか持っていなかったのだが、この本を読んで単なる製造小売店ではないことを改めて認識した。 本書は「江戸清115年のあゆみ」という副題が付けられているが、明治初期から現代までの約130年にわたる内容となっている。 そこから得た情報を簡単にご紹介しよう。 「江戸清」の創業者・高橋清七は、現在の千葉市畑町に住む高橋清八となつの長男として、明治8年に生まれた。 当時の高橋家は広大な田畑を持ち、そこで収穫した農作物や味噌・醤油を東京や横浜の市場に販売する大きな農家であった。 その頃の横浜・南京町(今の中華街のあたり)には、豚肉や牛肉を販売する店が何軒かあった。その大半は華僑が経営していたが、「武田屋」、「藤屋」、「江戸屋」の3軒は日本人がやっていた。 明治25年、17歳になった清七は、横浜で外国人相手に繁昌している肉屋の様子を見て千葉で養豚業を始め、横浜の肉屋に卸すことを考えた。その取引先となったのが「江戸屋」である。 順調に商売が進んだ明治27年、清七は跡継ぎのいない「江戸屋」の主人から、店の跡目を継いでくれないかという相談を持ちかけられた。千葉の家業は弟に任せ、彼は「江戸屋」を引き受けることにした。そして、屋号は江戸屋の「江戸」に清七の「清」を合わせて「江戸清」と改めた。 今回この社史を読んでみて、「江戸清」というのは、先発の食肉業者のあとを引き継いだということを初めて知った。 ちなみに、横浜中華街の老舗「聘珍楼」も何代か代替わりをしてきている。 ここからは年表形式で「江戸清」の歴史を辿ってみよう。 大正 3年(1914) ハム・ソーセージ加工業を始める 西洋人の顧客からその製法を学び、商品には千葉ハムという名をつけた。 この頃、江戸清に修行に来ていた大木市蔵がのちに大木ハムを創業する。 大正15年(1926) のちの三代目となる高橋柢祐が誕生 昭和13年(1938) 高橋清七の息子峰男が二代目に就任 昭和20年(1945) 空襲で店が焼失 この頃、GHQとの関係が深まり将校専用のクラブやホテルから出る残飯をわけてもらい豚の飼料にすることができた。 また、スカーフやパジャマなどを店頭で販売する。 昭和25年(1950) 朝鮮戦争 戦争特需により急成長する。以後、駐留軍との本格的な取引が始まる 昭和26年(1951) 中華街に2階建て本店を建設 昭和27年(1952) 井土ヶ谷センターより米軍への納入を開始 この年、高橋柢祐はレストラン「キラク」の四女と結婚 昭和31年(1956) 井土ヶ谷工場新設。ハンバーグ形成機の導入 戦後10年でハンバーグを作っていたとは! 昭和38年(1963) 中華街に4階建て本社ビルを建築(2階はレストラン) 以前の社屋でレストランを併設していたということには驚いた。 昭和42年(1967) 高橋柢祐が三代目に就任 昭和43年(1968) 安宅産業との提携により、生産飼育から、加工・物流・販売までを運営 昭和46年(1971) 安宅産業との提携を廃止。高橋柢祐、横浜中華街発展会協同組合の初代理事長に就任 この4年後に安宅産業は破綻する。 昭和51年(1976) 伊藤ハムグループに入り、新生「株式会社 江戸清」となる 昭和52年(1977) 伊藤ハム関東販売ルートに「ホルモンスタミナミックス」を販売 昭和53年(1978) 「西武百貨店船橋店」に出店 昭和55年(1980) 井土ヶ谷センターにハンバーグパティの製造設備・稼動開始 昭和56年(1981) 「セブンイレブン横須賀中央店」に出店 昭和57年(1982) 自社井土ヶ谷店を閉店。「セブンイレブン井土ヶ谷店」に出店 昭和60年(1985) 「セブンイレブン井土ヶ谷店」閉店 昭和63年(1988) 山崎製パンにスキンレスウィンナー納入開始。六角橋店に弁当部併設 平成元年(1989) 「ブタまん」開発、販売開始 江戸清の食肉卸の主要な顧客は中華街の料理店。その大半が肉まんを売っていた。そのため、彼らと競合しないよう、大きなサイズで500円という価格設定にした。また名称も「ブタまん」とした。 平成 2年(1990) 千葉工場稼動 平成 3年(1991) 六角橋店、松原店閉店 平成 5年(1993) モスフードへ「つくね」納入開始。山崎製パンへとんかつ納入開始 平成11年(1999) 2号店(大通り店)開店 平成15年(2003) 亀戸に「中華点心房亀戸りーろん」開店 平成17年(2005) りーろん関帝廟通り店開店 平成19年(2007) 「亀戸りーろん」閉店 主要な得意先 伊藤ハム、JR東日本フードビジネス、すかいらーく、不二家フードサービス、ファーストキッチン、ポンパドウル、モスフードサービス、山崎製パン、横浜市学校給食会。 ▲新社屋完成図 社史を読んで初めていろいろなことが分かった。 まずは、最大の謎だった「ブタまん」の大きさだ。中華料理店の並ぶ中華街の中で店を構え、そこで中華まんを販売するにあたり、顧客である料理店と競合しないよう、あえてあの大きさにしたという。 それによって価格も普通の肉まんの2倍ほどに。 お互いに共存していけるよう配慮した結果だった。 大木ハムといえば、元町仲通り(現クラフトマンシップストリート)にある地味な肉屋さんだが、そこで作っているハム・ソーセージなどは多くの人々から絶賛されている実力店である。 その創業者・大木市蔵が「江戸清」で修行していたとは! しかも、市蔵の奥さんとなる人は、「江戸清」の高橋清七の義妹だった。 堀川を挟んで横浜中華街と元町。歴史ある二つの街で肉屋の両雄が美味しいものを提供している。 「大木ハム」のコンビーフ! 100g379円! 普通、コンビーフというと缶詰しか知らない方が多いと思うが、ここのはまるでハムのような姿。 味は…やっぱりコンビーフ! 1枚はそのままで、もう1枚は軽く焼いてみた。 どちらも、めっちゃウマイッ! 口の中でとろけるような柔らかさ。風味も香りも素晴らしい! ▲『ソーセージ物語』~ハム・ソーセージをひろめた大木市蔵伝~ 大木ハムのことだけではなく、肉の加工品についても学べる。 なかなか面白い本である。 記事によると、「江戸清」で修行した市蔵が「大木ハム」を創業し、その大木の工房で学んだ竹岸正則が今度は「プリマハム」を始めたという。 さらに「高崎ハム」の工場長を務めた勝俣喜六や、「日本ハム」の工場長を務めた山本福太郎なども、「大木ハム」で学んだハム職人だった。 これは「大木ハム」とは関係ないが、やはり南京町の食肉業「武田屋」から独立したのが鎌倉ハム。 こうしてみると、日本のハム・ソーセージは現在の横浜中華街エリアが発祥の地であることが分かる。 ということで、今日の夕食も「大木ハム」のコンビーフかな…。 ▲江戸清のアイスクリーム ブタまんは“中身が2倍、美味しさ3倍”だが、このアイスは中身が1倍、バニラの香りで美味しさ3倍!ってとこか。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
こうして社史を眺めると、華僑でなくとも町内からの信頼が厚い理由が分かりますよね。
町内の後継者がおらず困っているお店も、こういう継承があればな、と思う次第です。
この社史は市販されているのですか?
調べると面白そうですね。
そういや、第一次大戦時のドイツ人捕虜からハムソーセージの製法を
習ったという話をテレビでみたことがあるな。
先日、初めて食べたんですが、ジューシーで柔らかくって、美味しかったです。
読んでみてください。
まあ、社史なのでいい話が多いのですが、
失敗したことなども紹介されています。
伊藤ハムとのつながりなども、よく分かりました。
この本は売られているのかどうか、
私には分かりません。
横浜市の図書館では、
中央図書館だけにあります。
ただし館内用です…トホホ
>第一次大戦時のドイツ人捕虜からハムソーセージの製法を習ったという話
このことは「ソーセージ物語」にも出ていました。
長崎でも早くから作っていたらしいですね。
作ったのが最初なのか、
売ったのが最初なのか、
発祥についてはハム・ソーセージに限らず、
いろいろな見方があるので、
なんともいえないでしょうね。
私も昨日、買いに行ったら売り切れでした!
残念!
イギリス人技師ウィリアム・カーティスが、明治7年(1874年)に鎌倉郡川上村に牧場をつくり畜産業始め、その後 1876年(明治10年)戸塚の上柏尾村に観光ホテル「白馬亭」を開業。
そこで ハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行なったのが始まりらしいですよ。
よろしければ、つまらない記事ですが(汗
http://isonojii.blog28.fc2.com/blog-entry-121.html
日本ハムのHPの中に、
明治5年(1872年)、長崎で片岡伊右衛門がアメリカ人のペンスニから教わり、はじめてつくられたとされる
ということが書かれていました。
なんだか、ハムについて調べてみたくなってきましたよ。