チュラと日々の生活のこと

ラブ犬ミニチュア・シュナウザー、チュラのマイペース・ランダムな記録と、
飼い主のメモ代わり日記

見送る選択の難しさ

2023-04-05 09:25:16 | いつもの日記
私がチュラに話しかけて、声色変えてチュラの話をわたしが代わりにイタコしてと、一人二役で一人でずっと喋り続け、
散歩中は、これにプラスで即興の変な歌を歌っていたり。
はたで聞いてたら、かなりヤバイ人っていうのをいつもしてました。

私のイタコに
「違う違う、チュチュ、そんなこと思ってないし。またねーちゃん勝手にチュチュのこと話してる。」
っていう会話を、母が聞いてていつも笑っていました。
でも変な歌歌ってても、チュラは、ねーちゃん、またおかしなの歌ってる、っていうのは一度も言わず、
むしろ、ご機嫌で散歩していました。

そんな15年を穏やかに過ごしていました。

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ここから先は、
介護に悩まれている方のための、うちの場合の記録です。
悲しくて辛い話なので、
ダメと思った場合は、読まずに終了でお願いします。
そして懺悔の記録です。
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昨年12/22の夕方、
食べている最中に口からご飯を全部出したため、診療時間ギリギリの病院に駆け込みました。

元から危惧されていた、胆泥による胆嚢破裂に伴う腎肝機能不全の診断で、
その晩でさよならかも、といきなりの生死の境を宣告されました。
夕方も元気に散歩していたので、完全に寝耳に水でした。

先生のご尽力で、年末年始は通院とお薬漬けでも持ち直し、
かなりの距離をのしのし歩いて、時に走ったり、
疲れさせないように乗せてたドッグカーから飛び降りて歩こうとしたりで、
お義兄さんが、
「どこが悪いの?めちゃくちゃ元気だし。」
と言うくらい、普通に元気でした。

お正月明けも、毎日違う散歩道を歩き、
たまにしか歩かない竹林の道を、どうしても行くよ!と言ってきたり。

当時、主治医の先生に「毎日が思い出作りの気持ちで過ごしています」と言ったら、えーっと言われましたが、
多分、チュラも私と同じ気持ちだったんだと思います。

2月に入ってから急激に衰え、自力で食べられなくなりました。
黄疸で皮膚が黄色くなり、以前に起きたメニエールの症状で眼球もゆっくり動いていました。

2/5より、強制給餌と自宅皮下点滴を開始。
徐々に骨と皮に近い体になり、おむつをするようになりました。

2/24、別部屋で仕事をしている間、
チュラを締め切った部屋に一人でいさせたとき、自力で窓を開けて出ていってしまいました。
我が家で一番大きな窓で、古い家なので、人でもちょっと力を入れないと開かないところです。
一人にさせて30分間。もちろん15年一度も窓を自力で開けたことなく、体力的にも不可能だと思っていました。
気づいた時には、閉まっていたはずの窓はチュラが出ていくだけの隙間が開いていました。

チュラの名前を叫びながら、庭と家の前と半狂乱で探し回っても見つからず、
住宅街を全速力で走り回り、いつも行く公園だろうか、と道を曲がろうとしたところで、
走り進めていた先の、遠くの歩道に、ピンクの何かがちょろちょろ動くものがうっすら小さく見え、
それが、履き始めたオムツで、チュラだ!と気づき、全速力で追いかけました。
すでにヨタヨタ気味だったはずなのに、比較的しっかりした足取りで、迷いなく前に進んでいく後ろ姿。
あと数分気付くのが遅れていたら。私が曲がり角を曲がっていたら。100%見つけられなかった。

追いついて、しゃがんで、名前を呼んで抱きしめた時、
チュラは抗うこともなく、
見つかっちゃった、と一緒に、なんとなく、ホッとしたような空気を出していました。
着用の部屋着には、窓から出た時転げ落ちただろう背中辺りに庭の土埃がついていました。

意思を持って、家を出て、
でも、どこかで追いかけて見つけてもらうのも待っていたんじゃないか、と感じました。
その頃家では、介護方針が真っ二つに分かれていまして、
それもチュラには重荷に感じていたのかもしれません。
また良かれと思ってしていた強制給餌も辛かったのかもしれません。

それから2日後の、暖かく天気の良い2/27の午後、
抱っこしていた散歩で、何度も降りるといい、
6.5キロから4.4キロにまで落ちてしまったガリガリの体で、どこにそんな力が残っているのか?にも関わらず、
ゆっくりだけれど1キロ近くも歩いていました。
最後の歩き納めと、私のために歩いてくれたのかもしれません。
とても嬉しそうでした。そして今思うと、噛み締めているような感じでもありました。

栄養が吸収できていないと把握した3/7、次第に嫌がるようになった点滴を終了。

振り返ると、
投薬の継続を断念した2月5日が、介護のキーポイントだったな、と思っています。
2/19のうちの子記念を迎えられたらな。
3/15まで仕事が重なってるから、それまではいてほしいな、
と自己都合で話していたのを、チュラは聞いていたのかもしれません。
そんなこと言ってなかったら。
私が強制給餌も自宅点滴も選択していなかったら。
骨と皮になる前の2月の中旬ごろに、楽にお空に帰っていたと思います。

22年前に、先代犬ののんちゃんが亡くなるときも、私が一人で介護をしていたので、
一度経験してるから今回は大体の流れは掴んでると思っていましたが、その経験値は役に立ちませんでした。
のんちゃんは時代的に、殆ど病院にかかることもなく、強制給餌も点滴もすることなく亡くなりました。
のんちゃんの時と同じように、何もしないほうが良かったのかな、
強制給餌と点滴は、飼い主ファーストになってたかな、とチュラが亡くなった翌日後悔しました。

チュラは嫌がりつつも、健気に毎回シリンジから出される栄養を飲み込み、
その都度何ml飲んだか、細かくメモしていく私。いまそのメモを見ると、鬼気迫るものを感じます。
体力があるので、ピンピンころりを目指しましょう、と先生と話し合い、
餓死だけはイヤ、と一生懸命飲ませ続けました。

3月上旬過ぎには次第に立てなくなり(たまに歩くけど、すぐに倒れる状態)、
悲壮感漂いはじめ、こちらも覚悟を決め始めた頃、
WBCが始まり、チュラを抱っこしながらテレビを見て、ものすごい展開に毎回ワクワク過ごしていました。
ちょっとでも心が明るい時まで、チュチュ頑張るよ、と思っていたのか、
チュラを贈ってくれた亡き祖母の誕生日3/22まで頑張るよ!と思っていたのか、
勝手な推測ですが、
でも、結局のところ亡くなった日が、今までの流れではベストタイミングだったような気がします。

亡くなった翌日に私とチュラは二人で火葬場に行き、
私はギリギリまで、冷たくなった体をダッコして、頬剃りして、チューして、泣きながら送り出しました。

2時間後、綺麗に並べられた骨を一人で一つ一つ骨壷に納めていきました。
頭の骨は、私の方を向いて納められています。

介護は、やらないよりは、やったほうが後悔が少ない。と聞き、確かにそうかもと思いつつも、
何度もやめてしまおうか、と揺れた2ヶ月弱。
その間、たくさん検索して模索しつつも、何が正解か導き出すことができませんでした。
歩けないのに、オムツを変える時、結構力があるし、
水やリンゴ汁は、力強く飲むのを見てきて、
私には途中で、栄養補給をやめる勇気が持てませんでした。

残りの3日間、急激に栄養を取れなくなり、
なくなる二日前に、「ワンッ」と、もういらない!という怒った声を一声だしました。
それからは、水とリンゴ汁だけ。それでも、昨日まで40cc飲めたのに、翌日は15ccがやっとになったり。

最後の日、なくなる4時間前に、リンゴ汁を20cc、美味しそうに飲んでいました。
これが最後の飲み納めでした。それが振り返っても、唯一の救い。
大嫌いなミルクじゃなくて良かった。。

最後の日、踏ん張っても出ないウンコを出してもらうために病院に行き、
すっきりしたところで、家に帰った後、天国へ渡りました。

死因の直接的な原因は、便秘だったかもしれません。

長くなりましたが、
介護で悩まれている方が、もしここに辿り着いたら、と、
ご参考にはならないと思いますが、
実質2ヶ月弱のうちの介護ケースを載せました。

やっても、やらなくても、後悔があり、
時に、やるのは飼い主ファーストの場合もあり、
今も何が正しいのかはわからず、難しいです。

食べることが大好きだったチュラに、
最後の2ヶ月弱で、食事の時間を大嫌いにさせてしまいました。

できるだけ長く一緒にいたい。
その気持ちに見切りをつけるのは、すごく困難ではあるし、
どこまでが必要な介護なのかも見えなくなってきます。
でも、
老衰の介護は、愛犬と飼い主ともに、頑張れ!ではない。と体感しました。
大変だ、とか、疲れたな、と思う時は、きっと愛犬も同じ状態だと思う。
もし、ご縁あって次の子を迎えることができた時、
老衰の際は、強制給餌は途中でやめるかな、と思っています。
が、その時はもうこの気持ちを忘れて、結局やってしまうかもしれないなぁ。。
なので、一応、記録として残すことにしました。