りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

 火 (3)

2011-01-29 09:33:16 |  日 記 
雪も降らないし、とくに目立った天候不順というわけでもないのだけれど、相模原に移り住んで丸五年の間で、今年は間違いなく一番寒い冬なのです。
あんまりにも寒いので、数年封印していたファンヒーターをひっぱり出してきました。
それで、久々に自宅の空気を灯油のつくりだす熱で暖めているのですが、エアコンなんぞに比べるとやっぱりパワフル。化石燃料に代わるべき代替エネルギーが越えなきゃいけない壁はかなり高いなぁとも思ったのでした。

このごろ意識的かつ定期的に実家に顔を出すようにしていますが、昔から使い続けている石油ストーブが現役で活躍しているのを見るとホッとしたりします。子どもの頃から見慣れているものですから、ほとんど無意識に、吸い寄せられるようにストーブの前に立っている。そういう自分に気付くと、苦笑いしちゃいます。ストーブの上ではヤカンがシュンシュン音を立てていますが、こういう景色には有無をいわせぬ強さがあるなぁって思うことしきりです。お餅を焼いたりすれば、もうそれだけで何かが十分満たされた気分にも。

生活においては「情緒」的なことがらがほとんどすべてのことを占めるんだと思います。ほんとうは。「情緒的価値」と言ってもいい。
でも、こと「エコ」ということに関しては、「情緒」はあまりふりかえってもらえないと言いますか、そういうことに気を留めている方の言葉は、無条件の「エコ万歳」に隠されてしまっているのか、ほとんど聞こえてきません。「情報」と呼ばれていることから「情緒」はどうも排除されているフシがある。
「感情的」であることと「情緒的」であることは明白に違うはずなのだけど、「システム」や「論理」がハバをきかせている昨今、いろいろひっくるめて丸ごと排除されているような気もする。でもね、論理こそは「感情的」であることを実感することの方が多いのではないか?って思うのですけど、とくに最近はそう思いませんか?「感情的論理」が「情緒的価値」を排除するっていう図式の方が色濃く見えてきていると思う。「情緒」は「論理」に負けるのが社会の通例というか常識と化していて、「情緒は負けなければならない」というコードに強制的に従わされているようにも見えます。でも、ひたすら「論理」的であることの後ろには、話していることとは別の意味の「感情」が透けて見えてくるものでして。ヒュームだった思うけど、「論理は感情の一形態である」と言っていたのを思い出します。僕はこれってある種の皮肉かと思っていたのですが、このごろの世相はこれに類することが多いような気もしてきて、現実観察から導きだされたヒュームの感情であったか!と思い直しているところでもありますが、まぁ、一筋縄でいかないことなので、これは別のところで追々やろうかな。

ずいぶん前のことだけど、あるお宅にお邪魔した時のこと。奥様が茶道をされているというので、唯一の和室は茶室として設えてありました。それはうらやましい限りなのですけど、炉が切ってある部分に、電熱器(?)というか、ヒーターが置いてあったので、「ん?」と。
略式と言うか、気軽にお家で茶を楽しむとなればそれは当然の流れと言うべきもので、いまや普通のことなんだと思うのですけど、自分ではやらない僕のようなのが見ると、思っていたのとなんかイメージ違うなぁって。本当は炭をおこしてやったほうがおいしいお茶がいただけるのではないかな?と思ったり。茶道のような文化こそ「本当は。。。」の部分を「本当に」しっかりやるべきなんだと思うのですが、そうも言ってられないのかなぁ?

カタチを変えてしまったことで中身が変わってしまうこともある。
そう思わずにいられないのです。





火(2)















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