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名前がわからず、ずっとやり過ごしていたのです。
宝鐸(ほうちゃく)に譬えてのネーミングだそうなのですが、「宝鐸」そのものの呼び名を知らなかったので、二重にお勉強した格好になりました。
シャガとならんで咲いているのはよく見かけてはいたのですけど、なんて名前なんだろう?と。
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しかし、どんなものにも名前というのはついているもので、それを思うとちょっと気が遠くなりそうなことがあります。
気にしなけりゃそのまま。たとえ踏んづけていたとしても気にも留まらない。けれど、一旦知ってしまうと、それを「しらない」とは言えなくなってしまう。。。知識のある、なし、ではなく、心情として。
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相手にもよるし、タイミングにもよるのですけど、子どもと山道を歩いていて草木の名前を教えてあげると、とても喜んでくれます。本当に興味津々なのです。興味が出てきたときに、その興味に応えてあげられるって、シンプルだし大事だと思うけど、花の名前のような些細なことほど頭に入っていなかったりする。ぼんやりと自分の子どもの頃を思い出すのですが、親からあんまり詳しく教えてもらったことはないような。。。それで、大人になってから、急にそのあたりのことが自分にごっそり欠けているような気がして。知っているけど、呼べない。え~っと、なんだっけ?とかいいつつ、実は頭の中に名前がない。。。
情緒っていうのは、どうもそういう「些細な」ところにも見出されそうだ、と思うこのごろ。
一緒に歩いて、せっかく同じものを見たんなら、子どもの記憶にその名前も添えてあげられた方がいいよな~、って。