いつもは奥手の相模原の桜だけど、すでにひらひらと花を散らしている。
近所の公園もだいぶにぎやかだ。
花壇ではチューリップも花弁をひろげているし、
あたたかいせいか、たくさんの人が朝早くからお散歩していたりする。
いつも朝に尺八の名手が練習をされているのだが、
音色さえ春爛漫を歌うように聞こえてくるのだから、
まぎれもなく春の真っただ中にいるのである。
そのことを疑う余地はまったくないのだが、
どこか今年の春には違和感がつきまとっているのを
振り払えないでいる。これって個人的な感覚の問題なのだろうか?と。
年によって春の訪れには微妙な違いがあり、その違いが
口々に語られるというのも春の風情のひとつだと思うのだが、
今年の春がだいぶ違って感じられるのは、
あまりにも桜の開花が早かったせいで、
僕の頭の中で鳴るはずだった音楽が
鳴らないまま季節が過ぎようとしているからかもしれない。
そのことに今日気付いて、なんだかあわててラヴェルの音楽を夜に鳴らしている。
ラベルの弦楽四重奏を聴き、ピアノ三重奏を聴き。。。
そうえば、今年はまだプーランクのオーボエ、バスーンとピアノのための三重奏を
聴いていなかった、とあわててCDを掘り出し。。。
それでようやく何かが落ち着いた気分になってきた。
聴きながら、だいぶ早まってしまった桜の季節が、
雨も降らずに過ぎていく違和感を思いつつも、
ひょっとしたら、この違和感は季節のせいなどではなくて、
僕の中でなにかが少し変わってしまったせいなのだろうか?
と思うにいたった。
そう思うに足るだけの理由なら、身に覚えがある。
山ほどたくさんありすぎて振り返るのも面倒なのだが、
変わらないのは果たすべきことがいまだ果たされていないことに
対する焦燥である。
早く過ぎていく季節にせつかれているような気分。
自分が変わっていくことも、ひとつの冒険なのだなぁと思いつつも、
ただ流れにせつかれるままというのはいただけない。
いろいろ考えるにつけ、音楽にじっくり耳を傾ける時間はどうしても必要なのである。