祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

精気神

2013-04-20 21:19:37 | 理論―陰陽五行、名言集

腎陰を養う

   投稿日:2010年10月26日(火)22時58分8秒

返信・引用

 

 

腎は、精を蓄えるところ。所謂、生命エネルギーの源泉だ。
「人有三宝。精、気、神」
車であれば、ガソリンが、精。エンジンが気、様々な機関を経て走ること、そのものが
神。そのどれもがかけても、車は車であり得ないのと同じように、人は精、気、神のどれがかけても人であり得ない。ガソリンもエンジンも、それを動かしていく様々な機関も、そのものだけでは、ただの物質にしかすぎない。それらは有機的に関連しあって初めてうごくことができるし、人は精、気、神によって、初めて生命もつことができる。
 腎は、精を蓄えるところであるが、それを気化させる所でもある。腎陰は腎水と呼ばれ、腎陽は、命門の火と呼ばれる。
 腎陰は、陰、静の中で養われる。休養、睡眠、リラックス、安静、静か、静功、夜・・・
 腎陽は、陽、動の中で養われる。活動、覚醒、興奮、動き、動功、朝、昼・・・・
仕事で疲れているからっということで栄養剤を飲めば、元気が出るが、栄養剤は、腎陽を高める薬品が多く、腎陰が少ない状況の中で腎陽を高めれば、腎陰は枯渇する。栄養剤は、元気は出るが、リバウンドが来るとか、一時的にしか効かない人や場合は、腎陰が少ないことを考えなければならない。熱い温泉に入って、一時的に元気が出るが、後で疲れるというのも同様に考えなければならないだろう。そういう場合は、栄養剤や温泉よりも睡眠をちゃんと取った方がよい。
 今夜、練習に来られた人がいたので、室内で練習した後、外に出て、腎陰を養う丹田功の功法を体験してもらった。「不思議な感覚だった」といっていた。
 「星の王子様」ではないが、本当に大切な物って、目には見えない。
生きていること、愛すること、元気であること、生き生きすること、苦しむこと、悲しむこと、悩むこと、楽しむこと・・・それらは、単なる物質ではなく、物と物との関係の中にしか生まれてこない。生命は、空であり縁起である中にしか生まれてこない。腎陰を養うとは、人間の根元を養うことだ、ふつうの丹田功と何ら違いはない、違うのは、丹田功をする人の中に、天や地、人とつながっている感覚を身につける功法だということだ。
 私は、戴氏心意拳をやってよかったと感じるのは、自分自身が生きているという感覚を見つけられたことだと思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛情が生まれる

2013-04-20 21:12:35 | 歴史・文化・芸術・人物

反省!

  投稿者:xinyi  投稿日:2010年10月30日(土)00時33分30秒

返信・引用

 

 

a-fenさんの話を読んで、私は反省ばかりです。「忙しい」という文字は、「りっしんべん」に「亡くす」と書くように、「心を亡くしてしまう」とよく言われますね。結婚する時は、お互い好きで結婚したはずなのに、忙しい、忙しいと言いながら、相手との関係、心をなくしていってしまう。 カンフーなども人生を豊かにしていく物だと思います。はじめは、好きで始めたのに、いつの間にか、忙しい、忙しいといううちに、好きだという気持ちもなくなっていってしまうというのもよくあることです。 「世の中どうしてこんなに忙しいんだろう」なんて良く思います。もっと楽したいなあとか。 だけど、一方では、知らず知らずのうちに、「忙しさ」の中にどっぷりつかっていたり、それを求めていったりする自分がいたりします。 「忙しい」ってことは、何かをしなければいけないということだろうから、「忙しい」って言葉を使われると、周りの物は、何とも仕方ないんですね。その人にして欲しいことがあったとしても遠慮しちゃう。 「忙しい」という言葉は、何かとの関係を切るときに、一番都合の良い言葉かもしれません。相手を直接は傷つけず、断ることができる。 忙しいことはその人にとっては必ずしなければならないことだから、きっとその人の人生にとってかかすことはできないことなのでしょう。 だけど、その忙しさの中で、どう愛情とか好きなことだとか、それらと向き合っていくかというのは、工夫や技術や努力がいる。難しいなと思います。

 

 


愛情?

  投稿者:a-fen  投稿日:2010年10月28日(木)23時01分30秒

返信・引用

 

 

子供嫌いだった私は子供なんか生まないを言ったり、電車を乗っても子供がいる車両を避けたり、とにかく無縁なものだと思いました。いつの間にか自分が子供を持って親に成って当時の私は育っていく自信さえもなかった、子供を生んでから意外と女で強いものです、なんとかやっていた。だけど!苦しかった、当時、夫がいても何もしてくれない、子供が自分のお父さんの顔を見るだけで泣き出した!日本のお父さん事情でしょうね、外で仕事を忙しいから子育てに手伝えてくれない、奥さんに任せきり!
究極の癒し?心音のグッズは知らなかった、時代が変わったと思いました、親が楽にしたいからいろんなものに頼っています、グッズを利用するよりお父さんも周りの家族も加えて子育っていけばこんなものは要らないと思います。子供嫌い私はよくここまで変わったと思います。
当時の夫はオムツさえを換えたこともない、私は一人奮闘した!子供が泣いて私も泣きました、夜鳴きにしても寝ないまま一晩で抱きました。だけど、寝た顔を見たら、すべてあの辛さを忘れた、あれから16年間、怒って泣いて笑って悩んでこの全てが私を育てくれた、今も私が成長しずつ、今の感動、今の反省を感じしながら子供とともに成長していく。
自分の子供を生んでも親として認識がすぐに生まれないです、芽から出て愛情を注ぎながら親子の愛が生まれると思います。
現在、異国で一人で子供を育っていくと思うと、とても大変に辛い、怖いぐらいですが、考え方を変えると子供が私を育ってくれた、変えてくれた大きな役目でした。
もちろん、子供が私とは生活して大変につらい思いがいっぱいある、それでも強い絆になると思います。愛情でなんでしょう?私も分からない、感情に任して自然に生んでくるものでしょう。

http://隊

 

 


究極の癒し?

  投稿者:xinyi  投稿日:2010年10月27日(水)23時15分19秒

返信・引用

 

 

 究極の癒しグッズ!として、赤ちゃんに心音を録音したものを聞かせるグッズが紹介されていた。確かに赤ちゃんは、それで安心して泣きやむ。便利なグッズだと歓迎する人は多いだろうし、実際、子育てに貢献する部分もあるのだろうと思う。
 しかし、やはりちょっと、待てよという意見もあって良いのだろうと思う。心音は、つながることから生まれてくる安心感だろうとすれば、心音グッズを用いたがる背景には、そのつながりを否定したい意識が見えて来るような気がしてならない。親が子供を愛することができるようになるには、いろんなトレーニングがいるし、はじめから母性とか愛情とか持ってる人はいないんだと思う。母性や親子愛という言葉や観念は、社会が都合のよいように勝手に作り上げてきた幻想だ。元々個人の中にある物ではない。だから「私は、子供を愛することができない」とか「子育てが下手だ」といったことは、本来は当たり前のことだ。愛は
もともとある物ではなく、つながることによって生まれてくる物だ。自分の子供が生まれてきて、初めてその子供を抱いたとき、うれしい気持ちと不思議な気持ちと複雑だった。
 親なんだけれども実感がなかった。親が親になって行くには、子供の笑顔を見たり、しゃべったり、遊んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだり一緒に何かをともにやっていく中でしか、親になっていくことはできないし、そのつながりがあるからこそ愛情が生まれていく。私達は、おぎゃーと生まれてきた瞬間から、へその緒を切られ、人からも自然からも個体にさせられる。個体は、個体だからこそ自由になれるし、自然や人ともつながることができる。自由も愛情も学ぶというトレーニングなしには、なしえない。私達の究極の癒しとは
つながりながら、うまくつながっていくことを学んでいく、身につけていく、そこに初めて癒しが生まれてくるように思うのだがいかがでしょう?

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手と言葉で教える

2013-04-20 21:04:08 | 理論―陰陽五行、名言集

手と言葉で教える

    投稿日:2010年11月 3日(水)08時49分40秒

返信・引用

 

 

下記での写真のボートに書かれた言葉を拾って欲しい。講義形式での板書ではなく、受講者が練習をしながら指導をしていく言葉をxinyiが拾って書いているものです。もちろん板書できるのは、王喜成老師が話をされることの一部でしかないわけですが、講習会での実技指導が、いかに伝統に沿った物であるか、実技と拳譜等の言葉が密接に関連しあっているかが分かるのではないかと思います。拳譜等の言葉は、単に絵に描いた餅ではなく、戴氏心意拳においては武術上達のためのエッセンス、方法が具体的に示された物だと思う。
 私が王映海師父に学び始めた頃から、「戴氏心意拳は手と言葉で詳しく教える」とたびたび言われたが、その頃の私には、ただ当たり前のことを言われているようにしか感じなかった。この言葉は、「戴隆邦教授規則」にも記されている非常に伝統的で、戴氏の教授システムが内包されている重要な言葉だと分かったのはずっと後になってからのことでした。
 「戴隆邦教授規則」については、戴氏の非常に核になる部分なので、詳しくは書籍で述べていこうと思っていますが、簡単に言うと、戴氏の教授は、陳腐な意味での秘密主義ではなく、武術が上達するために、教える側にも、学ぶ側にも制約をつけた。そのことが外部の者たちには戴氏が秘密主義だと思わせる物になっていた。
 しかしそこに書かれている内実は、将に武術上達のシステムである。
「手と言葉で詳しく教える」の手とは、直接教える、個人にあった物、今の段階で必要なこと、練拳とは何か、双把をやったから次は五行拳を教えるといった単純な物ではなく、今の
この状態の人には、これが必要なのだと言うことで教える。朝起きたとき、仕事をしているとき、練拳を始める前、始めたとき、初めて少したったとき、だいぶ時間をかけたとき、終わるとき、終わってから。眠る前、安心したとき、興奮しているとき。人は同じ人でも違う状態なのであり、その時々で必要な物は異なってくる。何を学ぶべきか、教えるべきかは、その時々、その人それぞれで違ってくる。それなのに、日本の武術講習会などでは特に、みんな一斉に同じことを行っているのが一般的だろう。
 戴氏では、学ぶ者、教える者が、その時々、その人それぞれがどういう状況にあり、どういう練拳が必要なのかを澄み切った目で見つめ、謙虚に必要な物を学んでいく姿勢が大切だと思う。
 講習を受けた時に、王喜成老師から、初見で「あなたは芸術的に優れている」とか「あなたは、職場で仕事がよくできるので他から慕われているはずだ」とか言われ老師の洞察力に驚いた人も多いのではないかと思う。
 老師のそのような洞察力は、すべて戴氏から学んだ物だと言う。「ゆっくりの動作を7回して快動作を3回する。」とか「双把をやったから次は五行拳」といった単純な見方、教え方ではなく、その個人をよく見る、その変化をよく見る、そのことから始めると、人の洞察力は研ぎ澄まされる。それが、戴氏においては直接個人に「手で教える」ということだし、
「言葉で教える」とは、人やその変化を見るときに、単に自分だけの偏見とか我流で見ない。伝統的に蓄積されてきた拳譜や口承、口伝などによりながら自分の目でしっかり見つめ、自分なりの言葉を見つけ、教えるということだと思います。
 そんな洞察力を養成しながら自らの身体を見つめていくことが、内功であり、鍛錬なのだと思います。道は遠いが、愉しい道のりであると思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人是学而知之、不是生而自知」

2013-04-20 21:02:03 | 理論―陰陽五行、名言集

人是学而知之、不是生而自知

    投稿日:2010年11月 6日(土)09時50分7秒

返信・引用

 

 

 講習会の板書写真を見てほしい。
「人是学而知之、不是生而自知」は、王映海、喜成老師が講習会の中でもたびたび言われる表現であり、
先日から私がこの掲示板に掲載している「戴隆邦教授規則」に元々は記されている言葉でもある。
これまで述べてきている、陰陽のバランスを感覚し、自らつかんでいくことは、大切なことだ。
 しかし、この感覚は、個人的なもののようであるが、全く個人的なものではない。
何を美しいとし、何をきたないか、いいにおい、くさいといった感覚は、実は文化に規定されるし、学ぶことによって身につけられる。
 陰陽のバランスを感覚によって身につけると言っても、決して個人の感覚だけで学ぶことはできないし、老師や指導者に見てもらいながら、どの感覚が正しいのかを常に学んでいかなければならない。
 テキストや動画を見て正しい形や順序を学ぶことはできる。しかし、その中にある感覚までを学んでいくのは
言葉や映像を超えた直接の指導で感じ、その感覚と出会うことを通さねばならない。
 「百聞は一見にしかず」であり常に人は学び続ける謙虚な姿勢を持たねばならないと「戴隆邦教授規則」は教えてくれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眼力

2013-04-20 20:48:19 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

 

眼力

    投稿日:2010年11月 8日(月)23時14分56秒

返信・引用

 

 

 あふぇんさん、お久しぶりです。中国伝統武術研究会をいつもかわいがってくださりありがとうございます。
 あふぇんさんは、しゃべるの得意ですし、それで生計たてているって言ってもよいくらい
しゃべる仕事ですよね。声が出なくなるって言うのはきついですね。大丈夫ですか?
早くくよくなるといいですね。
 眼力って中国ではよく使う言葉ですか?日本で「あの人、目力(めじから)がある」という表現は、あまり使う人、少ないんじゃないでしょうか?もちろん表現はありますけど。
 ふつう使うときは、しゃべらずとも、威厳があって目だけで人をすくませることができる
。蛇ににらまれたカエル、というと恐い感じもしますが、目で表現される意志というか。
 だから、子供のころから、目が大きく見開いている人は少ないし、ある程度、自己表現を
しないといけない年頃になって目の表情が出てくる人は多いんじゃないでしょうか?目が外に向いている人は目が大きくなっていくように思います。
 逆に着実に仕事をコツコツやっていく職人気質のような人は、目は割と細い人が多いように思います。人に惑わされないというか。
 王喜成老師も、目は割合、細い方ですよね。だけど発勁をするときは、眼光鋭い、目に力がある。本当に勁をはっするという感じです。すごいです。

 

 

目の力(眼力)

  投稿者:a-fen  投稿日:2010年11月 7日(日)20時35分7秒

返信・引用

 

 

忙しかったり、落ち込んだり、、いろいろ反省もあった。久しぶり登場しました
今は季節の変わり目でしょうか、風邪もひいて今は声が出ない状態、仕事は休むわけにはいかないため、ちょっと気合を入れた、だけど!私の仕事は喋る仕事なので、周りに方々の協力で何とか過ごした。
喋れない私は人と交流するため、目と仕草で相手に伝えるのは精いっぱい、ついつい喉に力を入れたり喋りたいわと声をあげてしまった。喋ることは楽しいことですねと横で皆さんを見ていた。
だけど!目の力、顔の表情でよく相手に伝えのはびっくりした。やはり人間の目はすごいです、この「人の目が死んでる」とよく聞きます、無表情の人はさらに怖いでしょう。
目は心の窓;新たに自分の生き方について良い勉強になった、人と人の間はよく目を見てもっと距離を近くになれる。話す時は人の顔を見ない人も多いと思います、試して人の目の色でも確認してください。面白いですよ。
とくに好きな人をみたら、さらに好きになる^^
反面は嫌い、怒る時、また怖い面で楽しんでください。
ひとつ思い出すのは王先生が相手を攻める時にも殺気の眼力で攻めると言った記憶があった、パワーがすごい!
心の窓は時々拭きたい時も必要でしょう。心のきれいな人になりたいです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする