私は、前回の大阪講習会で勉強会を一こまでしたが、もてたことは、よかったなあと思っています。 もちろん、内容や方法については、まだまだ直さないといけないところはたくさんあるのですが、とにかく なにか取っ掛かりができたのは最高でした。 やっぱり、基準て大切だと思うんです。 象を見たこともない人々が、目隠しをした状態で、象をさわり、ある人は「象とは、柱のようなものだ」「象とは、パタパタとした羽のようなものだ」「穴の開いた筒のようなものだ」「細い棒に毛がふさふさとついたものだ」と別々なことをいったというたとえ話のように、全体を見ていかなければ、象はまったく違うもの偏見に満ちたものとして認識されてしまう。 中国武術は輸入武術ですから、遠いところで実態を見ず、噂話だけでああでもない、こうでもないとやっていれば、一人一人がまったく違った戴氏心意拳を頭に描き、オリジナルなものとまったく違う戴氏心意拳が出来上がってしまう。私たちは、途中途中の勝手な解釈を介さず、オリジナルなものに直接触れ学ぶことを主眼に おき学び返した。もう何年も学んでいる、俺のほうがうまいとか強いとかなどという変なプライドは、それぞれが捨て、謙虚に学んでいく姿勢が自分自身を伸ばしていくのだと思う。 王映海師父が、「いつまでたっても完成などない」と言われて今なお練拳を怠らないと言う。(ちなみに9月17日は王映海老師の誕生日である)私たちは、謙虚に学び続けなければならないのだと思う。 日本での戴氏心意拳は、まだ始まったばかりだと思っています。素質や経験のある方が戴氏心意拳 にも集まってきてくださっていることは事実だと思います。 ですが、戴氏を教えるほうも学ぶほうも、戴氏の初歩的で表面的な部分での練拳にしか行き着いていないように思います。 套路や用法を学んで、中国武術を学んだ気になる時代は、もう終わりにしなければならない。私たちはその先にいかなければならないと思うし、そうでなければ、一時的なお遊びで終わってしまう。 戴氏心意拳は、膨大に埋蔵された資源であり、それを探し当てるのは、自分自身の継続した努力と他との協力により導き出されるものなのだろう。
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