祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

「陰陽互根」

2013-04-27 06:02:05 | 理論―陰陽五行、名言集

戴氏心意と陰陽五行

    投稿日:2010年 5月31日(月)21時18分58秒

返信・引用

 

 

戴氏心意と陰陽五行の関連について話を進めたいと思っていますが、日ごろ指導していて、陰陽五行について
の誤解があるというのはよく感じることですので、そこのところは、誤解を解きながら話を進めたいなと思っています。
 まず、一つめは、「陰陽」についてです。日本人の感覚の中には、陽が良くて、陰が悪いというイメージが強いようです。例えば、性格が陽気であることは良いが、陰気であることは良くないとか、光は良いが、影は良くないイメージが有る。
 しかし、「陰陽互根」といい、一方があるから一方が成り立つ。一方がなければ、一方もない。また、価値としてもどちらがよいということはない。戴氏の講習をしていても「あなたは体が虚している」「あなたは体が実している」というと虚していると言われた人は、劣等感を感じたり、実していると言われた人は優越感を抱いたりする傾向があるが、実はどちらも良い点もあり、悪い点もある。その体質にあった練拳をしていかなければならない。虚から実になることが大切なことではなく、虚も実もバランスを取るようにしていく必要がある。
剛柔相斎が必要なわけです。静は陰、動は陽、展身は陰で、束身は陽です。どちらも互いがないと成り立たない。

 

 


腎を養う・・・。

    投稿日:2010年 5月31日(月)05時11分15秒

返信・引用

 

 

 戴氏の練拳は、内五行、外五行を育む。陰陽五行の身体観では、腎は生命エネルギーの源泉で、人が生まれながらにして持っているものだと考えられている。それを、養い有効に発揮させる営みを戴氏心意拳は助ける。丹田功による静かなる練習方法は、腎を養い,混元の気を養う。

 

 


陰陽五行説

    投稿日:2010年 5月29日(土)11時15分25秒

返信・引用

 

 

戴氏と出会い、練拳するようになり、何年かたった頃、王映海師父が「内、外五行を教える」と言われ説明されたことがあった。王映海師父は、体内の五行と表現される五行についてとくと語られた。その頃の私には、陰陽五行について、一般的な知識しか持っておらず、戴氏の技法的なことにしか興味がなかったため、王師父の熱意に感銘を受けたが、内容については全くちんぷんかんぷんであった。肝が目に通じるとか、木は東方で、金は西方と説明されても、私にとってはいにしえの理論をこじつけているぐらいにしか感じられなかった。戴氏心意拳の技術体系と陰陽五行が密接に関連しあい、練功上にもなくてはならないものだと痛感させられるようになってきたのは、何度も何度も訪中し、王師父の手厚い指導を受けながら徐々に感じわかってきたからだと思う。王映海師父には、愚才な私を本当に基礎的なところから丹念に指導していただいた。一つ一つが懐かしい思い出である。

 

 

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哲学と武術

2013-04-27 05:55:31 | 理論―陰陽五行、名言集

論じるよりも・・・

    投稿日:2010年 6月 6日(日)07時56分33秒

返信・引用

 

 

般若心経を信心のない私が論ずると怒られそうな気がします。
私の場合は、般若心経は、実践ではなかったし、思想としてすばらしいなあとか、覚えてみるとおしゃれだな、ちょっと知的だなとかそんな程度でした。大学時代は、哲学書とか読むのが好きだった。いろんな認識論なんかを比較したりするのは知の探検って感じで楽しかった。やっぱり、本って人を内面から変えていくものがあるっていうか、教育とか宗教といったものは、ある一定の強制的な力(ちょっと言葉がきついかな?教科書とか、毎日登校するとか、義務教育だとか、子供は学校行くのが当たり前なんだとか、教育や宗教は一生懸命することが良いことなんだとか・・・)で人を変えていくけれども、本を読むというのは人の内面をゆっくりと変えていく。はじめは西洋哲学だけを読んでいたのに、東洋の思想にあこがれを持ち始めた。「空」や「無常」といったことやフロイトをはじめとする精神分析にであったことは、自分自身の大きな転換点だったように今では思いますし、武術の世界に私が導かれていった始まりだったように思います。それまで、前ばかりを見ていたが、気づいたら自分という個体がここにいるじゃないか。そんな当たり前のことに気づいたのだと思います。頭だけで考えていた。その頭は物質だし、常に変化していく物質、その頭は脳だけれど、その脳も自分のすべてのを決める主人ではない。自分が持つ身体に左右され、身体は環境や自然に左右される。「武」という文字が「戈を持って立つ姿」を表しているように、私は、しっかりと立って生きていけるのではないか、そんな希望や夢を武術に寄せた。武術の世界に入ってからもあっちこっち行ったなあと思う。見た目がいいのとか、強そうなのとか、人受けがしそうなのとか、神秘的なのとかといったいろいとな武術をやってみた。結局自分自身が行きついたのは、戴氏の中にある、自然との調和といったものだった。
 般若心経の中にあるいみってふかいと思う。しかし、それは論ずるよりも実践することなのだと思う。崇高なお経をとなえながら、その意味に即した行いをするという実践性が大切なのだと思います。鎌倉仏教が普及した時代は、識字率は非常に低く、文字の読めない人がほとんどだったはず。そんな中で、親鸞や日蓮がめざしたのは、お経のもつ意味を正確に教えることではなく、その意味に即した実践をできるかどうかだったとだろう。だから「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説き、すべてのものが仏になれるとしたのだろうと思うし、金持ちだろうが、貧乏だろうが、善人だろうが、悪人だろうが、すべてのものが往生を遂げられるとした、鎌倉仏教の歴史的意義は大きいと思う。
 戴氏心意拳の4代戴魁の時代も同様な感がある。それまでは戴家にしか伝えなかった厳格な保守の武術だったが、
時代の混乱の中で、富豪の戴家は没落する。戴氏心意拳は非常に崇高で高い理論体系を有している。その意味では
仏教が密教として伝えられ、高い位のものの独占物だった時代と符号するかのように、以前は戴氏も一子相伝の武術
だった。祈県の場内で教えたときにも、段しゃく福のような金持ちだけだった。しょう義に来て,彼の生活を助けたのは
王映海老師などの一般の農民たちだった。戴魁の固い心を開かせたのは、一般の農民たちが誠心誠意つくそうという優しさだった。戴魁は文字で武術を教える方法から武術そのものを実践させていく教え方を身につけさせていったのかもしれ
ない。

 

 


 

(無題)

  投稿者:a-fen  投稿日:2010年 6月 4日(金)21時18分10秒

返信・引用

 

 

般若心経とは二、三年前に出会いました。私は宗派とは無関心な人で今もそうですが、一つのきっかけで般若心経を唱えるようになってそれで私の心を救いだ。
意味の深さはやはり人生の中で体験しながら意味を習得できるような気がしている。今まだに意味が分っていないですが初めてお寺に行ってコマタキ体験に参加したとき、周りの方を見て素晴らしいお経を唱えて私も頑張って同じくできたらいいなあと思いました。
毎月の28日にお寺に行ってきた、毎回素晴らしいコマタキを感じた。神様は居ますと信じます。
xinyiさんもよく読んでいた、驚いた。
私とは違う心境でお経を接していたけど
私はお経のお陰で心、身とも助けられた
「度一切苦厄」心に響きました。
暫く忙しかったため、唱えなかったが、もう一度を初心に返って意味を探りしがら
さらに強い人間に成長をしたいです。
思い出させてありがとうございます。

http://な

 

 


自分という関係性

    投稿日:2010年 6月 2日(水)20時21分51秒

返信・引用

 

 

自分は自分という個体の中で生きているような錯覚の中で生きている。
練拳は、呼吸をすることだと思う。肺で呼吸し、皮膚で呼吸し、意識で呼吸する。呼吸とは,自分と他との関係だし、他と自分との入れ替わりだと思う。
いい年になった今でも、申し訳ないほど全く信心がない私であるが、大学時代は般若心経をよく読んでその思想性の深さにあこがれた。般若心経は、仏教宗派によって解釈が微妙に(おおきく?)異なるが、私は道徳的に解釈されたものよりも、純粋に「空」の思想を訳したモノのほうが好きだし、その「空」の思想に感動し、「空」の中にある宇宙にあこがれもした。「空」は空っぽではないし、無駄なことでもない、「色即是空、空即是色」は、物質は空という関係であり、空という関係の上に物質は成り立っている。物質は常に変化し、実体はない。実体がないのが物質であり、物質は決して固定したものではない。自分は自分だと通常は感じていて、いつもこれが自分だと思っている。しかし自分という実体はないし,逆に全く実体のないものでもない。自分は同じ自分ではないが、自分は自分でもある。
 練拳をすることは、自分を変えることでもあり、自分を創っていくものでもある。
「天地人三才合一」についてアップしました。練拳と関係についての戴氏の論です。
http://6009.teacup.com/xinyi/bbs

 

 



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陽気を発生させる

2013-04-27 05:53:23 | 練習日記

朝の練習

    投稿日:2010年 6月 9日(水)06時34分37秒

返信・引用

 

 

朝の練習は、丹田功や虎歩、寒鶏歩などをよくやっている。
慢動作を中心と気が満ち、発勁をおこなうと腰があつくなり、陽気が上昇するのが良く感じられる。一日の始まりが気持ちいい。

 

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内五行のはたらき

2013-04-27 05:51:41 | 理論―陰陽五行、名言集

内五行

  投稿日:2010年 6月 9日(水)23時42分19秒

返信・引用

 

 

内五行の五臓は、肝、心、脾、肺、腎であるが、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓と同義ではない。物としての臓器ではなく、それらの機能である。例えば、心(しん)は、心臓が持つ血液を送り出し、全身に血を送り届ける。また、意識と精神も司り、考え、判断し、記憶、行動するのは心(しん)のはたらきとされる。心が正常に働かないと落ち着きが無かったり、物忘れが増えたりする。そして、五行は関連しあい、血液をどの器官にどのくらい送るかを決めるのは肝である。

 

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肝の気

2013-04-27 05:49:22 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

肝気を使う

  投稿日:2010年 6月12日(土)07時05分49秒

返信・引用

 

 

丹田功の静かな功で腎気が満ちてきた人たちは、肝気を意識的に使って練拳する。
丹田からの陽気、気血が全身を包む、ゆっくりとした動きから突然発せられる勁は、全身の毛細血管を開き
体表を一瞬気血で紅潮させ、また元の色に戻す。本会で練拳する仲間のなかにも、そのような、激しい発勁
を行える基礎を持ったものが現れ始めたことに、練拳のふかまりとたくましさを感じる。
 肝気を使う前に十分に養われていなければならないのは、腎気である。気功のように静かな丹田功を十分に練習する。休養、栄養、睡眠を十分にとりバランスの良い生活をする。といった営気を十分に養った上で肝気を使った練習は行わなければならない。むやみに肝気を使った練習を行うと、高血圧、頭痛,精神障害など偏差が現れる。このレベルに達してきた人たちは、しっかりとした指導者に程度や方法をを見極めてもらいながら、練拳しする必要がある。

 

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