祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

王一門戴氏心意拳情報

2013-04-23 22:28:10 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

王一門戴氏心意拳情報

   投稿日:2010年10月 3日(日)12時07分21秒

返信・引用

 

 

ここですね。
やっぱり
http://www.56.com/h57/u_daishixinyi.html

 

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好きであることを続ける

2013-04-23 22:25:28 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

好きであること

   投稿日:2010年10月 9日(土)11時35分1秒

返信・引用

 

 

 好きになることは、容易いが、好きであり続けることというのは難しいと思います。
afenさん、武術も恋愛や愛情もその意味では似ているように感じます。
武術であれば、雑誌とか漫画、映画などを見て、やってみたいなと思う。恋愛であれば、きれいな人だな、かっこいいな、尊敬できるなとかそんなことがきっかけで好きになる。
 だけど、時間がたつったり、実際につきあってみると、そんな美しい物だけではない物ともつきあわなければならなくなったりする。仕事が忙しくなって、好きな物とつきあえなくなることもあるし、実際にやってみるとつらいこともあったりもします。
 好きであるものとつきあっていくって言うことは、簡単なようで実際は難しいことなのかもしれません。みんなどうしているのでしょうね?

 

 


 

愛し方

  投稿者:a-fen  投稿日:2010年10月 6日(水)22時58分5秒

返信・引用

 

 

お疲れ様です。
この会を愛する仲間がいっぱいいると思います。
家族、妻、子ども、友人等を愛し方はそれぞれが違います。例えばペットを飼って大事の宝ように扱い、最後は自分の都合で野犬のようにほったらかしてる方もいます。愛し方は大事ですが、責任も大事です。
長年を武術に対する愛は深くて責任感を感じているようですね、その熱い心は人に伝えていくと思います。
愛し方は人によって違いますが、夫婦、恋人等の愛のアピール方法と熱い愛を保っていく工夫も必要がなと思います。すみません、愛し方の喩えは武術とは全然違うかもしれない、武術を愛する仲間と共に中国伝統術研究会をより良い成長が出来ると思います。
頑張ってください。

http://隊

 

 


没頭する

    投稿日:2010年10月 5日(火)23時05分43秒

返信・引用

 

 

 会の運営って難しいです。この中国伝統武術研究会でいい物を提供していきたいというのが、私の信念のような物でした。できるだけオリジナルに近い物。ですから、王一門の招聘を継続してきたし、拳譜など原典から学んでいくということを主眼においてきた。これらのことは今後もそれを続けていきたいと思っています。
 私は、ダメな人間だなあと思うのは、会の集まりが悪かったり、赤字が出てきたりすると
ついつい、「どうしてこんなに良い物を提供しているのに、うまくいかないのだろう」とひとのせいにして、なんかストレスがたまってきてしまう。この数ヶ月は、この会を続けていくことができるのだろうか?と悩んでいたのが実際です。
 やっぱり、練習することはいいです。練習に没頭しているうちに、悩んでいることが小さく見えてくる。まず何より自分自身が小さくまだまだ練習しなければならないと感じる。会を始めた原点は、会の運営をうまくやろうとか大きくしていこうということではなかった。仲間が欲しかった。自分を磨いてくれる仲間、自分をうまくしてくれる仲間、それが私にとっての会だった。仕事が忙しく、大変なことや悩むことがあっても、会は
必ず一緒にいてくれたし、指導という役割上、休むわけにはいかなかったし、その中で楽しみ、没頭し、指導し、学び、技もいっぱいかけ、かけられた。言葉を超えた物を学び、知らないうちに身につけることもできた。自分をもっとも伸ばしてくれたのはこの会を訪れ、長く私とともに練拳してくれた人達だった。
 「良い物を提供する」という私の信念は、やはりそれだけでは足りなかったのだろうなと思います。良い物があっても、その人の血や肉になっていかなければ、その人にとってはタダの飾り物にしかすぎない。空気や食べ物のように体あの中に吸収され循環しなければ、その人にとって有益な物にはならない。
 武術が仕事や生活のあいまにたしなむ程度にやるものなら、それは贅沢品にしかすぎない。武術を学ぶこと通して、武術を学ぶ人自身の何かが変わっていき、血や肉になり、その人の人生になくてはならない物になっていくような深い関わりや指導ができていたのだろうかと反省させられる。

 

 

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感覚する身体

2013-04-23 22:21:54 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

感覚する身体

    投稿日:2010年10月10日(日)15時17分52秒

返信・引用

 

 

先日は、5本指シューズのことを書き込みましたが、このシューズだと地面をつかむ感覚だとか、安定を測る感覚だとかが得やすい感じがします。ジョギングシューズとしてもはやっているようですが、私としては、ジョギングなどではあまりおすすめしない。跳躍系の足に衝撃が強い物や長時間走るといったことは、靴底が薄い物は、体によくない。本当に軽いジョギングには適しているだろうが、だいぶ走ると、足の裏や膝などに負担がきはじめるだろう。カンフーの練習でも同じで、跳躍系や激しい動きのものには向いていない、むしろ内功を練っていくような物にはいい。
 こういうグッズは、感覚を練るとか、感覚するとか言ったときには、効果的です。
感覚しているのは、やはりその本人ですから、感覚する意識がなければ、はいていてもほとんど意味がなくなってしまう。
 カンフーもだいぶ上級者になって技撃などするようになると、この感覚練習がなければ、それ以上うまくなっていくことはない。
 いろいろな知識を得るというのは、初めのうちは重要ですね。知識というのは部分ですから、それをつないでいかなければならない。つないでいくのは、自分自身の練拳の中でつないでいくしかない。「天、地、人」という三才をつないでいく。人とは自分自身であるし、自分以外のひとでもある。自分自身の場合は、自分自身の体をつなぐ。自分自身の体をつなぐという意味では、中国武術が型練習を発見したのは大きな意義がある。逆に言うと型練習は、自分自身の身体をつなぐための練習だと言っても過言ではないと私は思っている。その自分自身をつないでいるのは、その人がもつ心意であり、意念である。心身一如というように、心だけでつながっている、流通していると思っても、つながらない。心意と体がつながって初めてつながり始める。そのつなぐ練習の中にしか、つながりは生まれてこない。
それがあれば、その延長として「天地とつながる」こともできる。5本指シューズの話なども
そのきっかけとして何かグッズを用いるというのも良いこともある。
 うちの会の人達も、もう十年選手も何人もいますから、その人たちは、自分自身をつなぐ天地とつながるといったことを一生懸命練習していますし、知識としては、私や王老師にも
包み隠さず多くのことを教わっているわけですから、十分だと思うのです。指導されたことされていることに留意しながら、自分自身でつかんでいくしかない。それが知識を超えた悟りということだと思います。悟りというと大げさな感じを受けるかもしれませんが、知識が受け身なのに対して、悟りというのは、自分の中でつかむしかない主体的な物です。
 自分でよく感じる練習をしていると、これだな感じるときがある。それだと思います。
また、一人の練習だけでは得られない物もあります。
 武術の中で悟るというのは、抽象論ではなく、具体的に、強大な勁力がでるとか、相手の勁力を受け流し、技撃する。技をかける。といったことができなければならない。
 感覚する身体といっても感覚的といった抽象ではなく、相手の力や大きさ、方向といった物を感じなければならないいし、その対応として自らの身体がそれに応じた動きをしていくといった具体的な物だ。
 「天地人」の人とは、自分自身であると同時に他の人でもある。他の人と交流しながら自分自身を磨かなければならない。自分自身の練拳については、本会の人達はある一定のレベルまで達している人も多い。しかし、対練や用法といった具体的な練習の中から感覚する身体を作っていけているかというと自分自身も含めまだまだだと感じる。

 

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