2023年の記録
大連の人民歴史建築街である旧ロシア人街と東関街(旧中国人街)を散策した時の記録。
ロシア風情街のメインストリート(団結街)のとば口にある錦江之星(中国のビジネスホテルチェーン)が、歴史的建築物か、否かは、定かではないが、大連芸術展覧館に負けない雰囲気がある。
大連はコンパクトにまとまった都市で、旅順口区、金州区、開発区といった郊外を除くと中心部からはクルマで30分以内である。日航飯店から旧ロシア人街までは、徒歩で10分。東関街までは徒歩35分。
遼東半島南端の旅順(軍港)と大連(商業港)を租借した帝政ロシアが、日本軍のダーリニー(大連)占領までの僅かな期間で完成した行政市街が、旧ロシア人街である。日本統治時代は、南満州鉄道関係の施設、社宅として利用されていた。
大連芸術展覧館は、ロシア風情街入口に建つ象徴的な歴史的建築物で、旧東清汽船鉄道会社事務所である。
東清鉄道南満洲支線(ハルビン~大連、旅順)は、帝政ロシアの満州支配とシベリア内陸部と不凍港旅順港、大連港接続を目的に敷設された。日露戦争後は、南満州鉄道(満鉄)として、日本に引き継がれた。
ロシア風情街のメインストリート沿いには、小洒落たロシア風の建造物がならび、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。
メインストリート突きあたりにある広場に面して建てられた旧大連自然博物館は、改装中のため、壁に覆われ、外観さえ見ることができなかった。
団結路と烟台街の間には、旧満鉄(旧東清鉄道)職員宿舎をリノベーション(2011年着工、2013年ホテル開業)した「鉄道1896花園酒店」(別荘ホテル)がある。築100年を超える建物に見えないほど綺麗にリノベーションされ、さながらロシア風テーマパークである。職員宿舎ではあるが、建物すべてが違う形をしていて見ていて飽きない。とは言っても、以前のスラム時代を知っている者としては、ちょっと寂しい。
「タイムスリップする」 と言っても約15年前の2008年と2009年へ。
旧ロシア人街のメイン道路を散策していた僕は、いつもの好奇心からゲートを抜けて、細い路地に入っていった。華やかな表通りとは、まったく異なる世界が拡がっていた。生ごみの腐敗した悪臭のするいわゆるスラムだ。廃品回収を生業としている民工(出稼ぎ労働者)が住んでいた。いつものように子供たちのスナップを撮影し、半年後に写真を持って行ったときには、彼らはいなかったのだ。
今はスラムでも、中国国有鉄道の職員宿舎の表示が残り、歴史的な建造物であることは、すぐにわかった。
そして、2010年の暮れ、住民の立ち退きが完了した頃
いつものように旧ロシア人街のスラムを訪問すると、住民の立ち退きが終わり、解体を待つばかりといった光景が目に飛び込んできた。唖然とするしかなかった。中国の駅の近くにあるスラムは、次々と解体され、高層ビルが建設され、浄化されていくことがお決まりだ。むしろ大連は、遅い方だろう。
(その後、僕が旧ロシア人街のスラムに通っていることを知っている友人が、「解体ではなく、お洒落にリノベーションされるらしいよ。」と教えてくれた。
建物の周囲を囲んでいた塀が取り壊されたことで、建築物が丸見えになっていた。そんな早朝のスラムのあちこちで、黙々とスケッチをする若者がいた。
僕が 「君、大学生?」 と声を掛けると、「はい」 と答えが返ってきた。
「君の専攻は建築科?」 と続けると、「?」 といった表情をされた。
僕は慌てて、「美術かい?」 と言い換えると、
「そうです」 と爽やかな答えが再び返ってきた。
どの学生も、皆、穏やかで、物静かだった。それでいて溌剌とした、爽やかさがあった。
僕は消えてゆく建築物が、彼らの絵画の中で、いつまでも輝き続けるのなら、それもまた素晴しいことだと思えた。そして、僕は、静かにシャッターを切った。
メインストリートの北側にも旧満鉄職員宿舎がある。「まだ、残っているかなぁ」とあまり期待せずに向かった。幸いかつてとほぼ変わることなく残っていたが、住民の立ち退きは、進んでいるようだった。2階建ての集合住宅の造りから推測すると、戦後の新中国になってからの建築かもしれない。
銘板が示すように、中東鉄路(東清鉄道の中国名)の上級幹部住宅として、ロシア風ネオクラシック様式で1902年建築。その後は、他の東清鉄道職員住宅と同様、満鉄職員住宅として使用された。現在も民間住宅として使用されているようだが、近いうちに住人退去、リニューアルとなるかもしれない。(以前は、廃品回収業の老板=ボスのベンツが無造作に駐車していた。)
旧ロシア人街をあとにして、鉄道の在来線を跨ぐ勝利橋を渡る。跨線橋からは、大連客車整備庫を眺められる。中国の鉄道は、基本的に超長編成だ。
東関街は、かつては小崗子と呼ばれ、大きな市場や繁華な商店街があり、中国人(漢族、満族)を中心とした街で、最盛期は12万の人口を抱えていたという。建物は2、3階建ての洋風や折衷様式のものが多い。
東関街は、常宿にしていた民航大廈の近くにあったので、しばしば散策していた。旧ロシア人街とは、ちょっと異なる趣きだったが、民工の人たちが住み、スラム化したところは、旧ロシア人街と同じだ。
その東関街の再開発が始まったと聞き、どんなことになっているのかを見に行った。(2017年期限の住民立ち退きは、決まっていたらしい。)
旧ロシア人街のときと同じく、安全鋼板で囲われ、修復作業が進められていた。良くも悪くも、僕の記憶にある歴史と現代の貧困が混在した猥雑さは、浄化されてしまうのだろうな。
再び約15年前にタイムスリップ
2009年、多分、初めて東関街を散策した頃の記録
2010年の記録
現在の大連の路面電車(大連公交客運集団)は、1909年(明治42年)に南満州鉄道電気作業所の運営で軌道事業を開始している。さすがに開業当初の車両は使っていないが、戦前の1937年(昭和12年)導入の日本車輌製造製の車両が、車齢86年の今も現役で活躍している。
【メモ】
大連の友人(漢族)と食事をしていた時、「もう少し日本が、(日中戦争で)踏ん張ってくれていたらなぁ」 と妙なことを言った。
友人曰く、「旧満州から日本が撤退していなければ、中国東北3省(旧満州の大半)は、日本の一部になっていただろう。日本の人口は、約1億人。東北3省の人口も約1億人。日本は、民主主義だから中国人の立場は守られるだろう。中国の改革開放まで、東北3省は、工業の先進地域だった。それは、日本が残していった工業施設や技術の蓄積があったからだ。しかし、その貯えが尽きると、中国の成長から取り残されてしまった。もし、東北3省が日本の一部になっていたら我々は、もっと自由に、そして豊かになっていただろう。」
友人の話を聞いた時、高校時代の教師の言葉を思い出した。「戦後、アメリカの占領のまま、日本が、アメリカ51番目の州になっていたら・・・・・・。」 当時のアメリカの人口は、約2億4千万人、日本は、ほぼ半分の約1億2千万人。日本がアメリカに併合されていれば、アメリカの人口の1/3を占め、日本人が世界を動かしていたかもしれない。
現代の国際関係を見ていると、「最後は、国土と人口の絶対値の大きさなのかな」 と考えてしまう。
歴史に“If”はないけどね。
旅は続く
お邪魔します。
日本がアメリカ51番目の州になり、
日本人の肌が白かったら世界の中心になっていたかも。
旧満洲が日本であり続けたとしたら。
束の間、そんな歴史のIfを妄想しました。
それにしても、大連に直接足を運び記録してきたからこそ書ける記事に圧倒されます。
滲むロシアの息吹き。
日本統治の影。
スラムだった過去。
お色直しした現在。
これぞ「もののあはれ」です。
多分僕は、今投稿は何度も見返してしまうことでしょう。
では、また。
早々のコメ、ありがとうございます。
今回の写真は、視覚的な綺麗さがないので、万人向けでないことは承知でアップしました。りくすけさんのように価値を認めてくださる方がいることを幸甚と思います。
2008年頃以降のことは、Mixi日記に書いていました。
良かったら、以下のURLからおはいりいただければ、と思います。
では、また。
[mixi] ダスビダーニャ・ロシアの風 前編
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1640560555&owner_id=12377165&org_id=1641674203
「大連・・・」のタイトルに懐かしくてお邪魔しました。
2000年から4年間夫が大連に単身赴任していましたので、時々遊びに出かけては街を楽しんでいました。その時のロシア街、それもメイン道路を外れた裏道のロシア街をスケッチブックを抱えて歩いた想い出が、絵はちっとも描けませんでしたが皆さんとても親切でした。もう残ってはいないだろうと思っていた風景を見せていただけて感激です!
どこで言いがかりつけられて、スパイ扱いさせないとも限りませんからね。
if どうなんでしょうねぇ~ 考えてしまいますが
言われる通り if は、無いから 今が有る。
妄想 夢 思いは、駆け巡りますね。
弊ブログへお出でいただき、またコメントありがとうございます。
僕が大連へ初めて行ったのは、2006年頃なので、hirotosaiseikaiさんとはすれ違いですね。
旧ロシア人街の裏には、人を惹きつける何かがあるんですね。ただ、僕が通うようになった頃は、完全なスラム、外国人の女性には、敷居が高かったように記憶しています。
弊ブログでは、不定期的に2000年から北京オリンピック前の頃までの写真を「人民中国の残像」としてアップしていますので、お手すきのときにご覧頂ければ、幸甚です。
今後とも、宜しくお願い致します。
ご心配、ありがとうございます。
確かに鉄道施設など、ヤバイですね。
本来は、撮影禁止ですからね。
Ifは、とこまで行ってもIfですからね、現実を直視しないとね。
では、また。