Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第24回

2023-02-26 17:45:21 | 旅行

2023年の記録

コロナ禍もフェードアウトしていくのだろうか。1月末から2月に東京都23区内をゲリラ的に散策したときの記録。

 

 

東京第一陸軍造兵廠本部の白壁は、冬の抜けるような青空に映える。

 

 

東京23区内には、バスを使うと意外に便利だ。クルマで使うと、獣道のようなとんでもないルートに誘導するグーグルマップだが、公共交通機関モードにすると、バスを有効に使うルートを教えてくれる。

 

 

1月下旬の某日、早朝にワラビスタンを出発、赤羽、池袋と乗り継ぎ、散策をスタート。

 

 

東京メトロ地下鉄赤塚駅から徒歩10分ほどのところにあるカトリック北町教会の聖アンドレ教会堂は、1959年 (昭和34年)献堂の比較的新しい教会である。歴史的建造物ではないが、僕には、あまり関係ない。信仰の魂が存在し、美しければ、それで良いと思っている。

 

 

カトリック北町教会で、ミサに来た信者さんとお話をすると赤羽教会にしばしば行くとのこと。あらためて調べると、本数は少ないが、近隣のバス停から赤羽駅に行くバス路線があった。

次の目的地のカトリック下井草教会への最短ルートは、一度、池袋に戻り、山手線で高田馬場に行き、そこから西武新宿線を使うルートだ。完全なV字ルートは、さすがに興ざめなので、20分ほど歩き、地下鉄で1駅戻る平和台駅近くのバス停からバスを乗り継ぎ、カトリック下井草教会を目指す。バス旅の難点は、バス停が見つかりにくいことで、この時も途中迷い、予定のバスに乗れなかった。

 

 

カトリック下井草教会は、1956年(昭和31年)、初代主任司祭マンテガッツア神父の母国イタリアの寄付とサレジオ会により献堂された。高い鐘楼や3つの十字架が、紺碧の空に際立つ。

 

 

カトリック下井草教会から10分ほど歩き、西武新宿線に下井草から沼袋まで乗車。再びカトリック徳田教会を目指して15分ほど歩く。

 

 

カトリック徳田教会に向かう途中、偶然に目に飛び込んできたのが、日本基督教団浄風教会である。白壁が美しく、パチリと撮影させてもらった。浄風園病院(現・中野江古田病院)内の伝道所が起源の教会で、90年近い歴史のある教会である。

 

 

カトリック徳田教会の現在の聖堂は、1953年(昭和28年)に献堂。

パリ外国宣教会から日本に派遣されたヨゼフ・フロジャク神父が、1909年(明治42年)に東京市結核療養所の退院を強いられて行き場のない患者のために一軒の家を借り慈生会としたことがはじまりで、徳田教会の起源となっている。

 

 

カトリック徳田教会から中野区立江古田の森公園を抜け、都営地下鉄大江戸線新江古田駅まで歩く。天気も良く、汗ばむほど。新江古田駅からは、一気に六本木駅まで大江戸線で南下して、カトリック麻布教会に向かった。

 

 

カトリック麻布教会は、1945年(昭和20年)東京大空襲により聖堂が全焼し、現在の聖堂は、1952年(昭和27年)の献堂となっている。

ちょうどミサの型付けが終わったところで、信者さんが礼拝堂に招き入れてくれ、堂内を撮影させていただいた。

 

 

バスで新宿まで戻り、新大久保のイスラム横丁で、遅い昼食を摂り帰宅。

 

 

1月下旬の某日、天気も良く、提示で仕事を終え、京浜東北線を逆走して、新橋駅近くのカレッタ汐留に寄り道して帰った。

 

 

新橋と言うと、サラリーマンの聖地みたいな印象だが、以前紹介した「汐留シオサイト5区イタリア街」をはじめ、今回のカレッタ汐留の夜景のような美しい都市景観を眺めることができる。

 

 

2月中旬の某日、荒川対岸の北区を王子駅から東十条、赤羽と散策した。

 

 

王子駅から10分ほど歩いたところにある旧醸造試験所第一工場は、通称「赤煉瓦酒造工場」といい、ドイツのビール工場を手本に設計されている。国の重要文化財に指定されているものの個人には一般公開されていない。団体(10名以上25名以内)にのみ、予約制で公開している。電話予約不可が、如何にもお役所仕事。

 

 

旧醸造試験所第一工場から10分ほど歩いたところにあるのが、東京第一陸軍造兵廠本部(現・北区立中央公園文化センター)である。1930年(昭和5年)の竣工後、1945年(昭和20年) の空襲で一部焼失、終戦とともにアメリカ軍に接収された。その後、1971年(昭和46年)の全面返還まで、アメリカ軍極東地図局、ベトナム戦争当時は野戦病院としても使用された。

建設同時の外壁は、茶色のスクラッチタイルというモダンなものだったが、アメリカ軍が接収して以降は白く塗られている。

 

 

旧東京砲兵工廠銃砲製造所は、1919(大正8)年に建造され、現在は、北区立中央図書館として活用されている。

 

 

旧東京砲兵工廠銃砲製造所から東十条駅まで歩き、京浜東北線で1駅の赤羽まで行く。目的は、カトリック赤羽教会の個人礼拝と買い物。

 

 

カトリック赤羽教会は、何度も紹介している地元の教会。現聖堂は、1947年(昭和22年)アメリカからの寄付金で敷地を含め購入、献堂されている、と簡単に記しておく。

 

 

【メモ】

2023年2月24日で、ロシアのウクライナ侵攻から1年が経過した。コロナ禍も想定外だったが、ロシアのウクライナ侵攻(以下、ウクライナ戦争)も多くの人にとって想定外だったと思う。コロナ禍が、人災なのか、自然災害なのかは、不明のままだが、ウクライナ戦争が、プーチンという狂信的な愛国主義者によって敢行されたことは、誰の目にも明らかだ。

 

プーチンにとって、「ウクライナは、ロシア固有の属国」である。この信念が、厄介なのだ。戦争の起点が、国家、個人の損得勘定にあるならば、ロジカルで理性的な対話による解決の糸口があるが、歪んだ愛国主義起点の戦争を平和的に解決することなどできないだろう。

 

しかし、我々日本人も、彼の愛国主義を完全に否定することはできない。なぜならば、理不尽な経緯であるものの、すでにロシア人が何世代にも亘り生活している北海道の東にある島々を「北方領土」と呼び、「日本固有の領土」と主張しているからだ。ただし、我々日本人とプーチン・ロシアとの決定的な違いは、軍事力も資源も持たないこと、そして、狂信的な指導者が、存在しないことだ。

 

ウクライナ戦争をプーチン自身が終わらせることはできないが、武力による現状変更の「やり得」を認められない西側も停戦のために妥協することはできない。

 

戦争を続ければ、西側もロシアも死傷者は増え続ける。そして、西側の支援疲れが進めば、結束が崩れる。アメリカも資金負担にも限度が来る。かつて、アメリカは、極東の小国との戦争を終結させる大義から原子爆弾を投下した。同じ決断を再びアメリカがすることはないだろうが、悪の枢軸を短期間の猛攻で消し去る選択をせざるを得ないのではないだろうか?

 

一介のバイヤーである僕が想像できることは、ロシアが敗北すれば、多額の戦時賠償金を負担するために石油、天然ガス、金、プラチナ・・・・・のバーゲンセールが始まり、世界の物価が急降下することぐらいだ。

 

 

旅は続く


東トルキスタンの青い空/ クチャ 第2回

2023-02-20 00:12:13 | 旅行

2015年の記録

東トルキスタン最後の訪問からまる3年、正直、行きたくて、行きたくてしょうがないのだが、まだ、ちょっと行けそうにないので、8年前の写真で想いを馳せることにした、第6回。

 

 

おばあちゃん、お母さんに子供たち・・・・。1人にカメラを向けると、みんなが集まって来て、集合写真になっちゃう。

 

 

クチャの休日を満喫したあとは、夜行列車でウルムチまで行き、ウルムチから飛行機で上海へ。

 

 

クチャ火車站から庫車飯店を案内してくれたタクシードライバーのRさんにホテルに来てもらった。「どこかお薦めのところに連れて行ってくれないか?」と相談したものの、手持ちの現金を勘案すると100元ほどの予算。彼曰く、「とても郊外の観光地には行けない」 彼はボランティアでもなければ、この時点では、朋友(友達)でもないので、いたって真っ当な返答だ。一旦、市内のモラナ・エシディン・マザールまで送ってもらったあとは、自力で散策。夕方、あらためて庫車飯店からクチャ火車站に送ってもらうことにした。

 

 

モラナ・エシディン・マザールは、14世紀にクチャにイスラム教の伝導のために来たエシディンの眠る墓である。それなりの偉人であるが、墓地は日干し煉瓦と土壁の質素なものだった。

 

 

モラナ・エシディン・マザール脇にカレーズ(地下用水路)が地表に出た流れがあり、それに沿った小道を進む。閑静な住宅がならび(自家用車が停まっていたので富裕層) 大きな通りに出たところにナン・ミュージアムなる不思議な博物館があった。幾らか忘れたが、結構な入館料だったのでパスした。

 

 

依西哈拉鎮の商店で、おじさん、おばさんたちが、のんびりと過ごしていた。1人の子供にカメラを向けると、「おれも、おれも」と次々に集まることはあるが、依西哈拉鎮の商店では、おじさん、おばさんたちが、集まってきて、集合写真撮影会。

 

 

歩いてきた水路脇の小道を戻り、天山中路からバスに乗る。クチャ王府前を通り、終点のバスの車庫まで行く。天山西路を渡り、北側にある小さな集落に分け入ってみた。

 

 

社区の中で、ナン屋があり、オヤジと奥さんと手伝い女性の3人で黙々とナン焼いていた。女性2人が、成形してオヤジが窯の中に出し入れしている。ナンは、驚くほど、すぐに焼きあがる。写真を撮らせてもらうと、「ナンを持って行け」と言ってくれたが、とてもキャリーバックに入る大きさでも、食べきれる量でもないので、丁重にお断りした。(数年後、この時に撮らせて貰った写真をプリントアウトして持参する。驚き、歓んだオヤジは、即座に奥さん手作りのラグメンをご馳走してくれた。)

 

 

小さな社区であるが、モスクが2つある。1つ目のモスクの前にいた家族連れの写真を撮らせてもらった。若いお母さんは、横を向いてしまったが、チラッこちらを見た時にパチリ。ちょっとはにかんで、了解してくれた。

 

 

小売部(万屋)前にいたおじいちゃん、おばあちゃんにおばちゃんをスナップ。その近くには、2つ目のモスクがあった。

 

 

社区から天山西路を突っ切り、クチャ大寺の前を通ってクチャ河まで歩き、団結新橋の家畜市場に行く。

 

 

クチャ河は、カラカラに干上がっていた。団結新橋付近では、今日も羊の取引をやっていた。

 

 

団結新橋からバスで、市街地中心地まで戻り、夕食を摂り、庫車飯店に帰る。ロビーで時間を潰していると、約束の時間ピタリで、タクシードライバーのRさんが迎えに来てくれた。彼のタクシーで、庫車火車站まで送ってもらった。彼は、二度と会うこともないと思っていただろうが、次にクチャに来た時には、彼のクルマをチャーターして、郊外観光に行くことになる。ナン屋のオヤジ同様、驚き、歓んでくれることになる。

 

 

翌朝、ウルムチが近づくと、土漠の風力発電の風車が目立つようになる。列車は2時間ほど遅れたが、フライト時間まで余裕があったので、慌てることはなかった。ただし、ウルムチ南站前のタクシーの対応は最悪だった。怒ったところで、どうにもならないので、ムッとするも、我慢、我慢。ウルムチ空港からは、予定通りで、格安チケットなのにビジネスクラスで寛ぎ、上海虹橋空港へ。

 

 

旅は続く


東トルキスタンの青い空/ クチャ

2023-02-10 18:49:31 | 旅行

2015年の記録

東トルキスタン最後の訪問からまる3年、正直、行きたくて、行きたくてしょうがないのだが、まだ、ちょっと行けそうにないので、8年前の写真で想いを馳せることにした、第5回。

 

 

真っ直ぐな少年の眼差し、その先に彼は何を見るのだろうか?

 

 

新彊ウイグル自治区は、中国の西方にある。その西端の街・カシュガルから東に一晩・700キロ走ったところにクチャ市がある。

 

 

クチャに早朝到着、といっても、実質的には深夜。下車した乗客、出迎え、ホテルの客引き兼乗合タクシーのドライバーが、真っ暗な駅前でワサワサしている。深夜の駅前にいる客引きが、善良とは思えないが、僕に選択肢はない。最初に声を掛けてきた客引きに「カードで泊れる外賓ホテル※1ある?」と訊ねると、「ある、ある、でも、連れて行くのは、最後だよ。」と返ってきたので、僕はタクシーに乗り込んだ。2軒ほどの旅社(安宿)で客を降ろしたあとに、彼は僕を庫車飯店の別館に連れて行ってくれた。1時間ほどロビーで待てば、今晩からの宿泊費でチェックインできるようフロントと話をつけてくれた。客引きに宿泊費の交渉もさせるのは、僕の常套手段だ。僕の要望をちゃんと聞いてくれ、親身に対応してくれた。彼に礼を言い、名前と携帯電話の番号を聞いた。

※1:外賓:中国のホテルは、公安に外国人宿泊者の登記が必要。外賓登録したホテルでないと外国人登記ができないため、外国人の宿泊できるホテルは限られる。高級ホテルOK、安宿NGとは限らない。ドミトリーの安宿でも、外国人バックバッカー御用達のホテルは、外賓登録している。

 

 

クチャ市は、新彊ウイグル自治区アクス地区に属する県級市(日本の郡部に相当する)。天山山脈南麓、タリム盆地北縁、新疆ウイグル自治区中部に位置する。温帯大陸性気候に属し、年平均気温は11.4℃、年平均降水量は64.5mm、無霜期間は266日、全国で年平均晴天日数の最多都市である。石油や天然ガスが豊富な西部大開発の基地がある。郊外には、遺跡、奇景の観光地もあることから街の規模に対して、宿泊施設は比較的多い。

 

 

チェックインして、しばらく休んだあと、バスに乗って市街地の観光名所のクチャ王府※2に行き、その周囲の住宅街を散策す。カシュガルと違って、質素な土壁、日干しレンガの住宅が目立つ。

※2:クチャ王府は、1759年に清時代の乾隆皇帝が地元のウイグル族責任者を激励するため、漢族の工事人たちを派遣して作らせた王府。

 

 

クチャ王府から東に緑豊かな綺麗な商店街が延びる。カシュガルとは異なるカラフルな木製の扉が美しい。クチャのナンは、抱えきれないほど大きい。

 

 

クチャ王府門前商店街からクチャ大寺に行く途中にあったモスク。周辺住民の祈りの場だろう。

 

 

クチャ大寺の日本語訳では、“寺”と表記するがイスラム教モスクである。入口に高さ20メートルの2本のミナレットがある。イスラム教がクチャに伝播した後、約15世紀頃に創建された。最初は日干しレンガ造で、17世紀に木造に改修された。1923年火事で焼失、現存のモスクは、1931年建造、1980年代に修繕されている。

モスクの周囲は、近隣の子供が遊ぶ以外、人混みがある訳でもなく、静かに青空が広がっている。

 

 

クチャ大寺から再びクチャ王府門前商店街に戻り、東に進んだところにある団結新橋下の河川敷が家畜市場になっている。売買されているのは、ほとんど羊と山羊だ。東トルキスタンで、食べられている肉は、羊肉と鶏肉。もちろん豚肉が食べられることはないが、牛肉も珍しい。なお、中国では、羊と山羊を厳密に区分していない。よって千支の羊のキャラクターに明らかに山羊の絵が描かれていることがある。

 

 

街道のポプラ並木、日陰で寛ぐ人々、ゆったりとした時間が流れる。まさに僕のイメージしたシルクロード・西域の世界だ。

 

 

家畜は3輪オートバイで運ばれることが多いが、野菜の運搬と販売は、専らロバが使われる。

 

 

ナンを売る店は、街中にある。ナンは、日常食だが、自宅で焼くことはなく、買うもののようだ。

 

 

乾燥させるためにバラまかれたトウモロコシ、中国乾燥地域の田舎では、しばしば見る壮観な光景だ。

 

 

クチャの街の商店、住宅の軒先には、五星紅旗がたなびく。中国国内、いろいろな街を散策したが、最も五星紅旗を目にしたのは、東トルキスタンの街だ。それが何を意味するかは、書くまでもないことだ。

 

 

【メモ】

「物価が高騰しても給料があがらない」と日本中が嘆いている。批判覚悟で書くと、段々と生活が貧しくなるのは、日本経済が弱体化しているので、どうしようもないことだ。我々日本は、ある時期まで、人口増加と勤勉性に支えられ、右肩上がりの経済下にあった。国民みんなが、昇りエスカレータに乗っているようなもので、特別なことをしなくても、ふつうに働けば、生活は豊かになった。

 

僕が子供のころは、家族が寄り添う居間だけが、冬にはストーブがあり、夏には扇風機があった。自室があっても、暖房はなく、夜に布団に潜り込み寝るだけ、夏は汗を垂らしながら机に向かった。今の日本の家庭は、各自の部屋にエアコンが設置され、どの部屋も冬は暖かく、夏は涼しい。プライバシーの守られる豊かな生活が、あたりまえになった反面、エネルギーの消費量は増えた。

 

今の日本は、人口が減る経済衰退期にある。特別なことをしなければ、自然に貧しくなっていくのである。経済的な理由からエネルギー消費を抑制し、夕飯のおかずを一品減らし・・・・・は、必然なのだ。

 

アメリカは移民を受け入れ続けることで、人口が増え続けている。多くの日本人が憧れる北欧や豪州、ニュージーランドは、極端に少ない人口に対し、豊富な天然資源を有している。日本のように資源に恵まれず、人口も減少しているドイツは、EUの先鋒に立ち、カーボンニュートラル、EV化、SDGsといった自国に有利な枠組み作りに奔走している。日本が技術的に突出していたハイブリット車は、日本の独り勝ちを恐れた欧州や中国に寄ってたかって潰された。日本と言えば、愚直に乾いた雑巾を絞るばかりなのだ。

 

今の物価高騰の原因は、海外由来の資源(農水産物、金属、エネルギー)価格が高騰しているからだ。なぜ、高騰しているかと言えば、需要が増えたのではなく、供給が縮小したからだ。景気が良く、需要が増えるのと違い、供給の縮小による価格高騰は、景気を悪化させ、生活を苦しくするばかりなのだ。

 

 

旅は続く