Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野探訪記 第6回

2022-04-29 13:45:51 | 旅行

2022年の記録

 

 

まもなく4月も終わる、3月の記録を早々に整理しなくてはならないな。3月下旬に帰宅したときの散策記録。

 

 

下野市から小山市、野木町を越えて南下すると早朝に散策した古河市がある。また、下野市の西隣に夜に散策した壬生町がある。

 

 

今年もコロナ禍のため古河桃まつりは中止になったが、公園は開放されていて、桃の花は満開。戦禍のなかでも、震災の時も、自然は微動だせずに営みを繰り返す。変わるのは、花を見る人の心だけなのかもしれない。桃のピンクと足元の菜の花のイエロー、美しいコントラストだ。

 

 

行きつけの和食店で夕食をした後に桜を見に壬生東雲公園に行った。朝、桃の花を見て、夜に桜の花、と言っても、開花は、もうしばらく先のこと、といったところだった。

 

 

【メモ】

ロシアの軍事侵攻の終わりが、まったく見えない。ウクライナに加えて、モルドバ侵攻も浮上してきた。プーチンは、何を、どうしたいのか?

 

そもそもの話として、プーチンは、なぜ、西側世界を敵に廻して軍事侵攻を続けるのだろうか?

ロシア国内の政治、経済は、安定していて、プーチン政権は盤石だった。資源価格高騰の時流に乗ったロシアは豊かになり、多くの国民はプーチンに感謝していた。ナワリヌイ氏のような反体制勢力も存在するが、封じ込めに成功している。すでに満たされたプーチンは、何を欲したのか?

 

 

第二次世界大戦以前の侵略国は、自国での満たされない欲求(市場、資源・・・・・)のため、国民の不満の矛先を海外に向けるため、といった理由で、武力を使った。それは、日本も例外ではない。ロシアの軍事侵攻は、それと一線を画す。

 

動機は逆だろう、圧倒的な権力を手に入れたから、より強い権威を手に入れようとしているのではないだろうか? 薬物中毒者が、より強い刺激を求めて強いクスリを求めるように。プーチンの理想は、ソ連邦の復興である。

「えっ、復興?」

中国の習近平の掲げる「中華民族の偉大な復興」、同根じゃないのか?

中華国恥地図をご存知だろうか? 

よく確認してみて欲しい、台湾はもちろん沖縄・奄美も朝鮮半島も赤い枠の内側だ。幸いと表現すべきではないかもしれないが、日本列島は枠の外である。

 

プーチン氏を筆頭とした独裁者の頭の中身は、我々には想像できないものなのかもしれない。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第17回

2022-04-24 14:21:33 | 旅行

2022年の記録

 

 

3月中旬、父母の墓参りを口実に東京都多摩地区を散策した時の記録。

 

 

蕨(JR京浜東北線)⇒赤羽(JR埼京線)⇒新宿(京王電鉄)⇒京王片倉(徒歩)⇒八王子(JR八高線)⇒拝島(JR五日市線)⇒武蔵増戸(JR五日市線)⇒拝島(西武鉄道)⇒高田馬場(徒歩)⇒学習院下(都営荒川線)⇒王子(JR京浜東北線)⇒蕨 と、周遊した。

 

 

2週間ほど前の甲府行きに使ったバスタのある新宿。街路の桜も満開。オレンジ色の新興政党の演説会の傍らで、静かにウクライナを支援する反戦デモをやっていた。戦禍のウクライナの空と目の前の青空は、繋がっている。そもそもロシアは、日本の隣国。ウクライナ侵攻が、隣国の凶行であることを忘れてはならない。

 

 

京王北野で高尾山口行きの電車に乗り換え、京王片倉駅で下車し、いつも渋滞している国道16号線をしばらく歩き、日本基督教団八王子栄光教会に向かう。八王子栄光教会は、歴史的な建造物ではないが、教会のすぐ手前に集合住宅の廃虚があった。バリケートで囲まれ内部を見ることはできないが、“昭和” に想いを馳せるには充分すぎる建築物である。

 

 

八王子栄光教会からJR八王子駅を抜けて向かったのが、日本聖公会八王子復活教会である。八王子復活教会も歴史的な建築物ではない。僕が教会やモスクで感じるサラーム(平安)は、建築物の歴史的な重みではなく、そこに集う信者さんの信仰心に由来するのかな、と思っている。

 

 

八王子復活教会から西に10分ほど歩いたところにカトリック八王子教会がある。八王子の大火(1897年=明治30年)、第2次世界大戦の空襲と2度に亘り焼失し、現在の聖堂は、1950年(昭和25年)に献堂されている。雲一つない青空に白壁の聖堂が映える。聖堂の裏に雰囲気の良いルルドがある。僕はカソリック教徒であるのにルルドは偶像崇拝のようで好きになれない。(ルルドに対して、カソリックは肯定しているが、プロテスタントは否定的である。)

 

 

墓地に併設されているカトリックあきるの教会。“東京大好き”の父親は、東京都で教員をしていたが、最後の任地が旧・秋川市であった縁もあってカトリック五日市霊園を選んだようだ。亡くなった両親は、自らの心の中にいると僕は思っているので、墓参りには不熱心なのだが、稀に「墓参りに行くか」といった気持ちになる。

蛇足ながら、父親の本気か、冗談か定かではない生前の希望、「遺灰は、富士山頂上と太平洋のド真ん中に撒いてくれ!」 に従って、ひとにぎりの遺灰を散骨としている。

 

 

霊園からJR武蔵増戸駅へ向かう道すがらの寿司屋で遅い昼食をしたあと、JR五日市線で拝島まで戻り、西武鉄道で一気に高田馬場まで行く。都電荒川線学習院下まで10分ほど歩き、東京さくらトラムで王子駅前へ。京浜東北線に乗り換えて、ぐるりと一周の東京散策を終える。

偶然だが、父親は都電荒川線脇にある高校で、教鞭をとっていることもあった。

 

 

【メモ】

ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続いている。(戦争と表現することに違和感を覚える。) 北方領土のビザなし交流の停止がロシアから通知された。「まぁ、そうだろうな」と思う。北方領土に本籍のある友人と「北方四島の返還、なくなったよね。」といった話をした。冷静に考えなおすと、ロシアでなくても、占領した領土を話し合いで返還するなどあり得ない話だ。占領地域の独立を認めることは多々あるが、元の領有国に返還したのは、沖縄、奄美のアメリカだけだろう。まさに例外中の例外、沖縄はもちろん、本土にも米軍基地が配置される“子分”になっていたからあり得たことだ。日本各地にロシア軍基地が配置され、共産党政権が樹立されない限り、北方領土返還は、あり得ないと思う。

 

日本は、北方領土を “固有の領土”と言ってきたが、今さらながら、“固有の領土”という概念の危険性に気がついた。つまり、いつの時代、誰を基準にするかで、変わってしまうのだ。そんな隙を突くようにロシアは、迫害を受けているアイヌ民族解放のための北海道侵攻を(どこまで本気か疑問だが)ちらつかせた。北海道の先住民族がアイヌ民族であること、依然としてアイヌ民族に対する差別があることも事実なので、ロシアのロジックに嵌ってしまう。

そもそも、ウクライナをロシアは、属国(≒固有の領土)と思っているだろうから“固有の領土”という概念をひっぱりだすのは、現在、とても危険だ。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/山梨

2022-04-14 22:38:05 | 旅行

2022年の記録

 

 

「人民中国の残影」を3本執筆している間に時は流れ4月半ば。2月下旬に甲府市周辺を日帰り散策した時の記録。

 

 

山梨県の人には申し訳ないが、関東甲信越1都9県の中で、影が薄く感じるのは僕だけか。山梨県内富士山、富士五湖周辺には、足繁く通ったが、甲府市周辺に行くのは、初めて。

 

甲府へは、往路午前復路午後のスケジュールならば、新宿駅前のバスタから高速バスを利用するとリーズナブルで便も良い。コロナ感染を心配する人もいるが、密度は鉄道よりはるかに低く、鉄道移動と差異がないのではないかと思う。(あくまで素人肌感覚)

 

 

高速バスが、甲府駅に到着する直前に目に飛び込んできたのが、山梨県議会議事堂である。甲府駅前から富士川町方面へ向かう路線バスの乗り継ぎ待ち時間で訪問することができる。

山梨県庁舎別館 (旧本館) 及び県議会議事堂は、元の甲府城内の同じ県庁敷地内に、ほぼ同一の工法、素材、様式により建てられ、ともに1930年(昭和5年)に竣工し、2009年(平成21年)に山梨県の有形文化財の指定を受けている。

どちらの建物も外壁は腰部に塩山産の花崗岩または擬石塗、その上部には愛知県産のタイルを張り、軒周りには濃緑色の陶瓦の庇が配される鉄筋コンクリート造の地下1階地上3階建て(山梨県庁別館)と地下1階地上2階建て(山梨県議会議事堂)となっている。

 

 

甲府駅前から路線バスで約50分、増穂中学校前で下車してグーグル先生の誘導で歩くこと10分、旧舂米(つきよね)学校 (富士川町民俗資料館)に到着。

 

旧舂米学校校舎は、明治9年(1876年)竣工の木造2階建て、桟瓦葺、正面玄関に車寄せがつき、塔屋に太鼓を備える。明治時代初期の様式手法による学校建築の特色をみせ、藤村式擬洋風建築の外観をよく残している。1975年(昭和50年)県指定文化財。現在、富士川町の民俗資料館として活用されている。

 

訪問した土曜日は、案内員が丁寧に解説してくれる。藤村式建築(ふじむらしきけんちく)とは、山梨県令藤村紫朗(ふじむらしろう)の指導の下で建てられた擬洋風の学校建築のことで、山梨県内に住民の私財が投入され、労力奉仕などにより36校の藤村式建築が建設され、5ヶ所が現存している。その中でも、舂米学校校舎は特別に凝った作りになっている。地元豪農の桁違いの寄付によるものなのだが、その財源がミステリーで、広大な土地を所有しているといっても農民の捻出できる金額ではなく、「徳川埋蔵金か?」なんて話もあるとか。また、舂米学校校舎は、何度も移築を重ねたため、国の重要文化財級の建築物としての価値があるにも関わらず指定されなかったと案内員は悔しそうに語っていた。

 

 

旧舂米学校校舎からは、コミュニティバスでJR鰍沢口駅へ向かう。旧舂米学校校舎の案内員から教わった辺りには、バス停の看板もない。斜前の派出所の警察官に訊ねても「知らない」の返事。コミュニティバスは、ほんとうに来るのか?何しろ、コロナ禍の今、ヒッチハイクもできない・・・・・・。定刻より2、3分遅れで、無事バス到着。乗客は、終点のJR鰍沢口駅まで僕1人。

 

JR鰍沢口駅には、始発の甲府行き身延線がすでに停車していた。こちらも乗客は僕1人。コミュニティバスで使えたSuicaが、身延線では使えず、ヤレヤレ。

 

 

次の目的地の日本基督教団市川教会のあるJR市川大門駅で下車すると特徴的な駅舎である。街全体に古風な瓦屋根の家屋がならぶ。目的の市川教会も例外ではない。

 

日本基督教団市川教会は、明治21年(1881年)建設の桟瓦葺袴越屋根の木造平屋建建築物で、漆喰仕上げとする独特の外観で天然石の高い基礎の上に建っている。平成9年(1997年)に登録有形文化財に登録された。

 

 

市川教会からJR市川本町駅まで特徴的な街なみの市街地を歩き、再びJR身延線に乗り甲府駅の1つ手前の金手駅で下車し、甲府カトリック教会に向かう。

 

 

甲府カトリック教会の聖堂は1925年(大正14年)竣工の木造モルタル平屋建ての空襲を免れた数少ない戦前建築物である。三角のとんがり屋根に十字架、側壁にはアーチ窓と控え壁という教会建築の王道で、側廊がない単廊構造。正面の4本の列柱に合わせて外壁はモルタルで石造り風に仕上げられている。側面出入口上の「天主堂」の表記は、長崎の教会を思いださせてくれる。

 

 

甲府カトリック教会から甲府駅へ向かう途中に甲府城址(舞鶴城址)がある。石垣、堀の一部を除くと復元建築物である。また、中央本線開通と甲府駅開業により城址は分断され、駅の南北に復元建築物がある。

 

 

中央本線北側の線路沿いに甲州夢小路という江戸時代から昭和時代初期までの甲府城下町を再現した観光地がある。歴史的な価値はないが、小粋な雰囲気は悪くない。

 

 

甲府駅北口には、移設された旧睦沢学校校舎(甲府市藤村記念館)がある。先に紹介した旧舂米学校校舎と同様の藤村式擬洋風建築として、1875年(明治8年)に巨摩郡睦沢村(現山梨県甲斐市)に建設された。木造2階建、屋根は宝形造、桟瓦葺き、正面に玄関ポーチとベランダを設け、屋上に塔屋を設けている。

 

 

【メモ】

終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻に何が何だかわからなくなっている。誤解を恐れずに記せば、ウクライナ人、ロシア人、兵士、市民・・・・・そのいずれの死も喪失以外の何ものでもない。悲しみ、恨み・・・・といったネガティブな感情を残しただけだ。何故に命を断たれたか? 戦争は狂気以外の何ものでもない。

戦場の兵士は、「やられる前にやっちまえ!」の思考になる。狂気の兵士には、市民も市民を装った殺人者にしか見えなくなる。死と隣り合わせの兵士は、自らのDNAを残す動物的な本能からレイプを厭わない。略奪は、恐怖に対する報酬を求めたにすぎないと思ってしまうのだ。繰り返すが、戦争は、人を狂気にする。もう、やめてくれ!

 

 

旅は続く


人民中国の残像/蓋州 第2回

2022-04-06 22:29:11 | 旅行

2005年の記録

 

 

蓋州が、どれほど田舎であるかは、走っている車両を見ると良くわかる。走っている“クルマ”と書かず、“車両” と書いたところがミソで、走っているのは、クルマから馬、ロバまでなのだ。

 

 

地図には、便利店(コンビニエンスストア)や超市(スーパーマーケット)といった文字が見えるが、これらがあるのは、「今」の話で、2005年の頃には、便利店を見ることはなかった。

 

 

メインストリートの紅旗大街や蓋州路で、荷車を牽く馬やロバを朝晩に見ることも少なくない。

 

 

ロバやリヤカー、三輪トラックで、行商人が朝市に野菜を運んできている。大型トラックは、4輪だが、1トンクラス以下は、様々なスタイルの3輪トラックが走っていた。

 

 

最も目立つのは、電動輪タク(数は少ないが、人動の輪タクもある)で、どこに行っても、いくらでも走っていて、道路端に立つと次々と寄ってくる。市中心部の中だと、2、3元均一だったと思う。夜も無灯のまま走ることも多く、ほぼ交通ルールを守らない、「危ないから乗るな!」とお父さん(通訳)から言われたが、便利なので、ついつい使ってしまう。

 

工場への出勤は、3人でタクシーを使うことにしていた。中国のタクシーの車種は、都市ごとに特色があって、北京はシトロエン、上海はVWサンタナ、瀋陽はVWジェッタ、そして蓋州は夏利(ダイハツ・シャレード)だった。現在は多様化していて、韓国車、中国車が増えている。

大柄な健さんは、窮屈そうだったし、日本だと廃車体としか思えないほどガタガタで、扉は少し持ちあげないと閉まらない。

 

 

貧しい国、地域ほど貧富の差が大きい。僕が住んでいた金都大酒店は、三星クラスだが、蓋州No.1の高級ホテルだったので、ポルシェの最新SUVで乗り付ける客もいる。街では、メルセデスやアウディも見るし、長城汽車のSUV(トヨタ・ハイラックスサーフのフェイク)だってある。

 

 

【回想録】

蓋州の工場には、瀋陽の会社から派遣されている連絡員の国さん(仮名)がいた。典型的な文革世代のおじさんだ。隣のおじさんなら“愛嬌のあるおじさん”なのだが、一緒に仕事するとなると別だ。その場しのぎの嘘と責任回避の屁理屈だけは、長けているのである。

「国さん、議事録にサインしているじゃないか」

「見ただけ、合意したとは書いてないよ」

「一昨日も昨日も『明日やる』って、国さん言ったよな。なのに今日もやってないじゃないか、言ってることが違うじゃないか」

「俺は、いつでも『明日やる』って言ってるよ」

でも、蓋州を発つときになって、僕は国さんの優しさに涙することになるが、次回以降に。

 

次第に寒くなってくる、夜には湯船に浸かりたくなる。しかし、金都大酒店には、浴槽のある部屋がない。何軒か、浴槽付きの部屋を探したがない。あるホテルでは、「エイズ感染予防のため浴槽は設置していない」 と真顔で、言われた。嘘だろ?地方って、こんなものなのだ。

 

銀行に人民元に両替に行くと、「口座を作れ」と言われる。面倒だなぁ、と思っていると、黄牛(闇両替)のおばちゃんが、銀行の中にいて、声を掛けてくる。これも、地方では、よくあることだ。

 

 

【Just Now】

ウクライナの避難民が日本に入国してきた。難民受入に高いハードルを設けている日本政府としては英断だ。

※難民は法的な規定(定義)があるが、避難民には適用される法令がない。

悲しいかな難民受入経験が極端に少ない日本の避難民対応は稚拙だ。(移民、難民の多いドイツほかEU諸国では、行政システムが機能しているようだ) 長期の避難を覚悟している避難民の多くは、就労とその前提となる語学教育を希求しているが、日本では、専らボランティア頼みのようである。避難民であっても、自立を忘れないウクライナ人の高い民度は素晴らしい。

 

一方、日本政府の対応は情けないばかりだ。我がワラビスタンのグルド人の難民申請を(友好国トルコの手前) 認めず、だからと言って、国際的な批判を恐れて強制送還もしない仮放免を20年近くも続けている。仮放免下では、正規の就労は認められず、生活のために不法就労を続けている。軽犯罪でも即刻収容、強制送還が待っているので、彼らは品行方正だ。まさに生かさず殺さずだ。

 

教育の機会を与えられ、勉強しても、その先に正規就労がなく、不法就労(多くは解体業など、日本人の寄りつかない3K職場、入管も見て見ぬふり。) しか見えない将来、「何を目標に学べ」と言うのか? 人にとって“就労”は、基本的な権利だと思う。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/蓋州 第1回

2022-04-04 23:29:33 | 旅行

2005年の記録

 

 

瀋陽に約1週間滞在したあと、再委託(下請)先企業のある蓋州に行くことになった。蓋州がどんな街かも分からず、不思議と何の不安も、先入観もなしに3人 (僕と健さん=ニックネーム・日本人指導員、お父さん=ニックネーム・朝鮮族通訳) が赴任した。

 

 

蓋州(Gaizhou)市は、営口市管轄の県級市で、瀋陽と大連の中間に位置する。遼寧省1番と2番の都市の間にあるため、高速道路が通じていて、「田舎の割には便利」ということになる。

 

 

蓋州の市街地は、そんなに広くなく、僕の滞在していたホテルは、ほぼ中心部にあったので、徒歩半径1時間圏内にすっぽり収まる。つまり、1時間ほどあれば、往路徒歩、復路輪タクで散策に出かけられる。

 

 

営口の取引先にトラックで行く途中に見つけた露店のならぶ商店街、僕はググッと感じるものがあった。翌朝、出勤前に辺りをつけて早速行ってみた。田舎町の舗装が剥がれデコボコの路面、地べたに商品をならべる露天商と道いっぱいにあふれる買い物客。思わず、ウォ~と呟いた記憶が蘇る。

 

 

朝市では、肉、魚、野菜、果物、パン、饅頭といった食材から衣料品、雑貨・・・・・まで売られている。もちろん、軽食を食べさせる露店もある。商品は、板台やリヤカーの荷台、籠にならべられたものもあるが、地べたにシートを敷いてならべている店もある。

中国では、パジャマのまま朝市に来る人も珍しくないが、ジャージ、スウェット増えてきた。

 

 

【回想録】

中国側の実務者たちは、僕ら日本人が、再委託先に行き、「あ~でもない、こ~でもない」と注文をつけられるのは面倒なことになる。ゆえに再委託先には、あまり行って欲しくないのが本音だったので、見え見えの嘘をついて、蓋州行きを阻止する。

「蓋州には、外国人の宿泊できるホテルはないので、瀋陽から毎日通ってください。」

「バカ言うな、片道3時間も掛けて通えるか?製造委託先の寮に泊るよ。」

(実際は三星の外賓ホテルに滞在した)

蓋州に行く前日になると、

「集団公司(グループ企業)の行事があり、社有車が出払っているので、明日には行けない。」

「じゃぁ、鉄道かバスで行くから。」

結局は、見るに見かねて進出口(貿易)公司副総経理の常さん(仮名)が、「俺のクルマ使ってくれ」と言うと、ちゃんと社有車が用意された。

 

蓋州の初仕事は、鋼材の表面処理(ショットブラスト)の委託先を見に行くことになったが、積載重量オーバーのトラックに便乗したものだからワインディングかつ悪路の裏道を通っていく。中国のトラックは、日本より10年遅れていると言われたことがあるが、どこかに捉まっていないと放りだされるほどの揺れである。(もちろん、キャブです、荷台じゃありませんよ) まぁ、これも良い思い出。

 

 

【Just Now】

一旦、終息へ向かっていたコロナ感染者数が、再び上昇に転じた。しかし、移動、会食・・・・の自由を謳歌する流れは止まらない。これが、ウイズ・コロナということなのか?

一方、東京都の1日の新規感染者数にも満たない中国各地ではロックダウンが続く。言わずと知れたゼロ・コロナ政策のためである。ロックダウンで、経済はズタズタ。それでもゼロ・コロナ政策の転換ができないのは、ゼロ・コロナとイデオロギーの優位性をリンクさせてしまったからだ。

かつての中国は、一党独裁だが、行き過ぎを抑止する党内権力の綱引きがあった。しかし、今の習近平個人崇拝を標榜する中国には、それがない。プーチン自身が、戦争を中止する選択肢を失ったのと同様、習近平もゼロ・コロナ転換の選択肢を失ったのだろう。自身の政策を否定することは、まさに自身の権威の否定に他ならないからだ。

誤解を恐れずに書くと、民主主義は絶対ではない。発展途上の社会では、一党独裁がベターなこともある。なぜなら、アフリカや中近東の危険な独裁者は、正当な選挙を経て、生まれているからだ。バラマキで票が買えてしまう社会では、集団指導体制の一党独裁が、個人の独裁を抑止する次善の策なのだ。

 

 

旅は続く