Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/上海蓮花路  第2回

2022-12-30 21:29:36 | 旅行

2005年の記録

瀋陽から上海に戻り、溜まっていた仕事を熟すために1週間ほど滞在した時の記録。

 

 

中国人は、日本以上に子供好き、何しろ日本語の“赤ちゃん”の中国語は、“宝宝”だからね。祖父母にとって孫は、字の如く“宝”である。

 

 

2005年当時の地鉄蓮花路站(地下鉄とはいっても、郊外は高架を走っている) の前には、南方商城というショッピングモールがあり、それに隣接して、南方商城大酒店という人民解放軍経営のちょっと妖しい女性が出入りするホテルがあった。

 

 

夕方になると、南方商城の周辺には、果物や野菜を売る露天商が集まって来る。中国は、驚くほど果物が豊富で安い。南方商城の中にも青果売り場があり、日本と同様にパッケージして売っている。露天商の青果が新鮮かというと、必ずしも新鮮ではないが、安いことは間違いない。無造作に山積みされた中から自らの目で良品をピックアップする。ある意味で、かつての“低信用社会”の象徴のようなものだ。

 

 

足踏みミシン1台の縫製屋(主に修理)、路上床屋、自転車・バイク・自動車修理屋など個人経営の店が多かった。いずれも、激安で便利に使っていた。中国人は、一国一城の主志向が強く、手に職を付けると、資本投下の小さい露店で商売をスタートさせる。

 

 

中国の人は、賭け事が好きだ。街角に人だかりができていれば、啖呵売(いわゆるフーテンの寅さん商法)か、麻雀、花札、トランプの類だ。

 

 

ちょっと前まで、中国の女性の定年退職年齢は45歳。まだまだ現役バリバリの元気だが、失職する。一方、中国は共働きが原則、今と違って、20代前半には結婚して出産しているので、45歳というと、ちょうど孫ができる年齢でもある。そんな訳で、中国で子供の面倒を見るのは、祖母の仕事みたいなところがある。(近年は、女性の定年退職年齢も、出産年齢もあがり、核家族も増えているが、「子供の面倒は祖母」が、依然として根づいている。

「おばあちゃんがなくなった時は、号泣したけど、母親のときはね・・・・・・。」といった話、あるあるなのだ。

 

 

何かの露天商か、運送屋。仕事を終えて寛ぎの一服。

 

 

【メモ】

2022年は、日中国交正常化50周年であるが、祝賀ムードとは、ほど遠い1年、というのが、正直な感想、いや現実である。

 

そんな中でも、「これまでの50年、これからの50年」といったテーマのシンポジウム(Web)が開催され、参加した。元総領事、大学教授、シンクタンク研究員、ジャーナリスト・・・・・と錚々たる面々。現在の中国に対する認識は様々だが、良好な日中関係を期待する発言が続いた。そんな時に「製造業の現場視点から・・・・」と司会者が僕に振ってくれた。僕は言葉を選び、しかし、一気に言ってしまった。「ポジィティブな議論に水を差すようで恐縮ですが、日中関係の将来をネガティブに捉えています。」 以下、僕の稚拙なコメントの主旨。

かつて、日中関係が良好だったのは、経済力で日本が中国を凌駕していたからだ。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われて浮かれていた日本人は、中国をはじめアジアを見下していた。その頃の中国人は、黄河文明から連なる偉大なる中華思想を封印して、日本に学び、日本をリスペクトした。今、GDPで、日本を追い越した中国は、少なくとも日本と対等のところまで成長したと考えている。それにも関わらず、日本には、中国へのリスペクトの欠片もない。今後、日本が没落しても、日本人は、中国をはじめアジアを見下し続けるだろう。ゆえに日中関係が、良好になることはないと思う。

実際、日本の製造現場には、「中国に学ぶ」といった発想がない。日本で年間1万台作っている機械を中国は年間10万台、20万台作っている。十倍製造すれば、十倍の不具合が発生する。製造現場では、不具合は学びと改善のチャンスだ。中国は、十倍のスピードで学び、先を走っているのかもしれないのに、そこから貪欲に学ぶ姿勢が日本にはない。なぜなら、端から見下したままだからだ。

 

中国人の友人が、「日本人って不思議だ。原爆を2度も投下したアメリカと仲良しになれるなんて。」 と言っていた。 (何だかんだ言っても、中国人は、アメリカ人が嫌いだ。) 

僕自身、国や国民の好き嫌いはないつもりでいるが、欧米人に潜在的な劣等感を持っている。それは、アジアに対する蔑視の裏返しなのかもしれない。

 

中国が生理的に嫌いだという日本人も少なくない。何も中国と何が何でも仲良しにならなくても良い。しかし、それならば、その他のアジア諸国とは、仲良くやっていかなければならないが、日本人のアジアに対する蔑視も根深い。後進に対してリスペクトできる素直さが必要だと思う。

 

 

旅は続く


人民中国の残像/上海蓮花路

2022-12-29 21:42:05 | 旅行

2005年の記録

瀋陽から上海に戻り、溜まっていた仕事を熟すために1週間ほど滞在した時の記録。

 

 

2005年頃の上海郊外のありきたりの風景。ありきたりすぎで、住人は記録に残さない。だからこそ旅人である僕が記録する価値があると、勝手に思っている。

 

 

蓮花路のある閔行区は、以前に紹介した上海虹口足球場站界隈のある旧市街の南側に広がる郊外地域である。今でこそ、地鉄蓮花路駅には、ららぽーとが開業しているが、当時は、ショッピングビル・南方商城の周囲には、個人経営の商店街や倉庫が拡がっていた。

 

 

工場や倉庫の労働者に食事を提供する商店があり、背後には、彼らの仮住まい住宅がある。

 

 

冬になると果物屋にサトウキビが並ぶ。竹竿のように立っているのがサトウキビである。1本1~2元、30センチほどに切られ皮を剥いてくれる。あとはかじって、甘い砂糖液を吸う。

蘭州牛肉面もポピュラー、どこに行っても食べられる安価なラーメンである。そして、中国の店舗は、夜中に客が来るのか?って思われるところでも、24時間営業店が多い。

 

 

ポスターは、時代の象徴だと思う。中国のポスターは、強烈なものも多いが、今回の掲載は、どれもおとなしめ。

 

 

【メモ】

今回のメモは、僕の憶測である、8割引きで読んで欲しい。

中国でゼロコロナ政策を解除した途端にコロナ感染爆発である。ちょっとおかしくないか?

コロナの新規感染者数をコントロールすることはできないが、新規感染者の発表数をコントロールすることはできる。ゼロコロナ政策を解除しなくても、感染爆発は起こったのではないだろうか?ゼロコロナ政策真っ最中に感染爆発すれば、政府の面目もあったものじゃない。基本的に何も変わっていない日本も感染が急拡大していることを勘案すれば、中国の感染爆発は、ゼロコロナ政策の解除が理由ではなく、季節性と中国製ワクチンの有効性の問題じゃないだろうか。人民の抗議行動で、政府が方針転換したことは、中国共産党の威信に関わることだが、ゼロコロナ政策下の感染爆発よりまし、といった判断をしたのではないだろうか。そもそも、以前のメモに書いた通り、中国の国力の源泉は経済力だ。これ以上のゼロコロナ政策継続は、経済停滞、国力低下となる。政府自身、ゼロコロナ政策を終了したかったのではないだろうか。

憶測で語るべきではないが、このように考えると、すべての辻褄があってしまう。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/マキノ、近江今津

2022-12-24 19:18:19 | 旅行

2022年の記録

出張後に行こうと思っていた京都、滋賀だが、あいにく出張の翌日は悪天候の予報で断念。

それでも、“散策欲”に火がつき、週末にあらためて訪問した時の記録、マキノ、近江今津編。

 

 

数年前にWEB記事で見たメタセコイヤ並木。新緑の春、赤く紅葉する秋、白銀の冬と四季折々の魅力が紹介されていたが、やはり紅葉の秋は、ひときわ目を引く。

 

 

京都から湖西線直通の新快速に乗りJRマキノ駅へ。バスでメタセコイヤ並木を抜けて、白谷温泉に投宿。翌日に近江今津に寄り、湖西線~北陸本線と琵琶湖を時計回りして米原から新幹線で帰京。

 

 

ペンションに投宿したあと、メタセコイヤ並木まで、徒歩で散策。紅く色づく山々が美しい。関東者の僕は知らなかったが、旧マキノ町(合併後高島市)は、関西ではメジャーなスキーリゾートであると京都からの同宿者に教わった。あいにくの曇り空で、夕焼けを見ることはできなかった。

 

 

ペンション近くのマキノ白谷温泉八王子荘で、入浴のあと、そのまま夕食。ありきたりのメニューのとんかつ定食であるが、もの凄いボリューム。草鞋のようなとんかつ(脂っこくなく柔らかく美味しい)、貝の刺身の小鉢、とろろ芋、温泉たまご・・・・・・・。これで、1,300円(△1,000円=地域共通クーポン)は、クーポンがなくてもお値打ち価格。

 

 

翌朝、再びメタセコイヤ並木まで、徒歩で散策。夕方より人は少ないもののそれなりの人出である。ほぼ無人の並木道が撮れるのは平日か?

 

 

ペンションに戻って朝食を頂き近江今津へ向かう。JRマキノ駅から湖西線で2駅戻りJR近江今津駅着。約40分で今津教会を訪問して、JR近江今津駅から再び湖西線で北上する。

 

 

日本基督教団今津教会会堂は、ヴォーリズ通りに面して建ち、1934年(昭和9年)に木造、切妻造、瓦葺として、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計により竣工。現在は日本基督教団今津教会今津幼稚園の施設としても活用されている。国の登録有形文化財指定。

 

 

今津ヴォーリズ資料館(旧百三十三銀行今津支店)は、ヴォーリズ建築事務所の設計により1923年(大正12年)にRC煉瓦造地上2階建で竣工。外観は同時期の銀行建築にみられる西洋古典様式を取り入れた重厚な仕上りである。国の登録有形文化財指定。

 

 

ヴォーリズは、1905年(明治38年)にキリスト教伝道の志を抱いて、滋賀県立商業学校の英語教師に着任したものの、来日2日後に英語教師を解任となった。学生時代に習った建築設計技術を活かし、後にヴォーリズ建築事務所を開き、生涯に約1600件余りの教会などキリスト教関係建築の設計を手がけている。

 

 

ヴォーリズ設計の西洋近代建築が並ぶヴォーリズ通りであるが、通りの反対側には、日本的な建築物もある。

 

 

旧今津郵便局は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で1934年(昭和9年) 木造、地上2階、切妻造り、瓦葺で建設され、1978年(昭和53年)まで今津郵便局の局舎として使用された。訪問時は、ボランティアの外壁塗装工事中であったが、荒廃が進んでいるように感じた。修復して、何らかの施設として活用して欲しいものである。国の登録有形文化財指定。

 

 

【メモ】

観光客渋滞でマキノ駅到着が10分ほど遅れたので、乗り継ぎの電車は、すでに出発したあと、マキノ駅で1時間ほどの待ち時間が発生した。同じバスに乗っていた大阪に行く孫娘と、その見送りのおばあちゃんと30分ほど、おしゃべりした。おしゃべりと言うより、俄か観光地の地元民の愚痴、苦情聞くことになった。

 

俄か観光地とは、言うまでもなくメタセコイヤ並木のことである。インスタグラムで紹介された美しい並木道は、観光地である以前に地元民の生活道路でもある。観光客で生活道路が渋滞するに留まらず、マナーの悪い観光客が道のド真ん中で撮影を始める、冬季に夏タイヤでやって来てスリップ事故を起こし、通行止めにするどころか、道路の管理がなってないと被害者面をするなど、散々なのだそうだ。町は観光資源としてPRするものの、駐車場は無料、地元にカネが落ちることはなく、落としていくのはゴミぐらい。自治体の自己満足にすぎない。

 

異常なマナー違反は論外として、観光客が大挙して訪れても、経済効果さえ伴わないのは、何とかしたいところだ。“大挙して”といえば、中国人観光客だ。口コミ、SNSなどへの同調が凄まじいことに加え、元々人口が多いのである。中国国内の観光地は、来訪者数を抑止する仕掛けがある。入場を事前登録制にしているところもあるが、多くは違う。仕掛けというほど大袈裟なものではなく、地元の人の生活の場でもある古鎮、古城の類は、観光客からは入場料を徴収する。日本円で千円、二千円のケースもある。(中国の史跡他観光施設の入場料は、概して高額、日本感覚だと法外なケースもある。) 入場料収入はもちろん、警備員等々で雇用対策にもなる。しかも、人数を制限できるのである。裕福でなければ、入場できないし、法外と思えば、入場しない。駐車場は間違いなく有料だ。(僕の経験だと、入場料も駐車料金もなく観光できた屋外観光地は、ウイグル自治区やモンゴル自治区内)

 

中国人の友人曰く、「日本の観光地は、超オトクどころかタダなのが信じられない。富士山の入山料は、1万円でも安いと思う。3万円でも入山すると思う。」 富士山の入山料は、任意徴収で千円/人。徴収率約7割。

 

日本人は、タダに慣れすぎている。メタセコイヤ並木も通行や駐車場を有料にすれば、かなり人数を制限できるが、自治体の目的は、知名度なのだろうから反対するだろうな。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/京都 第2回

2022-12-18 18:01:03 | 旅行

2022年の記録

出張後に行こうと思っていた京都、滋賀だが、あいにく出張の翌日は悪天候の予報で断念。

それでも、“散策欲”に火がつき、週末にあらためて訪問した時の記録、京都後編。

 

 

同志社大学には、複数の赤レンガ建築があり、教育施設、宗教施設として現役である。美しいキャンパスが羨ましい。

 

 

前編最終の訪問地の京都ハリストス正教会から再び鳥丸通りに出て北上、今出川通りを東に走り、京都大学東アジア人文情報学研究センターへ。その後は、一気に京都府庁舎、本願寺伝道院と南下した。

 

 

再び烏丸通りを北に進み、京都御所と鳥丸通りを挟む西側に日本聖公会聖アグネス教会がある。1898年(明治31年)にアメリカ人建築家ジェームズ・ガーディナー(立教学校の初代校長)の設計で、ゴシック様式・レンガ造りの聖三一大聖堂として建築された。

 

 

鳥丸通りをさらに北進したところにある同志社大学今出川キャンパスに向かった。同志社大学は、ビクトリー主義プロテスタント会衆派の清教徒だった新島襄が創設した同志社英学校を前身とする大学である。赤レンガ建築が集積する“赤レンガフェチ”のワンダーランドである。関東の宗教系歴史的建造物を有する明治学院大学、立教大学が、コロナ感染防止のため一般見学者の開放中止していることを考えると、感謝、感謝である。

 

 

同志社大学彰栄館は、西門を入ってすぐのところにある。同志社大学のレンガ建築物の中で、僕の一番好きな建築物である。

彰栄館は、宣教師で教師でもあったアメリカ人D.C.グリ-ンの設計により1884年(明治17年)に建築されたレンガ造2階建て、桟瓦葺、鉄板葺、ゴシック様式の京都市内に残るレンガ造建築最古の建築物である。現在は、同志社中学校の校舎として利用されている。1979年(昭和54年)に国の重要文化財に指定。

 

 

同志社大学礼拝堂は、彰栄館と同様アメリカ人D.C.グリ-ンの設計により1886年(明治19年)に建築されたレンガ造1階建て一部中2階及び地下室付、鉄板葺のアメリカンゴシック様式である。簡素なデザインに特徴があり、1963年(昭和38年)に国の重要文化財に指定。

 

 

同志社大学ハリス理化学館は、寄付者であるアメリカの実業家・J.N.ハリスの名前を冠したもので、イギリス人A.H.ハンセルの設計により1890年(明治23年)に建築された。レンガ造2階建て、東北隅実験室付、桟瓦葺のイギリス風の外観を持つ。1979年(昭和54年)に国の重要文化財に指定。

 

 

同志社大学クラ-ク記念館は、アメリカ人クラ-ク夫人の寄付により、ドイツ人R.ゼ-ルが設計し、施工は京都の棟梁・小嶋佐兵衛が行い、1893年(明治26年)に神学館として建築された。レンガ造2階建て、桟瓦葺、西南隅塔屋付、銅板葺の。ドイツ風のネオ・ゴシック様式で、八角の塔屋が設けられている。2階の北側が礼拝堂として使用された。1979年(昭和54年)に国の重要文化財に指定。

 

 

同志社大学有終館は、彰栄館、礼拝堂と同じアメリカ海外伝道協会派遣宣教師 D.C.グリ-ンの設計により1887年(明治20年)に建築された。レンガ造二階建て、地下一階、桟瓦葺の書籍館(日本最大の学校図書館)として竣工した。宣教師による設計らしく、建物を上から見ると十字の形になっている。1922年(大正11年)、図書館としての役割を終えたこの建物を、時の総長であった海老名弾正が「有終館」と名付けた。1979年(昭和54年)に国の重要文化財に指定。

 

 

同志社大学啓明館は、1920年(大正9年) 2代目図書館としてW.Mヴォーリーズが設計。

レンガ及び鉄筋コンクリート造5階建て、スレート葺。現在は、人文科学研究所、同志社社史資料センター、施設部が利用している。2007年に登録有形文化財指定。

 

 

同志社大学今出川キャンパスから今出川通りを東に進み、鴨川を渡ると、市街中心部(盆地)から外れたためか緩やかな登り坂になった。大通りから外れた北白川の高級住宅地の中に京都大学東アジア人文情報学研究センターがある。

1930年(昭和5年)竣工、スパニッシュ・ロマネスク様式の鉄筋コンクリート造、2000年(平成12年)登録有形文化財登録。

スペイン僧院を模したロマネスク風のデザインになったのは、濱田耕作文学部教授(後の京大総長)の発案による。「中国を研究するのに、何も龍の反りかえった屋根にする必要はあるまい」と語り、北イタリア風の僧院をスケッチして示した。義和団事件の賠償金をもとに設立された東方文化研究所の設立趣旨は「中国の文化的復興」にあったが、東洋趣味を強調せず、学問的瞑想の場にふさわしい風貌にすることで、旧態依然とした漢文学から脱却し、近代的な学問として中国学を再生しようとするコンセプトが込められていた。

 

 

北白川の高級住宅地から来た道を戻り、京都御所を抜けて、一気に京都府庁舎旧本館へ向かう。

京都府庁旧本館は、1904年(明治37年)にレンガ造一部石造、2階建て、スレート葺のネオ・ルネサンス様式の建築物として竣工。建物内部には和風の優れた技術が巧みに取り入れられており、内部意匠は建築よりも、むしろ工芸品といった趣さえ感じられる。現在も執務室として使用されており、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものである。2004年(平成16年)に重要文化財指定。

 

 

京都府庁舎と背中合わせにある旧議場の正面玄関。

 

 

京都府庁旧本館を出発し、南下をするころから時折雨粒が落ちてくるようになる。ヤレヤレ、もう少し待ってくれ、といった気持ちである。

仏具店が並ぶ門前町エリアにそびえ立つ、赤レンガが特徴的な本願寺伝道院は、不思議な建築物である。

1912年(明治45)年、親鸞聖人650回大遠忌を記念して本願寺第22代門主 大谷光瑞の依頼により、東京帝国大学教授 伊東忠太が設計し、「真宗信徒生命保険株式会社」社屋として竣工している。

明治時代から大正時代にかけてのルネッサンス様式やゴシック様式といった欧米の技術の模倣が主流であった時代に東洋、そしてグローバルを感じさせる先駆的な設計である。イギリスの建物をイメージした総レンガ造り風のタイル張りの外観、インド・サラセン風のドーム、千鳥破風を石造りした日本建築の意匠など、さまざまな建築様式を取り入れている。

また、屋根は銅板葺き、屋根骨組みは木造、屋根の装飾には一見石に見えるテラコッタ (装飾用の陶器)を用いている。羽をもった象などユーモラスな架空の珍獣が回りの石柵に配されているのも特徴的。内部は、和風意匠の天井にアール・ヌーボーを意識した照明器具が取り付けられている。

銀行や診療所などを経て、現在は僧侶の教育施設の場になっている。2014年(平成26年)重要文化財指定。

 

 

雨雲の動きでポツポツと雨粒が落ちてくる。丁度昼時、焼肉屋のハンバーグランチを頂く、待ち時間なしで着席、絶妙のタイミング。昼食のあと、レンタル自転車を返却し、次の目的地・マキノへJRで向かう。

 

 

【メモ】

旧統一教会問題や防衛費増税議論の陰で、日本の原発稼働規制が緩和されている。再稼働どころか、稼働期間延長、果ては新増設。正直なところ、僕は原発廃止急進派ではないが、充分な議論もなく、規制が緩和されることを快く思えない。

 

脱炭素、脱原発が、微妙に変質している。化石燃料を目の敵にしていた欧州が、LNG発電は、石炭火力発電より二酸化炭素排出量が少ないので、許容していた。そのLNGをロシアから買えなくなると、「二酸化炭素を排出しない原子力発電は、クリーンエネルギーだ。」と言いだす。どうも欧州発の環境運動に素直に賛同する気になれない。

 

欧州では、中国製電動バイクが普及している。そのバイクを製造するための電気の多くは、石炭火力によって発電され、バッテリーを作るためのレアメタル採掘では、放射性物質や有害元素を含む瓦礫がばら撒かれていることに、欧州の人は、あまり興味がないようだ。自分の運転する電動バイクが、二酸化炭素を排出しないことで、満足している。

 

エネルギー価格の高騰で、日本国内の湯たんぽメーカは、フル生産だと報道していた。今でも、湯たんぽの生産工場が、日本国内に存在していることにも驚いたが、慎ましくエネルギー価格の高騰に抵抗する日本人を誇らしく思った。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/京都

2022-12-17 14:27:34 | 旅行

2022年の記録

出張後に行こうと思っていた京都、滋賀だが、あいにく出張の翌日は悪天候の予報で断念。

それでも、“散策欲”に火がつき、週末にあらためて訪問した時の記録、京都前編。

 

 

青空、白雲、白壁の教会尖塔。散策中、最も天候に恵まれた時間帯だった。

 

 

JR京都駅前で、レンタサイクルを借りた。連日、大挙して訪れる観光客のことを報道していたが、渋滞知らずの快適な散策ができた。観光客目あての紅葉の名所を避けたのも幸いした。中心部は平坦な京都、半日ほどで廻った。前編は、旧山口銀行京都支店から京都ハリストス正教会までの近代建築の集積地散策。

 

 

JR京都駅から烏丸通りを北に進むと、進行方向左側にあるのが、旧山口銀行京都支店。近代建築の大家・辰野金吾の辰野片岡建築事務所設計の鉄筋コンクリート造2階建て。1916年(大正5年)竣工。DEAN&DELUCA京都店として活用されている現役建築物。

 

 

旧第一勧業銀行京都支店は、旧山口銀行京都支店からさらに烏丸通りを北に進んだところにある。1906年(明治39年)に旧山口銀行京都支店と同様辰野金吾(辰野葛西建築事務所)設計、レンガ造2階建てとして竣工したが、1999年(平成11年)に取り壊されている。現在の建築物は、2003年(平成15年)にレプリカ再建されたものである。第一銀行、勧業銀行の合併で設立された第一勧業銀行は、日本興業銀行、富士銀行との3行合併を経て、みずほ銀行となっている。当建築物もみずほ銀行京都中央支店として活用されている。

 

 

旧京都郵便電信局は、旧第一勧業銀行京都支店から三条通りを右折したところにある。1902年

(明治35年)に吉井茂則、三橋四郎の設計、レンガ造2階建てとして竣工している。交互に積まれた白い隅石が赤レンガにアクセントになっているルネッサンス風のデザインが美しい。1973年(昭和48年)に郵便事業の近代化に伴う取り壊しが計画されたが、保存運動により外観を残すファサート保存にて残された建築物である。内部は、近代化され中京郵便局として活用している。

 

 

近代建築数珠つなぎの三条通りを東に進むと、旧日本銀行京都支店(京都府京都文化博物館別館)がある。1906年(明治39年) に辰野金吾、長野宇平治の設計によりレンガ造2階建てとして竣工している。

 

 

旧日本銀行京都支店と道を挟んで、クラシックな黒塗り土蔵の店構えの分銅屋足袋店が目を引く。

1864年(元治元年)創業の老舗足袋店である。店名は、足袋以前の漢方薬を扱った時代に、目方を量った分銅に由来しているとのこと。

 

 

旧日本生命京都支店も辰野片岡建築事務所設計、外壁を石張りとしているが、レンガ造2階建て銅板葺で、1914年(大正3年)に竣工している。現在は、京王電鉄の所有の登録有形文化財となっている。

 

 

家邊徳(やべとく)時計店は、初代家邊徳之助が1871年(明治4年)に建てた日本最古の店舗型住宅である。(煉瓦造2階建て瓦葺) 外観は洋風近代建築でありながら住居部分は純和風な京町となっている。1階は現在テナント、2階が時計貴金属商。

 なお、家邊徳時計店は、「家邊徳之助」名は、代々襲名しており現在は4代目とのこと。

 

 

家邊徳時計店の向かいに和風店舗の扉を赤く塗装した京都三条ポールスミス店が目を引いた。

 

 

近代建築が連なる三条通りを離れ、北に進んだところに日本基督教団京都御幸町教会がある。

設計は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(ヴォーリズ建築事務所)、1913年(大正2年)竣工、レンガ造1階建て(一部中2階)である。

 

 

住宅街の中を北西に進むと京都ハリストス正教会(生神女福音大聖堂)がある。1901年(明治34年)竣工、日本最古の大型木造聖堂(ロシア・ビザンチン様式)である。松室重光設計、木造平屋建、下見板張。

 

 

【メモ】

中国のゼロコロナ政策が緩和方向で動いた。そのこと自体は、喜ばしいことだが、前回のメモに記したように専制国家の“神様”が、民意により軌道修正したとなれば、“神様”失格だ。民衆は、デモで国家が動くことを経験的に学び、次々と政府の矛盾に声をあげるかもしれない。そうなれば、まさに赤い帝国の終わりの始まりになる。

 

その一方で、ゼロコロナ政策が緩和されると、中国各地の感染が急増した。僕の会社の中国内工場、支店でも、複数の感染者が報告されている。日本でオミクロン株コロナに感染した友人、知人が、軽症であるのに対し、中国での感染従業員は、30歳代でも40℃以上の発熱をしている。ゼロコロナで免疫がないとか、中国製ワクチンの有効性の低さとかなど、憶測でしかないが、感染急増が、早期に沈静化することを祈るばかり。

 

そもそもの話として、中国政府自身がゼロコロナ政策による経済の低迷を許容できない事情もあったのだと思う。今の中国が、肩で風を切って歩く戦狼外交ができるのは、経済力によるものだ。間違っても軍事力ではない。(軍事力で存在を示しているのは、北朝鮮ぐらいだ。) ゼロコロナ政策の継続は、中国の凋落そのものになる。引退の決まった秀才・リーおじさんが、最後の進言をしたのだろうか、プーさんの苦渋の決断だったと思う。

 

 

旅は続く