Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

大連の街角から 第1回 /中山広場近代建築群

2023-05-30 19:40:21 | 旅行

2023年の記録

3年ぶりの中国出張、ヘロヘロになりながらも無事大連に戻りホテル周辺を散歩した時の記録。

 

 

大連の中山広場で、日本人に馴染み深いのは、旧大連ヤマトホテル(現・大連賓館)だと思うが、あいにく改装中。改装済で、最も美しいと思う旧横浜正金銀行大連支店(現・中国銀行大連分行)の写真をトップにアップした。

 

 

大連は、今の中国で、最も日本人にやさしい街だと思う。確かに在留日本人の数は上海市が1番だが、上海市全体の人口が多いので、日本人密度とすると、大連が圧倒的だ。もちろん、人口の問題だけでなく、ジャポニカ米や海鮮が豊富な食習慣や豊富な日本語話者(かつては、外国語科目が日本語の公立小学校もあった。) 戦前の不幸な歴史があったにもかかわらず親日都市でもある。

 

 

既述のように三方が海の大連は、海鮮が豊富だ。中国の多くの都市の魚介は、淡水の魚や海老、蟹である。沿岸都市の上海も例外ではない、有名な上海蟹も湖水の蟹だ。

中国のちょっとした食堂、レストランの1階には、生きている食材がならぶので、食材と調理方法を選んでオーダーしなくてはならないのだが、残念ながら僕は、そこまでの語学も知識もない。

 

 

大連日航飯店脇の交差点から中山広場にまっすぐ延びる民生街のビルの谷間には、歴史的建造物がならぶ。

 

 

馬路辺辺は、歴史的建造物を模したイミテーションだと思う。イミテーションは、イミテーションで良いのだが、中国の歴史的建造物の多くが現役バリバリで使用されていることは喜ばしいことだが、風雪に耐えてきた風格が吹っ飛んでしまうほど、外壁を綺麗に補修してしまうところが残念だ。

 

 

帝政ロシアは、ダーリニー(大連)をパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画した。その中央に配された円形広場はニコライェフスカヤ広場(現・中山広場)と命名され、周囲に市庁舎・郵便局・銀行・集会場・商業取引所などが建設される予定だった。日露戦争、日本軍のダーリニー占領によりその都市計画は、日本に引き継がれ、数々の近代建築が建設された。(大広場と改称) 戦後、1945年に中国人による大連市政府が成立、中山広場と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居した。

 

 

民生街を進むと旧横浜正金銀行脇から中山広場に入るが、わかりやすく中山広場1号の旧朝鮮銀行大連支店から紹介していく。

 

 

旧朝鮮銀行大連支店(現・中国工商銀行中山広場支行)は、中村建築事務所の設計・施工によるルネサンス様式の鉄筋煉瓦造3階建として1920年竣工。(住所:中山広場1号)

※朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行としての機能を担っていた。

 

 

旧大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)は、煉瓦造2階建、塔屋付のゴシック様式で、前田松韻(関東都督府民政部土木課)設計、荒川工務局施工により1908年竣工している。日本統治下の大連で最初に建てられた官庁建築でもある。時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎を参考にしたものである。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩を使用している。

1922年より大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。

(住所:中山広場2号)

 

旧大連市役所(現・中国工商銀行大連市分行)は、玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。設計者の松室重光は関東都督府土木課の課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。施工は清水組で、1919年竣工した。戦後も1947年~1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。(住所:中山広場5号)

 

 

旧中国銀行大連支店(現・中信銀行中山支行)は、清国大清銀行の大連支店として1910年竣工のルネサンス様式の建築物で、中国人の設計である。中央の塔屋にはフランス風のマンサール屋根を載せている。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行が使用している。(住所:中山広場7号)

 

 

旧横浜正金銀行大連支店は、日本唯一の外国為替管理銀行だった横浜正金銀行の大連支店として1909年に建てられた、3連のバロックドームを持つタイル貼りの建物。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる満鉄技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行った。1945年より極東銀行(ソヴィエト連邦)が使用。現在は中国銀行遼寧省分行が置かれている。

(住所:中山広場9号)

 

 

【メモ】

僕は大連に住んだことはないが、毎月出張していた時期もあり友人も多い。

最近亡くなった親戚のおばあちゃんが、瓦房店(最近、大連市に統合された)出身で、旅順の看護学校を卒業しているので、おばあちゃんから大連の話をたくさん聞いた。おばあちゃんは、生粋の日本人だが、終戦で初めて日本に来たので、故郷は、あくまでも中国。

そもそも、僕の祖父は、戦前に軍獣医として、大陸に渡った。祖父が、どんな大志を抱いて大陸に渡り、満州のどこで獣医をしていたかを聞く機会がなかった。何しろ、祖父が生きている頃、まさか僕が中国で仕事することになるなど、これっぽっちも考えていないかったからね。

 

 

旅は続く


中国縦断 / 南通・烟台

2023-05-27 15:01:37 | 旅行

2023年の記録

3年ぶりの中国出張、上海から再び北上し、大連へ向かう道中の記録。

 

 

何となく煤ぼけているのは、PM2.5の大気汚染のためではない、ただの窓ガラスの汚れ。中国では、航空機、列車、ビルの窓とも概して汚い。窓を掃除することなど滅多にないのだと思う。商品のパッケージも同様で、実質(中身)以外のことには無頓着なのだ。

 

 

上海から南通、烟台、大連へと北上。

別に偉くなった訳ではないが、現地法人のスタッフ、元部下が、リレー方式でアテンドしてくれたので、チケット手配など面倒もなく楽ちんだった。(笑)

 

 

上海市郊外(浦東新区、旧南匯区)の建設が途中でストップしたショッピングモール。鉄骨組みのまま放置されている。いずれ風化して、解体か?

 

 

上海から長江を渡った対岸にある南通新市街のホテルからの眺め。中国全土にある新市街の高層ホテルからの眺めは、ほぼこれと同じ。人民中国配給時代から連なる“画一性”が、中国の強みであり、薄っぺらさでもある。

 

 

烟台空港、実は、以前に1度来ている。泰安から上海に出張した帰り、雷雨のため上海虹橋空港の出発が遅延した。目的地は、烟台空港ではなく済南空港である。僕は済南空港に白タクを待たせていたので、「これ以上遅延したら帰っていいよ、済南でホテルを手配する程度は自分でできるから。」とドライバーの栗さんに伝えていた。それでも、3時間ほどの遅れで上海虹橋空港を離陸したので一安心。ところが、済南空港に近づいたころ、再び雷雨のため済南空港に着陸できず、烟台空港に着陸、機内で1時間ほど待たされて、目的地の済南空港へ到着したのは、定刻の8時間ほど遅れ。空港の到着ロビーには、ドライバーの栗さんがいたのには驚いた。とても、僕にはいつ着くともわからない客を8時間も待つことなどできない。敢えて書くと、彼らの時間間隔って、そんなものなのだ。

 

さらっと、書いたけれど、烟台空港着陸前の機内アナウンスで、烟台に着陸し、降りたければ、降りても良いようなことを伝えられたので、隣りに座っていた中国人のおじさんに「あんた、どーするの?」と訊ねると、「この飛行機は、済南行きだよ、何を寝ぼけているんだ」とあしらわれてしまった。ところが、飛行機が着陸し「烟台机場」のネオンを見たおじさんの焦りは、逆に笑えた。(似たような乗客が多数いた) ほとんどの乗客は機内に残り、再離陸を待つのだが、「腹が減った」と騒ぐ乗客がいて、2個目のハンバーガーが配られたのには、僕も助けられた。何を隠そう、僕も腹を空かしていたのである。

 

 

【やさしい経済のはなし】

仕事で中国の取引先を訪問しても、繁華街を歩いていても、中国景気の低迷をひしひしと感じる。肌感覚では、ピークの6~7割か。かつて、「アメリカがクシャミをすると、日本は風邪をひく」と言われていたが、今では、「中国が咳をすると、世界は酸素吸入器を用意しろ!」と言いたい。中国が計画経済体制というのは建前で、景気の浮き沈みが激しい。それは、経済が実需ではなく、投資主導で廻っているからじゃないかな。

 

ところで、僕が足繁く中国に行く理由は、ひと言に集約すると「安さに魅かれて」だ。(細かいことを書くと、必ずしもそんな単純な話ではない) 実際、日本で販売されている実用品の多くが、依然としてMade in China だ。「なぜ安いのか?」というと、かつては人件費が安かったからだが、今では、必ずしもそうではない。ひと言で説明すると、ものづくりのシステムが違うからだ。

 

例えば、樹脂製のふた、月産50個の作り方は、樹脂板を切ったり、削ったりして作ったパーツを接着して作る。それが、月産500個、1000個になりると、射出成型機で作るようになると、一気にコストは、10分の1、50分の1になる。日本と中国では、人口、市場規模が違い、実際にこのようなことが起きているのである。また、工作機械などの生産設備も自国で作り、それ自体が、既述したスケールメリットを活かした作り方をしているので、日本の生産設備の半値で購入できる。その結果、その設備を使って作ったものも、安くなるのである。

 

もう1つの違いは、職能の専門化だ。例えば、天ぷらの調理で、「衣をつけて揚げる」、「皿に盛りつける」の2工程を1人の職人がやっていると、店舗を2倍に拡大するとき、「揚げ」のできる職人をもう1人雇い、2倍の人件費が発生する。しかし、中国では、「盛りつけ」しかできない人を雇う。あたりまえのこととして、「揚げ」のできる職人より賃金は低いので、人件費は2倍にならず“安く”なる。しかし、客の入りが悪く、店舗を元の規模に戻そうとしても、「揚げ」のできる職人が、「盛りつけ」をやらないと、元の人件費に戻らないが、実際、職人は、誰でもできる「盛りつけ」をやりたがらない。オーナーは、店舗を閉じるか、さらに価格を下げて、元の規模を維持しようとするので、景気の下降時は、加速度的に景気が悪くなる。

 

まぁ、実際は、こんなに単純な話ではないので、リアルな現実を知っている人の突っ込みどころ満載の解説だが、やさしく説明すると、こんな感じなのだ。

 

 

旅は続く


上海の街角から 第5回 /徐家匯

2023-05-24 22:32:27 | 旅行

2023年の記録

3年ぶりの海外出張、3年ぶりの中国出張。上海でホテル周辺を散歩した時の記録。

 

 

中国への入出国が、やたらと面倒になった。ビザなし渡航が認められなくなり、そのビザ取得も指紋採取のために出頭しなくてはならない。まあ、日中関係が改善すれば、いずれ元のレベルに戻るだろうし、そうなって欲しい。

 

 

上海の常宿となった建国賓館の前に建つイグナチオ大聖堂を見ると、「あ~上海に帰って来たな!」といった気持ちになる。(実は上海に住んでいたことはないが、中国に初めて降り立った上海は、僕の中国人生の原点だ。)

 

 

大連入国後、上海まで南下、再び大連まで北上、半月で20社ほどを訪問する。過去に経験のない強行軍と出張前の過労、それに3年分の“キチガイ水”(=白酒)のために前半はヘロヘロの毎日。とても早起きして散策する余力などなかった。何とか、調子を戻したのが、折り返し点の上海。

 

 

高鉄(中国版新幹線)専用の上海虹橋站を使うことが多かったが、久しぶりの上海站に高鉄で到着。今でも、上海・北京間を走る在来線列車があるんだな、高鉄の開通する前の泰安から夜行列車で、毎月上海に出張した日々が懐かしい。

 

 

徐家匯聖イグナチオ大聖堂は、中世フランスのゴシック様式に倣って1910年落成している。赤レンガ、白い石柱、青灰色の石板の棟瓦で、二つの鐘楼は高さ60メートルに達する。建設当時は、極東一のカトリック聖堂であった。

美しい教会を、上空から毎日眺められることだけで、上海滞在期間は、心が安らかになる。

 

 

大聖堂の脇に建つ天主教上海教区主教府。

 

 

上海徐家匯中学校は、イグナチオ大聖堂を建設したイエズス会によって徐家匯公学校として建設された。

 

 

主教府と上海徐家匯中学校の間に建つ徐家匯蔵書楼は、1847年イエズス会宣教師の中国語学習施設として開館した。その後、図書館として拡張し、1897年にヨーロッパ様式の2階建の現在の建物に建て替えられた。

 

 

建国賓館の自室から大聖堂と逆の方向を眺めるとビルの谷間に歴史的建造物が見える。徐家匯とは、そんな街なのだ。

 

3年ぶりに上海の街を歩いていて感じたことは、東京よりはるかに安全なこと。かつてのようにクラクションが鳴ることもなければ、横断歩道に歩行者がいればクルマは確実に停まる。「歩行者優先」というあたりまえが、あたりまえになっている。もちろん、それは、街じゅうに設置された監視カメラの効果である。それに引きかえ今の東京、信号が青に替わり横断歩道を渡り始めた時、信号無視の自転車が突っ込んでくること多々。日本に来た上海人には、「信号が青でも左右を確認して」と、かつて上海人に言われたことを言わなくてはならなくなった。完全に逆転しちゃったことに気がついていないのは、日本人だけか。(中国の地方都市では、依然としてクルマ優先、道路の横断には、細心のご注意を!)

 

 

四川人の友人が、上海まで会いに来てくれた。3年ぶりの夕食は、定番の火鍋。「辣的不辣的?(辛いの辛くないの?)」と僕が訊く。「微辣!(ちょっとだけ辛い)」と友人が答えて、僕が口にする。あまりの辛さで、水をカブのみする僕を見て、友人が笑う。(友人は、もっと辛くして、顔色ひとつ変えずに食べている) 会うと繰り返される他愛もないやりとり。あ~、コロナ禍、終わったんだね。

 

 

【メモ】

G7広島サミットが閉幕した。

僕は、今まで感じたことのない複雑な気持ちになった。

 

G7サミットは、その時々の国際社会における重要な課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7各国の首脳が自由闊達な意見交換を行う。国際社会の現在の重要な課題とは、言うまでもなく武力による現状変更を許さないことである。だからゼレンスキー大統領が招待され、各国に兵器支援を求めたのだ。武力には武力でしか対抗し得ないといった根源的な矛盾があからさまになった。それは、核兵器の抑止が、核保有に行きつくことに繋がる。核のない平和を希求する国際会議で、兵器支援を求めるゼレンスキー大統領に一部の被爆者が強い嫌悪感をあらわにした気持ち、理解できる。

 

原爆投下国アメリカのバイデン大統領が、原爆投下を謝罪しないことに目くじらを立てる人がいる。当事者の気持ちは、痛いほど解る。しかし、誤解を恐れずに書くと、韓国が歴史問題で、日本に謝罪を求め続ける姿勢と重なって見えてしまう。原爆投下に対して、アメリカ国民の多く(1945年時点では85%、2016年でも43%)が、「戦争(=日米双方の人的被害)を終結させるために必要」と肯定していることを考えると、謝罪することが、アメリカ人にとっては、正義ではない。韓国に設置された慰安婦を表現した少女像にひざまずいて謝罪する安倍晋三首相をモチーフにした像を見せられた時のことを思い出した。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第26回

2023-05-19 22:56:55 | 旅行

2023年の記録

ぶらっと会社の帰りに早稲田大学に寄った時の記録。

 

 

早稲田大学演劇博物館は、1928年(昭和3年)竣工の列記とした歴史的建造物。

 

地下鉄早稲田駅から南門を入り、突きあたりにあるのが、演劇博物館。ちょっと戻って、正門に向かうと、右手に會津八一記念博物館。そのまま正門を抜けると早大の象徴・大隈記念講堂。学外を北に進み、都電早稲田駅から帰路につく。

 

 

演博(エンパク)の通称で親しまれる演劇博物館は、早大OBの坪内逍遥の発案によって1928(昭和3)年に設立された。逍遥の研究対象であったシェイクスピアに関連し、建築様式はエリザベス朝時代のイギリスの劇場をモデルとしている。

 

 

會津八一記念博物館が使用している早稲田大学2号館は、1925年(大正14年)竣工、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造・2階建て地下1階の早稲田大学では2番目に古い鉄筋コンクリート建築物である。1999年(平成11年)には東京都選定歴史的建造物に選定されている。

 

 

大隈記念講堂は、高田早苗総長の「ゴシック様式で演劇にも使える講堂を」という要望を受け建築学科の佐藤功一、内藤多仲(構造学)、佐藤武夫(音響工学の先駆者)らが設計にあたり、戸田組(現・戸田建設)の施工により1927年(昭和2年)に竣工した。2007年(平成19年)に重要文化財に指定された。

 

 

都営荒川線は、山の手の早稲田から下町の三ノ輪まで、東京都の北部を東西に走る。東京を散策するようになって、意外に便利に利用している。

 

 

【メモ】

5/19にG7広島サミットが始まった。G7の開催で、海外の人が、どれほど日本に注目しているのかを僕は知る由もないが、日本人が思っている日本と海外の人が思っている日本のイメージが、大きく乖離していることは間違いないと思う。

 

日本文化や日本社会が好きで、観光のために訪日する外国人は少なくないが、日本で働きたいと思っている外国人は急減している。要するに日本は、日本人が思っているほど魅力的な国ではなくなったのである。

 

僕が子供の頃、日本は資源に乏しく、資源を輸入し、製品を輸出することで経済を回していると習った。しかし、今となっては、乏しいのは資源だけでなく、労働力も乏しい。外国から労働力を移入しないと日常生活さえ維持できないのである。それなのに外国人の流入を制限することばかり考えている。

 

ロシアのウクライナ侵攻を機に日本も軍備を増強している。しかし、東アジアや東南アジア諸国の人が、かつてのような日本の侵略を危惧することは、ほとんどなくなったのではないだろうか。一方、ロシア人の中には、日本が北方領土奪還を企てることを真顔で心配している人がいる。確かに今のロシア、北方領土の防備は手薄だ。武力侵攻するならば、絶好のチャンスかもしれないが、そんなことを考える日本人、いるのだろうか?

 

それをロシア人の被害妄想とも言いきれない。何しろ、多くの日本人は、「北方領土を日本固有の領土」と考えている。多くのロシア人が、「ウクライナは、ロシア不可分の衛星国(属国)」と思っているのと大差ない。ならば、あり得ると考える方が自然かもしれない。繰り返すが、日本人には、あり得ない発想なのだけど。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/長崎教会巡礼 第2日目

2023-05-13 10:18:07 | 旅行

2023年の記録

3月末からプライベートでドタバタがあり、4月上旬から3年ぶりの訪中が迫る中、長崎行を強行し、4月初旬の教会巡礼の記録、2日目。

 

 

今回の巡礼の目玉でもある平戸ザビエル記念教会。田平天主堂の歴史的な重みはないけれど、ウグイス色の壁が特徴的な美しい教会だ。

 

 

平戸島の対岸の田平教会堂、松浦市西木場教会堂を廻ったあとは、一気に長崎まで南下。癪に障るけど、時間節約のために一度佐賀県に入る高速道ルートを選択。前回、巡礼できなかった長崎市内の教会2つを廻り、再び北上し、諫早と大村の教会を廻って、無事、レンタカーを返却し長崎空港に戻った。

 

 

ホテルの部屋のカーテンを開けると海上から昇る朝陽が見えた。なかなかのロケーション。

 

 

ホテルから平戸市街地への散歩で最初に目に入ったのが、平戸オランダ商館。オランダ商館は、長崎市の出島が有名だが、平戸にも1609年(慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に設置された。その後、建物の破風に西暦年号が記されていることを口実にした江戸幕府のオランダ商館の取り壊し命令による1641年(寛永18年)の出島集約(鎖国の完成)まで、オランダ東インド会社の貿易と植民地経営の拠点として活用されていた。

現在の建物は、2011年(平成23年)に1639年(寛永16年)建造の倉庫を復元したものである。

 

 

平戸城の眼下に広がる旧市街地の木壁の美しい街なみが前回訪問時に目が留まり、人の少ない時間帯にゆっくり散策したいと思っていた。

 

 

市街地奥の階段を登ると昨日に巡礼した平戸ザビエル記念教会がある。

 

 

再び平戸オランダ商館前を通ってホテルに戻る。

 

 

朝食は、みすみ養鶏場卵の厚焼き玉子、平戸うず潮豚のしゃぶしゃぶ・・・・・・と、可もなく、不可もないヘルシーな朝食を頂く。

 

 

前回、青空の下に巡礼したとは言え、重要文化財・田平天主堂を外せない。鉄川与助設計・施工、1918年(大正7年)献堂、煉瓦造り一部木造・瓦葺き平屋建て。

尖塔の空き窓から太陽光が差した、神様の啓示か?

 

 

明治中期に黒島や五島などからきた信徒が、田平教会の巡回教会として大正末期に民家を改造した教会が、西木場教会の起源。現在の建物は、1949年(昭和24年)に聖フランシスコ・ザビエル渡来400年記念事業として鉄川組の設計、施工。

 

 

新しい長崎土産の開拓として、「平戸・湖月堂老舗・カスドース」(カステラに鶏卵を絡めて揚げた後にザラメ砂糖をまぶしたもの。)、「佐世保・松月堂・入船」のバラ売りを買い歩き食べ比べたが、「佐世保・松月堂・かすていら」に勝るものはなかった。松月堂・かすていらは、道の駅・させぼっくす99でも購入できるが、佐世保アーケード街の本店での購入をお薦めする。接客の良さと抜群のサービス(お茶をふるまって頂いたり、自分用には充分な量の切れ端サービス・・・・・)に心を鷲掴みされている。(笑)

 

 

三ツ山教会は、長崎バイパスを外れ、細い山道を登ったところにひっそりと建つ白壁の教会。1883年(明治16年)献堂、1962年(昭和37年)改築。

 

 

東長崎教会は、1995年(平成7年)献堂の新しい教会堂のある新興住宅地となった東長崎地区(東長崎地区は、江戸から陸路で長崎に入るときの玄関口にあたる宿場町)にある。信徒の平均年齢も若いと聞く。

 

 

カトリック諫早教会は、諫早市街地の高台にあり、現聖堂は、1983年(昭和58年)献堂。

 

 

禁教下に出津・黒島・五島などへ移住した先祖の故郷大村へ戻った信徒が明治時代に孤児院兼教会が設営した。現教会堂は、1975年(昭和50年)献堂。

 

 

【メモ】

日本も少しずつコロナ体制が終息していきている。とは言っても、あいかわらず通勤電車の車内では、ほぼ全乗客がマスク着用、屋外でもマスク着用者の方が多い。

そんな最中、星野リゾート代表のツイート「・・・・星野リゾートは全員でマスクを外すことにしました。・・・・・」が炎上した。

怒りの原因が何なのか? それはひとそれぞれなのかもしれないが、決定的に欠落していた視点がある。接客業の従業員が、マスクを着用する意味は、対面する顧客に感染させない、感染の不安を与えないだけではない。従業員自身を感染から守ることだ。不特定多数と対面する従業員は、顧客以上に感染リスクを感じるだろう。そのことを吹っ飛ばした“お客様ファースト”は、かつてならばともかく、「No!」と言えない従業員に対するハラスメントでしかない。

このツイートだけで、星野リゾートが、従業員を酷使する企業と断じることはできないが、多様な価値観への配慮に欠けていることは、否めないだろう。

偉そうなことを言える立場ではないが、それなりの影響力のある人は、ツィッターの発信にしても推敲が必要だ。それができないならば、SNSなど使わず、リアルな呟きに留めておくべきだね。

 

 

旅は続く