2020年の記録
紺碧の空、ひまわりは、夏の象徴だと思う。
8月最後の土曜日、ちょっと遠出してと言っても、自宅のある栃木の隣県の福島への日帰りドライブの記録。
早朝、自宅を出発、東北自動車道の白河中央スマートICから国道294号線を北上して布引高原、喜多方へ。その後、国道121号線を南下し、大内宿に寄った後に帰宅。
布引高原は、郡山布引高原風力発電所の建設を機に「郡山布引風の高原」と命名され、観光地化された。僕は、それ以前の大根畑が広がる頃、つまり30年以上前から通っている。高原と呼ばれている一方で、会津布引山の山頂であり、視界を遮るものがなく猪苗代湖対岸の磐梯山が一望できる。そのため強風に晒されることも多く、農地の境界に植えられた樹々は、不気味な形に枝を伸ばしていた。そんな訳で、当時は住宅どころか倉庫もなく、耕作者は猪苗代湖畔の集落から通っていた。まさに不思議な形の樹々と野菜畑の“秘密の撮影地”だった。
僕にとって布引高原は、“秘密の撮影地”→発電所建設に伴うバリケート閉鎖→発電所敷地の開放と観光地化といった変遷をたどった。その実態は、農業者の高齢化(農作業中の人との交流があったものの、相手は僕よりずっと年長世代だった)→耕作放棄地の発生→自然エネルギーへの脚光といった時代の変化を色濃く投影している。風車の足元には、春には菜の花、夏にはひまわり、秋にはコスモスの花畑が広がる。
※郡山布引高原風力発電所:2007年2月営業運転開始、2,000kW×32基、1,980kW×1基 計33基、総発電出力65,980kW(国内最大級のウインドファーム)
喜多方は、蔵とラーメンの街である。ほんとうは、精力的に散策したいところだが、諸般の事情(炎天下のワンコ連れ)によりライトにまとめることにした。ひとまず喜多方駅の観光案内所おすすめのラーメン屋で昼食、その後レンガ蔵を見たあと、教会に寄ることにした。
喜多方、会津村松、・・・・・、熱塩の全長11.6kmの日中線というローカル線が、1984年(昭和59年)の廃線まであった。僕は子供の頃に乗車していた、まさにその発車ホーム。当時は、蒸気機関車(C11型)が2両の茶色の客車を牽引していたのを覚えている。
赤れんが食堂は、動物写真家岩合光昭氏紹介の看板猫がいる。(当時はコロナ感染防止のため猫は休業中) そんな訳で、ペットへの理解があり、下屋でワンコ同伴の食事ができたのは、ラッキーだった。
三津谷集落の煉瓦蔵群(若菜家)は、赤れんが食堂から徒歩数分のところにある。明治時代に三津谷で登り窯が創業され、その窯で使用する薪を供給したのが、代々農業を営む若菜家だった。謝礼としてレンガを譲り受け、煉瓦蔵が計画的に建造したとのこと。
ほんとうは、若菜家の人に直接話を聞いてみたかったが、誰もいない。呼び出し用と掲示のあった番号に電話をしても応答なし。(コロナ禍だからしょうがないか?) 何匹かのネコが、昼寝していた。蛇足ながら、同伴のワンコは、ネコ好きだが、ネコからは好かれていないようだ。
日本基督教団喜多方教会は、1932年(昭和6年)竣工、梨本耕一設計である。“重厚さ”といった感じはないが、親しみやすいポピュラーな雰囲気がある。
大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある江戸時代の会津西街道(下野街道)の「半農半宿」の宿場である。明治期の鉄道開通に伴って宿場町としての存在価値を失って以降は、茅葺屋根の民家が建ち並ぶ集落(1981年=昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区に選定)として、観光地化された。
僕は、10年以上前の真冬に来ている。その時は、深々と雪が降り積もり、家々は閉じられ、日本的な“わびさび”を感じた記憶がある。夏の観光地としての存在を否定するつもりは毛頭ないが、10年前に見た冬の情景をもう一度見たいと思う。(山間の集落が経済的に成立するためには、観光しかないのかな、というのが、正直な感想。)
大内宿を出た後、雲行きがおかしくなった、いわゆるゲリラ豪雨だ。クルマの運転にも難儀するほど。しかし、雨雲の下を抜け、道路脇のダム湖を見ると、水は干上がり、湖底が露出していた。そこを鹿の大群が、水を求めて走り去る光景を目にする。生涯忘れることのない光景にも関わらず、後続車が気になり、クルマを停めて撮影しなかったことが、今でも悔やまれる。
旅は続く