Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/小矢部メルヘン建築 後編

2022-08-28 21:41:04 | 旅行

 

2022年の記録

出張のあと、金沢宿泊を延長して、小矢部市内のメルヘン建築を散策した時の記録の後編。

(後編は、すべてカラーのまま。前編の紹介施設でもカラー版を披露したかったものを末尾に再録した。)

 

 

朝から雲一つない紺碧の空が広がっていたが、11時頃になると、少しずつ雲が出てきた。適度な白い雲はアクセントになるので、僕は大歓迎だ。トップ写真は、前編で紹介した松沢公民館である。

 

 

前半で散策した平らな南部から北部に移動すると稲葉山を含め山間部になる。大雑把に表現すると反時計回りで、小矢部市を散策した。

 

ちょっと遅めの昼食は、道の駅・メルヘンおやべで摂った。北陸名産の白エビのかき揚げうどんをチョイスしたのだが、申し訳ないが残念なものだった。男の手料理・白アシエビ(バナメイエビ)と玉葱のかき揚げの方が100倍美味いと思う。

 

 

⑰ 正得駐在所

  三角屋根がメルヘン建築としている由縁だろうが、見ての通りの駐在所。

 

 

⑱ 荒川公民館

  メルヘン建築と呼ぶなら、これくらいは凝って欲しいというのが、観光客の素朴な感想。

 

 

⑲ 荒川保育園

    荒川公民館のすぐ近くに荒川保育園はある。公民館と似たカラーリングが施されている。

 

 

⑳ 清楽園

    清楽園は、特別養護老人ホームなので、門から数歩入ったところから、ササっと撮影させていただくことに留めた。

 

 

㉑ 稲葉山牧野看視舎

  稲葉山の山腹に稲葉山牧野看視舎がある。小矢部市が一を一望できるが、パッと眺めた限りでは、平坦部のメルヘン建築を確認することはできなかった。

 

 

㉒ 農林漁業体験実習館

    稲葉山牧野看視舎から林道経由で、農林漁業体験実習館に来た。

  小矢部市は、能登半島の付け根にあるが、海に面したところはないので、漁業とは河川の漁業体験ってことになるのか?メルヘン建築とは、無関係だけど、ちょっと気になった。

 

 

㉓ 渓明園

県道沿いにある農林漁業体験実習館から再び林道に分け入り渓明園を目指す。渓明園は、障害者福祉施設である。入所者が日々清掃をしているので、綺麗に保たれている。監督者に単なる観光客であることを伝えると、「こんな山奥まで・・・・」と驚かれた。

 

 

㉔ 岩尾滝くつろぎ交流館

  渓明園から国道まで林道を進み(目いっぱい迷った・・・笑)、さすがに国道では迷うことなく、国道を右に折れると、正面に旧岩尾滝小学校があり、右手前にある岩尾滝くつろぎ交流館に到着。

 

㉕ 旧・岩尾滝小学校

  山間部の小学校にしては、大きく立派に感じた。建設時は、相応の人数の児童が学んでいたのだろうか、すでに廃校になっている。

 

 

㉖ 石動中学校

さすがに市街地にある石動中学校は大きい。ちょっと高くなったところに宮殿のようにそびえ立っている。

 

 

㉗ 武道館

  武道館が、赤レンガ調のメルヘン建築というのには、ちょっと違和感を覚えるが、建物そのものは、僕好みの赤レンガと大理石を思わせるトーンである。

 

 

㉘ 埴生保育園

エッ、これが保育園と言うほど、埴生保育園大きく立派だ。小学校か、中学校の雰囲気である。ひまわりが数本植えられていて、園児が遊ぶ光景が目に浮かぶ。

 

 

㉙ 埴生公民館

    グランドをはさみ埴生保育園の反対側に埴生公民館は建っている。綺麗に整備されているが、如何にもメルヘン風に作った感がある。

 

 

  小矢部メルヘン建築散策を完結。この後、河北潟で夕陽を撮影する計画だった。しかし、雲が増えてきたことと、金沢市街の花火渋滞が気になり、夕陽撮影をパスして、金沢に戻り、帰宅することにした。正直なところ、雲と花火は、言い訳だ。若い頃は、もっと被写体にハングリーだった。つまるところ、昼間の暑さでヘトヘトになり、加齢で、覇気も体力も萎えたってことだな。

 

 

【前編の散策、紹介建築のカラー化再掲】

  • 北蟹谷公民館

 

 

  • 水島公民館

 

 

  • 松沢公民館

 

 

【メモ】

ロシアのウクライナ侵攻から半年が経過した今、「日本の政治屋さんは、票をぶらさげられると思考停止のまま飛びついちゃう」といった話題の方を、マスコミは多くの時間を割いて報道する。ウクライナ問題は、中台問題、カーボンニュートラル、異常な物価高騰へと繋がっている。政治と宗教の問題には、一定の落とし前をつけなくてはならないのかもしれないが、日本の一般庶民の日々と将来に直結しているのは後者だと思うんだけど・・・・・・・。

 

ところで、ロシアのウクライナ侵攻、日本にいると、入ってくる情報のほぼ100%が、西側から見た事実だ。嘘はない前提でも、西側にとって都合の良い事実ばかりが報道されていると思わなくてはならない。まぁ、手の届くところで、人民日報、環球時報をちゃんと読んでみるかなぁ。(一般的には、アルジャジーラだと思うけど。)

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/小矢部メルヘン建築 前編

2022-08-27 11:06:20 | 旅行

2022年の記録

出張のあと、金沢宿泊を延長して、小矢部市内のメルヘン建築を散策した時の記録。

(前編は、あえてモノクロームに加工した写真をアップ。カラー版をあらためて後日公開予定)

 

 

富山県小矢部市には、「メルヘン建築」と呼ばれる西洋風建築物が多数存在する。これらは1976~1986年に市長を務めた松本正雄市長※の提案により新築する公共施設を西洋風にしたことによる。(1988年~のふるさと創生一億円事業の一環ではない)

はっきり言って、イミテーション。歴史的建造物ではないので、歴史的な“重み”を感じるところはなかった。しかし、「消えゆく昭和時代の白日夢」を感じた。事実、老朽化が進み、まもなく解体される建築物もある。僕の写真は、“作品”ではなく、まさに“記録”である。

※松本正雄:小矢部市出身。東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。1972年(昭和47年)から小矢部市長。1986年(昭和61年)、市長在任のまま死去。一級建築士、「メルヘン建築」の基本設計を手掛けた。

 

 

小矢部市は、富山県の西端に位置する。金沢でレンタカーを借り、日帰りで散策できる。なお、小矢部市内には、三井アウトレットパーク北陸小矢部がある。

 

 

  • 東蟹谷保育所

計画時は、金沢から北陸道で小矢部へ移動する予定だったので、小矢部IC近くの東蟹谷保育所へ。すでに廃所となっていたが、保育所にしては、大きく立派。淡いピンク色の外壁の西洋風建築である。

 

 

  • 北蟹谷公民館

国道を金沢方面に少し戻ったところから北に曲がったところに北蟹谷公民館がある。近隣の住民が、清掃作業をしていたので、声を掛けてから撮影した。白亜の公民館は、現役である。

 

 

  • 北蟹谷保育所

北蟹谷公民館の奥に建つ北蟹谷保育所は、赤レンガ色で縁取られていた。夏休みで人気はなかったが、綺麗に整備されていた。

 

 

  • 蟹谷小学校

北陸道脇の小高い丘を登ったところにグリーンのグランドがあり、その奥に蟹谷小学校の校舎があった。

 

 

  • 蟹谷中学校

道路から奥まったところに蟹谷中学校があった。蟹谷小学校と似た作りだが、中央の三角形の尖塔が特徴だ。

 

  • 小矢部市サイクリングターミナル

小矢部市サイクリングターミナルは、外壁を赤レンガ色に塗装しただけといったイメージ、正直なところ、ちょっと残念。

 

 

  • 津沢子供園

狭い路地の奥にあり、こんな先にあるのかなと、ちょっと不安になるが、ちゃんとあった。

 

 

  • 津沢小学校

開けたところに白壁の校舎と体育館がならぶ。“立派”といった感想の小学校である。

 

 

  • 小矢部市消防団藪波分団

三角形の屋根があり、メルヘン建築と言えばメルヘン建築なのかもしれないが、「エッ!」って面がなくもない。

 

 

  • 藪波公民館

小矢部市消防団藪波分団とは逆に「This is メルヘン建築」といった風情なのが、藪波公民館である。外壁は赤レンガ色に塗装してあるだけで、レンガ感はないが、窓枠に立体感があるだけで、雰囲気はあがる。

 

 

  • 藪波保育所

藪波公民館からちょっと離れたところに藪波保育所がある。児童施設らしい曲線を多用した特徴的な建築であるが、メルヘン建築と呼ぶには、ちょっとムリがあるかな、というのが正直な感想。

 

 

  • 水島保育所

水島保育所は、欧米人の個人宅を思わせるこぢんまりとした造りである。どのような保育をしているかなど余計な詮索だが、家庭的な保育をしているといいな、というのは、勝手な想い。

 

 

  • 水島公民館

立体感のある白壁の水島公民館、モノクロ写真では、わからないと思うが、紺碧の空と白壁のコントラストが美しい。

 

 

  • 松沢公民館

ロシア正教会の聖堂を連想させる玉ねぎ帽子とチョコレート色のカラーリングが美しい。また、紺碧の空に白雲が浮かび、画的には空にアクセントができて美しい風景になったとほくそ笑んだ。

 

 

  • 松沢保育所

モノクロ写真では、まったくわからないが、メルヘン調の黄色の外壁をしている以外は、何の変哲もない保育所建築、メルヘン建築と呼ぶにはムリがある。

 

  • 大谷中学校

象徴的な中央校舎を3棟のメルヘン建築が取り囲み、ヨーロッパの宮殿を思わせる空気が漂う。僕が最初に小矢部市のメルヘン建築を知ったのも、大谷中学校の雪景色の空撮だった。

 

 

【メモ】

終戦記念日、そして盆休みが終わる。酷暑と呼ばれた日本の異常高温もピークアウトした感じだ。30度に超える暑さも“残暑”と呼ぶべきだろう。子供の頃、土用波がたつようになり海遊びを禁止され、夏休みの宿題に精を出さないとならなくなる。(でも、屁理屈を捏ねてやらず、新学期に教師を激怒させ、それでも開き直った。・・・苦笑) 大人になった今でも、この季節になると、センチメンタルになる。(イイ歳のオヤジが、センチかよ!)

今、“取り残され感”を強く感じている。取り残されているのは日本、そして僕自身も。

 

僕が稚拙な解説するまでもなく、コロナ禍で、すったもんだしているのは、日本と中国だけだ。中国のコロナ禍は、ある意味で、プーさんのメンツ問題。過去最多の新規感染者数の記録を更新しているのは日本だけだし、最もコロナウィルスが蔓延しているとされている国への入国制限が、最も厳しいのも不思議だ。

 

物価高騰は、世界的な潮流だ。今後も沈静化する要素は見あたらない。

「物価上昇→賃上交渉→賃金上昇→さらに物価上昇」が、西側世界の潮流。仕事柄、僕のPCには、海外の港湾労働者の賃上デモと賃金アップの情報が、なだれ込んで来る。ちょっと調べると、賃上は港湾労働者に限った話ではないことがわかる。(このスパイラルで経済成長が持続する。) 

一方の日本は、販価アップ抑制と涙ぐましいコスト削減をマスコミは称賛する。(モノの原価の8割が直接、間接に海外由来なので、賃金を削らない限りコスト削減はできない。まさに竹槍戦法。) 欧米の賃上の話は、意図か、偶然か、大々的には、報道されない。完全に日本経済は、世界から取り残される。

 

個人的な愚痴になって恐縮だが、国内外の第一線に異動していく同僚に対して、僕はと言えば、幸か、不幸か、本社の安全地帯に留まっている。僕自身は、火中の栗を拾おうとして、ヤケドするのが似合っていると思っているのだが・・・・。

まぁ、ウン十年前の晩夏、友人たちは、夏休みにできた彼女とのデートに浮き足立つのをしり目に僕は黙々と競技(競歩)に没頭するしかなかった。いつの時代、何歳になっても、目の前の課題に全力で、できることをやるだけなのだろうな。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/金沢

2022-08-20 13:55:34 | 旅行

2022年の記録

白山市の仕事が昼すぎに終わり、金沢市内を散策した時の記録。

 

 

金沢というと、兼六園、ひがし茶屋街、金沢城・・・・・と、“和”のイメージだが、どうして、どうして、美しい西洋近代建築がある。やっぱり、赤レンガ建築は、美しい。

 

 

午前中に訪問、打合せした小松市内の取引先から金沢に戻り、遅い昼食を摂る。(昼食のことは後述) 昼食後、午前中の報告書を手際よくまとめ、陽が少し陰りだした15時すぎに散策に出発。

(ほんとうは、終日白山市の取引先3社の訪問予定だったが、コロナ感染拡大による来客自粛申し入れがあり延期となった。)

 

 

四高記念文化交流館は、1891年(明治24年)に旧第四高等中学校本館として建設された。その後、金沢大学理学部、金沢地方裁判所、石川県立郷土資料館として保存・活用された。1969年(昭和44年)に貴重な煉瓦造りの初期公立学校であるとして重要文化財に指定された。

 

 

石川県政記念しいのき迎賓館は、旧石川県庁として1924年(大正13年)竣工。石川県内の建築物としては初めて鉄筋コンクリート構造を採用したもので、日本国内では最古となる鉄筋コンクリート構造の県庁舎である。

 

 

石川県文化財保存修復工房は、1997年(平成9年)に石川県立美術館の付属施設として建設されたもので、歴史的建造物ではないが、外壁に漆喰、自然石を用い、銅板噴きの勾配屋根が美しく、広坂の交差点から急な坂を登った右手の木立の中にある。

 

 

国立工芸館の正面向かって右側の旧陸軍金沢偕行社※は、木造瓦葺き2階建ての建物で、1909(明治42)年に金沢市大手町に建てられたが、1970(昭和45)年に現敷地内に曳家された。マンサード屋根やドーマー・ウィンドウ(屋根窓)、コリント式のピラスター(壁面より浮き出した装飾用の柱)など、高度な洋風建築の技巧が用いられている。1997年(平成9年)登録有形文化財に登録された。

※「偕行社」とは陸軍の高級将校集会所=将校クラブのことである。

 

 

国立工芸館の正面向かって左側には、1898年(明治31年)竣工木造2階建て瓦葺の旧陸軍第九師団司令部庁舎で、簡素なルネサンス風の外観を特徴としている。1968年(昭和43年)に現在地に移転された際に、両翼がほぼ半分に切り縮められた以外は、ほぼ創建時の姿をとどめている。旧陸軍金沢偕行社と同時期の1997年(平成9年)登録有形文化財指定された。

 

 

国立工芸館の南東にならぶ3棟の赤レンガ倉庫は、1909年(明治42年)から1914年(大正3年)に建てられた金澤陸軍兵器支廠の兵器庫3棟(旧陸軍九師団)で、1990年(平成2年)に国の重要文化財に指定されている。

 

 

赤レンガ倉庫から北陸学院ウィン館に向かう途中、飛梅・北陸学院前交差点に聖ヨハネこども園があった。もちろん、歴史的建造物ではない。日本聖公会金沢聖ヨハネ教会が運営する一時保育施設であるが、アントニン・レイモンド※風の特徴的なシルエットにシャッターをきった。

※アントニン・レイモンドは、チェコ系米国人建築家で、来日し、多くの洋風建築を残している。

 

 

ウィン館は、アメリカ人宣教師トマス・ウィンが1888年(明治21年)に建築したコロニアル・スタイル(独立前の米国植民地風)の洋風建築である。ミッション・ハウスとして、彼の家族をはじめ宣教師家族の宿舎として、また、1892年からは、妻のイライザ・ウィンが孤児院として使用した。ウィン夫妻が大阪に転任となった後は、1北陸学院保育短期大学附属第二幼稚園の園舎として使用された。現在は、北陸学院ウィン館となって一般公開されている。

 

 

金沢くらしの博物館(旧石川県第二中学校校舎)は、洋風木造建築(通称・三尖塔校舎)として、1899年(明治32年)に竣工。2017年(平成29年)国の重要文化財指定。

 

金沢くらしの博物館前にバス停があり、金沢駅に行く北鉄バスが丁度来た。昼食で行った「味処・たか木」、機器故障でクレジットカードが使えず小銭を使い果たしてしまっていた。Suicaが使えれば良いのだが、悲しいかな北鉄バスでは使えない。やむなくJRバスを探し、しばらく歩くことに。こんな時に限って、コンビニも見あたらない。でも、時間にも体力にも余裕あって良かった。(懐には余裕なくタクシーは使えず・・・笑)

 

 

最後に昼食の「たか木」の日替わりランチの写真をアップする。「味処・たか木」は、金沢で、食事をするときに行くお気に入りの居食屋だ。家庭的で、適度なボリュームで、リーズナブル、おすすめだ。

 

 

【メモ】

午後に金沢を散策した夜、GooBloogがきっかけで、繋がった“りくすけさん”と、はじめてお会いした。想像していた通りの博識で穏やかな紳士だった。

 

ここ十数年、インターネットを媒介に繋がった友人が増えた。年数回ほどリアルに会い、あとはメールで交流するスタイルの良い関係を継続している。インターネット繋がりの友人の影響は大きく、時として、僕の人生の新しい可能性へと導くこともある。

 

20年ほど前にPCのレクチャーをしてくれた上司の言葉を思い出す。「Windowsって、世界が見える窓だぜ。でも、窓から眺めているだけじゃダメだ。窓から見えたものを確かめに行くんだよ。」

 

インターネット(SNS)を起点とした交流が、犯罪被害の起点になっているとネガティブな議論がある。そのような側面が少なからずあると僕も思う。だから「SNSは危険だ」、「未成年者には使わせるべきじゃない」といった考えは、違うと思う。「ナイフは危険だから子供に使わせるな」と同じロジックだ。リスクをゼロにすると、将来の可能性もゼロにしてしまうのではないだろうか。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/柏崎

2022-08-14 13:29:02 | 旅行

2022年の記録

出張で訪問した柏崎と金沢行新幹線の車窓の夕陽の記録。

 

 

JRを跨ぐ高架橋から望む柏崎カトリック教会、手前は付属の白百合幼稚園。

 

 

東京から柏崎までは、上越新幹線長岡で、在来線に乗り換えて約2時間半、意外に近い。柏崎から金沢は、在来線を乗り継ぎ上越妙高から北陸新幹線で約2時間半、こちらは意外に遠いい。(個人の感想です。)

 

 

1本早く到着し、昼食前にカトリック柏崎教会を訪問した。1983年(昭和58年)起工のロマネスク様式の聖堂が建つ。駅から僕の足で10分ほど、と言っても炎天下の中、全身びっしょり、これから取引先に行くのに。(笑)

付属幼稚園の職員に声を掛け、神父に敷地内撮影の許可を得た。

以下、蛇足のメモ。駅前に戻り、昼食の店を探すも、僕の御眼鏡に適う店が見つからず。地方のJR駅前らしい寂れ方、ビジネスホテルのレストランに入り、海鮮丼を食べたが、価格も安いが、安さなりだったので残念。

 

 

新幹線はくたか号が、糸魚川駅に到着する直前に西の空が紅く焼けてきた。糸魚川駅を出発し、しばらく走ったところで、日没を迎えた。

日本海に沈む夕陽は、いつも美しい。なぜだろうか?太平洋にはない特別な空気があるのかもしれない。

 

 

【メモ】

安倍元総理銃撃事件以降、政治家と宗教の関係性の議論が続いている。誤解を恐れずに書くと、政治家と宗教の親和性は高いものである。大陸から日本に伝来した仏教の興隆は、聖徳太子という政治家によるところが大きい。キリスト教も然り、戦国大名に時計や望遠鏡を贈り、その見返りとして、当地での布教の許しを得ている。そもそも、キリスト教、イスラム教の地球的な布教は、為政者の領土拡大野心と背中合わせだった。

 

ただし、渦中の旧統一教会が、宗教団体かというと、甚だ疑問だ。もちろん、宗教法人として認証、登記されているのだから宗教団体だと言われれば、その通りなのだが、いわゆる“カルト”以外の何ものでもないだろう。

政治家が、旧統一教会の関連組織の選挙活動の支援を受けたり、逆に関連組織の会合に出席、メッセージ、祝電を送ったりしたことに「問題のある組織と知らなかった」と弁明している。

「あんたら票になれば、何でも良いのか?」 

白紙の契約書にサインするような無知、無責任な輩に日本を任せられない気持ちになる。

 

“反社”(反社会的組織)といいうと、暴力団を連想するが、“カルト”も反社だ。芸能人が、反社主催の飲み会に出席すれば、表舞台に立つことはできなくなる。それは、芸能人には、“広義の公人”の側面があるからだ。

「政治家(議員、閣僚)は、公人そのものではないのか?」 ガッカリである。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/蓼科 第3回

2022-08-12 17:13:11 | 旅行

2022年の記録

7月中旬、息子夫婦の新築宅を見に長野県箕輪町を訪問した道中の記録。

 

 

清涼な信州の空気感を感じて頂ければ、幸甚!

 

 

栃木県下野市から箕輪町までは、北関東道~関越道~上信越道~中部横断道~一般道のレギュラールート。佐久平ハイウェイオアシスでの仮眠もいつも通り。(夜10時すぎに下野市発、昼前に箕輪町着)

 

 

メルヘン街道の小海町千代里付近で日の出を迎える。東の空が明るみ、次第に橙色に染まる、何度眺めてもドラマチックだ。

 

 

早朝の御射鹿池、いつ来てもハッとする清々しい風景が広がる。但し、富士山、蓮の花に通じる誰でも様になる写真が撮れる、ただし、その域を超えることが、果てしなく困難な被写体だ。

 

 

蓼科大滝は、ガイドマップに掲載されているものの観光客の少ない穴場的なスポットだ。正直なところ、蓼科大滝や滝から流れ出た渓流は、日本各地にある滝、渓流と大差ない。しかし、滝までの遊歩道の山側には、もののけ姫を思わせる森林が広がる。

 

 

夏の高原を象徴する霧ヶ峰。遠く富士山の山影を望む。ニッコウキスゲは、最盛期をすぎていたものの緑の絨毯に鮮やかな黄色い花が映える。

 

 

【メモ】

8月6日広島市、9日長崎市の原爆記念日、そして、まもなく終戦記念日(15日)。今年は、ロシアのウクライナ侵攻、ペロシ氏訪台対抗軍事演習といやでも“戦争”を意識せざるを得ない。約80年前、日本も戦争の当事者だったものの我々日本人の大半は、幸せなことにリアルな戦争を知らない。

 

僕の父親は、太平洋戦争に出陣している。実際、父親の脛には、鉛色の散弾銃の弾痕がいくつもあった。しかし、父親は、戦争のことを語ろうとしなかった。僕が知っていることは、戦闘機で沖縄上空を旋回してきたこと、そして、忘れられないひと言、「俺は東大生だったので、特攻隊に選抜されなかった。学歴のお陰だ。」 終戦直前、父親は東京帝国大学の学生として出陣した。軍幹部も終戦(敗戦)が近いことを承知していたので、戦後の日本復興の担い手となるだろう高学歴エリートの命を特攻で海の藻屑にできないと考えたのだろう。「東大卒がみんな幸せで、中卒はみんな不幸か?」と大学進学を拒絶する僕に思い余って放ったひと言である。戦争体験の継承といったジャンルの話ではないかもしれない。しかし、僕にとっては、父親に聞いた唯一の戦争の話である。

 

 

旅は続く