Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/明治村

2023-03-26 15:03:23 | 旅行

2023年の記録

2月中旬、愛知県犬山市の明治村を散策したときの記録。

 

 

ネット記事か何かで、聖ヨハネ教会堂の写真を目にして、「そうだ、明治村に行こう!」って、気持ちになって来てしまった。すべての建築物を撮影したが、それをすべてアップしても、出来の悪い明治村観光案内にしかならないので、お気に入りを厳選してアップしている。

 

 

日本地図で、ワラビスタンと明治村をならべると、ほぼ真西にある。今、実際に明治村に行くときは、東海道新幹線、在来線、東名高速道路のいずれかを利用しても大きく弧を描くことになる。リニア新幹線が開通すると、弧は直線に限りなく近づく。

 

 

博物館明治村(通称「明治村」)は、愛知県犬山市にある野外博物館・テーマパークである。明治時代の建造物等を移築して公開し、また明治時代の歴史的資料を収集し、社会文化の向上に寄与することを目的に公益財団法人明治村により管理運営されている。

建築物の保存状態は良い、ただし、既述の通りの博物館、僕的には“剥製”である。それでも、1日掛けて散策する価値はあったと思う。

 

 

大井牛肉店は、神戸市中央区元町の相生橋東詰に建てられた牛肉屋兼牛鍋屋である。建物は木造2階建てだが、胴蛇腹と軒蛇腹をめぐらせた漆喰塗りの外壁に目地を入れることで、まるで石造建築のように見せている。半円アーチの上げ下げ窓とコリント式の装飾柱、2階ベランダの洋風デザインは、当時の神戸に多く見られた外国商館を彷彿とさせる。登録有形文化財。

館内では、牛鍋(5,000円~)が提供される。

 

 

三重県尋常師範学校・蔵持小学校は、当初、小学校教師の養成を目的とする三重県尋常師範学校の本館として津市に立てられ、その後、1928年(昭和3年)名張市に移築されて蔵持小学校として使われた。

建物は、木造2階建て、桟瓦葺きで、外壁は玄関部が漆喰塗り、教室部分は下見板張りになっている。登録有形文化財。

 

 

聖ヨハネ教会堂は、日本聖公会京都五条教会堂として1907年(明治40年)建設された。2階が会堂、1階は日曜学校や幼稚園に使われていた。

中世ヨーロッパのロマネスク様式をベースに、細部にゴシックのデザインをまじえた外観が特徴。正面の左右には高い尖塔が建てられ、奥に十字形の大屋根がかかる会堂が配されてる。京都の風土に合せて使ったといわれる天井の竹のすだれが明るい光を反射し、内部の印象は非常に開放的である。重要文化財。

“剥製”と揶揄したものの「美しい!」に尽きる。

 

 

西郷隆盛の弟、西郷従道が1880年(明治13年)に建てた接客用洋館。設計にはフランス人レスカスが関与している。耐震性を高める工夫がなされ、屋根には軽い銅板が葺かれ、野地板が斜めに張られているほか、外壁は柱間に落とし込んだ本実下見板張りとなっている。重要文化財。

 

 

東山梨郡役所は、1885年(明治18年)に日下部村に落成。当時の山梨県令であった藤村紫朗は、多くの擬洋風建築を建てさせている。(過去のブログ記事で一部をご紹介) 東山梨郡役所は、その代表格といえる。

建物は中央部分が2階建て(洋小屋)、左右翼部が平屋建て(和小屋)になっていて、小屋組の架構が複雑なのも特徴。重要文化財。

 

 

明治村村内を走る路面電車は、1912年(明治45年)に開通した京都市電・北野線を走行していた車両。(1910~11年製造)

 

 

北里研究所本館・医学館は、北里柴三郎博士自身が学んだ研究所にならい、ドイツ・バロック風を基調とし、腰折れ屋根やドーマー窓が特徴として、1915年(大正4年)に建設された。顕微鏡による観察を良好な条件で行えるように光の変化が少ない北に面して部屋が設けられている。登録有形文化財。

 

 

シアトル日系福音教会は、一般住宅として、アメリカ・ワシントン州シアトル市に1907年(明治40年)頃に建設された。当初はアメリカ人の住まいだったが、1930年代(昭和5~14年)に日系移民の所有となった。当時の所有者にとって、アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒家だったものの、第二次世界大戦時、日本人の強制収容により家を追われることになった。戦後は別の日系一世が買い求め、教会として使われたが、やがて日系一世が減少して役目を終え、明治村に移築された。

大量生産による規格木材を使用しており、2×4(ツーバイフォー)構法の先駆的な事例である。登録有形文化財。

 

 

宇治山田郵便局舎は、伊勢神宮外宮前に1909年(明治42年)に建てられた郵便局舎。木造平屋建ての銅板葺きで、中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根を伏せている。外部の装飾は北欧で見られるハーフティンバー様式で、漆喰塗りと下見板張りの壁が使い分けられている。重要文化財。

 

 

聖ザビエル天主堂は、16世紀に来日したフランシスコ・ザビエルを記念し、京都・河原町三条に1890年(明治23年)建てられたカトリック教会堂。フランスの篤志家から寄付を募って資金を集め、河原町三条にあった旧大名の蔵屋敷を購入して敷地を確保した。建設にあたり、図面はフランスから取り寄せた。設計は東京で在日宣教師の一人であったパピノ神父が担い、信者であり、大阪で大工の棟梁をしていた横田彦左衛門が施工した。登録有形文化財。

 

 

金沢監獄正門は、1907年( 明治40年)に建設された。西洋の城郭にも似たデザインで、赤レンガに白花崗岩の帯状装飾を入れたネオ・ルッサンス様式である。刑務所の閉鎖的で威圧的な印象ながら、その造形の美しさに目を奪われる。移築にあたり、レンガ造から鉄筋コンクリート造に改築している。登録有形文化財。

 

 

内閣文庫は、明治政府が中央図書館として、1911年(明治44年)に建設された内閣文庫庁舎の主屋部分。設計者は後に国会議事堂の建設を指揮することになる大熊喜邦。ルネッサンス様式を基調とした石と煉瓦で造られた建築で(移築時に構造は鉄筋コンクリート造に変更)、4本の円柱と2本の角柱が巨大なペディメントを受けている正面は、古代ギリシャ・ローマの神殿建築を思わせる。登録有形文化財。

 

 

大明寺聖パウロ教会堂は、長崎湾の入口に位置する伊王島に1879年(明治12年)に建設されたカトリック教会堂である。フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、大浦天主堂建設に携わった地元大工の大渡伊勢吉によって建設された。正面の鐘楼と入口土間は、昭和20年代に信者の浄財を元に増築されたものである。木造平屋建ての入母屋造り、桟瓦葺きでありながら、内部は後期ゴシック様式で、身廊と側廊をもつ三廊式(バシリカ式)。身廊の天井は後期ゴシックの教会堂の交差リブボールト天井を模して漆喰塗で作られている。登録有形文化財。

 

 

川崎銀行本店は、東京・日本橋のシンボルとして、永く人々に親しまれてきた。その正面左端の外壁が部分的に保存されている。ルネッサンス様式を基調とした本格的な銀行建築で、鉄筋コンクリート造(一部鉄骨)造の構造に、外壁は花崗岩積を使用。地上3階・地下1階、間口38m、高さ20mの堂々たる建造物として、1927年(昭和2年)建設された。明治村では、展望タワーとして使用されている。登録有形文化財。

※川崎銀行は、旧東京川崎財閥の中核をなす金融機関だった。戦後の財閥解体、銀行合併を経て、その流れは、三菱UFJ銀行へと繋がっている。なお、川崎重工業を中心にする神戸川崎財閥とは無関係。

 

 

菊の世酒造は、1868年(明治元年)頃に現在の愛知県碧南市新川に穀物倉として建てられ、その後1895年(明治28年)に刈谷市に移転、広瀬酒造の酒蔵となった。木造2階建ての桟瓦葺きに梁間9間(約16.3m)、桁行き18間(約32.7m)、幅2間(約3.6m)の庇がついた大規模な建物である。登録有形文化財。

 

 

金沢監獄は1872年(明治5年)制定の「監獄則並図式」に沿って、1907年(明治40年)に造られた監獄で、八角形の看守所を中心に5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置である。そのうち中央看守所と独居房として使用された監房の一部分が移築された。登録有形文化財。

 

 

高田小熊写真館は、豪雪で知られる新潟県高田町(現在の上越市本町)に1908年(明治41年)頃に建てられた写真館。明治時代の写真館といえば、文明開化の象徴のような存在で、この建物も、ハイカラな雰囲気を醸している。施工は、地元の大工によるものと思われるが、洋風2階建てと全体的に簡素な造りながら、人目を惹く洒落た魅力がある。増改築や模様替えをたびたび行いながら、昭和の時代まで、写真館として営業を続けていた。登録有形文化財。

 

 

帝国ホテル中央玄関は、20世紀建築界の巨匠フランク・ロイド・ライトによって設計され、1923年(大正12年)に建設された。

明治村といって連想するのは、帝国ホテル中央玄関である。(あくまで個人の見解) 観覧のフィナーレとしては、十二分な存在感だと、勝手に思っている。

 

 

極めて足早に駆け抜けた、外観を眺めて(撮影して)、内覧することなくスルーした建築物もある。天候にも恵まれGooだったが、しばらくしたらまた訪れたい施設である。

 

 

【メモ】

読者諸兄は、「物流の2024年問題」をご存知だろうか? 「物流の2024年問題」とは、トラックドライバーの年間時間外労働時間上限が960時間に制限されることにより物流のキャパが大幅に不足する問題だ。トラックドライバーの求人難から現役のトラックドライバーの長時間労働が慢性化している。

そもそも、求人難なのに長時間労働をしないと稼げないといった労働環境の悪さ、その根底にあるのは、運送コストを荷主、最終消費者に適切に転嫁できない日本の歪な経済環境にあるのかもしれない。

 

仕事柄、輸送費を低く抑える工夫をすることになる。具体的には、配送時刻指定の緩和や多少製造コストが高くても近くで製造するとか・・・。しかし、その結果、どうなるかと言うと、トラックドライバーの稼ぎは、低く抑えられたままになる。

もちろん、過労ドライバーによる自動車事故が減ることを考えれば、悪い話じゃないのだけど。

 

僕が20歳そこそこで、親の脛を齧っていた学生時代、最も羽振りの良い友人は、自衛隊を除隊したトラックドライバーだった。ハッキリ言って、中学生の頃の彼は、ヌボーとしていて、目立った存在ではなかった。その彼の奢りで飲みに行った。

「稼げるのは今だけ、トラックドライバーは、何年やっても給料はあがらない。年喰って、長距離を走れなくなったら手取りは減る一方、惨めになるだけさ。だから、稼げるときに稼ぐんだ。」と彼は言っていた。実際に30代も半ばになった頃、トラックドライバー辞め、実家にビニールハウスを何棟も建てた。兼業の零細農家に資金の貯えがあったとは思えないので、トラックドライバーの稼ぎが原資になっているのだと思う。

 

若い頃は、ガンガン働いて、野心や夢を実現する術が、安定と引き換えに失われるのかなぁ、と考えると、ちょっと寂しく感じることは、悪いことなのだろうか?

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/彩の国散策物語 第8回

2023-03-12 11:41:27 | 旅行

2023年の記録

晴天の続く2月、ワラビスタンの北側にあるさいたま市内の近代建築の散策したときの記録。

 

 

青空の下、美しい近代建築・旧埼玉師範学校鳳翔閣が建つ

 

 

さいたま市は、2001年(平成13年)に浦和市・大宮市・与野市の3市の合併により新設された。2003年(平成15年)に政令指定都市となった。2005年(平成17年)に東に隣接する岩槻市を編入して現在の市域となった。埼玉県の県庁所在地。

 

 

鳳翔閣(ほうしょうかく)は、埼玉県さいたま市浦和区(当時は浦和市)に所在した埼玉県師範学校(現埼玉大学教育学部)の建物の名称である。

1972年(昭和47年)に浦和市立郷土博物館 (現・さいたま市立浦和博物館、緑区三室) が開館し、その建物は、鳳翔閣の前面(玄関)外観の一部を復元したものとなっている。また玄関付近の装飾などは鳳翔閣時代のものを再利用している。

鳳翔閣までは、蕨→南浦和→東浦和とJRを乗り継いだ後バスで行った。

 

 

鳳翔閣前の市民病院からバスで大宮駅東口へ。駅構内を抜け西口ある大宮聖愛教会へ。

大宮聖愛教会は、大宮駅東口前にある日本聖公会の教会である。1934年(昭和9年) 竣工、鉄筋コンクリート屋根銅板葺き1階建て。

古さを感じる外壁は、夏になると蔦に覆われるので、建築そのものは、冬季の方が、良く見える。

 

 

大宮駅から東武アーバンパークライン(旧東武野田線)に乗り、岩槻下車、徒歩5分ほどのところに旧中井銀行岩槻支店がある。岩槻は、関東では「人形のまち」として知られたところで、付近は、人形屋が並ぶ。今は、さいたま市に編入されているが、北関東の地方都市の風情が残る。

旧中井銀行岩槻支店は、大正後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築で、2022年3月までは、東玉大正館として活用されていた。国登録有形文化財(建造物)として、保存されている。

 

 

【メモ】

ネットニュースを見ているとアホ臭くなって、読む気にならなくなる。

(僕は天邪鬼なので、WBCの話題は、敢えてスルーする。)

 

あれほど炎上した「スシローペロペロ事件」の二番煎じをやったバカ(関西弁のアホでなく、蔑視の意を含むバカ)が、逮捕された。

考えてみれば、当選してから1度も国会に出席せずに除名を検討されるバカ議員、その処分で、何時間も費やしているのもアホな話だ。そもそも、件の国会議員・ガーシー氏は、国会に出席しないことを「公約」していた。順法精神が疑われるような公約を掲げる候補者や政党に投票する国民も国民だ。

そのガーシー氏の所属するNHK党立花党首が、ガーシー議員が陳謝に応じないため引責辞任の意向を表明したまでは良いが、同時に『政治家女子48党』と改称した。どこまで、バカなのかと思わずにはいられない。

 

いずれのアホな事件も想定を超えるバカの登場で事件化した。

YouTubeは、社会を狂わす凶器なのか?

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第25回

2023-03-04 21:07:58 | 旅行

2023年の記録

コロナ禍もフェードアウトしつつある1月下旬、一般見学解禁となった都内のキリスト教系大学を散策したときの記録。

 

 

明治学院大学の美しい赤レンガ建築、待ち焦がれた訪問となった。

 

 

JR高輪ゲートウェイ駅から徒歩で明治学院大学へ。明治学院大学からは、白金高輪駅から地下鉄南北線、有楽町線を乗り継ぎ要町駅から立教大学へ。

 

 

コロンウィルス感染が拡大した2020年、多くの大学が一般見学者はもちろん在学生までも構内立入を禁止した。在学生、高校生見学者、卒業生・・・・へと構内入場が解禁され、今回散策した明治学院大学、立教大学とも一般見学者の入構が解禁された。

 

 

明治学院記念館は、ネオゴシック様式のレンガ造一部木造(屋根:銅板一文字葺)二階建。H.Mランディス宣教師設計(推定)で、1890年 (明治23) 年竣工された。1階に小チャペルを有する。

1979年(昭和54年)港区指定有形文化財に指定、2002年(平成14年)東京都「景観上重要な歴史的建造物等」に指定されている。

 

 

明治学院チャペル(礼拝堂)は、W.Mヴォーリズ設計により1916年(大正5年)竣工のレンガ造、一部鉄筋コンクリート造2階建。

(港区指定有形文化財、2002年度「特に景観上重要な歴史的建造物等」として東京都指定)

 

 

明治学院インブリー館は、1889年 (明治22年)竣工、設計者不詳、木造(屋根:銅板一文字葺)地上2階建。1995 (平成7) 年からオリジナル材料を活かした修復工事を実施。

1998年(平成10年)に国の重要文化財に指定、2002年(平成14年)に東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定された。

 

 

立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)は、1919年(大正8年)に他のレンガ建物群とともに竣工。関東大震災後に改修、また、戦後1998年に免振工事施工。東京都選定歴史的建造物。

綺麗に剪定されたクリスマスツリーの樹が温かさを感じる。

 

 

本館(モリス館)の設計は、マーフィー&ダナ建築事務所。正門をくぐると目の前に広がる建築で、大学のシンボル的存在となっている。米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから、モリス館の愛称がついている。東京都選定歴史的建造物。

 

 

メーザーライブラリー記念館(旧・図書館本館)の名称の由来は、旧館建設時に大きな貢献を行ったサミュエル・メーザー氏に因んだものである。東京都選定歴史的建造物。

 

 

第一食堂は、レンガ造りの外観や漆喰をまとった壁面など美しい雰囲気をもつ現役の学生食堂となっている。入口のドアの上にはラテン語で"食欲は理性に従うべし"と書かれている。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものとのこと。東京都選定歴史的建造物。

 

 

立教大学3号館は、寄宿舎西寮として建設され、1932年(昭和7年)まで寄宿舎として使用されていた。現在は、入学センターとして利用されている。東京都選定歴史的建造物。

 

 

【メモ】

「令和5年3月13日以降、個人の主体的な選択を尊重し、着用は個人の判断に委ねることになります。本人の意思に反してマスクの着脱を強いることがないよう、個人の主体的な判断が尊重されるよう、ご配慮をお願いします。」

厚生労働省発布のお知らせである。マスクを外すことも、政府の判断がないと、個人じゃ決められない日本国民。小学生向けのお知らせならともかく、ハッキリ言って、情けない。病的なまでの同調圧力を考えれば、「しょうがないね」に尽きる。

何しろ、自分たちの賃金値上も、企業間取引価格改定も、政府のあと押しがないと、自ら声をあげられない国民なのだから。

 

まもなく3月11日、つまり東日本大震災の日が来る。僕は、東日本大震災まで、日本という国が大嫌いだった。

「世界に対して、強く主張することもできず、ただニヤニヤして、最後にカネだけ出す日本。そんな日本が嫌いだ。」と、かつて中国人の友人に話した時、「あなたが、自分の国のことを悪く言うのを聞くのは、中国を悪く言われているのと同じくらい悲しい。」と言われた。

その日本という国に誇りを持てるようになったのは、皮肉にも東日本大震災が切っ掛けだった。被災者が、見ず知らずの人、それが外国人であっても、労り譲り合う姿・・・・・・・。

 

あれから12年、再び僕は、日本人に誇りを持てなくなりそうだ。

 

 

旅は続く