<管理人より>
12/7に開催された普天間緑ヶ丘保育園への米軍機の部品落下事故に関する報告会に参加された大久保厚さんから参加報告と写真をご寄稿いただきました。以下にご紹介いたします。
【参加報告】12/7普天間基地 緑ヶ丘保育園米軍機部品落下事故から1年の報告会
12/7(金)午後6時半開会の参議院議員会館講堂で開催された緑ヶ丘保育園交渉団の報告会に参加した。昨年の緑ヶ丘保育園屋根に落下した米軍機ヘリの部品落下事故から1年、園長と保護者3名が沖縄から上京し、対政府(内閣官房、外務省、防衛省)交渉をおこなったが、1年間何も進展していないことに保護者の絶望的な泪と訴えを聞いた。
保護者が立ち上がった理由は、日米が合意した普天間基地の飛行ルート外であることを知ってからだという。つまり保護者らは、米軍機がルート外の飛行を止めてほしいという「まっとうな」約束を守ってほしいというこの1点だけのために1年間活動してきたという。
しかし、政府への要望と解決を求めた交渉は全く改善されることがないことに、保護者の怒りのやり場のない慟哭を聴くこととなった。どうしてこのようなことが改善できないのかとつくづく思う報告会であった。
普天間基地に関して、この報告会に知ったことを以下に紹介したい。
1)普天間基地は何時頃できたか?
ご存じのように沖縄戦は1945年3月23日に米軍機による爆撃で始まり、6月23日に沖縄守備隊32軍牛島指令官の自刃で組織的な戦闘は終了し、9月7日の降伏調印式で正式に終了したと言われる。普天間基地は、45年6月始めに占領後、本土空襲のための飛行場として、地元地主や住民が北部収容所に連行されて、住民不在のなか、当時破格の2400メートルの滑走路をもつ基地として建設されたという。
2)普天間基地の柵はいつできたのか?
普天間は1963年まで、柵がなかったと言う。ここは、それまで、主に空軍のパラシュート着地訓練場であり、この訓練には柵は却って邪魔であったという。
3)普天間基地は今日のように機能しはじめたのはいつからか?
では実際に現在のような海兵隊の基地になったのは、69年本土復帰合意以降であり、第1海兵航空団が移設された時に始まるという。
4)普天間のある宜野湾市はどんなところだったか?
百田尚樹さんは沼地だった言うが、そうではない。もともとここは、首里城に繋がる松並木をもち、闘牛も盛んに行われ、観光地でもあった。戦前にはすでに1万人を越える人口であり、多数の集落と学校等があり、沖縄のなかでも有数の街であったという。
5)緑ヶ丘保育園はどんなところにあるのか?
緑ヶ丘保育園は、普天間基地の北端側にある。南端に米軍機が墜落した沖縄国際大学がある。緑ヶ丘保育園は、普天間基地のクリアーゾーンと言われるエリア内にある。
このクリアーゾーンは2006年、伊波洋一宜野湾市長(当時・現参議院議員)は、米軍飛行場の安全基準を入手し、同年11月1日に「危険性が放置されたままの現状と、更には軍事航空施設の安全基準に適合しない」ことがわかりました。この安全基準の普天間への適用について2008年9月に照屋寛徳衆院議員が、2012年4月には、糸数慶子参院議員が文書で、「米軍の飛行場安全基準があるのは承知しているか、普天間飛行場に当てはめると安全基準違反ではないか」と尋ねたところ、日本政府は「(安全基準は)米軍が作成し運用しているものであることから、お尋ね(普天間への適用)については政府としてお答えする立場にない」との全く無責任な回答をしたという。
6)飛行ルート外の上空通過を何故説明できないのか!
地位協定6条は、米軍の基地間の移動について航空法の国内法適用を明記にし、尚かつ米軍の基地安全基準にも違反する飛行を禁止することができない。地位協定の以前の日米合意事項が何故履行できないのかを明らかにされるべきである。
日本政府は、ルート外の飛行を禁止できない法的根拠を持たないと自ら責任を放棄する姿勢を変えない限り、この問題は解決の糸口さえもない。日米合意事項の遵守さえもできない現状は、全く論外そのものである。
報告会にて提供された現在の緑ヶ丘保育園の上空を飛ぶ米軍機とその騒音をYouTubeにアップした。是非アクセスしてみてほしい。
※YouTubeにアップされた保育園上空を飛ぶ米軍機の爆音の情報は→
こちら
(追記)
大久保さんのブログの記事のリンクは→
こちら