「生協だれでも9条ネットワーク」

日本国憲法と平和主義、民主主義を守る活動を進める生協関係者のネットワークのブログです

【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない④(大久保厚)

2019-01-31 23:59:34 | 情報提供

【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚④
①は→こちら ②は→こちら ③は→こちら

5)地位協定に関する問題点について
【空域問題】~前記「関連法令の範囲内」問題を参照。
【排他的管理権】~前記【1951 年 1 月ダレス第 4 次草案】③参照
【第一次裁判権放棄について】
①日本側の裁判権放棄について
行政協定案:「米国は米国安全保障軍が利用する日本国内のすべての施設・区域・区域に対して、排他的管理権を有し、かかる施設・区域内にある米国政府の人・軍属・その家族に対して、また日本人を除く前記施設・区域内にある全ての他者に対して排他的管理権を有する。日本当局は、前記の区域外において罪を犯した米国の軍人・軍属・その家族を米国に引き渡すものとする。
②行政協定(第 17 条 3 項 a)
「日本の当局は、米軍基地の外での犯罪については、米軍関係者を逮捕ることができる。但し、逮捕したあとはすぐにその身柄を米軍に引き渡さなければならない。」
③裁判権放棄(53 年10月28日)と身柄引渡(53 年10月22日)の密約
「日本側は著しく重要な事件以外は裁判権を行使しない。」→(1957 年までに第一次裁判権を有する約 13000 件のうち 97%を放棄)
「米軍関係者による犯罪が公務中に行われたどうかわからないときは、容疑者の身柄を米軍に引き渡す」→2011 年発生の米軍関係者による「一般刑法犯」の起訴率は、13%(沖縄 22%)であり、全国平均 42%に比べ大幅に低い。
④「公務」の定義「56 年3月合意」
「行政協定(第17条3項 a)ii にいう「公務」とは合衆国軍隊の構成員又は軍属がその認められた宿舎又は住居から直接に勤務の場所に至り、また勤務の場所から直接その認められた宿舎又は住居に至る往復の行為を含むものと解釈される。但し合衆国軍隊の構成員又は軍属がその出席を要求されている公の催事における場合を除き、飲酒した時は、その往復の行為は、公務たる性格を失うものとする。
【防衛負担金(558 億円)廃止後の負担分担】
⑤「日本国は、第2条、第3条に定める全ての施設・区域並びに路線権(飛行場及び港における施設・区域のように共同で利用される施設・区域を含む)をこの協定の存続期間中合衆国に負担をかけないで提供し、かつ相当の場合には施設・区域並びに路線権の所有者及び提供者に補償を行うことが合意される。」→上記以外は、すべて米国もちであることが明記された。
【沖縄返還時の「その他費用」の負担】
⑥「日本政府は、この取り決めにおいて、とくに定めがない限り、返還された日から 5 年以内に基地の移転費用及び返還に伴って米政府の予算支出を必要とするすべての項目について、合意された物品と役務によって 2 億ドル相当を提供する義務を負う。」→最終的な金額は、修理、保守、修繕、改造、拡張、増築、修正及び米国が許可した施設の新築費用として 6450 万ドルを要求、これを地位協定第24条の解釈の幅を持たせることで支出するよう求めた。
【インフレ及び円高による米軍基地日本人労務費用分担】
⑦「77 年12月、日本側は、法定・任意福利費及び労務管理費の負担、及び賃上げ分の負担(62億円)で合意した。総額 1000 億円の在日米軍基地従業員労務費の 6%に相当した。
⑧「78 年12月、10%の格差給、語学手当、国家公務員水準を上回る退職手当、格差給と語学手当の他の諸手当の参入分を負担する(140 億円)ことで合意した。
【地位協定24条に対する特別措置協定】
⑨その後も日本側の分担額は、80 年:147 億円、81 年:159 億円、82年:164 億円、83 年:169 億円、84 年:180 億円、85 年:193 億円、86 年:191 億円と増加の一途を辿った。そして 87 年1月、米軍基地で働く日本従業員に対する調整手当・扶養手当・通勤手当・住宅手当・夏季手当・年末手当・年度末手当・退職手当の支払いに要する経費の一部を̶̶その二分の一に相当する金額を限度として̶̶負担する特別協定が締結された。
⑩91 年には「新たな特別の措置」協定が結ばれた。その第1条には、以下の全部又は一部を日本側が負担するというものである。
a)基本給、日雇い従業員の日給、特別期間従業員の給与、時給制臨時従業員、劇場従業員の給与
b)調整手当・解雇手当・扶養手当・遠隔地手当・特殊作業手当・夏季手当・年末手当・寒冷地手当・退職手当・人員整理退職手当・人員整理按分手当・通勤手当・転換手当・職位転換手当・年度末手当・夜間勤務手当・住居手当・単身赴任手当・時間調整手当・時間外勤務手当・時給制臨時従業員の割増給、祝日給、夜勤給、休業手当及び時給制臨時従業員の業務上の傷病に対して認められる日給
c)船員の有給休暇末付与手当、危険貨物手当、機関部手当、機関作業手当、消火手当、外国船手当、外国航路手当、出勤手当、小型船手当、油送船手当、引き船手当及び船長・機関長手当。また第2条では、「公益事業によって使用される電気・ガス・水道・下水道、前記を除く「暖房用、調理用、又は給湯用の燃料」に関わる代金または代金の支払いに要する経費の全部と一部を負担することが規定された。
⑫2015 年までに労務費2兆 8663 億円、水道光熱費 6153 億円が予算化された。また 2016 年度から 2020 年までを有効期間として、平均で1893 億円を負担する特別協定が合意された。
【日米合同委員会~密約製造マシン】
⑬ダレスの安保協定案には、日本が 50 年7月にマッカーサーの命令で設けた警察予備隊とは別に軍事組織を創設し、それらの軍事力が有事には米国人司令官による「統合的指揮下」に入るという「集団的防衛措置」があり、日本側は反発した。
⑭日本政府は、条文の削除を要請したが、それは秘密にしてほしいという要請であった。それまで主として、基地の設定、米軍の特権などの関わる準則の設定を想定したが、委員会は、再軍備や「安全保障」計画の策定という日米安保条約に関わるすべての業務へと役割が拡張、機密化することとなった。
⑮55 年の合同委員会の論議は。a)空軍基地 滑走路拡張b)演習場その他の基地をめぐる紛争c)米軍の法的地位と特権d)米軍に雇用される日本人労働者の問題などであった。
⑯c)「米軍の法的地位と特権では、53 年 10 月~55 年 3 月までの米軍人の国内犯罪総数は、9416 件でその内の起訴率 215 件(2.28%)に過ぎない。
⑰d)「米軍に雇用される日本人労働者の問題」では、「保安解雇」の討議はかなりの数に及んだ。つまり労組活動を重大な脅威として、解雇することを指した。そのなかに労組委員長に決定後にその仕事上の能力を理由で懲戒解雇した三沢駐屯軍事件がある。また「第六あけぼの丸」も討議されていた。
⑱合同委員会に提出された 1972 年沖縄返還時に作成された 5・15 メモは、1997 年になって漸く公開された。政府の拒否理由は、a)非公開が前提の討議であり、忌憚のない協議と意見交換が可能である。b)基地をめぐる諸問題には、日米間の国家全体、日本の国内諸勢力、それに基地が所在する地域社会といったさまざまなアクターの利害が複雑に絡みあっており、公表を前提とした協議では、その調整が難しい。

6)地位協定をめぐって~日本の戦後が終わらない~
 沖縄は、占領下のもとで統治権を自らの手によって獲得し、日本政府の主権回復を 72 年自らの自決権を獲得すべく本土復帰を果たした。日本は、52 年に「独立」したというが、その主権は占領時代の米軍の駐留支配を安保条約と行政協定に置き換えたに過ぎない。その統治構造に対する闘争は、1957 年の「日本本土の地上部隊の撤退」の到達点のうえに 60 年安保改定阻止闘争をピークに達した。その後の日本の統治に関する闘争は、64 年以降のベトナム反戦運動と 70 年安保、72 年沖縄返還以降、日本本土では基地を抱える地域を除けば、大きな運動となることはない時代を過ごしてきた。
 地位協定は、52 年「独立」の負の象徴である。民主憲法の体系どころか、政府が自ら指揮・管理できない米軍に自らの安全保障を委ねるという世界に類を見ない奇形な「統治」形態を 65 年以上続けており、地位協定はその象徴に他ならない。
 地位協定27条は「両国はいつでもいなかる条文の改定を要請できる」とする条文をもつ。しかし、この協定は一度も改定された過去をもっていない。それどころか、自衛隊予算の着実な増加という流れになかにあっても、24条の基地費用負担条項を拡大解釈し、77 年以降二度にわたる「特別(措置)協定」を結び、「思いやり」を遙かに超える負担肩代わりのみが貫かれる構造下にある。
 さらに日米合同委員会は、極めて高度な秘密組織であり、対米密約の製造機に他ならない。ここにも、日本はその歪な統治構造を内包する国家であることを晒してきた。
 2018 年 7 月 27 日、全国知事会は、日米地位協定改定の提言をまとめ発表した。変えても変えなくとも役割の変わらないという改憲などをしている暇はないはずである。
 地位協定は、まさに戦後歴代政権の「レジューム」そのものであり、戦後占領政策をそのまま継承する隷属性の強い「レジューム」:「地位協定」の改定からまず着手すべきである。
 日本の戦後は 99 年経っても(永久に)終わらない。

[参考文献]
『沖縄戦後民衆史』:岩波現代全書(森宣雄)
『日米地位協定その歴史と現在』:みすず書店(明田川融)
『沖縄と海兵隊』:旬報社:野添文彬・山本章子他
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【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない③(大久保厚)

2019-01-30 23:58:09 | 情報提供
【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚③
2.日米地位協定について
1)日米行政協定
①旧安保条約第 1 条(1952 年4月 28 日発効)
・平和条約及び安保条約の効力が発生すると同時に米軍を日本国内及びその
周辺に配備する権利を日本は認め、アメリカは受け入れる。(基地権容認)
→「その配備の内容は、行政協定で決定する」
②行政協定(1952 年4月 28 日発効)
・具体的な内容は、日米合同委員会で定める。
→基地以外の外でも必要な権力をもつ。具体的には日米合同委員会で協議する。

2)日米地位協定条文
①1960 年 1 月 19 日改定された日米安保条約の第 6 条(基地の提供)に基づき、以下の 28 条からなる。(協定は「基地」を「施設・区域」と表現する)
1 条 定義(軍構成員・軍属・家族)
2 条 日本全土で基地の使用が認められる。(自衛隊を含む)
3 条 基地の排他的管理を持ち、自由に出入りできる。
4 条 基地返還の際に米軍は原状回復・補償の義務は負わない。
5 条 民間空港・港湾・高速道路に出入りできる。利用料は免除。
6 条 航空管制の優先権を与える。
7 条 日本政府の公共事業、役務を優先利用ができる。
8 条 日本の気象情報を提供する
9 条 旅券なしで入国・出国できる。
10条 日本の運転免許なしで運転できる。
11条 関税・税関検査を免除する
12条 物品税・通行税・揮発油税・電気ガス税を免除する。
13条 租税公課を免除する
14条 身分証明を有する指定契約者は、免税などの特権を与える
15条 基地内の各種サービス施設を設置でき、日本税法を除外する。
16条 日本法令の遵守、とりわけ政治活動を慎む。
17条 「公務中」の事件・事故で第一次裁判権を有す。
18条 被害者補償は「公務中」で米国が 75%支払う。「公務外」は示談。
19条 日本政府の外国為替管理に従う。
20条 ドル表示軍票の基地内使用と金融管理機関を設置できる。
21条 米国軍事郵便局を設置できる。
22条 米国市民の予備役団体活動を認める。
23条 米軍関係者の財産の安全を確保するための措置を講ずる。
24条 基地費用を負担。(思いやり予算に援用。)
25条 日米合同委員会を設置する
26条 両国政府の国内法により承認し、交換公文をもって発効する。
27条 両国はいつでもいなかる条文の改定を要請できる。
28条 協定は、相互協力・安保条約が有効である間、有効とする。

3)「日米行政協定」の成立過程(「日米地位協定~その歴史と現在」より)
【1951 年1月ダレス第4次草案】
①米国軍隊主体に組織される「国連保障軍」は占領終了時に占領軍の管理下にある施設に駐屯することを通例として、占領軍が要求した施設または区域はすべて安全保障軍の管理下に維持される。
②安全保障軍は、平時においても、日米両政府の同意を経て、軍事演習、集結拠点・射爆撃城・中継飛行場などの用に供するため適切な規模と位置の地上及び沿岸区域を追加しようする権利を有する。
③米国は安全保障軍が使用する日本国内のすべての施設及び防衛、それらのなかにある軍人・軍属・それらの家族に対して排他的な裁判管轄権を有す。
④日本区域において有事が生じたと米国政府が判断した場合、日本にある全ての同盟・協力国軍、警察予備隊、及び日本の他の軍事力は、日本防衛にコミットする政府と協議したのちに米国政府が指名する最高指令官の総合的指揮のもとに置かれる。
【ダレスの危惧と日本の対応】
⑤ダレスの危惧:米国が「日本国内の望む場所に、望む期間、望む数の軍隊を駐留させる権利を獲得できるのかどうか」であり、「じっさい、米国にそのような特権を許与する政府は、日本の主権を毀損することを許したとして、非難の的になるだろう」
⑥ダレスが懸念したことは実際にはそうならなかった。日本側の最初の段階(51 年 1 月 30 日)で、「対外的な安全保障は軍隊の駐留といった適切な方法により、国連、とくに米国との協力によって確保することを希望する。」旨を申し出た。(吉田茂「我が方見解」)
【全土基地方式】
⑦「このようにみてくると米国は日本の本土を基地とするとは書いていないと思われるかもしれないが、これらの行動を行うにあたり、「最高指令官」は̶̶日本のしかるべき代表者と「協議する」との但し書きがついているものの̶̶「敵対行為または敵対行為の急迫した危険が生じたときは、その必要と思われる日本区域内の地上地区、便益及び施設の使用並びにその必要と認める軍事力の戦略的及び戦術的な配備を行う権限を有す」と規定されている。
【不平等協定の論理】
⑧豊下楢彦氏は、ダレスが演説において、「米軍の駐留は日本側の要請に応えて、米側が「同情をもって」与える「恩恵」なのであり、したがって日本側がその貢献(再軍備)を果たすまでは、米側に日本を防衛する義務はなく、自らの判断で何時でも軍隊を撤退させる「自由」をもつという“論理”を獲得したことを重視する。この理論が米国内の”安保タダ乗り論“へと発展し、のちの再軍備要求、「応分の貢献」論、「おもいやり予算」、そして、不平等な地位協定に代表される日米関係を大きく規定する論理となったという重要な指摘を行っている。
【条約と協定の棲み分け】
⑨当初は、安全保障に関わる取り決めは、ひとつの「協定」にすることで、交渉が進められたが、米軍の特権や日本の再軍備が同協定に明記されることを拒んだ日本側の要請により、大綱的部分を「安保条約」に実質的部分を「行政協定」として締結することとなった。
【「関連法令の範囲内」規定】
⑩原則として施設・区域内においてそれらの設定、運営、警備及び管理のために必要なすべての措置は米国が行い、施設・区域の隣接地、近傍地、領水、空間においては、米軍の出入りの便を図るのに必要な措置は、日本政府が米国の要請により合同委員会を通ずる両国政府の協議のうえ、関連法令の範囲内で行うことを規定することになった。但し、これらの措置は、合同委員会を通ずる両政府による協議のうえ米国もできる旨の一項が置かれ̶̶米側について「関連法令の範囲内で」という限定は付いていない。
【条件付き空域設定】
⑪52 年6月合意:「一時的な措置として、我が国の自主的な実施が可能となるまでの間、日米間の意見の一致を見た時に、日本側が航空交通管制に関する全責任を負うことして、米軍は軍の施設で行う管制業務を利用して、民間航空の安全を確保する」ことが定められた。「空の主権回復」は条件付きだったのである。」

4)日米地位協定への移行過程(行政協定と変わらない)
【59 年 6 月合意】
①米軍に提供している飛行場周辺の飛行場管制業務、進入管制業務を除き、全て日本側において運用する。
②防空任務に従事する軍用機に対しては、交通管制上、最優先権を与えること。
③これらの軍用機の離着陸に際しては、その迅速な行動を可能ならしめるために予め定められた一定の空域をあけるよう他の航空機の管制がおこなわれること。
④防空上緊急の必要があるときは、防空担当機関は、保安管制を行うこと。
などに改定された。
【排他的管理権に関する密約(新原昭治氏)】
⑤日本国における合衆国軍隊の使用のため、日本国政府によって許与された施設・区域以内での合衆国の権利は、1960 年1月 19 日にワシントンで調印された協定第3条1項の改定された文言のもとで、1952 年 2 月28 日に東京で調印された協定のもとで変わることなく続く。
【関連法令の範囲内規定(新原昭治氏)】
⑥このあとに「関係法令の範囲内で」という文言に関して、現に効力のある法令が不適当であることがわかった場合、日本における米国軍隊の防衛責任が満足にできる形で果たせるようにするため日本の法令の改正を求めることの望ましさまたは必要性について、合同委員会は論議する」と続いている。
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【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない②(大久保厚)

2019-01-29 23:57:25 | 情報提供
【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚②
4)北緯 29 度以南の分離と沖縄の要塞化
①中国の青島「花石楼(蒋介石別荘)」には以下の記述がある。
「45 年 9 月日本軍が無条件降伏すると、国民党軍は共産党支配地を攻撃し、国共合作は崩壊した。46 年 7 月から国共内戦が本格化し、人民解放軍は 48年に東北を奪回し、49 年に北平(現北京)に入城、4 月南京を占領する。蒋介石は、政権を広州に移すが、自身は、米軍基地のある青島に逃走した。蒋介石は、米軍の青島駐留を望み、秘密協定を結び、一時 20 万人を駐留させた。5 月人民解放軍は、青島攻略を宣言し、6 月 2 日、米軍は撤収した。」
②49 年 10 月 NSC13/3 政策転換=「沖縄要塞化と長期支配」
・軍事基地を長期保存し、基地開発を進める
・沖縄基地安定化のために、経済的、社会的福祉計画を実施する。
・長期的戦略支配を可能とするための国際的承認を追求する。
③1949 年からの基地建設ブーム
沖縄島だけでは人手が足りず、宮古、八重山などの先島離島、そしてなにより「琉球」の辺境として当時貧窮に追い詰められていた奄美諸島から労働力が調達された。その数3~7万人、最大で奄美人口の3分の1が沖縄にきていた。

5)島ぐるみ闘争と 57 年岸・アイゼンハワー共同コミュニケ
①53 年3月講和後の新たな基地建設のための土地収用法が公布されて現那覇市の安謝、銘苅、小禄などで武装米兵による暴力的な土地接収が始まった。
②55 年3月と7月に米軍は、数百の武装部隊による伊江島・伊佐浜の軍事制圧に乗り出した。陸海で展開する部隊の前に座り込んだのは、老人、子供も無防備のまま殴る蹴るの暴行を受けて、逮捕拘引され、家屋や田畑は焼き払われ、ブルドーザーで敷きならされた。
③56 年沖縄統一メーデー大会の勢いをえて、立法院は5月19日、「軍用地問題に関する四原則」を全会一致で採決した。
・軍用地料の一括払いによる土地買上反対
・新規接収に反対する。
・適正補償・損害賠償。
④56 年5月沖縄からの渡米折衝団の要請でアメリカ下院軍事委員会派遣調団は、この沖縄四原則を全面否定する報告書:プライス勧告を発表した。
⑤56 年6月、行政院、立法院、市町村会、土地連合会(4万地主)からなる四者協議会は。四原則貫徹で総辞職し、翌日総辞職「決意書」を民政府に提出。島ぐるみ闘争の開始である。
⑥「1957 年1月30日、群馬県相馬が原演習場にて、米兵が薬莢拾いをしていた日本人女性を射殺するという、いわゆる「ジラード事件」が起こる。同事件に触発されて、1956 年9月7日に静岡東富士演習場で、第三海兵師団第三連隊の兵士が、同様に薬莢拾いの日本女性を撃った事件についても、国会で野党が取り上げるようになり、日本政府が遅まきながら、調査をはじめざるを得なくなった。」(「沖縄と海兵隊」P40 )
⑦57 年6月岸・アイゼンハワー共同コミュニケ:「合衆国は、日本の防衛力整備計画を歓迎し、よって、安全保障条約の文言及び精神に従って,明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国陸上戦闘部隊のすみやかな撤退を含み、大幅に削減する。なお合衆国は、日本の防衛力の増強に伴い,合衆国の兵力を一層削減することを計画している。」
⑧このコミュニケは、日本政府が始めて、北緯 27 度以南の琉球諸島に対する「潜在主権」をもつことを両国間で公式に確認した。これは講和条約締結時に用意した〈住民の主権性〉封じ込めを現実に発動させた「島ぐるみ闘争」の鎮圧策であった。この声明により、社会運動で沖縄住民の発揮しつつある自己決定権が日本政府による決定に従属するものであることが明確にされた。そのため米軍統治下からの解放という課題にかかわって、沖縄の政治空間は、それ自体では完結できない̶̶これが最大のポイントであった。戦後沖縄の社会運動は、沖縄内部の自治社会の建設に基礎を持ちながら、日本を単位とした主権の回復に解放の展望に求めざるをえないように構造設定されていた。
⑨「50 年代の極東米軍再編の過程で、1957 年の陸上兵力撤退の決定を境に、在日米軍基地が文官や補給部隊が駐留する後方支援部隊へとその役割を転じた。逆に、沖縄には 1960 年に陸軍第一特殊部隊が配備され、さらに 1961 年から 1963 年にかけて、戦闘戦力が倍増された結果、1965 年初頭の時点で陸軍1万 4000 人、海軍 2000 人、空軍1万 2000 人、海兵隊2万人が沖縄117 ヶ所の基地に駐留するに至る。同年に米国がベトナム戦争への本格介入を開始すると、沖縄は、出撃基地としてだけでなく、対ゲリラ戦の訓練基地、補給基地、運輸・通信の中継基地として重要な役割を担うようになり、同島に駐留する米軍兵力や爆撃機と戦闘機の数はさらに膨れ上がった。(「沖縄と海兵隊」P45 )

6)沖縄返還と在沖海兵隊(以下「沖縄と海兵隊」より)
①「69 年1月に発足したニクソン政権は、(中略)1969 年から 1972 年にかけて、南ベトナムから約47万人(主に陸軍)、韓国から約2万人(主に陸軍)、フィリピンから約1万人(主に海・空軍)の米軍が撤退することを発表した。」
②「沖縄返還が合意されたまさにその時期に、沖縄にはベトナムから撤退した米海兵隊が再配備されていく。1969 年7月から8月にかけて第9海兵連隊がキャンプシュワブへ、11 月には、第3海兵師団司令部がキャンプコートニーへ、同時期に第4海兵連隊がキャンプハンセンへ、1971 年8月には第12海兵連隊がキャンプヘイグへ、それぞれ再配備された。また 69年 11 月には第 1 海兵師団を構成する第36海兵航空群が、普天間基地を本拠地とする。さらには、1971 年4月には第3海兵水陸両用軍司令部がキャンプコートニーへ移転する。こうして在沖海兵隊は、1967 年の1万人から、1972 年の約1万 6000 人へと増大した。」
③「1970 年1月の記者会見で、チャップマン海兵隊総司令官は、「沖縄返還後も沖縄の海兵隊基地を整理縮小または撤退させる計画はない。半永久的にこれらの基地を残すというのが、我々の計画である」と宣言している。3月チャップマンが米下院軍事委員会で説明したところによれば、ベトナムから撤退した沖縄の米海兵隊はいつでもベトナムに出動できる態勢になっていた。(朝日新聞 1970 年 3 月 12 日夕刊)
④「ところが、日本政府は、日本本土の米軍プレゼンスの縮小によって、むしろ沖縄に駐留する海兵隊をより重視するようになっていく。1970 年末の防衛庁内での論議では、在日米軍の削減によって、有事において米軍が来援するという「大きな前提の決め手の人質がいなくなる」ので「米軍が来ない危険性」があるという懸念が指摘される。それゆえ、「アメリカはどこまで引くかという歯止めが必要」で、沖縄の米軍基地や海兵隊は「抑止力として最低必要なもの」だと論じられていた。」
⑤「久保拓也防衛庁防衛局長は、1971 年 2 月の論文で、アジアからの米軍の大幅縮小を予想した上で、日本有事において、「日本に米軍の第一線兵力がいない場合、米軍の来援が制約される可能性」があることを懸念している。なぜなら、もし日本に米軍が駐留しなければ「人質がいないので事実上米軍が自動的に介入することにならない。」ということが考えられるからだった。それゆえ、久保は「米国の第一線兵力の一部が日本の領土(たとえば沖縄)に顕在することが望ましいこととなった場合、日本は、将来 NATO諸国の如く、米国より防衛費の分担を要求されることのありうべきことも考慮しておく必要があろう」と論じた。つまり久保は、沖縄をはじめとして日本国内に「人質」としての米軍は駐留し続けるため、日本政府が防衛上の負担分担を引き受ける必要を示唆したのである。」

7)金武湾をめぐる反公害運動(現在の沖縄の住民運動の原点として)
①1960 年代半ばから、琉球政府は基地依存経済から脱却しようと日本資本の誘致による「平和産業」への転換に取り組んできた。これを受けて日本政府はと三菱グループは、沖縄島東海岸の金武湾(辺野古が面する大浦絵湾の南)に大浦湾南に世界最大 2600 キロリットル規模の石油備蓄基地(CTS)やアルミ工場、原子力発電所など巨大コンビナートを建設する計画をたて 72 年復帰直後に駆け込みで、琉球政府から許可を得て埋め立てを開始した。(1000 坪の内、発覚時 73 年夏の64万坪で埋め立てを阻止)
②米軍統治記に建設された石油関連施設は、すでに東海岸で深刻な公害被害を生み出しており、そこに巨大な CTS 建設が重なれば、東海岸は、生物の棲めない死の海とかすことが明らかだった。そのため計画が露呈した1973 年夏以降、沖縄中部の与那城村・具志側(現在はともにうるま市)の地元住民を中心とした「金武湾を守る会」の反公害住民運動が激しく展開された。
③金武湾闘争は(1973 年~83 年)は、それ以降、「一坪反戦地主会」(83 年~)、新石垣空港建設をめぐる白保の海を守る運動(83 年~)、恩納村都市型戦闘訓練施設工事阻止(89 年~92 年)、本部村の自衛隊 P3C 基地阻止運動(88 年~08 年)など、地元住民や反戦地主などの当事者を外部の幅広い支援体制で包み込んで守り、1歩ずつ地歩を固めていく運動が続いた。
④「金武湾を守る会」は、a)組織の論理の押し付けを防ぐため、団体加盟を禁じ個人加盟とする。b)会長はおかず、会議・集会に参加した全員が代表となり、トップの籠絡による切り崩しを防ぐ。c)地元住民が主体となり、党派の内ゲバは排除する方針を立てた。

8)辺野古新基地建設
①1995 年5月9日、沖縄北部のある町で、文房具点でノート買って家路を急いでいた小学6年生が後から掴まえられ、自動車に押しこめられ連れ去られた。激しく殴打され、目も口もガムテープでふさがれ、抵抗したため、手も足もぐるぐる巻きにされて、ビーチでレイプされ、放置された。少女は警察に被害届を出し、担当の弁護士に「あの悪い兵隊たちは二度と外に出られないように、一生刑務所に閉じ込めてください」と頼んだと言う。
②犯行からまだ間もない。沖縄県警は、緊急配備を敷き、現場を確保、遺留品のビール瓶から指紋を採取し、犯行に使われたレンタカーを割り出した。8日米兵三人の逮捕状をとり、米軍に身柄の引く渡しを要求した。だが米軍は、日米地位協定を盾に、起訴前の身柄引渡を拒否した。
③丁度その時、国連の第4回世界女性会議・北京 95 から帰国したばかりの沖縄の女性人権団体のメンバーたちが、ラジオ・新聞が伝えたこのニュースに愕然として、わき目を振らずに、走り出した。「一刻も猶予できない」。二年前にも同様の事件で被害届を出した女性が現れたが、米軍が身柄引渡を拒否している間に容疑者は逃亡した、4ヶ月後にアメリカでつかまった時、孤立感を深め、被害者は、告訴を取り下げてしまっていた。
④週明けの 11 日午前、那覇市議の高里鈴与さんを中心とする北京 95 実行委員会と東門美津子副知事は、県庁で抗議声明を発表した。軍隊に NO!を突き付ける声が全沖縄に広がった。
⑤96 年末、沖縄の基地負担軽減のため、市街地の真ん中にあり、老朽化た米軍普天間飛行場を閉鎖し返還する日米合意は米側が主導して発表された(SACO 合意)。
⑥これまでと同様に代替施設をつくるとの条件がつけられ、97 年1月さっそく、地元辺野古地区による「命を守る会」が結成された。沖縄戦を体験したお年寄りが精神的な支柱となり、基地建設反対運動は、急速に名護市全体に広がった。だが当初は明確だった市長から商工会まで含む全市的な反対姿勢は、政府のなりふりかまわぬ利益供与(賛成派一人あたり数万円の金銭授受などの噂が絶えなかった)や振興策提案によって上層部から切り崩されていった。
⑦名護市民は、一からの手作りで、市民投票条例を制定し、97 年 12 月建設反対が多数を占める勝利を収めた。しかし比嘉鉄也市長は、大田昌秀知事に面会を求めたが、かなわず孤立して上京し橋本首相らと面談した。そして投票から3日後 12 月 24 日、基地受入と市長辞任を発表した。
⑧98 年2月の名護市長選は、前市長が後継指名した一坪反戦地主であった岸本建男が僅差で勝利し、11 月沖縄県知事選は、基地受入派が推す稲嶺恵一が基地反対の大田知事を破った。
⑨99 年末知事・名護市長が、15 年使用期限などの条件付きで基地建設受入を正式表明した。その見返りとして、2000 年からの毎年 100 億円、10 年間で 1000 億円を投下する北部振興事業がスタートした。更に7月とどめを刺すように名護市で G8 サミットが開催された。
⑩2005 年海上案の撤回を余儀なくされた小泉内閣の後を継いだ第一次安倍政権は、2007 年3月、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)の記述を「誤解を招く」と、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を修正削除させた。続いて5月、辺野古沿岸部の事前調査のために、大砲・重機関銃を装備した自衛隊掃海空母「ぶんご」を投入した。
⑪07 年9月、開催された教科書検定に抗議する超党派県民大会は、宜野湾市の主会場に11万人、会場に入りきれない人が約1万人、宮古・八重山会場に6千人、人口 130 万人の「県民の10人に1人」が集まり、復帰後最大の集会となった。
⑫大人たちのなかでもっとも喝采を浴びたのが、うちなーぐちをまじえて熱烈な演説を振るう翁長武志さん、自民党の那覇市長であった。「いまこそ、国は、県民の平和を希求する思いに対し、正しい過去の歴史認識こそ未来の道標になることを知るべきだ。沖縄戦の実相を正しく後生に伝え、子供達が平和な国家や社会の形成者として育つ為にも県民一丸となって、強力な運動を展開しよう。」
⑬岩波・大江「集団自決」訴訟も、「自由史観研究会」支援の原告敗訴の判決が3月にだされた。08 年7月沖縄県議会は、辺野古への移設計画に反対する決議を可決した。
⑭2009 年政権交代で首相の座についた民主党鳩山由紀夫は、普天間基地の県内移設を一度は取り下げ、県外・国外の移設先を探したが、翌 2010 年 5月の日米首脳会議で、ふたたび、辺野古案に回帰し、責任をとって辞任した。
⑮2010 年 12 月森本敏防衛大臣は、普天間飛行場の移転先は「軍事的には沖縄でなくともよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」、日本国内には米軍基地を「許容できるところが沖縄にしかない」。

 沖縄の歴史を振り返り、一番感じたことは以下の通りである
 今日の沖縄に関わる基本的な問題構造は、1957 年の「57 年6月岸・アイゼンハワー共同コミュニケ」のなかにある。57 年 6 月岸・アイゼンハワー共同コミュニケは、日本政府が始めて「北緯 27度以南の琉球諸島に対する「潜在主権」をもつことを両国間で公式に確認した。これは講和条約締結時に用意した〈住民の主権性〉封じ込めを現実に発動させた「島ぐるみ闘争」の鎮圧策であった。この声明により、社会運動で沖縄住民の発揮しつつある自己決定権が日本政府による決定に従属するものであることが明確にされた。そのため米軍統治下からの解放という課題にかかわって、沖縄の政治空間は、それ自体では完結できない̶̶これが最大のポイントであった。
 戦後沖縄の社会運動は、沖縄内部の自治社会の建設に基礎を持ちながら、日本を単位とした主権の回復に解放の展望に求めざるをえないように構造設定されていた。
 つまり
①米国の陸上戦闘部隊を撤退する(米軍基地の沖縄依存を強化する。)
②沖縄の潜在主権がどこにあるのかが明確となった。
③つまり沖縄の自決権は日本政府の決定に従属することが明確になった。
④従って沖縄の新の意味の主権は、日本の主権回復がない限り実現できない。
ということである。
 沖縄の本土復帰は沖縄の自主決定権を実現する道になったのであろうか?その問いは沖縄人からの本土人に対する以下の問いとして受け止めることが不可欠ではないだろうか。
「日本は本当に自決権を行使できる独立した自由な国家なのだろうか?」と。「日本は、自決権さえ持てない最も奴隷的な国家ではないだろうか?」と。
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【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない①(大久保厚)

2019-01-29 23:44:26 | 情報提供
<管理人より>
 昨年11/3に開催された「生協だれでも9条ネットワークの集い」の報告その6です。大久保厚さんは当日参加できなくなりましたが、「レジュメ:沖縄と地位協定について~日本の戦後が終わらない~」を参考資料として提出されました。長いので4回連載にしてご紹介します。
【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚①
はじめに
 沖縄と地位協定は同根である。その元凶は日本が独立したと言われる 1951年9月調印の「サンフランシスコ条約」にある。
 沖縄は「サンフランシスコ条約」3条により、南西諸島(北緯 29 度以南)・琉球諸島・大東諸島などをアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意することよって、米軍の軍事占領が継続されることになった。
 日米地位協定の前身は、この講和条約に続いてサンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地内にある下士官集会所に移動し、吉田全権大使一名のみが署名調印した日米安全保障条約第3条に基づく「日米行政協定」であり、60 年安保改定時に国会審議を経ることなく、安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定:「日米地位協定」として改定されたものである。
 沖縄はすでに沖縄戦以降 30 年に渡る運動を通じて、軍事占領下からの公民権運動と自主決定権運動としての祖国復帰運動をすすめ、1972 年に祖国復帰を果たしたが、この祖国復帰を契機に日本本土の米軍基地の沖縄移転が更に加速し、日本国土面積 0.6%に過ぎない沖縄に敷地面積 70%の米軍基地が存在する島となり、その上更に今日米海軍と海兵隊基地を併設する軍港として辺野古新基地の建設が強行される事態の渦中にある。
 ここでは、日本政府の戦後沖縄に関する歴史的な経緯を振り返りながら、今日の沖縄について考える視点について考察し、合わせて日米地位協定に関する基本的な問題について検証する。

1. 沖縄について
1)沖縄戦の実相
「沖縄スパイ戦史」より
①陸軍中野学校(出身者 42 名)は、兵役に満たない少年兵「護郷隊」1000名を徴用し、沖縄戦でゲリラとスパイの戦闘を指揮し、「護郷隊」146 名を戦死させ、敗走中に逃走に適さない者を殺害した。
②日本軍は、波照間島と石垣島においてスパイが先導した軍命の強制移住に伴うマラリア地獄によって 3700 名に及ぶ死者を産み出した。波照間島は米軍の上陸がなく、戦死者はいないが、マラリアで病死した島民は3分の1にあたる 500 名に及ぶ。軍事作戦に価値がないと判断され、徴兵で家長が出征し、婦人と幼年者だけとなった波照間島民にマラリアの蔓延る西表島への移住が強要され、二千頭の牛馬は軍食用とされた。
③沖縄戦敗残兵と在郷軍人「国士隊」は、スパイリストを作成し、住民を虐殺した。部隊から離散した敗残兵は投降兵を、在郷軍人は、英語を話す住民やまた勤労奉仕で軍事施設を知る住民をスパイリストに掲載し、順次殺害した。つまり沖縄戦では米軍との戦闘で戦死したばかりではなく、日本兵や在郷県民によって殺害された犠牲者が多数存在する現実があったという。
*「戦後沖縄民衆史」より
④日本陸軍を引き継ぐ陸上自衛隊の戦史は沖縄戦をこう総括している。「この軍民官一体の敢闘は、米軍に多大の出血を強要してその心胆を寒からしめ、もってその本土攻撃を慎重にさせ、わが本土決戦準備に貴重な日時を与えた。」(陸戦史研究普及会編「沖縄作戦」)つまり作戦は成功をおさめてその上に現在の政府があると認識されているからである。
⑤「たしかに沖縄戦で米軍は太平洋戦争で最大の 12,000 人の死者を出し、負傷者との合計でいえば、8,5000 人。死傷者数では、日本軍の 10 万人と大差がない。戦力の差が歴然としていた相手になぜここまでの大打撃をうけたのか?」
⑥「時間かせぎのための死を強要された日本兵たちは、勝負を度外視してあたかも死ぬためだけに切り込み突撃を繰り返した。捕虜・傷病兵の保護に関する国際条約を無視し、人間の尊厳などみじんもない「狂信的な敵との終わりなき接近戦」は、米兵にとって悪夢の連続であった。そのためかつてない比率と深刻度で戦争神経症の発症者が膨大にあらわれ、その人数は公表された部分的なデータをみただけでも米軍の戦死者数を上回った。それも死傷者数のなかに含まれている。」

2)戦後直後の沖縄
①「沖縄戦は、住民のおよそ四人に一人が亡くなった戦争として知られている。だが、その一方で戦火を生き抜いた“残りの三人” ——約 33 万人にとって、この戦争は〈捨て石〉の戦争であるにとどまらず、米軍に郷土を奪ばわれた住家から追い立てられていく〈占領〉の進行過程としてあった。」
②「膨大な民有地・公有地が問答無用にうばわれ、日本軍の読谷、嘉手納の二大飛行場は、沖縄戦上陸からわずか 10 日後に米軍飛行場に生まれかわって運用を開始した。」
「その間、住民は主として、東海岸中北部に設置された沖縄島面積 10%ほどの軍政地域に送られ、12 ヶ所の民間人収容所(地区)に押しこめられていった。その数は、4月末で 11 万人、7月末には生存した住民の全員にちかい 32 万に達した。」 、、
③「そしてこの〈捨て石〉作戦の膨大な効果は、戦後の〈占領〉の在り方を決定づけた。米軍部は、自国の若者の大量の「血を流して得た」他に代え難いたい征服地として、その後もながく沖縄の排他的な長期保有に拘った(宮里政玄「アメリカの沖縄政策」ニライ社 1986 年)。それは隠された歴史的な報復である。在沖米軍基地につけられているキャンプ・シュワブ、ハンセン、キンザーなどの名は、沖縄戦で名誉勲章を受章した戦死米兵の名前にちなんだもので、かれら青年の血であがなったという歴史性が基地の固有名のなかに埋め込まれている。」
④那覇奥武山の収容所にいた日本兵たちは、軍作業場にくる沖縄女性たちが使う便所の清掃を米兵から命じられたが、ある日、こう書き残して去った。「お前達は、それでも日本の女か!ヤンキーだけにチヤホヤしやがって。俺たちは男だぞ、日本の男だぞ。お前たちの便所の掃除までさせられるのは真っ平だ。今後は絶対にお前たちの便所の清掃はお前たちでやれ!売他女共!」翌日、同じ場所にこう記された紙がおかれていた。沖縄の娘を侮辱しないでください。私達は戦ってきたのです。それでもあなた方は日本の軍人ですか。日本の軍人なら軍人らしくずっと前に何故戦死なさらなかったのでしょう。PW(捕虜)なんか恥ずかしいとは思いになりませんか。
PW(捕虜)は米軍の命令を守ればいいのです。たとえ命ぜられた仕事が女便所の掃除でも̶̶それがいやだったら日本の男らしく腹を切ったらいかがです。
⑤米兵によるレイプは、家族や人びとの目の前でも、いたるところで起こり、抵抗すれば射殺されることも珍しくなかった。これに対して収容所生活の時代でも、男たちはときに夜陰に紛れ鎌や鍬、モリ、石などを手に侵入者に迫っていった。
それから、どのようにしれ葛に脚をとらせるための藷畑に黒人兵を追い込んだことか。五、六名の白人兵とどのような石合戦をやり、半殺しにしたか。どのように越来城付近の崖に一ダースばかりのアメリカ兵を追い込み、ついにかれらが崖から墜落せざるを得ないところまで、攻撃したか。人びとの話は尽きないのである。(関広延「だれも書かなかった沖縄」講談社文庫 1985 年)

3)裕仁:「天皇メッセージ」
①沖縄の切り捨ては、沖縄戦で一度きり行われただけではすまなかった。戦後日本の外交にもそれは大きな呪縛を投げかけた。連合国軍総指令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー最高指令官は、1947 年6月沖縄占領に対する日本側の意向について「琉球はわれわれの自然の国境である。沖縄人が日本人でない以上、米国の沖縄占領に対して反対しているようなことはないようだ」と来日した米国記者団に見解を披露した。
②「これに反応したのか9月、昭和天皇は GHQ 政治顧問ウィリアムジョセフ・シーボルトのもとに側近を送り、いわゆる「天皇メッセージ」を届けさせた。「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領しつづけていることを希望している」、但し占領にあたっては日本がアメリカに沖縄を長期租借(25 年から 50 年或いはそれ以上)させる形式をとって両国の共通利益をはかり、共産主義の脅威にたいする日本の安全を確保すべきだ
(進藤榮一:世界 1979 年4月号̶̶これがその内容である。
③「天皇の行動により、戦後日本の対沖縄政策の方向性が明確にされた。「天皇メッセージ」をめぐるもっとも重要なポイントはここにある。」インパクトは、アメリカの占領政策の立案ではなく、日本の長期的政治・外交方針の方にこそあった。第一に十数万の住民を巻き添えにして米軍の長期占領を決定づけた沖縄守備軍の作戦行動が、ここで天皇によって是認され活用された。第二に、日本政府は、決して沖縄を無条件に手放したのではなく、戦後も引き続き〈捨て石〉として活用する政治が開始された。」
④「昭和天皇は、翌 48 年2月に二度目の「天皇メッセージ」をシーボルトに送り、中国ソ連の共産主義勢力に対する防衛線を「南朝鮮、日本、琉球」、台湾、フィリピンにかけて引くこと」を提案した。前回のメッセージで提起した日本と沖縄の分離方針を再確認するとともに今度はそれをアメリカのアジア防共戦略全体のなかに定置させようとした(進藤榮一:「分割された領土̶もうひとつの戦後史」)。
⑤自分が自由にできる〈捨て石〉をできるだけ好条件でアメリカに貸し付けそうすることで、そこに居着いた米軍をもって、当時明確に帝政・天皇制廃止をめざしていた共産主義諸国からの防衛態勢を築く̶̶昭和天皇の「国体護持」工作は日本の敗戦をまたいで完遂された。後に天皇はこのメッセージ外交を「アメリカに占領してもらうのが、沖縄の安全を保つ上から一番よかろう」と回顧している(『入江相政日記 5』朝日新聞社)
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【情報】徴用工など戦後補償に関する日本政府の対処見解の変遷について(寄稿)

2019-01-28 23:59:23 | 情報提供

<管理人より>
 1月の19日行動で「戦争をさせない1000人委員会」の弁護士さんから韓国徴用工問題について正しい理解をしてほしいというスピーチがあったとのことです。当日のネットワークの参加者からもわかりにくかったという声があったということで、徴用工など戦後補償に関する日本政府の対処や見解について安倍首相、河野外相の言説を検証する情報のご寄稿を大久保厚さんからいただきました。
 以下、大久保さんのご寄稿を紹介いたします。
【情報】徴用工など戦後補償に関する日本政府の対処見解の変遷について
 岩波書店『世界』1月号「世界の潮」に『韓国徴用工判決「解釈」を変えたのは誰か?』との記事(著者:山本晴太)が掲載された。
 この記事は、日本政府の戦後賠償に関する対処経緯とその変遷を取り上げており、日本政府の「国際法上あり得ない判決」(安倍首相)、「両国関係の法的基盤を根本から覆す暴挙」(河野外相)とのコメントを検証する上で有用であり、紹介したい。

経緯①:広島の原爆被爆者、シベリア抑留者訴訟への対処
 1951年サンフランシスコ条約及び1956年日ソ共同宣言にて「その国民のすべての請求権を放棄する」との条項に対して、広島の原爆被爆者やシベリア抑留被害者が日本国に対して補償請求訴訟を起こした。その主張は、「日本政府は、損害賠償請求権を消滅させたので、それに代わる補償をすべきである」ということにあった。
 日本政府はこれに対して1963年12月東京地裁裁判で「条約によって放棄したのは、外国と交渉する国家の権利(外交保護権)のみであ」り、「国民自身の請求権はこれによって消滅しない」から、日本国は「被害者に補償する責任はない」と主張した。

経緯②:日韓請求権協定締結時対応
 1965年日韓請求権協定は、両国と国民の財産、権利、利益及び請求権を「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認した」と規定したが、締結当初から、上記(経緯①)主旨の解釈を維持していた。朝鮮半島に資産を残す日本人から日本政府への補償を求める訴訟に対処するためである。

経緯③:外務省の基本見解
 1991年3月外務省はシベリア抑留で「外交保護権」を放棄した以上、国として何もできないので個人がこれを行使したければ、ソ連の国内法に従って行使するしかない」と答弁し(3月26日参議院内閣委)、91年8月、日本の国内法の手続きに従い、日本で訴訟を提起した韓国人訴訟に対して、この答弁と矛盾する答弁はできず、「いわゆる個人の請求権そのものを国内法的意味で消滅させたということではありません。」と答弁した。(8月27日参議院予算委柳井俊二外務省条約局長)。これが現在まで外務省ホームジページにも掲載される「外務省調査月報」である。

経緯④:解釈の突然変更
 政府は2000年頃から戦後賠償裁判で企業と国に不利な判決が出はじめると解釈を変更し、「条約で解決ずみ」と主張し始める。日本人被害者には「加害国の国内手続きにより請求する道が残っているので、日本には補償責任はない」とするが、外国人被害者には、「条約により日本の国内手続きで請求することは、不可能になったので、日本は補償責任がない」と変更した。つまり、「個人の実体的権利は消滅しないが、訴訟によっては行使することができなくなった」という内容に変更されたのである。
(筆者注:2000年頃とあるが、中国人強制連行事件としても著名な花岡事件は2000年11月29日東京高裁で和解が成立した。この「五億円規模の基金設立」の波及効果を恐れて、この解釈変更がされたのだと思う。)

経緯⑤:最高裁判例:日本政府解釈変更を追認
 2007年4月27日最高裁は、上記解釈の変更を支持する判決をする。サンフランシスコ平和条約の枠組みとして「民事訴訟上の権利行使はできない」とした。しかし、判決末尾に以下の原文にある「個別具体的な請求権そのものは消滅していない」ことを認めた。
(筆者注:西松建設中国人強制連行事件:判決原文)
「サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」。
(筆者注)上記 西松建設中国人強制連行事件:判決原文にある「更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情」とは、徴用工を受け入れた企業が戦後1946年「被害を被った」として受け取った総額5672万円(当時の金額)の補償金のことを指す。

経緯⑥:2007年9月地裁判決:最高裁判例を援用
 「サンフランシスコ条約の枠組み」として訴訟による権利行使を不能とする最高裁判決は、日韓請求権協定に対して同じ解釈を適用し、韓国人被害者訴訟も、この最高裁判例を援用し、「個人の請求権が消滅したのではないが請求権協定により訴訟で請求できなくなった」と主張し、地裁がこれを認める判決を出した。(2007年9月19日富山地裁判決)

結語:問題の本質
①日本政府は国際司法裁判所への提訴を検討するというが、日韓で争う余地があるとすれば、それは「請求権協定によって権利行使ができなくなった」という日本の最高裁と政府の見解の是非である。
 日韓両国に裁判を受ける権利を保障することを義務付けられた国際人権規約の下では、「個人の実体的権利は消滅しないが、訴訟によっては行使することができなくなった」とする主張こそ、「国際法上あり得ない判断」である。

②また企業は、国家政策に従って徴用工を使用したのであり、政府は、本来その和解に積極的に関与すべき立場にある。現在の政権には期待すべくもないが、被害者個人と民間企業の訴訟に介入し、支払いと和解を妨害し、事実を隠蔽したまま、隣国への憎悪を煽ることだけはやめるべきである。

※(管理人)冒頭の写真は、岩波書店『世界』2019年1月号の表紙。わかりにくかったのは日本政府が解釈を変えていたせいだったようです。日本人が外国に補償請求する際は個人の請求権は消えていないといい、外国人が日本に補償請求するようになるとその解釈が差し障るからと。自分に都合よく主張をころころ変えている日本政府。確かに恥ずかしい限りです。

(管理人追記)
 大久保さんからの追加の注記にあった補償金はどこが払ったのかお聞きしました。
>徴用工を受け入れた企業が戦後1946年「被害を被った」として受け取った総額5672万円(当時の金額)の補償金
 大久保さんからの回答は以下です。
「日本政府です。実際に補助金を受けた企業は35社でした。この企業で現在存在する企業は20社前後のようです。とすると35社平均金額は8億1千万円になります。花岡事件で鹿島建設が拠出した5億円でも収支は成り立つと計算できますね。」
 戦後のどさくさに紛れて戦前からの企業がたちゆくように国庫から支払ったのでしょうか?日本は国民全体で納得できるような戦争の総括ができていないことが今に至る禍根を残していることを痛感しました。
 なお、『世界』2月号「特集2 戦争の記憶と向き合いつづける」に弁護士の内田雅敏さんの『提言 強制労働問題の和解への道筋-花岡、西松、三菱マテリアルの事例に学ぶ』が掲載されています。
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