昭和11年、阿部定事件が起こったが、被害者の吉蔵は実は人間ではなく鬼であった。それも鬼界の大物、茨木童子である。局部を切り取られたぐらいで引き下がるタマではない。陸軍大尉野中某に化けて警視庁に乗り込み、一室でホルマリン漬けになっていたモノを奪い返すや鬼の正体を現し屋上に躍り上がった。そのままモノの砲口を、隣接する宮城に向けて臨戦態勢をとる。その姿はなんとなくこまわり君を思わせたという。宮中はパニック状態となり、帝が「チン自ら近衛兵を率い、これがチン定に当たらん」というやけくそのような冗談を言うほどであった(松本清張『昭和史発掘』より)。
結局戦闘は回避され、北一輝の釈放、大本教の国教化などの条件を政府にのませた鬼は、いずこともなく姿を消した。無視された格好の阿部定が言った「ショセンわたしはだめな女」は流行語になった。
活動写真のキャメラマンだった円谷英一(のちの英二)は、このときの鬼の姿を撮影し、そのフィルムを一齣ずつ丹念に研究した。のちにアメリカの「キングコング」を凌駕する怪獣映画ができたのはこの研究のたまものである。また、あまり知られていないことだが、文豪川端康成の「片腕」はこの事件をヒントに生まれた作品である。
結局戦闘は回避され、北一輝の釈放、大本教の国教化などの条件を政府にのませた鬼は、いずこともなく姿を消した。無視された格好の阿部定が言った「ショセンわたしはだめな女」は流行語になった。
活動写真のキャメラマンだった円谷英一(のちの英二)は、このときの鬼の姿を撮影し、そのフィルムを一齣ずつ丹念に研究した。のちにアメリカの「キングコング」を凌駕する怪獣映画ができたのはこの研究のたまものである。また、あまり知られていないことだが、文豪川端康成の「片腕」はこの事件をヒントに生まれた作品である。