ぬるい!砂糖も多い!

おいしいコーヒーが飲みたい

美しい国日本

2017年10月21日 | 日記
 敗戦に打ちひしがれていた国民にとって、日本人初のノーベル賞受賞のニュースは、今ではちょっと想像もつかないほどの大きな喜びだったらしい。昭和24年、鈴木大拙師がノーベル文学賞を受賞するや、日本中が禅一色、仏教一色という状態になったという。年輩の知識人たちの言うところでは、「できるやつはみんな仏教学に進んだ」。南都北嶺、鎌倉五山、身延山などは学僧ではちきれそうだったらしい。

 岸内閣時代のいわゆる60年安保のときには、全国学僧連合(全学連)が、袈裟で頭を包んだあのスタイルで国会議事堂を十重二十重に取り囲み、昭和の強訴とよばれた。僧兵対機動隊の戦いはその後も繰り返され、そのクライマックスとされるのが、比叡山根本中堂への放水攻撃であった。この、織田信長による焼き討ち以来の法難によって、学生(がくしょう、と読む)たちの政治の季節は終わったと言われている。

 その後、学生のなかには、活佛ダライ・ラマの教えを受けるために苦心してダラムサラへ入る者があり、チベット亡命政権で重要な地位を占めるにいたった者さえある。しかし田中内閣による中共との電撃的な国交樹立は、かれらの立場を困難にした。帰国もかなわぬかれらは、故国で見たのと同じ月を振り仰ぎ、さりとてヒマラヤの峰はとても三笠の山には見えず、ため息つきつつ老いているという。
 

桜田門の一番長い日

2017年10月02日 | 日記
昭和11年、阿部定事件が起こったが、被害者の吉蔵は実は人間ではなく鬼であった。それも鬼界の大物、茨木童子である。局部を切り取られたぐらいで引き下がるタマではない。陸軍大尉野中某に化けて警視庁に乗り込み、一室でホルマリン漬けになっていたモノを奪い返すや鬼の正体を現し屋上に躍り上がった。そのままモノの砲口を、隣接する宮城に向けて臨戦態勢をとる。その姿はなんとなくこまわり君を思わせたという。宮中はパニック状態となり、帝が「チン自ら近衛兵を率い、これがチン定に当たらん」というやけくそのような冗談を言うほどであった(松本清張『昭和史発掘』より)。

 結局戦闘は回避され、北一輝の釈放、大本教の国教化などの条件を政府にのませた鬼は、いずこともなく姿を消した。無視された格好の阿部定が言った「ショセンわたしはだめな女」は流行語になった。

 活動写真のキャメラマンだった円谷英一(のちの英二)は、このときの鬼の姿を撮影し、そのフィルムを一齣ずつ丹念に研究した。のちにアメリカの「キングコング」を凌駕する怪獣映画ができたのはこの研究のたまものである。また、あまり知られていないことだが、文豪川端康成の「片腕」はこの事件をヒントに生まれた作品である。
 

阿部定、平壌で生存!

2017年10月01日 | 日記
 なんとまあ、消息筋によると平壌で生きているという。この人それほど「大昔」のひとではないので、生きていても不思議ではない。

 歴史の教科書で習った張学良が台湾で生きていて、インタビューに応じたときはおったまげたが、今回の驚きはそのときの比ではない。


 聞けば、金日成は阿部定の人生を階級闘争の精華であると絶賛し、平壌での彼女の待遇はたいへんに良いものだったという。彼女が北朝鮮に渡った経緯はまだ分かっていないが、金日成による「招待」だったとも考えられる。金正日時代にも彼女への厚遇は変わらなかった。今の三代目も、きっと子供のころから彼女のことを聞かされて育ったのだろう。彼の、男根崇拝ともいうべきロケット愛は、その過程で育まれたにちがいない。