知識は永遠の輝き

学問全般について語ります

ギリシャ棺の謎

2015-09-21 18:07:56 | 推理
前回の記事の続きです。

 ところで発端の"The Greek Coffin Mystery"(1932年初版)ですが、日本語訳は現在以下のものが出版されています。
1) 井上勇(訳)『ギリシャ棺の謎(創元推理文庫)』東京創元社(1959) ASIN: B000JAS3OG
2) 中村有希(訳)『ギリシャ棺の謎【新訳版】(創元推理文庫)』東京創元社(2014/07/30) ISBN-10: 4488104398, ISBN-13: 978-4488104399
3) 宇野利泰(訳)『ギリシャ棺の秘密(ハヤカワ・ミステリ文庫)』早川書房(1979/12) ASIN: B000J8BMCI
4) 宇野利泰(訳)『ギリシャ棺の秘密[Kindle版]』早川書房((1979/12/31) ASIN: B00CZ840FQ
5) 越前敏弥(訳)『ギリシャ棺の秘密(角川文庫)』角川書店(2013/06/21) ISBN-10: 404100795X, ISBN-13: 978-4041007952

 昔読んだはずなのに内容をほぼ忘れていたのですが、web上の記事で色盲トリックが出てくるということを知り、「もしかして間違った色盲理解が印象に残った作品だっけ?」と思ってRef-2の【新訳版】で確認したら、やはりそうでした。

 「デミーはごくありふれた赤緑色覚異常であり、赤が緑に、緑が赤に見えるのです。ハルキスはデミーのそういう事情を承知していたので、その二色に関してはデミーに合わせて変えていました。」[p263]

 簡単に事情を説明します[p122-124]。物語冒頭に葬儀に出されるゲオルグ・ハルキスは3年ほど前に胃潰瘍での大量出血の時に失明しており[p117]、それ以来、自分の書斎と寝室との物は誰にも何一つ触らせず、普段の場所から椅子一脚さえ動かさず、自分でたいていのことはできるようにしていた。しかし、その日に着る服を毎朝選ぶことだけは、10年前にアテネから引き取ったいとこのデミー(デミトリオス)に手伝ってもらっていた。ただデミーは重度の知的障害で「どうしてもハルキスさんが望むようなコーディネートのやり方をのみこめなかった」ので、毎日新しい組み合わせを指示する手間をはぶくため「ギリシャ語で予定表を書いて、一週間分の毎日違うコーディネートを、デミーがひとりで選べるようにした」。そして死亡当日の予定表では緑のネクタイと書かれていたのはデミーに赤を選ばせる指示であり、ゆえにハルキスは赤いネクタイをしており、自分もそのことを知っていた。

 クイーンともあろう人達が二人もそろってこんなトンデモな理解をしていたなんて! 赤緑色覚異常は赤と緑が区別できないのであって、こんな変な人間は幼少時に単語の意味を逆に教えるという教育をしない限りありえません。実際にデミーが赤緑色盲だとするなら、「緑のネクタイをくれ」と命じれば1/2の確率で間違えるので、今回は幸か不幸か間違えたのでしょう。という設定にしておけばいいものを。もちろん間違う確率は用意されたネクタイの中の色の割合にもよりますが。とはいえ上記説明のように重要な推理の枠組みにがっちり組み込まれていてはちと修正のしようがありません。しかも謎解きの重要ポイントのひとつだし。これはもう異次元世界の話と解釈するしかなくて、この世界には赤と緑を正確に逆に間違えるという奇妙な言語障害の人達がいて、それは一般常識なのです。

 ちなみにweb上でこの欠陥を指摘していたのは下記の記事くらいでした。
今はなきキャッシュの20個の書評の中のNo.19(2014/07/31),No.15(2014/01/01)。
米中毒別館(2009/04/10)

 またRef-2の解説で辻真先が「エラリーの推理談義には、赤緑色覚異常(どちらも灰色がかって見える)に関する誤解がまじっているけれど、作品全体の価値に決定的影響はないことを付言しておこう」と書いているのは適切だと思います。決定的影響がないかどうかは本格推理の価値をどう見るかによるでしょうが。確かにストーリー展開や他のトリックなどは素晴らしいもので、これ一つで価値が崩れ去るとするはあまりにも惜しい出来栄えの作品です。なお「どちらも灰色がかって見える」という表現も少し誤解を生みそうで危ういですね*1

 余談ですが、色覚異常について調べていたら伴性遺伝について意外なことを知りました。なんとすべての女性はキメラだった!
[http://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-6.html] 細胞工学

 ちなみにこれほど致命的でもわかりやすくもありませが、他にも不可解な点がいくつか見受けられました。

真犯人はなぜ装身具店バレットからの小包を広間から寝室に移動したのか?
 ハルキスは死ぬ日の朝に電話でネクタイを注文し、届いた小包をハルキスの寝室で発見したエラリーが開けてみると赤いネクタイ6本だった。これでハルキスが盲目にもかかわらず自分が赤いネクタイを着けていたと知っていたことがわかったのだが、この小包は邸に届いたときは執事が受け取り広間のテーブルに置いたままだった。寝室に移動したのは真犯人と推理された。つまり、広間で小包を見つけた真犯人は「色が食い違っていることをこれ幸いと利用して、」エラリーをミスリードするために、寝室に移動しておいた。

 まず、広間にあった小包は未開封でしたから中のネクタイの色はわかりません。ゆえにそれがハルキス犯人説につながることもわかりません。また、小包に注意を向けさせるためなら寝室に移動する必要はありません。ハルキスが最後に注文した品というだけで、どこに置いてあろうと名探偵のみならず普通の捜査陣の注意さえも引くでしょうから。

 実は小包が寝室で見つかったというのはエラリーの記憶違いかエラリーの語りを筆記した作者の聞き違いで、小包は執事が置いたまま広間で見つかったのでしょう(^_^)。真犯人がハルキス犯人説の細工をするには紅茶セットだけでも十分ですから。ハルキスが目が見えたという手かがりはあった方がよいけれど、急に治ることもあるという可能性だけでも十分でしょう。ということで、これはあまり致命的にはなりません(^_^)。

水の化学分析から沸かされたかどうか判定できるだろうか?
 ハルキスが3人の客に紅茶を入れるために使ったまま手つかずだったと思われる「パーコレーターに残っていた古い水を数滴[p153]」エラリーがガラス瓶に採取して分析にだしたところ、検視官補のプラウティ博士の言うには「~水を沸かすと塩類は沈殿する。化学分析をすれば、沈殿物で水が沸かされたかどうか判定できる。~明らかに沸かした形跡がある。~新しく水が注ぎ足されてもいないと断言しよう。[p177]」

 分析のためにわずか数滴というのは言葉の綾?、実際は、エラリーが持ち歩いている探偵道具箱の中のガラス瓶に8分目くらいは入れたものとしておきましょう(^_^)

 この煮沸による沈殿というのは硬水中の炭酸水素カルシウム[Ca(HCO3)2]が炭酸カルシウム[CaCO3]になり沈殿する反応のことでしょう*2。微小な沈殿は水中に浮遊し、濾過とか顕微鏡観察とかで判定できる・・のでしょうか? それとも炭酸水素イオンと炭酸イオンとの量比から判定するのでしょうか? イオンクロマトグラフィー*3のような高感度分析機器のある現代ならいざ知らず、1930年代では・・まあガラス瓶1杯あれば・・いやあHCO3(-)とCO3(2-)の分別定量はさすがに難しそうだなあ。

 そもそも沸かしたのは10/01(金)夜で水の採取は1週間後の10/08(金)です。微小な沈殿は底に沈降してしまっているか、もっとありそうなのは大気中の二酸化炭素と反応して再び炭酸水素カルシウムに戻って溶けてしまったか、と予想され、水の中の痕跡は消えていると考えられます。

 まあ推理作家といえども自然科学に疎いこともあるのは仕方ないのですが、専門家のブレインくらいは確保して、自分の聞きかじりの正否を確かめるくらいはした方が安全だと思います。この場合は、プラウティ博士が「こんなものでは何もわからん」と断言しても本筋にはほとんど影響しませんからいいのですが。

最後に後期クイーン的問題そのものは?
 余詰めがありうるか否かですが、最後に真犯人と目された人物が死んでしまったとはいえ、あの結末で余詰めはないでしょう。探偵が知りえなかった情報をさらに付け加えて結論をひっくり返すのは、ほぼ不可能に見えます。



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*1) 赤と緑が区別できない(だけ?)という表現も危ういかも知れない。実態は一言では難しいので詳しくは下記のサイト参照。赤緑色覚異常という言葉は多くの型の総称だが頻度の多いのは、赤を感じるL型錐体の欠乏した1型2色覚と緑を感じるM型錐体の欠乏した2型2色覚との2種類である。1型は赤と黒とが区別しにくく、2型は緑と灰色が区別しにくく、どちらも赤と緑が区別しにくい。
 日本眼科学会[http://www.nichigan.or.jp/public/disease/hoka_senten.jsp]
 滋賀医科大学・眼科学講座[http://www.shiga-med.ac.jp/~hqophth/farbe/miekata.html]
 Gene Reviews 翻訳[http://grj.umin.jp/grj/redgeen.htm]
*2) ウィキペディアの硬水の記事参照
*3) 日本分析工業会「イオンクロマトグラフの原理と応用」参照

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