ソフィスト(1)の続き
ゴルギアスとの討論のテーマは、ゴルギアスが心得ており、人にも教えていると称する「弁論術」とはいかなる技術なのかということです。他の技術である医術も体育も数学も天文学もそれぞれにその分野に関わる弁論を含んでいますが、ゴルギアスの「弁論術」はそういう個々のものではないでしょう。ではそれは何に関する弁論なのか、というのがソクラテスの問いですが、この質問は、我々も普段は見逃しそうな大事な良い質問です。
ゴルギアスの答えは、弁論術とは「説得を作り出すもの」(p31)である、でした。では何についてのどんな説得かと言えば、法廷やその他のいろいろな集会においてなされる説得であり、また正しいことや不正なことについての説得なのだ(p36)、という考えです。
対してソクラテスは、弁論術が「教えて理解させるのではなく、単に信じ込ませるような」説得である(p39)、と論じます。ただしそれは、もののよくわからない大衆に対して説得する場合であるとして両者とも了解したのち、では国家が重要事を決める際にはどうかという話に進みます。このとき、医療に関しては医者の勧告を、城壁や港湾の建設に関してなら大工の勧告を、軍事に関してなら軍事専門家の勧告を受け入れるのだが、ゴルギアスに学んだ者は国家にどんな提案ができるのか、と問います。大衆も国家の会議の人々も、その分野では素人という点では同じだろうと私は思いますが、ひとまず不問にしておきましょう。
対してゴルギアスは答えます(p42-46,455E-457C)。アテナイの城壁や港湾はテミストクレス(Themistocles)やペリクレス(Pericles)の提案で建設されたのであり、決して職人たちの意見によりうまれたのではない、と。つまり建設を提案し意見を通したのは弁論家なのだ、と。さらに彼は、治療を拒む患者を医者に代わって説得したエピソードを披露し、医者として公務に着くべき者を選ぶための集会などで意見を通す力が強いのは、医者よりも弁論家だと述べます。そして、これほどの力を持つ弁論術は、正しく使わねばならないことも強調します。
対してソクラテスは、ゴルギアスの話には矛盾があると指摘します(p53-58)。
ゴルギアスに学んだ者は、説得の術の他にも正しいことや不正なことにについても必ず知っていることになる。ところで、大工のことを学んだ者は大工になり、医学を学んだ者は医者になるように、正しいことを学んだ者は正しい人になるはずだ。すると、弁論の心得のある者は必然的に正しい人になり不正なことは行わないことになる。ところがゴルギアスは「弁論術を不正に使うこともできる」と言った。これは矛盾ではないか。
と、ここまで来たところでボロスが「弁論家は自分でも正しいことについて知っているし、他の人にもそれを教えるだろうことを否定するなんて失礼だ」との趣旨を発言し、ボロスとの対話が始まります。
さてゴルギアスとの討論はここまでであり、以後ゴルギアスからの反論はなく、ソクラテスの指摘によりゴルギアスは降参した形になっています。では、このソクラテスの指摘は妥当なものでしょうか?それとも反論の余地があるのでしょうか?
まずゴルギアスの描く弁論術は、現在で言えば広い意味でコミニュケーション技術と呼ばれているもの、例えば、スピーチ術、プレゼンテーション、交渉術、セールス術、コーチング、など、まさに説得術と呼ぶべきものに当たるでしょう。『ゴルギアス』のあとがきの「解説」では現代のマスコミニュケイションの術に当たるとしていますが(p349)、少し狭い意味に当てはめてしまったのは、日本語の本書が出た1967年という時代のためだろうと思えます。医者のために患者を説得するという下りは、まさに現在言われている「医師と患者のコミュニニケーションの重要性」の問題が古代ギリシャにも存在したことを示しており妙に説得力があります。その分野でどれほど腕の良い専門家でも必ずしも説得が上手いわけではなく、それゆえに良い腕を発揮するためには説得の術も学ぶべきであることは、2000年代の我々は良く知っている・・人もいるし、わかっちゃいるけど学べない人も・・・。
そしてこれほどの威力を持つ説得の術は悪用してはいけないのは当然のことで、それを語るゴルギアスはとても感動的で魅力的だと私は感じました。
ではソクラテスの指摘にゴルギアスに代わって反論しておきましょう。要は彼の述べた前提が色々と間違っているというだけの話です。
まず、「大工のことを学んだ者は大工になり、医学を学んだ者は医者になる」という前提は正しくないし、そこから類推された「正しいことを学んだ者は正しい人、すなわち不正をしない人になる」という結論も正しくありません。
大工と呼ばれるには単に大工の知識を持っているだけではなく、実際に城壁作りなどの仕事ができなくてはなりません。医者とは、医学を知っているだけではなく治療をできる者のことを言います。同様に、正しいことを知っていることと、それを行えることとは別のことです。正しいと知りつつ行えないことなどいくらでもあるのです。もっとも最後の言明には『プロタゴラス』2)においてソクラテス/プラトンの反論がありますが。
また医学の知識のみならず治療の技術も十分に持つ者が、それを悪用して人の健康を害することは可能ですし、同様に、正しいことを見分けるための知識のみならず実行するための技術も持つ者が、それを悪用して不正をなすことも可能です。この点はソクラテスに倣って論理的に(詭弁的に?)反論してみましょう。
正しいことを学ぶということは、何が正で何が不正かを知ることである。ゆえに正しいことを学んだ者は同時に不正についても学んだ者になるはずだ。もしも「正しいことを学んだ者は正しい人になる」と言えるならば、同様に「不正なことを学んだ者は不正な者になる」ともいえるだろう。すると、「正しいことを学んだ者は、正しい人になり、かつ不正な人になる」という結論になる。これは明らかに矛盾である。
「犯罪を学んだ者は犯罪を犯す人になる」とか「戦争について学んだ者は戦争を起こす人になる」というわけではありません。
ソフィスト(3)へ続く
ゴルギアスとの討論のテーマは、ゴルギアスが心得ており、人にも教えていると称する「弁論術」とはいかなる技術なのかということです。他の技術である医術も体育も数学も天文学もそれぞれにその分野に関わる弁論を含んでいますが、ゴルギアスの「弁論術」はそういう個々のものではないでしょう。ではそれは何に関する弁論なのか、というのがソクラテスの問いですが、この質問は、我々も普段は見逃しそうな大事な良い質問です。
ゴルギアスの答えは、弁論術とは「説得を作り出すもの」(p31)である、でした。では何についてのどんな説得かと言えば、法廷やその他のいろいろな集会においてなされる説得であり、また正しいことや不正なことについての説得なのだ(p36)、という考えです。
対してソクラテスは、弁論術が「教えて理解させるのではなく、単に信じ込ませるような」説得である(p39)、と論じます。ただしそれは、もののよくわからない大衆に対して説得する場合であるとして両者とも了解したのち、では国家が重要事を決める際にはどうかという話に進みます。このとき、医療に関しては医者の勧告を、城壁や港湾の建設に関してなら大工の勧告を、軍事に関してなら軍事専門家の勧告を受け入れるのだが、ゴルギアスに学んだ者は国家にどんな提案ができるのか、と問います。大衆も国家の会議の人々も、その分野では素人という点では同じだろうと私は思いますが、ひとまず不問にしておきましょう。
対してゴルギアスは答えます(p42-46,455E-457C)。アテナイの城壁や港湾はテミストクレス(Themistocles)やペリクレス(Pericles)の提案で建設されたのであり、決して職人たちの意見によりうまれたのではない、と。つまり建設を提案し意見を通したのは弁論家なのだ、と。さらに彼は、治療を拒む患者を医者に代わって説得したエピソードを披露し、医者として公務に着くべき者を選ぶための集会などで意見を通す力が強いのは、医者よりも弁論家だと述べます。そして、これほどの力を持つ弁論術は、正しく使わねばならないことも強調します。
対してソクラテスは、ゴルギアスの話には矛盾があると指摘します(p53-58)。
ゴルギアスに学んだ者は、説得の術の他にも正しいことや不正なことにについても必ず知っていることになる。ところで、大工のことを学んだ者は大工になり、医学を学んだ者は医者になるように、正しいことを学んだ者は正しい人になるはずだ。すると、弁論の心得のある者は必然的に正しい人になり不正なことは行わないことになる。ところがゴルギアスは「弁論術を不正に使うこともできる」と言った。これは矛盾ではないか。
と、ここまで来たところでボロスが「弁論家は自分でも正しいことについて知っているし、他の人にもそれを教えるだろうことを否定するなんて失礼だ」との趣旨を発言し、ボロスとの対話が始まります。
さてゴルギアスとの討論はここまでであり、以後ゴルギアスからの反論はなく、ソクラテスの指摘によりゴルギアスは降参した形になっています。では、このソクラテスの指摘は妥当なものでしょうか?それとも反論の余地があるのでしょうか?
まずゴルギアスの描く弁論術は、現在で言えば広い意味でコミニュケーション技術と呼ばれているもの、例えば、スピーチ術、プレゼンテーション、交渉術、セールス術、コーチング、など、まさに説得術と呼ぶべきものに当たるでしょう。『ゴルギアス』のあとがきの「解説」では現代のマスコミニュケイションの術に当たるとしていますが(p349)、少し狭い意味に当てはめてしまったのは、日本語の本書が出た1967年という時代のためだろうと思えます。医者のために患者を説得するという下りは、まさに現在言われている「医師と患者のコミュニニケーションの重要性」の問題が古代ギリシャにも存在したことを示しており妙に説得力があります。その分野でどれほど腕の良い専門家でも必ずしも説得が上手いわけではなく、それゆえに良い腕を発揮するためには説得の術も学ぶべきであることは、2000年代の我々は良く知っている・・人もいるし、わかっちゃいるけど学べない人も・・・。
そしてこれほどの威力を持つ説得の術は悪用してはいけないのは当然のことで、それを語るゴルギアスはとても感動的で魅力的だと私は感じました。
ではソクラテスの指摘にゴルギアスに代わって反論しておきましょう。要は彼の述べた前提が色々と間違っているというだけの話です。
まず、「大工のことを学んだ者は大工になり、医学を学んだ者は医者になる」という前提は正しくないし、そこから類推された「正しいことを学んだ者は正しい人、すなわち不正をしない人になる」という結論も正しくありません。
大工と呼ばれるには単に大工の知識を持っているだけではなく、実際に城壁作りなどの仕事ができなくてはなりません。医者とは、医学を知っているだけではなく治療をできる者のことを言います。同様に、正しいことを知っていることと、それを行えることとは別のことです。正しいと知りつつ行えないことなどいくらでもあるのです。もっとも最後の言明には『プロタゴラス』2)においてソクラテス/プラトンの反論がありますが。
また医学の知識のみならず治療の技術も十分に持つ者が、それを悪用して人の健康を害することは可能ですし、同様に、正しいことを見分けるための知識のみならず実行するための技術も持つ者が、それを悪用して不正をなすことも可能です。この点はソクラテスに倣って論理的に(詭弁的に?)反論してみましょう。
正しいことを学ぶということは、何が正で何が不正かを知ることである。ゆえに正しいことを学んだ者は同時に不正についても学んだ者になるはずだ。もしも「正しいことを学んだ者は正しい人になる」と言えるならば、同様に「不正なことを学んだ者は不正な者になる」ともいえるだろう。すると、「正しいことを学んだ者は、正しい人になり、かつ不正な人になる」という結論になる。これは明らかに矛盾である。
「犯罪を学んだ者は犯罪を犯す人になる」とか「戦争について学んだ者は戦争を起こす人になる」というわけではありません。
ソフィスト(3)へ続く
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