確率を考えるのはなかなか感覚的に難しいものです。私も含めて多くの人は、サイコロの出目を始め、具体的な確率事象について考えるのが普通ですが、これは現代で言う数学というよりは自然科学に近いことです。数学らしい確率論である公理的な確率論は、アンドレイ・コルモゴロフ『確率論の基礎概念』(1933年)に確立されたと言われています。
公理的な確率論では、確率測度が割り当てられた根元事象または標本点の集合である標本空間を考え、確率測度として我々が思い浮かべる"確率"というものが満たす条件を与えます。このような系で、様々の数学を展開するというわけです[Ref-1]。
こうした数学的確率論を実際の現実に適用するには、実際の事象、例えばサイコロの出目の1~6について"確率"を与えることになります。数学の試験問題ではサイコロの出目の1~6は全て等しいとしていますが、これは正確に言えば、1~6は全て等しいと仮定すれば、という意味です。実際のサイコロの出目の1~6が全て等しいがどうかはどうすればわかるのでしょうか?[*1]
自然科学の方法論的には一番自然なのは、1~6が全て等しいがどうかは観測でしかわからない、というものです。そこで同じ条件でn回振ってみて、各目がn/6に近い回数出てくれば各目の確率が1/6という仮説が確証されてくるわけです。別にはじめに仮説など立てなくても、1回観測を行えば暫定的に確率の値が求められます。例えば60回振って1~6の出た回数が、11,13,9,7,8,12回と得られたら、確率を11/60,13/60,9/60,7/60,8/60,12/60,とすればよいのです。こういう実測値は確率とは呼べず、頻度というのが正しいでしょう。確率とは無限回の試行をしたときの頻度の極限値なのです。
ここでサイコロの出目の場合に1~6の確率は全て等しいと自然に仮定してしまうのはなぜでしょうか? 神のいる確率といない確率はそれぞれ1/2、なんて仮定は笑い話にしかならないのですが?[*2]
その理由は、一般的にするためにあえて漠然とした言い方にすれば、同じものは確率も同じはず、と考えるからでしょう。サイコロの各面は1~6であると区別できるようになんらかの異なる印は付けてあるでしょうが、それ以外は全く区別できないことになっています。で、サイコロの出目という力学的要素だけで決まりそうな現象には印の違いは無関係と想定して、各面の出る確率は同じだと推定しています。
もしも実際に振ってみて頻度の差が観測されれば、実は同じに見えていたけれど、何らかの違いがあって、それが見えていなかったのだと考えるでしょう。「各面が同じである」という観測結果が不十分なものだったと判断するのです。
例えば同じ形の四角錐を組み合わせて作ったサイコロだったとして、形が同じだけで質量が違っているかも知れないし、質量が同じでも磁性や帯電の有無が違っているかも知れないし、形や質量も観測精度が不十分だったかも知れません。
さて統計力学(Statistical mechanics)では質量その他の属性がまったく等しいとされる分子の多数の集団を扱います。そしてこの集団が取りうる多数の"状態"の確率もすべて等しいという仮定の基に理論が組み立てられます。言葉使いが曖昧で誤解されそうな言い方になりましたが、要するに対象がランダムであるという仮説には以下の主なものがあります。
1. 分子的混沌(English):衝突する粒子の位置と速度の間には相関がない
2. エルゴード仮説(Ergodic hypothesis):時間平均と、アンサンブル平均は等しい
3. 等確率の原理(Principle of indifference)(principle of equal a priori probabilities):孤立した平衡状態の系について、許される系の状態はどれも等しい確率で現れる
実際にはどんな母集合の中のどんな部分集合の確率なのかというイメージはそう簡単ではないのですが、まあ同じような分子同士のことだから同じ確率になるのは当たり前ではないかというイメージを抱くかも知れません。サイコロの各面とは事情が異なり、同種の分子同士に違いはないことになっています[*3]。しかし実は集団の中の各分子同士には明確な違いがあります。それは各分子の位置と運動量(方向も含めたベクトル量)です。これらが違うと何が違ってくるだろうかと言えば、未来の位置と運動量が違ってくるはずです。実際に天文学での銀河分布のシミュレーションや星団内の恒星運動のシミュレーションでは、多数の似たような天体の位置と運動量を追跡して歴史的発展を調べるなどということが行われています。この場合、初期条件から現在の観測されている状態を再現しようとするのでありランダム性を仮定したりはしません。
しかし1.の仮定をすれば衝突の時にランダム性が生じることになります。そして1の仮定から2や3が導かれることがわかっていて、1.が最も基本的な仮定とされています。そして、このようなランダム性の仮定を設けることで例えば熱力学第2法則(孤立系のエントロピーは減少しない)が演繹的に導かれます。
さてサイコロの各面に印もついていないと区別はつかなくなってしまい、バラバラにして混ぜるともうどれがどれだかわからなくなるでしょう。それでも別の面はあくまで別の面だというのがマクロ世界での我々の信念です。これが分子や原子ともなると、そもそも印を付けることが不可能です。同位体をトレーサーとしたりはしますが、これでは質量が変わってしまいます。スピンとか励起状態とかを変える方法もありますが、どれも粒子の運動に無視できない影響を与えるでしょう。これがサイコロの各面に印を付ける場合なら、運動に与える影響はいくらでも小さくできそうです。ゆえにサイコロの場合なら、たとえ印は異なっていても出目の確率はほとんど同じである、と推定できるのです。
それでも非量子論的には、位置が異なる粒子は別個の粒子として区別できるものと想定します。粒子P1の時刻tの位置X1(t)が粒子P2の時刻tの位置X2(t)といきなり入れ替わるなどということは起きず、あくまでもX1(t)という連続関数になり、それはX2(t)とは異なると想定されているのです。
また量子論的な場合でも、位置が区別できなくなるのはエンタングルメントしている場合や、例えば同一原子内の複数の電子同士のように原理的に位置の区別ができないと想定されている場合であって、ある程度離れて位置が区別できる粒子同士の場合はやはり、別個の粒子は位置の違いにより区別できると考えられます。
実際問題として、分子などの多粒子系で各粒子を別のものとか同じものと判定するための情報とは位置の異同、または運動量の異同です。この意味は別途の記事で書くとしましょう。
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Ref-1-a) wikipedia日本語版確率論
Ref-1-b) wikipedia5e 英語版"Probability theory"
Ref-1-c) 確率論の講義資料(九州大学)
Ref-1-d) 確率論の講義資料(慶應義塾大学・服部哲弥)
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*1) 実は仮定に過ぎなかったにもかかわらず、当然の事実だと信じ込んでいたことは科学史上でも枚挙にいとまがない。
*2) 出典が見つけられないのだが、大真面目だったのかジョークだったのか。リチャード・スウィンバーンの『神の存在の帰納的論証』の解説というのを見つけたが、これはまずは1/2と仮定してみて各証拠に基づいて確率を変更するという話だから、まともな論証ではあるのだろう。途中でトンデモ証拠が出てきそうな気はするけれど。
*3) むろん異なる同位体原子を含む分子同士は同種ではない
公理的な確率論では、確率測度が割り当てられた根元事象または標本点の集合である標本空間を考え、確率測度として我々が思い浮かべる"確率"というものが満たす条件を与えます。このような系で、様々の数学を展開するというわけです[Ref-1]。
こうした数学的確率論を実際の現実に適用するには、実際の事象、例えばサイコロの出目の1~6について"確率"を与えることになります。数学の試験問題ではサイコロの出目の1~6は全て等しいとしていますが、これは正確に言えば、1~6は全て等しいと仮定すれば、という意味です。実際のサイコロの出目の1~6が全て等しいがどうかはどうすればわかるのでしょうか?[*1]
自然科学の方法論的には一番自然なのは、1~6が全て等しいがどうかは観測でしかわからない、というものです。そこで同じ条件でn回振ってみて、各目がn/6に近い回数出てくれば各目の確率が1/6という仮説が確証されてくるわけです。別にはじめに仮説など立てなくても、1回観測を行えば暫定的に確率の値が求められます。例えば60回振って1~6の出た回数が、11,13,9,7,8,12回と得られたら、確率を11/60,13/60,9/60,7/60,8/60,12/60,とすればよいのです。こういう実測値は確率とは呼べず、頻度というのが正しいでしょう。確率とは無限回の試行をしたときの頻度の極限値なのです。
ここでサイコロの出目の場合に1~6の確率は全て等しいと自然に仮定してしまうのはなぜでしょうか? 神のいる確率といない確率はそれぞれ1/2、なんて仮定は笑い話にしかならないのですが?[*2]
その理由は、一般的にするためにあえて漠然とした言い方にすれば、同じものは確率も同じはず、と考えるからでしょう。サイコロの各面は1~6であると区別できるようになんらかの異なる印は付けてあるでしょうが、それ以外は全く区別できないことになっています。で、サイコロの出目という力学的要素だけで決まりそうな現象には印の違いは無関係と想定して、各面の出る確率は同じだと推定しています。
もしも実際に振ってみて頻度の差が観測されれば、実は同じに見えていたけれど、何らかの違いがあって、それが見えていなかったのだと考えるでしょう。「各面が同じである」という観測結果が不十分なものだったと判断するのです。
例えば同じ形の四角錐を組み合わせて作ったサイコロだったとして、形が同じだけで質量が違っているかも知れないし、質量が同じでも磁性や帯電の有無が違っているかも知れないし、形や質量も観測精度が不十分だったかも知れません。
さて統計力学(Statistical mechanics)では質量その他の属性がまったく等しいとされる分子の多数の集団を扱います。そしてこの集団が取りうる多数の"状態"の確率もすべて等しいという仮定の基に理論が組み立てられます。言葉使いが曖昧で誤解されそうな言い方になりましたが、要するに対象がランダムであるという仮説には以下の主なものがあります。
1. 分子的混沌(English):衝突する粒子の位置と速度の間には相関がない
2. エルゴード仮説(Ergodic hypothesis):時間平均と、アンサンブル平均は等しい
3. 等確率の原理(Principle of indifference)(principle of equal a priori probabilities):孤立した平衡状態の系について、許される系の状態はどれも等しい確率で現れる
実際にはどんな母集合の中のどんな部分集合の確率なのかというイメージはそう簡単ではないのですが、まあ同じような分子同士のことだから同じ確率になるのは当たり前ではないかというイメージを抱くかも知れません。サイコロの各面とは事情が異なり、同種の分子同士に違いはないことになっています[*3]。しかし実は集団の中の各分子同士には明確な違いがあります。それは各分子の位置と運動量(方向も含めたベクトル量)です。これらが違うと何が違ってくるだろうかと言えば、未来の位置と運動量が違ってくるはずです。実際に天文学での銀河分布のシミュレーションや星団内の恒星運動のシミュレーションでは、多数の似たような天体の位置と運動量を追跡して歴史的発展を調べるなどということが行われています。この場合、初期条件から現在の観測されている状態を再現しようとするのでありランダム性を仮定したりはしません。
しかし1.の仮定をすれば衝突の時にランダム性が生じることになります。そして1の仮定から2や3が導かれることがわかっていて、1.が最も基本的な仮定とされています。そして、このようなランダム性の仮定を設けることで例えば熱力学第2法則(孤立系のエントロピーは減少しない)が演繹的に導かれます。
さてサイコロの各面に印もついていないと区別はつかなくなってしまい、バラバラにして混ぜるともうどれがどれだかわからなくなるでしょう。それでも別の面はあくまで別の面だというのがマクロ世界での我々の信念です。これが分子や原子ともなると、そもそも印を付けることが不可能です。同位体をトレーサーとしたりはしますが、これでは質量が変わってしまいます。スピンとか励起状態とかを変える方法もありますが、どれも粒子の運動に無視できない影響を与えるでしょう。これがサイコロの各面に印を付ける場合なら、運動に与える影響はいくらでも小さくできそうです。ゆえにサイコロの場合なら、たとえ印は異なっていても出目の確率はほとんど同じである、と推定できるのです。
それでも非量子論的には、位置が異なる粒子は別個の粒子として区別できるものと想定します。粒子P1の時刻tの位置X1(t)が粒子P2の時刻tの位置X2(t)といきなり入れ替わるなどということは起きず、あくまでもX1(t)という連続関数になり、それはX2(t)とは異なると想定されているのです。
また量子論的な場合でも、位置が区別できなくなるのはエンタングルメントしている場合や、例えば同一原子内の複数の電子同士のように原理的に位置の区別ができないと想定されている場合であって、ある程度離れて位置が区別できる粒子同士の場合はやはり、別個の粒子は位置の違いにより区別できると考えられます。
実際問題として、分子などの多粒子系で各粒子を別のものとか同じものと判定するための情報とは位置の異同、または運動量の異同です。この意味は別途の記事で書くとしましょう。
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Ref-1-a) wikipedia日本語版確率論
Ref-1-b) wikipedia5e 英語版"Probability theory"
Ref-1-c) 確率論の講義資料(九州大学)
Ref-1-d) 確率論の講義資料(慶應義塾大学・服部哲弥)
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*1) 実は仮定に過ぎなかったにもかかわらず、当然の事実だと信じ込んでいたことは科学史上でも枚挙にいとまがない。
*2) 出典が見つけられないのだが、大真面目だったのかジョークだったのか。リチャード・スウィンバーンの『神の存在の帰納的論証』の解説というのを見つけたが、これはまずは1/2と仮定してみて各証拠に基づいて確率を変更するという話だから、まともな論証ではあるのだろう。途中でトンデモ証拠が出てきそうな気はするけれど。
*3) むろん異なる同位体原子を含む分子同士は同種ではない
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