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★伊香保温泉★榛名神社

2012年09月04日 | ★旅行★国内
榛名神社

用明天皇(585~587年)の時代に創建されたといわれる古社。雨乞いの神社として、また修験者の霊場として古くから榛名山信仰の参拝者を集めてきた。荘厳な雰囲気の漂う境内には戦国時代、武田信玄が箕輪城攻略の際、矢を立て戦勝を祈願した矢立杉[やたてすぎ](天然記念物)のほか、本殿の背後には御姿岩[みすがたいわ]とよばれる巨岩もある。

神社入り口より約700メートルの参道は清流に添い、老杉が空を蔽い、巨岩奇岩に心打たれ森厳極まりなく、本殿に到着した時には身も心も洗われております。

■榛名神社の案内■

伊香保温泉から榛名湖へ上り、さらに下った所にある神社です。(伊香保温泉からマイカーで30分弱)

伊香保温泉を訪れた方でも、これまでは榛名湖畔まで足を延ばす人は多かったですが、榛名神社に行く人は少なかったです。

近年のパワースポットブームで、テレビや雑誌等でも『関東屈指のパワースポット』として取り上げられ、かなり訪問者も増えています。

榛名神社は1400年以上歴史のある、由緒ある神社です。

参道を歩くだけでも気持ちの良い一時が過ごせます。

途中、樹齢1000年と言われる、国指定天然記念物の矢立杉もあります。








































★伊香保温泉★旧ハワイ公使別邸

2012年09月03日 | ★旅行★国内
この建物は明治時代中期にまで続いたハワイ王国の日本駐在公使(駐日代理公使ロバート・ウォーカー・アルウィン)の別邸として建てられたものです。ハワイが独立国だった頃の王国建物としては国内唯一のものとして大変貴重な存在で昭和60年にハワイ移民100周年を記念して移築保存され渋川市指定史跡に指定されました。現在は内部が一般公開され当時の写真や資料などが展示されています。
旧ハワイ公使別邸[建物・史跡] 1893年(明治26)。

公使(こうし)

外交使節の一種で、正式には特命全権公使である。ほかに弁理公使、代理公使が認められるが、弁理公使は最近用いられない。公使は大使に次ぐ第二の階級の地位にあるが、両者の違いは席次や儀礼に関してのみであり、実質的な地位、職務、特権についてはなんら異ならない。第三の階級の代理公使は、派遣の手続において大使や公使と異なる。大使、公使の場合は、信任状は派遣国の元首から接受国の元首にあてられるが、代理公使の場合には、派遣国の外務大臣から接受国の外務大臣にあてられる。ただし、任務や特権の点で差異はない。また、代理公使も使節団の長であって、公使の代理(臨時代理公使)ということではない。

群馬県渋川市伊香保町伊香保29-5
TEL 0279-72-2237(徳冨盧花記念文学館)
JR渋川駅→関越交通バス伊香保温泉行きで30分、終点下車、徒歩8分
関越道渋川伊香保ICから10km20分
入館無料 時間 8時30分~16時30分(夏期~17時30分、冬季~15時30分)
休み 不定休






























★伊香保温泉★其の2

2012年09月02日 | ★旅行★国内
標高約700m付近、榛名山の中腹に位置しています。湯縁起では垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に開かれたという説と、天平時代の僧、行基によって発見されたという説が伝えられています。どちらにしても南北朝時代の書物にすでに温泉が湧き出ていると書かれているのですから、本当に古くからある温泉なのです。

また、万葉の時代、「伊香保」は今の榛名山一帯を指していたようで、多くの歌が詠まれてきました。「万葉集」巻14の東歌の中で、上野国(群馬県)の部には「伊香保」に関する歌が25首中、9首詠まれており、歴史の古さを物語っています。

伊香保温泉には湯の色が特徴の『黄金の湯』と無色透明な『白銀の湯』があります。もともとは黄金の湯で、湯の中に含まれる鉄分が空気に触れ、酸化して独特の茶褐色になっていきます。刺激が少なく、肌に柔らかな湯のため、伊香保温泉は療養や静養の地として多くの人を癒してきました。また特に体を芯から温め血行を促すとして女性に優しい『子宝の湯』として知られてきました。

また平成8年に伊香保温泉事業協同組合の設立により、無色透明で豊富な湯量を誇る『白銀の湯』が利用され始め今に至っています。

黄金の湯
泉質硫酸塩泉∴カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物温泉(中性低張性温泉)浴用の適応症神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・冷え性・病後快復期・疲労回復切り傷・火傷・虚弱児童・慢性消火器病・動脈硬化症・慢性皮膚病・高血圧など

白銀の湯
泉質メタけい酸含有量が温泉法の限界値以上のために、温泉法第2条にいう「温泉」に該当(中性低張性冷鉱泉)浴用の適応症病後快復期・健康増進・疲労回復。






















★伊香保温泉★宿泊

2012年09月01日 | ★旅行★国内
伊香保温泉(いかほおんせん)は、群馬県渋川市伊香保町(旧国上野国)にある温泉。草津温泉と並んで県を代表する名湯で、上毛かるたでは「伊香保温泉日本の名湯」と歌われた。

温泉街

急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在する。

石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。

温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。

温泉街の周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。

























歴史

発見は1900年前とも1300年前とも言われている。万葉集にもその名が登場している。

現在の温泉街が形成されたのは戦国時代である。長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ、整備された。石段もこのときにできた。

明治時代以降は竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など文人が多く訪れた。また、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られた。

伊香保温泉の老舗旅館、千明仁泉亭は、伊香保を愛した明治の文豪徳富蘆花が常宿として生涯10回宿泊し、ひいきにした旅館であり現存する。海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る宿である。

更に1910年(明治44年)には、渋川から路面電車も開通した。同線は後に東武伊香保軌道線となり、バスの台頭で1956年(昭和31年)に全廃されている。

東京などからの避暑客で賑わう1920年(大正9年)8月20日、深夜に火災が発生。温泉街を焼き尽くす大火となった。

戦後は歓楽街温泉としても栄えた。芸妓組合が現在も存在している。近年、温泉街の店舗が東南アジアから人身売買によってつれてこられた少女を監禁し、売春行為を行っていた事実が発覚し、マスコミに取り上げられている。また、2012年(平成24年)1月にも、人身売買によって同地に連れてこられたタイ人女性に売春を強制した同地の飲食店が検挙されている。

2004年(平成16年)の温泉偽装問題では、水道水を使用しているにもかかわらず温泉表示を行っていた温泉があったと報道され、注目を集めた。これは、戦後の旅館数増加に対して、開湯以来の黄金の湯の源泉は、小間口権利者ならびに権利者から購入した旅館のみの利用に限られ、源泉が不足していたことによる。

この小間口権利者が源泉を利用する権利が、周辺の湯を分配していた宿に対しての供給量を抑えて湯を引けなくなった宿が多くなった時期と、伊香保温泉における温泉偽装問題が発覚した時期が符合することから、権利者の行動に疑問を投げかけた見方もあった。

源泉の不足を補うために、1996年(平成8年)に白銀の湯が開発されたが、すべての旅館で使われなかった。また、この白銀の湯は成分的にも黄金の湯に比べ温泉特有の成分が非常に少ない(メタ珪酸単純泉:つまり、「温泉法第2条による温泉」)ので、人によっては温泉かどうか分からない、といった声もある。湧出温度も低く成分も特有のものがないため、温泉というよりは湧き水に近いと想像した方が無難かもしれない。

茶色の温泉饅頭の発祥の地とも言われ、1910年(明治44年)から売り出されている。「湯の花まんじゅう」と呼ばれている。

1955年(昭和30年)6月に、観光協会の陳情によって日本最初のケーブルテレビ(NHKによる難視聴解消用のテレビ共同受信実験設備)が設置されたとされ、温泉地にある「文学の小径公園」にはその記念碑が設置されている。