幸せは どんなときも 私の中に・・・
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明日は一年ぶりに、義姉が帰ってきます
時々一緒に買い物に行ったりスーパー銭湯に行ったり、
作ったおかずの交換をしたり、お墓参りに行ったりはするけれど、
階下と二階で別々に気楽に過ごす一月半。
さっぱりしていて、こだわりがなくって、でも心の優しい義姉が同じ屋根の下にいると思うと、
それだけで心が温かくなるのです
明日もあさっても、私はサークルやボランティアや、習い事やボランティアや飲み会や・・・
とにかくずっと外出予定なのだけれど
きっとそんなことも不快に思ったりしない義姉です。
暑い暑い神奈川県から帰ってくるので、きっとこちらの気候にホッとすることでしょう
もう義父母も夫もいない家だけれど・・・
今年も色とりどりの紫陽花と一緒に、
義姉を迎えます
視覚障害と認知症が進行している母は、
父のことが分からなくなる時間が日に日に増えています。
昨日私には、午後から楽しみな予定が2つありました。
朝のうちに様子を見に行こうと実家に行くと、、、なんだか不穏な雰囲気
庭にたくさん実っているハスカップを1時間かけて苦労して採った父が、
いつものように母に「ジャムにしてくれな。」と頼んだのがきっかけとなって、
母はまた混沌の世界へ入ってしまったようでした。
家事能力も落ちている母には、頼まれることが負担だったのかもしれません。
「変なことを言ってくる、じゃまくさい爺さん」と認識されてしまった父は、
「早く帰ってちょうだい!」と言われ続け、私が行ったときには憔悴しきっていました。
母は苛立った険しい表情で、部屋の中に立ちつくし、
父の採ったハスカップが、台所に置いたままになっていました・・・
これはもう、二人で家に住むのは限界?と、ちらりと思ったけれど、
いいえ、まだみんな頑張れる・・・と思い直し、
二人を車に乗せて買い物に連れ出しました。
いつもは私が、見えない母に付き添うのですが、昨日はそれをやめて、
父に、母と手を繋いで歩くよう頼みました。
二人で手を繋いで店内を歩いている間に、
苛立っていた母の心が落ち着いていくのが見えました。
その後の予定の1つはあきらめてキャンセルし、ジャムを作り、おかずもたくさん作った後は、
3人で音楽番組を聞きながら穏やかに過ごしました。
私は寝不足や疲れでしていた頭痛が消え、体がちょっと休まり、
おかげでとっても楽しみにしていた夜の友人とのデートには、
その後元気に行けて、
かえって良かったかも~と母の混乱にちょっと感謝
大変なこと切ないことは、ますます増えるだろうけれど、
どんなことも一度限りの人生の、大切な経験。
介護サービスや医療の力もお借りしながら、
なるべく明るくがんばりましょ・・・
実家の母が、
毎日テレビアニメを見ています
画面は見えないから、正確には「聴いている」ですけれど。
お友だちが教えてくれなかったら気づかなかった深夜の時間帯の放映。
実家では父が、毎週予約のセットをしてくれて、
昼間母に、何度も見せてくれています。何度も・・・
99歳まで生きていた母方の祖母は読書好きでしたが、
晩年はよく、
「面白い小説も、すぐ内容を忘れてしまうから、一冊でも何度も楽しめてお得なのよ~」と笑っていたけれど、
母のテレビも同じ
何回だって楽しめちゃう!
でも面白かったということはちゃんと覚えていて、
行くたびに、
「漫画がこんなに面白いなんてねぇ~!ストーリーもいいね~」
と、ご機嫌です。
音楽好きの母には、番組中のピアノ演奏も、ことのほかお気に入り。
テレビでもいい音!
昨年、「もう長くないからテレビは古いままでいい。買うのはもったいない」と渋る父に、
強引に新しいテレビを買ってもらったのも、よかったようです
なにせTVアニメ『ピアノの森』の中の演奏は、
若手ピアニストさん達によるもので、しかも作中の人物と同じ国出身の実力者というのが嬉しい!
子役の演奏もオーディションに受かった若い方達!
母が見えないのが残念なのは、演奏している手の動きもすごくリアルなこと!
とにかく毎週楽しみな『ピアノの森』
本だけでも面白かったけれど、実際の演奏が入るので、アニメ、最高です!
実家の本棚に置いてある私の本・・・
なんと最終巻がない!?
なんと!!買っていなかった!?
自分でもびっくり。
25巻でもう完結のような終わり方だったので満足してしまっていたのでした。
でも、もちろん!気づいてすぐに、買いに走ったのでした。
この最終の26巻がまた、感動~なのです
というわけで、本もまた読み直し、
録画は今日も母につきあって2回も見て、
当分母も私も、『ピアノの森』で盛り上がれそうです
おまけ・・・実家の庭より
ヒヤシンス
エゾムラサキツツジ
午前中の卓球教室の後、大急ぎでシャワーを浴び、
適当に昼食を済ませて実家へ
毎月の、母の眼科の定期通院です。
車の中で「あれ?今行くのはどこだった?」「医大の眼科だよ」
「あら?保険証持ったんだったかなぁ。お財布在るかなぁ。」「さっきパパに預かってもらったでしょ。全部あるから大丈夫。」
と聞く母、答える私。
この会話は、車に乗っている数十分の間、傷のあるレコードみたいに(たとえが古い?)何度も何度も繰り返されます。
私はなるべく他のことに話題を持っていき、母の心配する気持ちを逸らしながら運転。
父は後部座席でこっくりこっくり。
札幌医大の狭い駐車場は、いつも満車状態。駐車待ちの車が道路にたくさん並んでいます。
でも私たちは、水戸黄門の印籠のように、母の「身障者手帳」をチラリと見せるだけで、
係の方に、「どうぞ~」と玄関に近い身障者専用駐車場へ案内してもらえます。
申し訳ないけれどありがたし
他の病院のときは、私だけが付き添いますが、
医大だけは最近ずっと、父も乗せて3人で行きます。
受付と会計と支払の場所が離れているし、
薬局は病院を出てかなり歩いてから、さらに道路を渡らなければならないので、
1人が母に付き添い、その間にもう1人が他の場所に行く、という連係プレーが効率的なのです。
母の視力検査の結果は、0.03と 0.005(矯正視力です)。
視野はほとんどが欠けていて、最近はもう視野検査もしていません。
2年前の春、(失明まで)あと1年か2年か・・・と言われたけれど、
ありがたいことに、ここのところ進行は比較的緩やかです。
眼科の診察室は薄暗いけれど、母は、小さな背もたれがついた青い患者用椅子に迷いなく座り、
主治医に「すごいなぁ、見えてるんですね~」と感心してもらえました
「これくらい見えますよ~。青は見やすいです。」と母。
主治医の前に行くと、「色はちゃんと分かりますよ。」とか、「読書はあまりしない方がいいですよね?」と言う母。
普段は青空の日に「空がクリーム色に見える」と言っているし、
文字もテレビ画面も、もう全く見えていないのですが、見えていると思う認知症のありがたさ・・・。
「眼圧は良い状態ですね。前回と同じ、9と12ですから。」と主治医。
「良いと言っても目が良くなっているわけじゃないですよね」と母。
「そうですね。言い方が良くなかったですが、眼圧は良くても見え方が良くなったということでは、ないですね。」と主治医。
という感じで、冷静な母です。
主治医と会話する母は、そこだけ切り取ると、とても認知症には見えません。
特に変わったことがなく、いつものように目薬を処方してもらって、
来月の予約をして帰ってきました。
帰宅後に一緒に台所に立った母は、
「やっぱり何にも見えなくなったら困るなぁ・・・」と・・・。
それでも、私が「お母さんなら、見えなくっても、ちゃんとご飯の支度はできるよ。」と言うと、
「うん、見えなくなったってやるよ!」と力強く言ってくれました。
本日購入したのは、豊漁が伝えられている春告魚
今まで見たことがないほど鱗がいっぱいの新鮮な生鰊です。
4尾で230円だから、1尾60円しません。
母が子どもの頃は、た~くさん捕れていたので、箱で買い、
お祖母ちゃんがさばいて、身欠き鰊を作っていたこと、
春は毎晩その鰊のお料理が食卓に上り、
また、軒下に干してあるのをおやつに食べたりした、
という話を聞きながら、2人でお料理しました。
その子どもの頃よく食べていたのが、「鰊のかまくら」だそうです。
下ろした鰊をみりんやお醤油で漬けておいて、翌日焼いて食べるというものです。
母は、見えないのにきれいに鱗を取り、三枚に下ろしました。
鰊は明日のおかず。
今日は、ホッケの干物を焼いたもの。
いつものように、父が母の分の骨をきれいに取り除いてお皿に分けていました。
毎日毎日、母に違う人と間違えられたり帰れと言われたりして、
その度に落胆しているかわいそうな父ですが、
献身的に頑張ってくれています・・・
さて・・・今頃はもう平和に眠っているだろう二人を思いつつ、
私はこれから、自由な時間を楽しみま~す
母方の叔母から一冊の本が届いた。
数ヶ月前に、その存在を知って、
見せてほしいとお願いしていたものだ。
色あせた表紙、ほつれた綴じ紐、はがれた背表紙・・・
でも、
表紙には、細やかに施された刺繍がしっかり残っている。
本を開くと同時に、
思いが、グッとこみあげてくる・・・
それは、祖母が手作りした『徒然草』の写本。
用紙には、商店名が印字されていた。
「三吉勝次郎商店」・・・祖母の実家、私の曽祖父の名前が冠されたお店だ。
祖母がこれを書き写したのは、結婚前だから、10代?20代?
前頁美しい連綿で、どこにも書き誤って直したところがないのにも驚かされる。
所々に頭注も、それはそれは細かな文字で書かれている。
途中には朱墨での訳注も。
もしかしたら女学校時代の勉強だったのかな?
祖母の時代には、こんなふうに書き写すことも学校の勉強の一つだったのか、
それとも長期のお休みの自由研究?!
それともそれとも、純粋に祖母自身の興味から???
どんな経緯だったのか、知る由もない・・・
今『徒然草』は、序段+243段となっているけれど、
祖母のは244段になっている。今とは違う原本があったのかな?
調べてみたら、違っているのはここ。
今は232段目になっているところが、232と233段の二つに分かれている。
もはや研究心の足りない私なので、これ以上の追求はしないのだけれど。
それにしても表紙の刺繍も本当に細やか。
そして裏表紙には・・・
祖母自身の名前が・・・
100年近くの時間を経て祖母の書き写した本を手にする不思議さ、
そして嬉しさ・・・
おばあちゃん、
大切に見せてもらいますね~
99歳まで生き、最後まで少女みたいだったおばあちゃんの、
あら、恥ずかしいわ~
って、頬を染める笑顔が思い浮かんだ。
今月初め、母は、糖尿病の主治医から勧められてCT検査を受けた。
そして、胃の画像に異常があると言われた。
で、さらに腫瘍マーカーの検査を勧められて受けた。
数日後、説明を聞きに来て下さいと病院から電話があった。
本人もと言われたけれど、認知症の母に余分な不安を感じさせたくないので、私1人で聞きに行った。
マーカーのCA72ー4だけが、基準値6.9以下に対して20という結果で、
それは消化器系の癌の可能性を示すものだという。
主治医は、受け持ちの糖尿病の患者さんの中にも最近何人も癌を見つけてしまったので・・・何もなければ良いのですが、とも。
実家に行って、さらっと説明すると「あら、胃がんかな?」と言った母だったけれど、
すぐにそのことは忘れてしまっていた。認知症ありがたし。
で今日、紹介された大きな総合病院で内視鏡検査を受けに行った。
母には生まれて初めての胃カメラだったけれど、
安定剤(麻酔と同じらしい)を使用しての検査だったので、
眠ってるような状態で何の苦痛も意識も?なかったようだった。
一時間休憩した後には、母はもう検査のことは忘れていた。
で結果は・・・
胃も、どの内臓も、問題なし!
日々の母からは、全く胃の不調は感じられなかったし、
マーカーは異常ないときでも数値が上がる場合があるそうなので、
それほど心配していないつもりだったけれど、
流石に昨夜は、珍しく、夜中にあれこれ考えてしまった。
見えないから音楽と食べることくらいしか、楽しみがなさそうな母自身のことはもちろん、
がっくり気落ちしそうな父のことも心配だったし、
たくさん予定が入ってしまっている私自身は、
いろんなことをあきらめたり、いろんなところに迷惑をかけてしまったりするかもしれないと・・・。
でも、その心配たちももう消えて、
明日からまた、いろんなことで忙しく過ごせること、
それが本当にありがたい。
病院から結果を電話すると、
ぱっと明るい声になった父の「旨いものを二人で食べておいで」というひとことに調子づき、
回転寿司で母と二人 お腹いっぱい食べ、
「パパにも買っていってあげよう」と母が言うので、夕食用に父にもお持ち帰り。
帰るといつものように、父のことが自分の父親に見えてしまう母に戻ってしまって、
早速父とごちゃごちゃ言い合っていたけれど、
それも元気ならばこそ
父は安心して、
デイサービスからの宿題の運動を母にさせたり、
弟夫婦が送ってくれているお水やサプリを、
張り切って母に飲ませたりした。
(それを飲んでいるから、
二人とも内臓が元気なのかも!)
とにかく 良かった良かった・・・ありがたやありがたや・・・
元気が出て、やっと我が家のブルーベリーやカシスの冬囲いもできた。
久しぶりに気温も上がって畑の土が顔を出していたので、
取り残しのルッコラをもう掘り返して埋めてしまおうと思ったら・・・
なんと!ルッコラと同じ色のきれいな緑の青虫クンがいた!
雪の下の葉っぱの中で生きていたんだなぁとび~っくり。
元気そうな青虫クンのために、
自分の夕食用に少しだけ採って、あとはそのまま残しておこう
青虫クンが越冬できるといいなぁ・・・
母方の祖母は、倶知安の高校に赴任する祖父と共に、
関東の実家から遠く離れた北海道に移り住み、
小柄なのに子どもを8人も産み育てました。
お味噌汁のことを「おつけ」、トイレのことは「ごふじょう(ご不浄)」と言っていたのが、
子どものときの私には印象的でした。
クラッシック音楽が好きで、
家事をしながら、いつも品良く鼻歌を歌っているような、
明るくて邪気のない、いくつになっても可愛い人でした。
先日実家で、その祖母の日記帳と小さなスケッチブックが遺っているのを知りました。
日記帳には、母が生まれた年の1年間が几帳面に綴られていました。
が、祖母はとても達筆だったので、あまり読みとれず・・・
出産後少しの間、祖父の文字で記録された部分だけは、
読むことができ、興味深いものがありました。
そして小さなスケッチブックには、
祖母の絵が。
せっかくなのでここに残しておきたいと思います。
いろいろ好きなこと、したいことがあったはずですが、
自分を発揮する場所はおそらく家庭の中だけだっただろう専業主婦一筋の祖母でした。
家事・育児の忙しい合間に、楽しんで描いていたのでしょうか。
今日は午前11時近くに、
電話をしてから実家へ行くことにしてあった。
卓球教室から帰宅し、家に入る前に車の中で電話をかけた。
シャワーを浴びてから行くので少し遅れるよと言うつもりで。
呼び出し音が鳴る。
いつもなら、4、5回で母が出る。
が・・・珍しくなかなか出ない。
呼び出し音を聞きながら、私は車を出て家の鍵を開け、階段を上って居間へ入る。
が・・・呼び出し音だけが鳴り続ける。
電話をあきらめて、私は大急ぎで着替え、再び車に乗って実家へ急いだ。
運転しながら頭の中ではいろんな思いが駆け巡る。
(お天気がいいから二人でお散歩に出かけた?いや、そんなことは最近全くしなくなっている。)
(私と買い物に行くことを忘れて、歩いて買い物へ行った?いや、そうなら父は必ず留守電設定にしていくはずだ。)
(昨夜も、寝る時間が近づくと、母の認知症状に対する父の忍耐力が落ちて険悪な状況になり、
何度も電話で対応しなければならなかった・・・もしや父の限界を越えて、とんでもないことになっているのでは・・・)
(二人とも倒れているのかもしれない・・・)
(5年前のあの朝も、この先にいったい何が私を待っているのだろうと思いながら車を走らせたなぁ・・・
あのときには、あのひとと連絡の取れないことに、何一つ希望のようなものは浮かばず、少しずつ覚悟をしながらも、
心臓がごとごとと鳴り続けていたなぁ・・。)
(マリーナの人が気を利かせて今は対面しない方がいいと言ってくれて、私は素直にそれに従って、もう生きてはいないあのひとの辛い姿を、
その時は目にすることなく、きれいに整えてもらってから対面したのだったなぁ・・・)
(でも今日万が一、父と母が悲惨な状態で倒れていたとしても、私は冷静に対応しよう、私はしっかりしなければならないんだ。)
(私は今、やはり大変な事態に直面しているのだろうか・・・?)
そんな7分間を過ごし、実家に着くと、
私が行く前にいつもは父が少し開けている車庫のシャッターが、
ぴったり閉じられている。
心を落ち着けながら、いつものようにベランダの出入り口へ回った。
すると・・・
ソファに座っている父の姿が、まず見えた。
ベランダのカギは開いていた。
あぁよかった!!何事もなかった穏やかな二人がそこにいたのだった。
ほっとしながら、電話に出なかったことを言うと、電話など来ないという。
その場で携帯からかけてみると、なるほど、鳴らない。
最近機械に弱くなった父が、着信拒否の設定に間違ってしてしまったのかと思ったが、
受話器を取ってみると・・・あらら、ツー という音が全くしない。
すぐに壁際を確かめると、なんだ!コネクターが外れていたのだった。
なぜ外れたのか・・・それは、二人とも全くわからないと言う。昨夜は普通に通じていたのだし。
謎は謎のまま。
いつものように保存できるおかず数品と夕食を母と一緒に作り、
明日の母のデイサービスの準備をし、
帰ってきたのだった。
?
?
こうしてこれを打ってるうちに、夜の電話をかける時間になっていることに気づき、
たった今電話した。無事受話器の向こうで母の声。
いつものように
「パパは宴会に行って、まだ帰ってこないの。おじいちゃんがいるよ」と母。
「何言ってるんだ!おれはここにいる!」と電話の向こうで父の声。
でも今日は昼間実家で、不思議な解決法を発見したのだった。
「さぁ、お母さんにクイズを出しますよ~!今そこにいるのは・・・
1番、〇〇〇〇さん(おじいちゃんの名前) 2番、〇〇〇〇さん(弟の名前) 3番、〇〇〇〇さん(父の名)
さぁ、正解は何番?!」
すると母は「何言ってるの~。3番に決まってるでしょ!」
「ピンポンピンポン!大正解~!」
「なにやってるの~(笑)パパがいるにきまってるでしょ。へんなの~」
今日は何度もこれで人物誤認から復活している母。当分この作戦で行けるかなぁ~
今日だけだろうか。。。
でもとりあえず、今日も二人は平和に眠ることが出来るだろう。
私もね。
めでたしめでたし。
週に半日だった母のデイサービスを増やしました。
「歌えるところを」、とケアマネさんに探していただき、できて間もない別のデイサービスを教えていただきました。
一人で見学に行った私は、母に聞かずとも母にぴったり!と感じ、すぐ契約を決めました。
初日、母はちょっと緊張していました。
で、お迎えに来て下さったWさんのお言葉に甘えて、私まで付き添って、また行っちゃいました。
なんて・・・母が心配というよりも・・・実は見学して楽しかったから
そのデイサービスは個人病院が行っており、病院の2階でとても明るくきれいなフロア。
スタッフさんは介護だけじゃなく看護のプロも複数いらして、
しかもお一人は看護主任さんでありケアマネさんであり、音楽科を出た、もとは義務教育の先生!
送迎までして下さり・・・しかも美人
「運動」の時間は、
初日だったので、いろいろ測定や検査をやりました。
柔軟性を調べたり、30秒間で何回立ったり座ったりができるかを測ったり、
長い紐に短い紐を何本結べるか、のような手先の検査も。
母は紐結びが、とてもスムーズに15本もできていました。
次回からは、今日の結果から立てられた計画に基づいて、
機能訓練のようなことをマンツーマンでやってくださいます。
「音楽」の時間は、本当は?音楽療法の時間です。
まず看護主任であるWさんが、ハイクラスの?グランドピアノを弾いてくれました。
バッハの「プレリュード」そしてヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」。
「いい音だね~」「上手だわ~」と母は感心し楽しんでいました。
間近でピアノを聴くのは久しぶりなはず。
デイサービスと思えない、とっても優雅な雰囲気でした~。
それから「ぱたから体操」
「パパパパパ~、タタタタタ~、カカカカカ~、ラララララ~」
発声練習みたいで、コーラスをしていた母は、張り切ってやっていましたが、
後で調べたら「口腔機能訓練」のようです!一石二鳥。さすがです!
それからピアノに合わせて秋の唱歌や童謡を歌いました。
スタッフさんも入って一緒に歌ってくださってました。
歌集が用意されており、
隣で先導して歌詞を言ってあげる方法であれば、見えない母もしっかり歌うことができます。
その日は私がしましたが、次回からはスタッフさんが先導して言って下さるそうなので、
たいへんありがたいです。
ピアノや歌の合間には、作曲者や曲にまつわるお話や歌詞のクイズも入り、
歌い疲れることもないゆったりしたテンポで、楽しく進められていました。
もう1人の通所者さんは89歳の男性。
Wさんがお願いすると、ハーモニカを吹いてくださいました。
「故郷」「たき火」・・・ちゃんとメロディーに和音伴奏も付けた本格的な吹き方で、
息切れもせず、とってもお上手でした
3時間目はおしゃべりタイム。
テーブルを囲んでお茶を飲みながらお話をしました。
若いスタッフさんが準備してくださった簡単なゲームも。
ストローを使って、ペットボトルのキャップを吹き、くじで引いた色の陣地の中に、何回で入れられるか、
というゲーム・・・吹く力の訓練になりそう。
母も一生懸命吹いてました
出されたお茶は、cafeのようなメニューから選びました。
母は「ショコララテ」!コーヒーゼリーもついています。
バックにはクラッシック音楽が流れ、またまた優雅な雰囲気。
スタッフさんみんなで、お子さんの話なども交えてホットな会話が続きます。
母も少し慣れて、昔の嗜みだったお琴を習った話(足がしびれるのが辛かったとか)や、
ピアノや焼き物の話など、
いろいろおしゃべりしました
ふつうは、家に帰ると何もかも忘れる母ですが、
このデイサービスのことは、「あそこは質がいい感じがしたよ」「あそこなら行ってもいいわ」と、
やはりお気に入りになったようです。
開設して4か月くらいのところなので、母の行く曜日は、まだ3人しか通う人がいません。
3人だけなんてもったいない!みんなに教えたくなる上質の、素敵なデイサービスです。私も通いたい。
12月には患者さんや通所者さん対象に?クリスマスコンサートでゴスペルが聴けるとのこと。
母と二人で予約しました。
デイサービス週2回、
母が毎回楽しみに行ってくれるといいなぁ・・・
そうしたら父も、
安心して一人のんびり過ごす時間が増えるので、
お互いにとって良い時間になるはずですから・・・
父の妹である大好きな叔母たちが招いてくれたので、
穏やかなお天気の今日、母を乗せて千歳へ行きました。
途中、紅葉した木々の色が、
緑内障の母の目にもぼんやりとだけれど感じられたようでした。
仲良し姉妹で、二人とも保育園長だった叔母たちは、それぞれいろんな苦労を乗り越えてきて、
とても善良であったかくてそして働き者。
おじゃました吟ちゃんのお家は明るくて木の温もりに溢れていて、わたしの憧れのお家です。
保育職退職後に、
リフレクソロジーの資格や調理師免許を取った叔母は、
近くのレストランの歌声カフェで、
ボランティアで、ランチを作るお手伝いや足裏マッサージをしているそう。
本日の昼食~
叔父が育てたカボチャのサラダには、いろんな食感を楽しめる具が隠れていました
洋風の茶碗蒸し。野菜たっぷりのビーフン。ジャガイモのお団子がモチモチのスープ。
豚丼も、みりんとお醤油をコトコト長時間煮詰めた自家製のたれがすごく美味。
大根のお漬け物は、白いのとハスカップの塩漬けで漬けたピンクのとで、きれい!
楽しくおしゃべりしながら、母も私も、完食~
食事の後、もう1人の叔母ままちゃんが手渡してくれたのは・・・
可愛いプログラム
母のための「ミニコンサート」の始まりです。
仲良し姉妹のハーモニカデュオは、
老人介護施設でも、ボランティア演奏活動中~
二人の人柄がこもった、とても優しい音色です。
私もオカリナで参加。
うふ。母も歌い出しました。母はハモってる~
叔母たちが子どもの頃、
長兄である私の父と、次男である亡くなった叔父が、
二人でハーモニカを吹いていたという話もしてくれました。
ちょっと意外でなんだか嬉しい・・・そうか~父も・・・
とっても楽しいひととき・・・またしたいなぁ~母のためのミニコンサート!
そこに父も加わったらなぁ・・・
お土産もたくさんもらってきました
吟ちゃんの旦那様である叔父丹精のカボチャは、農家?直売所?と思うほど、車庫に何十個もあってびっくり。
しかも大きくて立派~!どれだけの手間と時間がかかっているのでしょう。
美味しくお料理しなくては
もらってきたのは雪化粧です。
瓶の中は、もう1人の叔母ままちゃんが梅干しとハスカップを漬けたもの。
とっても美味しいのです!
そして・・・夕食セット
帰ってからの夕食が楽なようにとの心遣い・・・さすがままちゃんです!
ハスカップ梅干しも一緒に、さきほど美味しくありがたくいただきました
母は家にいるときよりずっとしっかりと、楽しそうにおしゃべりをし、
帰りの車の中でもいつものように、「楽しかったね~!」
「二人とも本当に善い人たちだよね。パパの姉妹はみんな本当に善いヒトばかりで私は幸せだわ。」
と繰り返していました
二人の叔母のお陰で、
母も私もほんとうに心温かな、楽しい一日を過ごすことができました。
ままちゃん、吟ちゃん、ありがとうございました~
感謝感謝・・・
おまけ。
毎日母の人物誤認症状に悩まされている父は、今日は一人でのんびり過ごすぞと、
朝はなんだか嬉しそうでしたが・・・・
夕方私の車が実家に近づいたときには、
父はすでに外に立って、待っていたのでした
今日も昨日も一昨日も一昨昨日も実家へ・・・
両親に会わないのは週に1日か2日。
数年前まで・・・私は「いろんな私」。
教師で妻で母で嫁で娘で一人の女でただの自分で。
今は・・・ほとんど「娘」、時々「母」や「ただの自分」?
実家の食事。
まだ母は、なんとか頑張って食事の支度をしている。
視野も視力も僅かしか残っていないし、
記憶もどんどん消えているのに、本当に頑張っているなぁと思う。
でも以前の何倍も手間取り、気力も衰えがち。
煮物は、自分が食べるのはあまり好きじゃない私だけれど、
実家へ行くと毎回煮物を作る。
母にも必ず手伝ってもらう。
私が手伝っているふうを装おうとしてきたけれど、
もうそれも難しい。
やはり和風の煮物や酢の物が好きな両親。
タッパーに入れて保存しておくと、
私がいない食事のときに母が疲れていても、
父が器に盛って食卓に乗せられる。
実家では、私が生まれる前から使っているお皿やお鍋が、
まだ健在!
母は私と違って慎重で、物を大切にしてきたんだなぁと感心する。
焼き物の器は、35年ほど前に母が趣味で作った物。
それもまだ活躍している。
父が育てているブドウが食べ頃になってきた。
今日は、畑のきゅうりやミニトマトやサンチュと一緒にサラダにして、
父母と一緒の昼食に。
今はもう家に帰ってきている私。
あと1時間したら、いつものように実家に電話する。
電話で話すと、
まだなんとか母の混乱や苛立ちがおさまって、
父が寝られる状況になるのが、とってもありがたい。
態度が大きく偉そうになってきて、
「可愛げない娘」になってきているのが、
自分でもちょっと哀しい。
ごめんね・・・
5月6日は父のすぐ下の妹である叔母の一周忌でした。
両親を乗せて、旭川の伯母の家へ。
納骨の儀の時も今回も、従兄がお経を上げてくれました。
従兄の、とってもきれいな声の読経に合わせて、
信仰心の厚い伯母の家にたくさんある本を手に、心を込めて慣れないお経を唱えました。
百合子おばちゃんは、あの優しい笑顔でみんなを見てくれていたと思います。
お供えの、真ん中の餃子せんべいは、父が新聞の広告を見て、土産にしたい!と買ったもの
右のよもぎ餅は、父の一番下の妹である叔母が、
私の生まれ故郷でもある千歳川の畔から摘んだ蓬で 作ってきたもの。
お料理がとっても上手なその叔母吟ちゃんの、美味し~いよもぎ餅は、
祖母のと同じ懐かしい香り
読経の後は・・・百合子おばちゃんがよく利用させてもらっていた雷電鮨さんへ。
お寿司以外に、お店の方からのサービスがたくさんでした!
卵焼きは、わかめと小豆の煮たのが入っているという珍しくて美味しいものでした
母も、新婚当時何年か一緒に暮らしていた叔母たちに会えて、
とても楽しそうでした。
見えない母の手を取って歩くのは、いつもは父か私ですが、
この日は叔母たちが優しく寄り添って気遣ってくれたので、
母は嬉しそう。父も私も ホッとできたひととき・・・。
父は叔母たちが高校生だったときにその高校の教員だったので、
叔母のお友達も、父の20代の頃をご存じなのでした
お友達がこのブログを時々見て下さっているということで、
吟ちゃんのリクエストで載せます~
お友達の方、ご覧いただけていたら嬉しいです~
父はちょっと痩せたけれど、それに光の加減で実際より髪が白いけれど、
来月86歳になるにしては、とても元気でおります。
私は赤ちゃんの時から、叔母たちにお世話になりましたが、
働き者で優しくって本当に善い人間のこの叔母が人生のお手本です。
昔は甘い物が苦手でしょっぱいおせんべいが大好きだったことや、
ちょっぴりせっかちで、じっとしてるのが苦手なところや、
手が冷たいところまで、
この叔母と共通点がたくさんあるのが、なんだかとっても嬉しいのでした
何でもすぐ忘れてしまう母ですが、
帰りの車の中で何度も何度も、
「パパの姉妹はみんな気持ちの良い、善い人ばかり!今日は会えて本当に嬉しかったわ~」と繰り返していました。
妙子おばちゃん、ママちゃん、吟ちゃん・・・そして天国の百合子おばちゃん・・・
ありがとうございました・・・
またみな元気に、会えますように・・・
母はどんどん記憶や認知の混乱が増し、
気持ちが不安定になることも多く、
ずっと一緒に過ごす父の精神状態も、かなり心配な状況になっています。
はっきりしているのは、父自身のためにも、
母の心の「安心」「安定」が大切だということ。
記憶違いや人物誤認に決して苛立たずに、穏やかに心を寄り添わせる・・・
生真面目で頭がそんなに柔らかくはない父には、大変なことだと思います。
プライドもあるせいか、私が、母への対応法を説明しても、
なかなか落ち着いて聞いてくれないので、
認知症の家族への対応法の本を買って実家に置くようにしました。
父は一生懸命読んだようで、それからは、
努めて優しく穏やかな言葉がけをしようとしているのが伝わります。
それでも母が元通りに回復するわけではなく、
昨夜も不安定になって泣き出したと、母に聞こえないように私に訴えてきました。
私はもう、「お父さんはこうしなきゃ!」と言ったりせず、
認知症ではない父に対しても、母へと同様に、
受け止めて「心の安定第一」にすることが必要なのでした。
私が実家にいる時間は、数週間前の何倍にもなりました.
父は、私にいてほしがっている気配・・・
でも・・・・
まだ、実家に住み込むのは先にしようと思います。
母を支えることは、負担も多いけれど、唯一の父の「心の張り」にもなっていると思うから。
いえ、正直に言うとそれ以上に、
「私が」まだ、自分の時間を手放せないから・・・。
実家でずっと過ごす決心はつかないのでした。
そんなわけで、息抜きできない父には申し訳ないけれど、
私はちょっぴり心癒す旅・・してきました。
今まで見た中で一番綺麗に感じた洞爺湖・・・
本当は羊蹄山の写真も撮りたかったけれど、残念ながらお天気が
もっとも、写真を一番見せたい相手である「羊蹄山を見ながら育った」母には、
もう写真を見られる視力が残っていないのですけれど・・・。
それでも、羊蹄の湧水を使って作られたお豆腐やわらび餅のお土産を、
とても喜んでもらえたので、
後ろめたさもちょっぴり軽減したのでした
未来に明るい希望はないけれど、
現在の一瞬一瞬を 大切に 明るく過ごせるような自分でいなければ・・・
父にも母にも、心穏やかに 楽しく過ごせるよういろいろ考えなくては・・・
と思う今日この頃です。
明後日は、三人でディサービスの見学に行きます。
視覚障害のある母が、安心して楽しく過ごせる場所だとよいのですけれど・・・
昨日のお昼のこと・・・
父から電話がかかってきた。必死の声で「助けてくれ」と。
手短に話を聞いてから、私は車を走らせた。
我が家と実家が車で10分かからないことが本当にありがたかった。
顛末はこういうことだった。
朝から母は、最近時々そうなるように、父を夫と認知できずにいた。兄とか父親だとか だと・・・。
そのことが納得できない父は、自分のことを思い出させよう、わからせようとし続け、
必死さのあまり、強い言い方をした。
母はますます混乱した。
午後は眼科受診のため医大に行くことになっていたが、
父に対して頑なになってしまい、一緒に行くことに抵抗した。
そこへだけは自分が公共交通機関で母を連れて行きたいと私に断り続けている父は
焦り始めたらしく・・・
とうとう怒って、
母を力づくでソファから立たせ動かそうとしたらしい。
母は「変な酔っ払いとなど一緒に行けない!」と、
ついにパニックのようになってしまった。
そうして・・・
どうにもならなくなった父は、やっと私に電話をかけてきたのだった。
私が着くと、父は本当に情けなさそうに説明をし、
母は母で「変な酔っ払いのせいで、もう!訳がわからない!」と訴えてくる。
母の前に座って、何も否定せずに、ゆっくりと話を聞いた。全然関係ない話題で笑いながらおしゃべりもした。
母は落ち着きを取り戻し、一緒に笑い、いつもの母に戻った。
そして病院の予約に間に合わなくなることを気にし出した。
父には、母の混乱は「父が怒ったせい」だから、とにかく否定せず優しく接してと話した。
父は「頭では分かってはいるけれど、いくら言ってもだめだから怒ってしまった」と、とても悲しそう・・・
そして母に「ごめんな・・」と優しい言葉をかけた。
母だけ連れて病院へ行こうとも思ったけれど、
今度は父が「俺はもう生きてるのが嫌になってきた・・・一人で家にいたらもう・・・」
なんて情けない表情で言い出したので、
「お父さんを一人で家に置いていくのは心配だね」と母に話すと、
「うん、一人にするのは心配だからパパも連れて行こう!」と言う。
もう完全に落ち着いて、元に戻った母。ほっとした表情で支度する父。
病院では、診察券や会計や薬の手配は、父が一生懸命動いてくれた。
私が母に「お父さんは本当に頼りになるね~、助かるね~」と言うと、
母も「ほんと、しっかりしてるわ~。私は見えなくて頭も弱くなってるから、パパがいて本当に良かったよ」と同意。
父もやっと、気持ちが晴れてきた様子だった。
帰ってからも認知症状は出たけれど、
父はもう必死に分からせようとは、しなかった。
すっかり落ち着いた母は、
一緒に夕食の支度をし終えると、
「まだ帰らないの~?もう帰っていいよ!」と私を追い返すまでになったので、
私は苦笑しつつ、家に戻ったのだった。
過去にどんな時を過ごしてきたのか・・・
そんなことを思い出せなくなったとしても、
「今 ここ」に、自分に注がれる「あたたかく優しいもの」を感じることさえできれば、
人は幸せでいられるのだと思う。
老いてゆくことの切なさと向き合いながら、
私にも父にも母にも、人生勉強は続く・・・。
先週の火曜日に一緒に買ってきた母の春用のチュニック・・・
帰ってから着て、母は「パパ、どうこれ?♪」なんて言って嬉しそうに父に見せ、
それから自分でタンスの引き出しの下から3番目にしまった。
3日後の金曜日にも、その引き出しにあった。
でも、今日母が着ようと思ってタンスを開けても、
もうそこにはなくなっているのだった。
また家中三人で探して、ようやく、普段使わない衣装ケースから母が見つけ出し、一件落着!
もう何ヶ月も行方不明の黄色い手提げも、
どこかにあるはずなのだけれど、なかなか出てこないなぁ・・・。
しまう場所はそんなにないのに。
そして新たなる症状が・・・
スーパーで買い物をしている時に私が
「お父さんまた、もずくを買ってるねぇ~」と母に言うと・・・
「あんた何言ってるの~。どうしてあのひとのことをお父さんなんて言うの?!」ときた
どうも母の頭の中で、昨日から父は「泊まりに来ている人」らしい。
「結婚はしていないよ。」と。
「もういい年だから、それでもいいかなと思って」・・・と
泊まりに来る恋人だと?!
父の名前は言えるし、私が娘だと言うことは「当たり前でしょ。何言ってるの~」と笑うけれど、
父と結婚して私や弟が生まれて、それから60年以上父と暮らしてきたことは、忘却の彼方・・・
「あの人がお父さんじゃないなら、いったい誰~?私のお父さんはあの人でしょ~」と言っても、
今回はもう母は、ただただ混乱して「さっぱりわからない!」と言うか、
「変なこと言わないで!」と頑として拒絶か どちらかだ。
「あぁそうだった~!忘れちゃうんだよね~」と言う母はもういない・・・?
父はかなりショックを受けている。
そうだよね・・・自分のことがわからなくなってしまうって、とっても辛いよね・・・
でも、仕方ないか~元気に生きてるだけでありがたい・・・って、明るく笑えるようになってほしいな・・・
無理かな・・・・
そろそろ介護サービスを具体的に考える時期かなぁと考えながら、家に戻ってきた。
そうして、実家に持っていったバックからスマホを出そうとしたら、
バックの中にタッパーが入っていた。
「ん?なにこれ・・・あ、あららぁ~」
昨夜作って、お昼に父母と食べようと思って今朝バックに入れた野菜のマリネ・・・
わたし・・・全く思い出さなかったのだった
明日は、最近知ったお店でやっている「うたごえcafeの日」に母を連れて行く予定
未来の自分の姿と思って、孝行せねば
母が楽しんでくれるといいなぁ・・・