郷土史家の菅野正道氏が、河北新報に連載している「せんだい故事祭菜」で、
宮沢橋の「鎧淵」について寄稿されていたので、ちょうどタイミングよく、
辻標「根岸・宮沢」と「越路・獅子落坂」の2か所を”街探”しました。
74番辻標「根岸(ねぎし)/宮沢(みやざわ)」は、
ご存じ、根岸交差点に設置されています。新宮沢橋の建設中でもあり、
また仙台中心部から南部、名取方面に抜ける幹線道路です。
「根岸」は、かつて竜の口渓谷から広瀬川の西南部名取川にも
通じる広いエリアを指していました。
経ヶ峰や、大年寺山の山麓、山の"根岸"ということです。
仙台開府以前から「東街道」が通っていたとされています。
「鎧渕」の標柱は、一段降りた河川敷きの散歩道に設置されていました。
この地は、興亡を繰り広げた歴史上の重要拠点、
南北朝時代、そして1189年に源頼朝が、藤原氏を滅ぼした奥州合戦にさかのぼります。
幾多の戦いが、宮沢橋付近で繰り広げられ、「鎧渕」と呼ばれるようになったとか。
(詳細は、11月21日河北新報朝刊に掲載)
「宮沢」は、かつて茂ケ崎山(大年寺山)の宗禅寺付近を指していました。
大年寺の寺守だった宮沢某が由来とされています。
仙台藩開府当初は、南から城下に入るには、
この宮沢の渡戸(橋)を渡りましたが、再三流され長町渡戸ができて廃されます。
新宮沢橋の橋脚が一部完成していますが、橋が架かると景色が一変するでしょうね。
車の流れも286号線(広瀬河畔通り)ではなく、
新宮沢橋を渡り、仙台駅東側につながると、交通事情は大きく変わります。
44番辻標「越路(こえじ)/鹿落坂(ししおちざか)」は、
鹿落坂を登り切った蕎麦店「鹿落堂」の向かい側に設置されています。
「越路」は、仙台開府以前、江戸から城下に入るには、
名取郡から大年寺山山麓の根岸を回って愛宕山の七曲りを上がり、
鹿落坂を下って広瀬川を渡ったようです。
当時広瀬川に橋はかかっていませんでした。
このルートが”東街道”だったという説があります。
難所というほどではないかもしれませんが、
”路を越える”ということで、大変な苦労もあったのでしょう。
「鹿落坂」は、鹿落観音堂付近から霊屋橋付近までの坂です。
鹿子清水、篭鹿袋(こめがふくろ)などその地名の通り、
越路・八木山が鬱蒼とした森だったころ、鹿やイノシシが数多く生息、
巻狩の場でした。今は都市化が進んでいますが、時折、鹿ではなく、
熊が出没するように、自然はそんなに変わらないですね。
数年前に、蕎麦店「鹿落堂」ができて、県外ナンバーの車も多くみられるようになりました。
店に入るときは、十割蕎麦の単品と決めています。
今日も、広瀬川越しに仙台市内を望みながら蕎麦をいただきました。
参考資料・引用
「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課
「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森