岐阜城
2013/9/21
岐阜県岐阜市のお城めぐり
織田信長が天下布武を目指した居城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岐阜城
よみ: ギフ
別称: 稲葉山城・井ノ口城・金華山城
所在地: 岐阜県岐阜市槻谷
現状: 金華山・岐阜公園
築城年代: 建仁元年(1201)
築城者: 二階堂行政
形式: 山城
遺構: 復興天守・本丸跡・二の丸跡・七間櫓跡・焔硝蔵跡・馬場跡・上格子門跡・石垣・井戸・居館跡・堀切跡
規模: 130m×300m、標高336m、比高308m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2010/7/23・2011/11/17・2013/9/21
≪ 訪城記 ≫
枝広館(長良公園)から徒歩で岐阜城へ向かう。
長良公園を南に抜けて南側の道路を西へ歩き、長良高校の南西角の長良高校前信号を左折、道を南下、長良宮口町3信号を右折、県道94号の歩道を西進、長良丘1信号を左折、緩い坂を登って南下、長良川に架かる長良橋を渡ります。
長良橋から長良川越しに見上げる岐阜城は素晴らしいです。よくあんな高いところにお城を建てたなぁと感心します。
長良橋を渡ってすぐの長良橋南信号の南東角に織田信長騎馬像と門が迎えてくれ、門をくぐると岐阜公園です。
ここまで約2km、30分くらいで着けました。
岐阜公園の周りに有料駐車場がいくつかあります。
おみやげ処の前を過ぎて道を渡ったらすぐに発掘調査案内所があり、現在も織田信長居館跡の発掘調査が行われていて発掘品の展示がされています。
案内所北側の登り道を行くとめい想の小径と馬の背登山道の入口があり、さらに進むと金華山ロープウェー乗り場に着きます。気軽に早く登りたい方はロープウェーを利用すると良いでしょう。
ロープウェー乗り場の南側には現在発掘調査中の織田信長居館跡があり、石垣跡や水路跡が見られ、入口には冠木門が復元されています。
わたしは、さらに南へ行った博物館前から登る百曲登山道から登りました。この道は岩だらけの道をひたすら頂上を目指して登り続け約40分でロープウェーの降口にでます。
ロープウエー降口右側のリス村付近が煙硝蔵跡、最初の門(冠木門)をくぐり上格子門跡、その上にある展望レストラン付近が七間櫓跡で石垣跡が残っています。上格子門跡から先の細長い平地が馬場跡、橋の下が堀切跡です。
ここから階段を登り二の丸門跡をくぐり、また階段を登った先が二の丸跡で気象台の施設が建っています。西側を下に降りていくと軍用井戸(金銘水)があります。
ここから見上げると復興天守が近くで見られ、緩やかな坂を登ると天守に着きます。入場料は200円です。
東側のトイレ奥に資料館があり、資料館降口の南側に天守台石垣跡が見られます。
帰りはめい想の小径を降りました。
岐阜城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
建仁元年 (1201) 鎌倉幕府政所執事二階堂行政が築き、女婿藤原朝光、子伊賀次郎左衛門光宗、弟稲葉三郎左衛門光資、光資の孫三郎左衛門光房と続き、光資のころに稲葉山城と呼ばれるようになった。
正元元年 (1259) 二階堂行藤が在城する。
応永十九年 (1412) 土岐氏の守護代斎藤利永が修築して住むが、文安二年(1445)、加納城を築いて移る。以後、百年余り廃城となる。
天文八年 (1539) 斎藤利政(道三)が修築して居城とする。その後、道三は子義龍に家督を譲り鷺山城に隠居する。
弘治二年 (1556) 継嗣問題から道三と子義龍が争った長良川の戦いで道三が討死する。
永禄四年 (1561) 義龍が病死し、子竜興が継ぎ稲葉山城主となる。
永禄十年八月 (1567) 西美濃三人衆が織田信長に内応を発端に稲葉山城を攻められ、信長が城を占領して竜興を追放する。信長が稲葉山城に入り禅僧沢彦にはかり「周の文王が岐山より興って天下を平定した」故事をもとに井の口を岐阜と改める。
天正四年二月 (1576) 安土城を築き、子の信忠に岐阜城を譲り移る。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で信長、信忠父子が自刃、その後の清洲会議で信長三男信孝が城主となが、柴田勝家と結び兄信雄、秀吉と争った末、同十一年(1583)四月、兄信雄の命で自刃する。岐阜城には池田信輝(信興)の長男元助が入る。
天正十二年四月 (1584) 長久手の戦いで信輝、元助が共に討死し、次男輝政が跡を継ぎ改築を行う。
天正十八年 (1590) 小田原の陣後、池田輝政が三河吉田へ移り、翌十九年(1591)、秀吉の養子小吉秀勝が城主となる。
文禄元年 (1592) 文禄の役で秀勝が朝鮮で病死し、織田信忠の子岐阜中納言秀信が城主となる。
慶長五年八月 (1600) 関ヶ原の役の前哨戦で池田輝政、福島正則、浅野幸長の猛攻に遭い信秀は開城し、降伏する。
慶長六年 (1601) 奥平信昌が加納に封ぜられ、本多忠勝によって天守閣などが加納城に移築され、岐阜城は廃城となる。
明治四十三年 (1910) 天守が再建されるも火災によって焼失する。
昭和三十一年 (1956) 天守が再び再建される。
≪ 写 真 ≫
長良橋から岐阜城を望む
北からの岐阜城
岐阜公園入口の門と織田信長騎馬像
岐阜公園入口から岐阜城を望む
織田信長居館跡発掘調査案内所
金華山ロープウェー乗り場
山内一豊と妻千代を讃える碑
織田信長居館跡入口の冠木門
巨石列
古い石垣跡
居館の石垣跡
居館の水路跡
百曲登山道入口
岩だらけの登山道
ロープウェー山頂駅
天下第一の門(冠木門)
上格子門跡
馬場跡
七間櫓跡下の石垣
二の丸門跡
二の丸からの登り階段
二の丸西側の軍用井戸(金銘水)
二の丸から見る復興天守
岐阜城資料館
天守台石垣跡
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR岐阜駅からバスで岐阜公園歴史博物館前下車、ロープウェー約3分。山頂駅から天守まで徒歩8分。登山道徒歩約1時間。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を直進、県道77号岐阜環状線を北上、鏡島精華1交差点信号を右折して東進、神田町5交差点信号を左折、国道256号を北上、本町3信号を右折、本町1信号を左折、しばらく進み道なりに大きく右折、岐阜公園前信号を左折、長良橋南交差点信号を右折すると岐阜公園で左側に立体の有料駐車場がある。他にも近くに有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
岐阜城
織田信長居館跡(岐阜公園)
紹介したお城の数 134城
2013/9/21
岐阜県岐阜市のお城めぐり
織田信長が天下布武を目指した居城 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岐阜城
よみ: ギフ
別称: 稲葉山城・井ノ口城・金華山城
所在地: 岐阜県岐阜市槻谷
現状: 金華山・岐阜公園
築城年代: 建仁元年(1201)
築城者: 二階堂行政
形式: 山城
遺構: 復興天守・本丸跡・二の丸跡・七間櫓跡・焔硝蔵跡・馬場跡・上格子門跡・石垣・井戸・居館跡・堀切跡
規模: 130m×300m、標高336m、比高308m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2010/7/23・2011/11/17・2013/9/21
≪ 訪城記 ≫
枝広館(長良公園)から徒歩で岐阜城へ向かう。
長良公園を南に抜けて南側の道路を西へ歩き、長良高校の南西角の長良高校前信号を左折、道を南下、長良宮口町3信号を右折、県道94号の歩道を西進、長良丘1信号を左折、緩い坂を登って南下、長良川に架かる長良橋を渡ります。
長良橋から長良川越しに見上げる岐阜城は素晴らしいです。よくあんな高いところにお城を建てたなぁと感心します。
長良橋を渡ってすぐの長良橋南信号の南東角に織田信長騎馬像と門が迎えてくれ、門をくぐると岐阜公園です。
ここまで約2km、30分くらいで着けました。
岐阜公園の周りに有料駐車場がいくつかあります。
おみやげ処の前を過ぎて道を渡ったらすぐに発掘調査案内所があり、現在も織田信長居館跡の発掘調査が行われていて発掘品の展示がされています。
案内所北側の登り道を行くとめい想の小径と馬の背登山道の入口があり、さらに進むと金華山ロープウェー乗り場に着きます。気軽に早く登りたい方はロープウェーを利用すると良いでしょう。
ロープウェー乗り場の南側には現在発掘調査中の織田信長居館跡があり、石垣跡や水路跡が見られ、入口には冠木門が復元されています。
わたしは、さらに南へ行った博物館前から登る百曲登山道から登りました。この道は岩だらけの道をひたすら頂上を目指して登り続け約40分でロープウェーの降口にでます。
ロープウエー降口右側のリス村付近が煙硝蔵跡、最初の門(冠木門)をくぐり上格子門跡、その上にある展望レストラン付近が七間櫓跡で石垣跡が残っています。上格子門跡から先の細長い平地が馬場跡、橋の下が堀切跡です。
ここから階段を登り二の丸門跡をくぐり、また階段を登った先が二の丸跡で気象台の施設が建っています。西側を下に降りていくと軍用井戸(金銘水)があります。
ここから見上げると復興天守が近くで見られ、緩やかな坂を登ると天守に着きます。入場料は200円です。
東側のトイレ奥に資料館があり、資料館降口の南側に天守台石垣跡が見られます。
帰りはめい想の小径を降りました。
岐阜城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
建仁元年 (1201) 鎌倉幕府政所執事二階堂行政が築き、女婿藤原朝光、子伊賀次郎左衛門光宗、弟稲葉三郎左衛門光資、光資の孫三郎左衛門光房と続き、光資のころに稲葉山城と呼ばれるようになった。
正元元年 (1259) 二階堂行藤が在城する。
応永十九年 (1412) 土岐氏の守護代斎藤利永が修築して住むが、文安二年(1445)、加納城を築いて移る。以後、百年余り廃城となる。
天文八年 (1539) 斎藤利政(道三)が修築して居城とする。その後、道三は子義龍に家督を譲り鷺山城に隠居する。
弘治二年 (1556) 継嗣問題から道三と子義龍が争った長良川の戦いで道三が討死する。
永禄四年 (1561) 義龍が病死し、子竜興が継ぎ稲葉山城主となる。
永禄十年八月 (1567) 西美濃三人衆が織田信長に内応を発端に稲葉山城を攻められ、信長が城を占領して竜興を追放する。信長が稲葉山城に入り禅僧沢彦にはかり「周の文王が岐山より興って天下を平定した」故事をもとに井の口を岐阜と改める。
天正四年二月 (1576) 安土城を築き、子の信忠に岐阜城を譲り移る。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で信長、信忠父子が自刃、その後の清洲会議で信長三男信孝が城主となが、柴田勝家と結び兄信雄、秀吉と争った末、同十一年(1583)四月、兄信雄の命で自刃する。岐阜城には池田信輝(信興)の長男元助が入る。
天正十二年四月 (1584) 長久手の戦いで信輝、元助が共に討死し、次男輝政が跡を継ぎ改築を行う。
天正十八年 (1590) 小田原の陣後、池田輝政が三河吉田へ移り、翌十九年(1591)、秀吉の養子小吉秀勝が城主となる。
文禄元年 (1592) 文禄の役で秀勝が朝鮮で病死し、織田信忠の子岐阜中納言秀信が城主となる。
慶長五年八月 (1600) 関ヶ原の役の前哨戦で池田輝政、福島正則、浅野幸長の猛攻に遭い信秀は開城し、降伏する。
慶長六年 (1601) 奥平信昌が加納に封ぜられ、本多忠勝によって天守閣などが加納城に移築され、岐阜城は廃城となる。
明治四十三年 (1910) 天守が再建されるも火災によって焼失する。
昭和三十一年 (1956) 天守が再び再建される。
≪ 写 真 ≫
長良橋から岐阜城を望む
北からの岐阜城
岐阜公園入口の門と織田信長騎馬像
岐阜公園入口から岐阜城を望む
織田信長居館跡発掘調査案内所
金華山ロープウェー乗り場
山内一豊と妻千代を讃える碑
織田信長居館跡入口の冠木門
巨石列
古い石垣跡
居館の石垣跡
居館の水路跡
百曲登山道入口
岩だらけの登山道
ロープウェー山頂駅
天下第一の門(冠木門)
上格子門跡
馬場跡
七間櫓跡下の石垣
二の丸門跡
二の丸からの登り階段
二の丸西側の軍用井戸(金銘水)
二の丸から見る復興天守
岐阜城資料館
天守台石垣跡
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR岐阜駅からバスで岐阜公園歴史博物館前下車、ロープウェー約3分。山頂駅から天守まで徒歩8分。登山道徒歩約1時間。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を直進、県道77号岐阜環状線を北上、鏡島精華1交差点信号を右折して東進、神田町5交差点信号を左折、国道256号を北上、本町3信号を右折、本町1信号を左折、しばらく進み道なりに大きく右折、岐阜公園前信号を左折、長良橋南交差点信号を右折すると岐阜公園で左側に立体の有料駐車場がある。他にも近くに有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
岐阜城
織田信長居館跡(岐阜公園)
紹介したお城の数 134城
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