お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

加納城

2013-10-06 06:25:28 | 岐阜県
 加納城

2013/9/21

岐阜県岐阜市のお城めぐり

 加納藩主代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 加納城
よみ: カノウ
別称:
所在地: 岐阜県岐阜市加納丸之内
現状: 加納公園
築城年代: 文安二年(1445)・慶長六年(1601)
築城者: 斎藤利永・奥平信昌
形式: 平城
遺構: 本丸跡・石垣・土塁・堀跡
規模: 標高10m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/6/14・2013/9/21


≪ 訪城記 ≫

岐阜城から長良公園に帰り、そこから加納城へ向かう。

長良公園を出て北側の道を西進、突き当りの三叉路を左折、国道256号を南下、長良川に架かる長良橋を渡り、岐阜城を左側に見ながら進み岐阜公園前三叉路信号を直進、一方通行道を南下、突き当りを右折して長良橋通りを西進、本町1信号を直進して再び国道256号に出る。本町3信号を左折し南下、新岐阜駅前を通り神田町10三叉路信号を左折、大きく右へ曲がり東海道本線高架下を通り国道157号を南下、加納城南通2東交差点信号を左折、県道1号を東へ加納城南通1信号を過ぎて100m程の北へ入る道を50m程進むと加納城南側入り口に着く。入口の東側、石垣前に車を駐車可能。ここに車を駐車する。

南側入口から入ったところに説明板があり、中は広い芝生広場で四囲を土塁で囲まれている。東南側に少し曲輪が出ていて、ここの土塁上が広く厚く櫓跡と思われる。
北西角が天守台跡で、現在は崩れかけているのか、土塁上に登れない。
北側にも入口があり、ここにも説明板がある。
周囲は石垣で囲まれているが、草が生い茂り保存状態が良くないのかもしれない。
石垣の周りに堀があったと思われるが、現在は埋めたてされている。駐車場もそうです。


≪ 歴 史 ≫

文安二年 (1445) 土岐氏の守護代斎藤利永が革手城防備の要害として加納城を築く。
天文七年 (1538) 守護代斎藤利良が没し、斎藤道三が斎藤家を継ぎ稲葉山城を修築して入り、加納城は廃城となる。
慶長六年 (1601) 徳川家康の命で本多忠勝が岐阜城を移し、三月奥平美作守信昌が加納の地に封ぜられ、加納城跡に築城する。その後、忠政、家昌、忠隆と続く。
寛永九年 (1632) 松平(奥平)忠隆が没し、継嗣なく加納松平氏は断絶する。代わって武蔵騎西から大久保忠興が入る。
寛永十六年 (1639) 大久保忠興が播磨明石城へ転封となり、代わって戸田光重が入封する。以後、光永、光熈と続く。
宝永八年 (1711) 戸田光熈が淀城に移り、代わって備中松山から安藤信友が入封する。信友は大坂城代を務め、八代将軍吉宗のとき老中となっているが、跡を継いだ孫信尹が不埒という理由で隠居を命ぜられ、子の信成が減封されて宝暦五年(1755)継ぐ。
宝暦六年 (1756) 安藤信成が奥州磐城平へ移り、代わって武蔵岩槻から永井伊賀守直陳が入封する。以後、尚備、直旧、直弼、尚典、尚服と続き明治維新を迎える。
明治二年 (1869) 版籍奉還後に塀、楼などが壊されたが、本丸跡の石垣は残されている。


≪ 写 真 ≫


加納城南入口


南入口西側の石垣


本丸跡


本丸西側の土塁


天守台付近の土塁


本丸東側の土塁


南東側の出曲輪


南東側出曲輪の土塁上


加納城北入口


北入口東側の石垣


北入口西側の石垣


西側の堀跡


西側の石垣


南側の堀跡


南東側の石垣


南東側出曲輪の石垣


現地17世紀後半ごろの加納城図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR岐阜駅から徒歩30分。バスで加納中学校前下車、徒歩5分。
<車>
名神高速道路岐阜羽島ICで降りて県道46号を北上、竹鼻町大西交差点信号を斜め右折、県道151号を北東に進み、足近小学校西三叉路信号を斜め左折、北上して薮田交差点信号を右折、国道21号を東進、宇佐三叉路信号を斜め右に曲がり岐大バイパスを東進、道なりに左に曲がり茜部中島信号で側道に入り、茜部本郷信号で左折、国道157号加納中通りを北上、加納城南通2東交差点信号を右折、県道1号を東へ加納城南通1信号を過ぎて100m程の北へ入る道を50m程進むと加納城南側入り口に着く。入口の東側、石垣前に車を駐車可能。


≪ 位置図 ≫

加納城(加納公園)


紹介したお城の数 135城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版