屋代城
2013/5/5 信州北部遠征(3泊4日)
長野県千曲市のお城めぐり
村上氏の一族屋代氏の最初の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 屋代城
よみ: ヤシロ
別称: 一重山城
所在地: 長野県千曲市屋代・小島
現状: 山
築城年代: 永正-天文年間(1504-55)頃
築城者: 屋代能登守信光
形式: 山城
遺構: 本郭・二の郭・三の郭・段郭・堀切・土塁
規模: 標高458m、比高93m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/5/5
≪ 訪城記 ≫
信州北部遠征(3泊4日) 3日目、荒砥城から屋代城へ向かう。
荒砥城跡の城山史跡公園を出て来た山道を上山田温泉側に降りて、城山入口交差点信号を直進、千曲川を渡って、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を左折、国道18号を北上、杭瀬下交差点信号を右折、屋代駅方向に進み、屋代駅前交差点信号を左折、県道392号を北上して横町三叉路信号を右折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。ここに車を駐車する。
成田山不動尊の登り口が屋代城の登城口で、階段を登り成田山不動尊の脇を通って墓地を過ぎ、御嶽神社、矢代神社と続く、矢代神社を通り過ぎたあたりから屋代城の城域に入る。
矢代神社南側に堀切らしき空堀があり、削平地、堀切が続き、長い緩やかな山道を30分程登り、土塁のある堀切に着く。土塁の前の削平地が三の郭で、堀切を越えると二の郭に出る。
広い削平地で南に一段高くなっている鉄塔のあるところから本郭で説明板が建てられている。
本郭も広い削平地で土塁等はない。さらに南側にも段々に郭があったようですが、現在は破壊されてしまっていてなにも残っていない。
≪ 歴 史 ≫
永正-天文年間 (1504-55) 村上氏の一族屋代氏によって築城される。
天文二十二年 (1553) 武田氏の侵攻に際して屋代政国は村上氏を離反して武田氏に服属し、葛尾城が落城して村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びる。
永禄年間 (1558-70) 屋代氏が荒砥城へ移った時点で屋代城は廃城となったようです。
天正十年 (1582) 武田氏が滅んだのち、上杉景勝の勢力下に入り、村上義清の子景国が海津城の城将として入り、その副将として屋代政国の子秀正が海津城二の丸に居住を命ぜられ、持城の荒砥城を他氏に入られ、徳川氏に内応したが、上杉氏に攻められ逃れる。
≪ 写 真 ≫
登城口の成田山不動尊登り口
矢代神社
矢代神社南側の登り口
尾根道
途中の広場前の堀切
途中の広場
途中の削平地
堀切
二の郭前の土塁と堀切
二の郭と土塁の間の堀切
二の郭
本郭
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JRしなの鉄道屋代駅から成田山不動尊を経由して、徒歩約40分。
<車>
長野道更埴ICを降りて国道18号を南下、次の屋代三叉路信号を斜めに左折、南下して横町三叉路信号を左折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。近くの県立歴史館にも駐車場有。
≪ 位置図 ≫
屋代城
登城口の成田山不動尊
紹介したお城の数 83城
2013/5/5 信州北部遠征(3泊4日)
長野県千曲市のお城めぐり
村上氏の一族屋代氏の最初の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 屋代城
よみ: ヤシロ
別称: 一重山城
所在地: 長野県千曲市屋代・小島
現状: 山
築城年代: 永正-天文年間(1504-55)頃
築城者: 屋代能登守信光
形式: 山城
遺構: 本郭・二の郭・三の郭・段郭・堀切・土塁
規模: 標高458m、比高93m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/5/5
≪ 訪城記 ≫
信州北部遠征(3泊4日) 3日目、荒砥城から屋代城へ向かう。
荒砥城跡の城山史跡公園を出て来た山道を上山田温泉側に降りて、城山入口交差点信号を直進、千曲川を渡って、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を左折、国道18号を北上、杭瀬下交差点信号を右折、屋代駅方向に進み、屋代駅前交差点信号を左折、県道392号を北上して横町三叉路信号を右折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。ここに車を駐車する。
成田山不動尊の登り口が屋代城の登城口で、階段を登り成田山不動尊の脇を通って墓地を過ぎ、御嶽神社、矢代神社と続く、矢代神社を通り過ぎたあたりから屋代城の城域に入る。
矢代神社南側に堀切らしき空堀があり、削平地、堀切が続き、長い緩やかな山道を30分程登り、土塁のある堀切に着く。土塁の前の削平地が三の郭で、堀切を越えると二の郭に出る。
広い削平地で南に一段高くなっている鉄塔のあるところから本郭で説明板が建てられている。
本郭も広い削平地で土塁等はない。さらに南側にも段々に郭があったようですが、現在は破壊されてしまっていてなにも残っていない。
≪ 歴 史 ≫
永正-天文年間 (1504-55) 村上氏の一族屋代氏によって築城される。
天文二十二年 (1553) 武田氏の侵攻に際して屋代政国は村上氏を離反して武田氏に服属し、葛尾城が落城して村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びる。
永禄年間 (1558-70) 屋代氏が荒砥城へ移った時点で屋代城は廃城となったようです。
天正十年 (1582) 武田氏が滅んだのち、上杉景勝の勢力下に入り、村上義清の子景国が海津城の城将として入り、その副将として屋代政国の子秀正が海津城二の丸に居住を命ぜられ、持城の荒砥城を他氏に入られ、徳川氏に内応したが、上杉氏に攻められ逃れる。
≪ 写 真 ≫
登城口の成田山不動尊登り口
矢代神社
矢代神社南側の登り口
尾根道
途中の広場前の堀切
途中の広場
途中の削平地
堀切
二の郭前の土塁と堀切
二の郭と土塁の間の堀切
二の郭
本郭
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JRしなの鉄道屋代駅から成田山不動尊を経由して、徒歩約40分。
<車>
長野道更埴ICを降りて国道18号を南下、次の屋代三叉路信号を斜めに左折、南下して横町三叉路信号を左折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。近くの県立歴史館にも駐車場有。
≪ 位置図 ≫
屋代城
登城口の成田山不動尊
紹介したお城の数 83城
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