お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

坂本城

2013-04-08 21:46:03 | 滋賀県
 坂本城

2013/3/26

滋賀県大津市のお城めぐり

 琵琶湖の水運を利用した明智光秀の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 坂本城
よみ: サカモト
別称:
所在地: 滋賀県大津市下坂本3丁目
現状: 都市公園湖岸緑地北大津地区・住宅地
築城年代: 元亀二年(1571)
築城者: 明智光秀
形式: 水城
遺構: 石垣跡・移築城門
規模:
文化財:
訪城日: 2010/4/6・2013/3/26


≪ 訪城記 ≫

近江神宮から都市公園湖岸緑地北大津地区へ向かう。

近江神宮参拝者用駐車場を出て神宮道を琵琶湖岸に向け東進し、柳が崎交差点信号を左折、国道161号西近江路を北上、約4kmで琵琶湖岸にある都市公園湖岸緑地北大津地区の駐車場に着く。ここに車を駐車する。

この駐車場入り口に坂本城址碑が建っていて、湖岸には明智光秀の立像と説明板が建てられている。さらに湖岸には石垣跡と思われる石が並んでいる。
この公園の北側を流れる川を国道161号を渡り、川沿いに集落の中へ入っていき東南寺を通り過ぎて西の十字路の南東側に赤い大きな傘が目印の下にも坂本城址碑が建てられている。
公園から国道161号西近江路を北へ約2kmの比叡辻交差点信号北西側にある来迎寺には坂本城の城門が移築されていて、境内奥には元亀元年に浅井・朝倉軍の攻撃で坂本へ出陣して討死した森可成のお墓がある。
この来迎寺を通り過ぎた、次の比叡辻2丁目東三叉路信号を左折して西へ約2kmのところに西教寺があり、この寺の本殿奥に明智光秀一族のお墓がある。


≪ 歴 史 ≫

元亀二年九月 (1571) 織田信長の命で明智光秀が坂本城を築き、宇佐山城から本拠地を移す。
天正十年六月二日 (1582) 明智光秀は本能寺に織田信長を急襲する「本能寺の変」を起こし、信長を自刃に追い込む。六月十三日、信長の訃報を聞き、中国攻めから大返しをした羽柴秀吉と山崎で合戦におよんだが敗れ、山城小栗栖で光秀は最後をとげた。
坂本城は、光秀の部将明智秀満が城に火を放ち、光秀の妻子もろとも自害した。
その後、坂本城には丹羽長秀が配され、次に杉原家次、浅野長政が入った。
天正十四年 (1592) 坂本城の遺材を使い大津城が築城され浅野長政が移り廃城となる。


≪ 写 真 ≫


都市公園湖岸緑地北大津地区にある坂本城址碑


都市公園湖岸緑地北大津地区にある明智光秀の像


石垣跡


集落内の坂本城址碑


来迎寺の移築城門


来迎寺にある森可成のお墓


西教寺にある明智光秀一族のお墓


現地坂本城域図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電鉄石山坂本線松ノ馬場駅より徒歩20分。
江若バス下坂本下車徒歩約3分。
<車>
名神高速道路大津ICを降りて北上し、国道1号、東海道本線を越えて打出浜交差点信号を左折、県道18号を西へと進む。琵琶湖ホテルを過ぎて大津港前を通り、国道161号西近江路を琵琶湖沿いに北上、国道161号西近江路を北上、琵琶湖岸にある都市公園湖岸緑地北大津地区の駐車場に着く。


≪ 位置図 ≫

都市公園湖岸緑地北大津地区


坂本城址碑


来迎寺


西教寺


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中井 均
サンライズ出版

宇佐山城

2013-04-07 10:38:35 | 滋賀県
 宇佐山城

2013/3/26

滋賀県大津市のお城めぐり

 森三左衛門可成が築城し、浅井・朝倉連合軍の攻撃で討死したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 宇佐山城
よみ: ウサヤマ
別称: 志賀城・志賀の城・志賀要害
所在地: 滋賀県大津市南滋賀町776-2
現状: 山・NHK中継基地
築城年代: 元亀元年(1570)
築城者: 森可成
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・腰曲輪・石垣・横堀・土橋
規模: 45m×170m、標高336m
文化財:
訪城日: 2011/8/31・2013/3/26


≪ 訪城記 ≫

大津港有料駐車場から宇佐山城の前にある近江神宮へ向かう。

大津港前にある市営有料駐車場を出て、大津港口交差点信号を右折、国道161号西近江路を琵琶湖沿いに北上、柳が崎交差点信号を左折、神宮道を西進、湖西線を越えて京阪電鉄石山坂本線の踏切を越えたら近江神宮です。近江神宮前の道を横断して、まっすぐに神宮内に入って行くと参拝者と保育園利用者用の無料駐車場があります。ここに車を駐車させてもらう。

この駐車場の奥にある「よいこのもり保育園」の入り口の左脇に小路があり、宇佐八幡宮の参道入り口へつながっている。
急な参道道を登って行き国道161号西大津バイパスのトンネル上を通って宇佐八幡宮入り口前の分かれ道を右へ曲がり、小さな社殿前を通って進むと、大きな案内板と志賀小学校の生徒さんが造った小さな案内板がたくさんあり、道に迷うことはない。
大きな案内板のあるところから尾根道に入り登ること約20分で本丸下に着く。
見上げると石垣跡があり、興奮して道から外れ、そのまま直登してしまい苔むした石垣を近くで見入ってしまいました。石垣に右わきを登るとNHKの中継基地があり、その西側の削平された場所に石垣の残骸が散乱しています。北側には横堀らしき溝のある道を東へ歩き、中継基地へ登る階段を登ると本丸跡です。本丸跡には何もなく中継基地があるのみです。
南へ行くと一段下がった削平地があり、なにやら鉄条網で囲った場所があろました。二の丸の南端から下の腰曲輪へ降りていくと、2段目の曲輪のある西壁に苔むした石垣が残っています。
本丸へ引き返し、階段を下りた北側に土橋らしき入口を隔てた三の丸があります。ちなみに登山道を寄り道せずに登ると、ここに出ます。三の丸も削平されていて、北側下に2段の腰曲輪があります。


≪ 歴 史 ≫

元亀元年 (1570) 近江国から京都へ入る山中越えと逢坂越えの道を確保するため、信長の命で森可成が築城する。
元亀元年九月、浅井・朝倉連合軍が坂本へ侵攻した際に、城主森可成は坂本へ討って出て討死する。
その後、明智光秀が城主となる。
元亀二年九月 (1571) 明智光秀は坂本城を築き、宇佐山城は廃城となったようです。


≪ 写 真 ≫


宇佐八幡宮参道入り口


宇佐山城登城口


本丸下の石垣


本丸北側の横堀


本丸へ登る階段


二の丸下の石垣


二の丸下の腰曲輪


本丸から三の丸へ入る土橋


三の丸


三の丸下の腰曲輪


宇佐八幡宮

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電鉄石山坂本線近江神宮前駅より徒歩40分。
<車>
名神高速道路大津ICを降りて北上し、国道1号、東海道本線を越えて打出浜交差点信号を左折、県道18号を西へと進む。琵琶湖ホテルを過ぎて大津港前を通り、国道161号西近江路を琵琶湖沿いに北上、柳が崎交差点信号を左折、神宮道を西進、湖西線を越えて京阪電鉄石山坂本線の踏切を越えたら近江神宮です。近江神宮前の道を横断して、まっすぐに神宮内に入って行くと参拝者と保育園利用者用の無料駐車場があります。


≪ 位置図 ≫

近江神宮駐車場


宇佐八幡宮


宇佐山城


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大津城

2013-04-06 09:47:48 | 滋賀県
 大津城

2013/3/26

滋賀県大津市のお城めぐり

 関ヶ原合戦の壮絶な籠城戦で東軍勝利に貢献したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大津城
よみ: オオツ
別称:
所在地: 滋賀県大津市浜大津
現状: 大津港・駐車場
築城年代: 天正十四-十五年(1586-87)
築城者: 浅野長吉(長政)
形式: 水城
遺構: 復元石垣
規模:
文化財:
訪城日: 2010/4/6・2013/3/26


≪ 訪城記 ≫

宇佐山城へ行く途中で大津城跡へ寄る。

湖岸道路を一気に南下して、瀬田の唐橋を渡り大津市に入る。唐橋西詰交差点信号を右折、県道102号湖岸道路を琵琶湖岸沿いに北上し、膳所城跡公園を通り過ぎ、琵琶湖大橋西詰で県道18号を西へと進む。琵琶湖ホテルを過ぎて大津港口交差点信号を右折して、大津港へ向かう。大津港前の地下有料駐車場に車を駐車する。

この駐車場の南出口を出たところの歩道橋登り口前に大津城址碑がひっそりとある。
この歩道橋を南に渡ると京阪電鉄浜大津駅があり、駅へ向かわず歩道橋を東へ進み、浜大津アーガス前の歩道橋を南に降りる。このまま南へ歩いて浜町交差点信号で交差点北西側に朝日生命保険大津ビルがあり、このビルの交差点角の大津城石垣が復元されていて、説明板がある。
他に遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

天正十四-十五年 (1586-87) 古くから湖上水運が開け、京都の喉元にあたり重要な位置を占めていた場所に坂本城の遺材を用いて浅野長吉(長政)が豊臣秀吉の命で築城する。
天正十五年 (1587) 浅野長吉(長政)が初代城主となる。
天正十七年 (1589) 増田長盛が城主となる。
天正十九年 (1591) 新庄直頼が城主となる。
文禄四年 (1595) 京極高次が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦直前に京極高次の大津城は西軍毛利氏の大軍に攻められ、大津城に籠城し、毛利軍を大津城に釘づけにして関ヶ原合戦の勝利に貢献した。その後、遺材は膳所城、彦根城に使われ、彦根城の国宝天守は大津城から移築されたものだそうです。


≪ 写 真 ≫


大津城址碑


復元石垣


現地大津城推定縄張復元図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電鉄京津線浜大津駅より徒歩すぐ。
<車>
名神高速道路大津ICを降りて北上し、国道1号、東海道本線を越えて打出浜交差点信号を左折、県道18号を西へと進む。琵琶湖ホテルを過ぎて大津港口交差点信号を右折して、大津港へ向かい、大津港前に市営地下有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

大津城址碑


復元石垣


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中井 均
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小泉城

2013-04-02 22:08:48 | 奈良県
 小泉城

2013/3/23

奈良県大和郡山市のお城めぐり

 小泉氏の居城跡に片桐且元の弟貞隆が構えた陣屋

≪ お城の概要 ≫

城名: 小泉城
よみ: コイズミ
別称: 小泉陣屋・小泉館・片桐城
所在地: 奈良県大和郡山市小泉町
現状: 高林庵・住宅街・小公園・小泉神社
築城年代: 室町時代、陣屋は元和九年(1623)
築城者: 小泉氏・片桐貞隆
形式: 平城
遺構: 復興隅櫓・移築城門
規模: 620m×500m(外郭)
文化財:
訪城日: 2013/3/23


≪ 訪城記 ≫

大和郡山城から小泉城へ向かう。

郡山城ホール前の三叉路を左折、すぐの近鉄橿原線踏切を渡り、大和郡山城を左手に見ながら西進、県道9号を道なりに南下する。県道249号大和中央道を横断して西へ進み、富雄川を渡り、アップダウンのある道を約700m行くと交差点信号の右側にコーナンがある。ここの駐車場に車を駐車させてもらう。

ここから徒歩でコーナン前の交差点を斜め右、東へ約60mで南へ路地を入って行くと池があり、この池沿いの対岸に櫓風の建物が見られる。この建物群は片桐且元の弟貞隆が起こした小泉藩代々の居城跡で、現在は石州流茶道宗家の居宅「高林庵」で子孫の方が住まれているようです。
池の終わりで左折し、住宅街の中を東へ約200m進むと、突き当りを左折、すぐに右折すると小泉城址碑のある小公園に着きます。この公園に城址碑と説明板があり、さらに東へ降りる階段があり、この位置が小高い丘の上だとわかります。階段を下りた路地を進むと県道123号に出ますが、この角の片桐城址碑がひっそりとあります。
小公園から来た道を帰り、池の西側の道を約200m南下すると小泉神社があり、この神社の南からの入り口に小泉城の移築城門があります。


≪ 歴 史 ≫

十五世紀末に奈良興福寺の衆徒についた小泉氏の城郭化した居館で長禄三年(1459)に小泉館を筒井順永んい攻められ、城を破却される。文明七年(1475)にも落城し、破却されている。
天文年間には小泉秀元が筒井順昭の姪を娶り、筒井氏に属する。
天正八年 (1580) 羽田長門守が陣屋を置く。
慶長六年 (1601) 片桐且元の弟貞隆が大名に列し、元和九年(1623)に小泉に入部して陣屋を構える。


≪ 写 真 ≫


櫓風の高林庵


小公園の小泉城址碑


片桐城址碑


小泉神社の移築城門

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線大和小泉駅より徒歩約10分。
<車>
西名阪道大和まほろばスマートICを降りて県道108号大和中央道を北上し、県道9号と交差する信号を左折、西へ進み、富雄川を渡り、アップダウンのある道を約700m付近の高林庵と住宅街が小泉城跡で駐車場はない。


≪ 位置図 ≫

高林庵


小泉城址碑のある小公園


小泉神社


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西東社

大和郡山城

2013-04-01 21:23:10 | 奈良県
 大和郡山城

2013/3/23

奈良県大和郡山市のお城めぐり

 秀吉の弟豊臣秀長100万石の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大和郡山城
よみ: ヤマトコオリヤマ
別称: 郡山城
所在地: 奈良県大和郡山市城内町2-18
現状: 柳澤神社・柳澤文庫・郡山高校・郡山城跡公園
築城年代: 天正八年(1580)
築城者: 筒井順慶
形式: 平城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・三の丸・曲輪・石垣・内堀・櫓台跡・極楽橋跡・復元大手門(梅林門)・復元大手向櫓・復元多聞櫓・復元大手東隅櫓
規模: 625m×490m、標高(天守台)80m、比高30m
文化財: 奈良県指定史跡
訪城日: 2011/6/27・2013/3/23


≪ 訪城記 ≫

筒井城から大和郡山城へ向かう。

キリン堂駐車場から県道108号を北上、北郡山交差点信号を左折、約300mで城跡が前方左に見え、三叉路を左に郡山城ホール側に曲がり、約300mの交差点を右折して近鉄橿原線の踏切を渡ると鉄門跡の石垣が出迎えてくれる。鉄門跡を過ぎてすぐに内堀が見え、細い路地になった三叉路を右折、内堀沿いに北上すると大手門前に5~6台くらい駐車できる無料駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。

来る途中に見た大手東隅櫓と満開の桜が綺麗だったのが気になり、城山城ホール前の歩道から線路沿いに見る大手東隅櫓を最初に見に行きました。
大手門前に駐車場に戻り、内堀の石垣に見とれ、大手向櫓と大手門を見上げ見とれてしまいました。
大手門をくぐり虎口を抜けて、西側には古い図書館跡の洋館があり、その裏に先ほどの大手東隅櫓があります。
洋館裏手の北側には高い土塁跡と深い空堀跡があります。この土塁ずたいに西へ行くと本丸堀沿いに散策路があり、堀越に天守台跡を眺められ、深い水堀と高い石垣に感動します。
ぐるっと一周すると郡山高校前に出て、高校前に堀に架かった竹林橋があり、入り口に鳥居があり、橋を渡って柳澤神社へ、この神社の裏側に天守台跡があります。以前来たときには天守台の上に登れたのですが、今は封鎖されて登れません。この天守台の北側の石垣にはお地蔵さんの石が多く使われていて、特にさかさに埋められた「さかさ地蔵」が祀られています。
竹林橋の入り口を右手に門をくぐって柳澤文庫へ行く堀沿いに極楽橋の架かっていたところがあり、そこから見える本丸側の橋の石垣は必見です。
郡山高校前の道を西へ行くと松蔭門跡の石垣があり、北側を見ると松蔭堀があり、ここの石垣は整然としていて見ごたえがあります。
松蔭門の西、道の突き当りの郡山城跡公園があり、南に行くと右側に鰻池が、左側に鷺池があり、この鷺池から高校の敷地に櫓台跡の石垣が二か所見られます。


≪ 歴 史 ≫

室町時代後期に郡山衆と称される武士団の居館が大和郡山城付近に点在していたようで、筒井氏と越智氏の争いで居館が城郭化、永正期の赤沢朝経の来襲や永禄期の筒井・松永氏の抗争で郡山城が筒井方の最後の城だったようです。
天正五年 (1577) 松永久秀が信貴山城で自害し、筒井順慶が大和一国を手に入れる。
天正八年 (1580) 筒井順慶が織田信長から大和一国の支配を許され、郡山城以外の城を破却し、郡山城に入城、築城工事を行う。
天正十年 (1582) 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ、中国攻めから大返しをした羽柴秀吉との天下分け目の戦いに筒井順慶は明智光秀から出陣を求められたが郡山城に籠城したまま動かなかった。これが日和見の語源となった「洞ヶ峠」です。こののち秀吉から大和一国を安堵される。
天正十一年四月 (1583) 天守が完成する。
天正十二年八月 (1584) 順慶が二十八歳の若さでこの世を去り、小泉氏から養子に入った定次が跡を継ぐ。
天正十三年 (1585) 定次が伊賀国に転封となり、秀吉の異父弟豊臣秀長が入城し、大規模な改修を行い、城下町の整備も行う。
天正十九年 (1591) 秀長が没し、養子の秀保が跡を継ぐが文禄四年(1595)に急死し、代わって五奉行に一人増田長盛が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いで西軍に属した増田長盛は改易され、郡山城には大久保長安、山口駿河守、筒井主殿が入れ代わり在番する。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣後、水野勝成が入城し、城を復旧する。以後、松平氏、本多氏と続く。
享保九年 (1724) 甲府から柳澤吉里が入り幕末まで居城とする。
昭和五十五年 (1980) 追手門、向櫓、多聞櫓が復元される。


≪ 写 真 ≫


桜と大手東隅櫓


大手向櫓


大手門(梅林門)


鉄御門跡


内堀と石垣


洋風の図書館跡


北側の空堀


内堀と天守台


竹林橋


柳澤神社


天守台跡


さかさ地蔵


極楽橋跡の石垣


柳澤文庫


松蔭堀と石垣


鷺池西の櫓台跡


鷺池東の櫓台跡

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄橿原線近鉄郡山駅より徒歩約7分。
<車>
西名阪道郡山ICを降りて国道24号奈良バイパスを北上し、横田町交差点信号を左折、国道25号を西進、筒井町交差点信号を右折、県道108号を北上、北郡山交差点信号を左折、約300mで城跡が前方左に見え、三叉路を左に郡山城ホール側に曲がり、約300mの交差点を右折して近鉄橿原線の踏切を渡ると鉄門跡の石垣が出迎えてくれる。鉄門跡を過ぎてすぐに内堀が見え、細い路地になった三叉路を右折、内堀沿いに北上すると大手門前に5~6台くらい駐車できる無料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

天守台(柳澤神社)


大手門


紹介したお城の数 48城



日本の城 (山川Mook 1)
クリエーター情報なし
山川出版社