お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

大峰城

2013-06-21 05:07:30 | 長野県
 大峰城

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 武田氏と上杉氏の争奪戦の舞台となったお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大峰城
よみ: オオミネ
別称: 大峯城
所在地: 長野県長野市長野
現状: 大峰山公園
築城年代: 十六世紀
築城者:
形式: 山城
遺構: 模擬天守・堀切
規模: 標高828m
文化財:
訪城日: 2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、松代城から大峰城へ向かう。

松代城南側の駐車場を出て真田邸前の道を東へ、次の北への曲がり角を左折して松代駅前を右折して東へ進み、中町三叉路信号を左折、次の荒神町Y字路信号を斜め左に進み、北西に進み突き当りの上高相三叉路信号を右折、次の長野インター南三叉路信号を左折、上信越道の高架下をくぐり、県道35号を北上、長野インター入口付近から北西に進み、松代大橋を渡り、八幡原史跡公園前を通り、古戦場入口交差点信号を直進、下氷鉋交差点信号から国道117号に代わり青木島三叉路信号を斜め右に曲がり、そのまま北上し、犀川に架かる丹波島橋を渡り、長野県庁前を通り、突き当りの信大前三叉路信号を右折、次の若松町信号で左折、北上して横沢町信号を直進、次の交差点を左折、細い道を北西に進み、「高森りんご園」のある交差点を右折、戸隠バードラインへ向かう七曲りの山道を進み、途中連続する屋根付のヘアピンカーブを抜けて、突き当りのT字路で右折、戸隠バードラインを走り、途中から長野市大峰斎場へ向かう山道へ入る。途中道路工事をしていて斎場からは通行止めとなっている。幸いこの日は工事をしていなかったので、そのまま大峰城前の駐車場まで行けました。

残念なことに大峰城は現在休館中で、駐車場も人が入ってないようで砂ほこりが堆積していました。
遺構もよくわからない状態ですが、模擬天守の北側に堀切の跡がはっきりと残っています。


≪ 歴 史 ≫

築城時期や城主は明らかではありませんが、川中島合戦の頃に築城され、武田氏・上杉氏の争奪戦の舞台となったと想像されます。

≪ 写 真 ≫


模擬天守入口の門


西側からの模擬天守


南側からの模擬天守


模擬天守北側の堀切

≪ アクセス ≫

<車>
上信越道長野ICを降りて長野インター入口を北西に進み、松代大橋を渡り、八幡原史跡公園前を通り、古戦場入口交差点信号を直進、下氷鉋交差点信号から国道117号に代わり青木島三叉路信号を斜め右に曲がり、そのまま北上し、犀川に架かる丹波島橋を渡り、長野県庁前を通り、突き当りの信大前三叉路信号を右折、次の若松町信号で左折、北上して横沢町信号を直進、次の交差点を左折、細い道を北西に進み、「高森りんご園」のある交差点を右折、戸隠バードラインへ向かう七曲りの山道を進み、途中連続する屋根付のヘアピンカーブを抜けて、突き当りのT字路で右折、戸隠バードラインを走り、途中から長野市大峰斎場へ向かう山道へ入る。途中道路工事をしていて斎場からは通行止めとなっている。幸いこの日は工事をしていなかったので、そのまま大峰城前の駐車場まで行けました。大峰斎場駐車場から徒歩20分。


≪ 位置図 ≫

大峰城


紹介したお城の数 85城



長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

松代城

2013-06-16 05:09:00 | 長野県
 松代城

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 武田氏の北信濃攻略の最前線基地、その後、真田氏の居城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 松代城
よみ: マツシロ
別称: 海津城・侍城・松城・貝津城
所在地: 長野県長野市松代町松代
現状: 海津城跡公園
築城年代: 永禄年間(1558-70)
築城者: 武田信玄
形式: 平城
遺構: 本丸・二の丸・天守台・復元太鼓門・北不明門・東不明門・二の丸南門・石場門・石垣・土塁・内堀・外堀跡
規模: 本丸72.4m四方、惣構え1.2km×1.0km、標高357m
文化財: 国史跡指定
訪城日: 2011/6/17・2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、ホテルを出て松代城へ向かう。

長野駅前を通って中御所北交差点信号を左折、国道19号を南下、犀川を渡り国道171号をさらに南下、青木島三叉路信号を斜めに左折、そのまま南下する。古戦場入口交差点信号を直進、八幡原史跡公園(川中島古戦場)の前を通り、千曲川に架かる松代大橋を渡り、上信越道の高架下をくぐり、突き当りの長野インター南三叉路信号を右折、次の上高相信号を高速道路に沿って直進、約350m進んだところに松代城駐車場の案内看板のある左折道を南へ走るとすぐに駐車場がある。
朝が早かったために駐車場がまだ空いていなかった。しかたなく住宅街の細い路地を通って南側の池田満寿夫美術館北側の駐車場に車を駐車する。

駐車場から長野電鉄屋代線の線路を渡り、二の丸南門前を通って城内へ、ここも早かったため太鼓門等がまだ空いていない。しかたなく二の丸をぐるっと一周する。開門時間は朝9時からです。
復元された太鼓門や前橋と石垣、内堀・土塁を眺めながら時計回りに北へ出て、天守台跡の石垣に見とれ、北不明門、新堀、外堀跡、東に回り土塁に囲まれた二の丸御殿跡、石場門を見ているうちに、東不明門が空いていたのでここから本丸内へ、内から天守台、北不明門、太鼓門を堪能しました。
本丸は意外と小さな正方形をしていて、真ん中に本丸御殿があったそうです。
北不明門から入った右側に大きく立派な海津城址碑があります。
城の南側には真田邸や真田宝物館があります。
ちなみにもともと松代城は川中島の戦いに備えて武田信玄が構えた城で海津城と呼ばれていました。その後、城主が代わることに名前も変わり、森忠政時代には侍城、松平忠輝時代には松城、真田氏の時代になり松代城と呼ばれ明治維新を迎えています。


長野市教育委員会の松代城環境整備のホームページ ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

永禄三年 (1560) 武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いに備え海津城を築城したと言われています。
天正十年 (1582) 武田氏滅亡後、織田信長の家臣森長可が入城し、織田信長が本能寺の変で斃れると上杉景勝の支配下に入り、村上義清の子景国が入城するが、副将の屋代秀正の謀反で罷免され、代わって景勝の妹婿上条義春が入城する。
天正十二年 (1584) 城主が須田相模守満親に代わる。
天正十三年 (1585) 第1次上田合戦が起こり、上杉景勝に助けを求めた上田城の真田昌幸を海津城主須田満親が助勢している。その後、上杉景勝の合津移封に伴い海津城は豊臣秀吉の蔵入地となり、田丸直昌が支配する。
慶長五年 (1600) 徳川家康は田丸氏に代わって森長可の弟森忠政を海津城主とする。
慶長八年 (1603) 徳川家康の六男松平忠輝が入り、花井吉成が城代となる。
元和三年 (1617) 大坂夏の陣の折の旗本殺害事件の責任から松平忠輝から家康の孫松平忠昌、酒井忠勝と代わる。
元和八年 (1622) 真田信之が海津城主となり、明治四年(1871)の廃藩置県まで真田氏が代々松代を治めた。
明治五年 (1872) 廃城となる。
明治六年 (1873) 火事で全焼して本丸を残して取り去られる。
昭和五十六年 (1981) 国指定史跡に指定される。
平成十六年 (2004) 太鼓門、前橋、北不明門、二の丸土塁が復元される。


≪ 写 真 ≫


二の丸南門


二の丸南門入口にある松代城址碑


二の丸土塁(南側)


太鼓門と太鼓門前橋


南西側の内堀と石垣


土塁に開けられた門


天守台


北不明門入口


井戸


北側の新堀


北側の外堀跡


二の丸土塁(北側)


北東方面からの全景


北東側の石垣


東側の内堀と石垣


二の丸御殿跡と土塁


東不明門と前橋


南東側の内堀と石垣


二の丸石場門


太鼓門


本丸御殿跡


本丸内からの天守台


本丸内の海津城址碑


北不明門


北不明門虎口


真田邸


真田宝物館


現地松代城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR長野駅からバスで約30分、松代駅下車、徒歩約5分。
長野電鉄屋代線松代駅から徒歩約5分。
<車>
上信越道長野ICを降りて県道35号を南下、上信越道の高架下をくぐり、突き当りの長野インター南三叉路信号を右折、次の上高相信号を高速道路に沿って直進、約350m進んだところに松代城駐車場の案内看板のある左折道を南へ走るとすぐに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

松代城


松代城無料駐車場


真田邸


紹介したお城の数 84城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

屋代城

2013-06-15 05:16:59 | 長野県
 屋代城

2013/5/5  信州北部遠征(3泊4日)

長野県千曲市のお城めぐり

 村上氏の一族屋代氏の最初の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 屋代城
よみ: ヤシロ
別称: 一重山城
所在地: 長野県千曲市屋代・小島
現状: 山
築城年代: 永正-天文年間(1504-55)頃
築城者: 屋代能登守信光
形式: 山城
遺構: 本郭・二の郭・三の郭・段郭・堀切・土塁
規模: 標高458m、比高93m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/5/5


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  3日目、荒砥城から屋代城へ向かう。

荒砥城跡の城山史跡公園を出て来た山道を上山田温泉側に降りて、城山入口交差点信号を直進、千曲川を渡って、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を左折、国道18号を北上、杭瀬下交差点信号を右折、屋代駅方向に進み、屋代駅前交差点信号を左折、県道392号を北上して横町三叉路信号を右折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。ここに車を駐車する。

成田山不動尊の登り口が屋代城の登城口で、階段を登り成田山不動尊の脇を通って墓地を過ぎ、御嶽神社、矢代神社と続く、矢代神社を通り過ぎたあたりから屋代城の城域に入る。
矢代神社南側に堀切らしき空堀があり、削平地、堀切が続き、長い緩やかな山道を30分程登り、土塁のある堀切に着く。土塁の前の削平地が三の郭で、堀切を越えると二の郭に出る。
広い削平地で南に一段高くなっている鉄塔のあるところから本郭で説明板が建てられている。
本郭も広い削平地で土塁等はない。さらに南側にも段々に郭があったようですが、現在は破壊されてしまっていてなにも残っていない。


≪ 歴 史 ≫

永正-天文年間 (1504-55) 村上氏の一族屋代氏によって築城される。
天文二十二年 (1553) 武田氏の侵攻に際して屋代政国は村上氏を離反して武田氏に服属し、葛尾城が落城して村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びる。
永禄年間 (1558-70) 屋代氏が荒砥城へ移った時点で屋代城は廃城となったようです。
天正十年 (1582) 武田氏が滅んだのち、上杉景勝の勢力下に入り、村上義清の子景国が海津城の城将として入り、その副将として屋代政国の子秀正が海津城二の丸に居住を命ぜられ、持城の荒砥城を他氏に入られ、徳川氏に内応したが、上杉氏に攻められ逃れる。


≪ 写 真 ≫


登城口の成田山不動尊登り口


矢代神社


矢代神社南側の登り口


尾根道


途中の広場前の堀切


途中の広場


途中の削平地


堀切


二の郭前の土塁と堀切


二の郭と土塁の間の堀切


二の郭


本郭

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JRしなの鉄道屋代駅から成田山不動尊を経由して、徒歩約40分。
<車>
長野道更埴ICを降りて国道18号を南下、次の屋代三叉路信号を斜めに左折、南下して横町三叉路信号を左折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。近くの県立歴史館にも駐車場有。


≪ 位置図 ≫

屋代城


登城口の成田山不動尊


紹介したお城の数 83城



長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

荒砥城

2013-06-14 05:07:03 | 長野県
 荒砥城

2013/5/5  信州北部遠征(3泊4日)

長野県千曲市のお城めぐり

 大河ドラマのロケ地として使われた村上氏一族の山田氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 荒砥城
よみ: アラト
別称: 山田城・砥沢城
所在地: 長野県千曲市上山田3510-7
現状: 城山史跡公園
築城年代:
築城者:
形式: 山城
遺構: 本郭・二の郭・三の郭・四の郭・復元門・兵舎・櫓・石垣
規模: 標高595m、比高215m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/5/5


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  3日目、坂城神社駐車場から荒砥城へ向かう。

坂城神社駐車場前の道を西へ進み国道18号へ出て、千曲川沿いに北西へ進む。すぐに千曲市に入り、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を左折、上山田温泉方面へ向かう。千曲市に架かる橋を渡り、そのまままっすぐ進み、城山入口交差点信号をまっすぐ山に登っていく。けっこう急な坂を登ると中腹に日本歴史館やお寺、神社があり、通り越したところを右折すると城山史跡公園の駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場の東端に登城道があり、登っていき左へ曲がり、次に右に曲がったところに荒砥城址碑と案内所があり、入場料300円で中に入れる。門をくぐった入ると、右側すぐに腰郭のような削平された四の郭がある。
曲がり道を登っていくと途中に道の端に郭とは思えない三の郭、さらに登り見張台付の復元門をくぐると二の丸で東端に復元高櫓、中央の小屋の中には説明板等が展示されてある。二の郭から石垣に挟まれた小道を西に行くと柵に囲まれた本郭でここにも復元門があり、中には復元された館と兵舎が建っている。奥に展望台もある。
中世の城跡が良く復元されている。


≪ 歴 史 ≫

村上氏の一族である山田氏の居城と言われているが不明である。
天文十七年 (1548) 荒砥城主山田国政が砥石城の戦いで戦死。
天文二十二年九月 (1553) 村上義清救援に長尾景虎が兵を出し、武田方と荒砥城を奪い合う。この時山田国政の子国継が葛尾城落城の際に戦死、山田氏は滅亡する。
永禄年間 (1558-70) 屋代城主屋代政国が信玄から宛行われ屋代氏の持城となる。
天正十年 (1582) 政国の子屋代秀正が上杉景勝から海津城の副将を命じられ、在地の豪族清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の七氏が交代で荒砥城の守備をする。
天正十二年 (1584) 秀正が徳川家康に内応し、荒砥城に立て籠もるが、上杉方の猛攻で落城。廃城となる。
平成七年六月 (1995) 城山史跡公園として整備される。


≪ 写 真 ≫


駐車場からの登城入口


荒砥城址碑と案内所入口


四の郭


三の郭から見上げる高櫓


二の郭門


高櫓


本郭門


館と兵舎


本郭から二の郭


現地城山史跡公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JRしなの鉄道戸倉駅から徒歩約60分。
<車>
長野道更埴ICを降りて国道18号を南下、千曲市に入り、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を右折、上山田温泉方面へ向かう。千曲市に架かる橋を渡り、そのまままっすぐ進み、城山入口交差点信号をまっすぐ山に登っていく。けっこう急な坂を登ると中腹に日本歴史館やお寺、神社があり、通り越したところを右折すると城山史跡公園の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

荒砥城


駐車場と登城口


紹介したお城の数 82城



日本の城 完全名鑑 増補改訂版 (廣済堂ベストムック)
クリエーター情報なし
廣済堂出版

村上氏居館

2013-06-09 05:05:06 | 長野県
 村上氏居館

2013/5/5  信州北部遠征(3泊4日)

長野県坂城町のお城めぐり

 村上氏代々の居館

≪ お城の概要 ≫

城名: 村上氏居館
よみ: ムラカミシ
別称:
所在地: 長野県埴科郡坂城町坂城1905-16
現状: 満泉寺
築城年代:
築城者:
形式: 館
遺構:
規模:
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2013/5/5


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  3日目、坂城神社駐車場から徒歩で村上氏居館跡の満泉寺へ向かう。

坂城神社前の南へ向かう道を約200m行った左折する道の入り口に村上氏居館跡の碑と県史跡の碑が建てられている。
約100m東へ進んだ突き当りに説明付の石碑があり、突き当りを左折、北へ約30mで満泉寺へ着く。
遺構は何も残っていない。
村上氏が葛尾城を築城したのと同じ時期に麓に居館として造られたようで、村上氏代々の居館です。


≪ 歴 史 ≫

葛尾城と同じ時期に居館として築城される。天文二十二年(1553)、村上氏が武田氏に攻められ葛尾城とともに落城、村上義清は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り越後に逃れた。

≪ 写 真 ≫


村上氏居館跡入り口


村上氏居館趾碑


村上氏居館跡の石碑


満泉寺

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JRしなの鉄道坂城駅から満泉寺まで徒歩約10分。
<車>
上信越道坂城ICを降りて県道91号を西進、坂城IC入口三叉路を右折、国道18号を北上、田町交差点信号を右折、JRしなの鉄道を越えて、次の交差点を左折、約200m北上し変速交差点を左折、西進し坂城駅前の三叉路を右折、そのまま北上、途中県道が左に折れているがそのまま狭い道を約300m北上すると坂城神社に着く。神社の東側に道を北へ約100mで葛尾城の登城口、さらに川沿いに少し北へ行くと専用駐車場がある。坂城神社から徒歩で南へ向かう道を約200m行った左折する道の入り口に村上氏居館跡の碑と県史跡の碑が建てられている。
約100m東へ進んだ突き当りに説明付の石碑があり、突き当りを左折、北へ約30mで満泉寺へ着く。


≪ 位置図 ≫

満泉寺


紹介したお城の数 81城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版