浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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中田敦彦が語る「五戒」を守って生きる事の大切さ

2021-01-09 | 参考資料
仏教の「五戒」を守って生きる事の大切さ
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新しい一年は心から出発する

2021-01-01 | 浄空老法師を知る

【新的一年 從心出發】淨空老法師
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非常の時代に、非常の責任を負う――2018年イギリス漢学院始業式の式辞

2020-10-20 | 浄空老法師を知る


非常時代 非常擔當—二Ο一八年英國漢學院開學典禮致辭
非常の時代に、非常の責任を負う――2018年イギリス漢学院始業式の式辞
2018/10/1 英國威爾士三一聖大衛大學蘭彼得校區 檔名: 32-304-0001
イギリス・ウェールズ大学トリニティ・セント・デイビッド(University of Wales Trinity Saint David)

  尊敬的瓊斯主席、休斯校長、史密斯院長、諸位嘉賓、諸位老師、諸位同學:大家好!
尊敬するジョーンズ主席、ヒューズ校長、スミス院長、ご来賓各位、諸先生方、学生の皆さま、こんにちは!

  今天是二Ο一八年英國漢學院開學典禮,很高興大家在此共聚一堂!
本日は2018年イギリス漢学院の始業式です。皆さまとここで一堂に会することを嬉しく思っております!

  我們生活在一個非常的時代,在這個時代裡,無論西方或東方,傳統文化與傳統價值觀都在沒落。這種現象,我們在東方看得很清楚;在西方,我們也聽到蘭彼得的老人家慨嘆說,威爾士傳統的孝親與好禮,在年輕一代的身上已經不容易找到了!而東西方傳統文化蘊含著古聖先賢與老祖宗的修身、齊家、治國、平天下的智慧與經驗,正是現代社會所必需,能夠挽救現在的人心沉淪與社會危機。我們正是為了振興與承傳傳統文化,所以才來舉辦這個漢學院。在威爾士親王的許可與休斯校長的大力支持下,英國漢學院於去年三月順利開課,目前第一屆碩士生已經完成學業。
私たちの生活は非常の時代にあります。この時代において、西洋であとうと東洋であろうと、伝統文化と伝統の価値観はすべて没落しています。この現象は、私たちは東洋においてはっきりと見られます。西洋では、トリニティ・セント・デイビッドのお年寄りが深く感じ入って嘆息したと聞いております。ウェールズ伝統の親孝行と礼節を、若い世代に見つけるのは容易ではないと。東西の伝統文化には古聖先賢とご先祖様の修身(しゅうしん)、斉家(せいか)、治国(ちこく)、平天下(へいてんか)の智慧と経験が含まれています。正に現代社会に必須のものであり、今の人心の零落と社会の危機を救うことができます。私たちは正に伝統文化を継承し振興するために、この漢学院を開きました。ウェールズ公の許可とヒューズ校長の多大なるご支持のもと、イギリス漢学院は昨年の三月に始業し、第一期生の修士課程が修了しました。

  漢學院的使命,是培養承傳優秀傳統文化的師資人才,並促進東西方文化交流。東西方的傳統文化,都包含倫理教育、道德教育、因果教育和聖賢智慧的教育。我們必須積極學習,身體力行,從自身做出好榜樣,才能感動他人,為促進社會和諧做出貢獻。
漢学院の使命は、優秀な伝統文化を継承する教師となるべき人材を育成し、東西の文化交流を促進することです。東西の伝統文化には、すべて倫理教育、道徳教育、因果教育と聖賢の智慧の教育が含まれています。私たちは積極的に学習し、自ら体験し、できる限り実行しなければなりません。自分自身が良い手本になってこそ、人を感動させることができ、社会の調和を促進する為に貢献できるのです。

  今年七月,我的摯友同時也是漢學院的長老院長周春塘教授不幸離世,這是漢學院與漢學界的重大損失!所幸勝妙法師、成德法師、李越老師與多位教授及老師們,共同承擔起漢學院的重任。相信在他們與諸位同學的共同努力之下,一定能夠完成周院長未竟之志業,將傳統文化振興起來!
今年の七月。私の親友であると同時に漢学院の長老院長の周春塘教授が世を去りました。これは漢学院と漢学界の重大な損失です!幸いにも勝妙法師、成徳法師、李越老師と多くの教授、諸先生方が、漢学院の重責を共に引き受けてくださいました。諸先生方と学生の皆さまの努力のもと、必ずや周院長の未完の志を成し遂げて、伝統文化を振興させることを信じています!

  非常的時代,需要非常的擔當!諸位同學的發心與漢學院的宗旨是一致的,都是「為往聖繼絕學,為萬世開太平」。堅持這樣的志願,就能不畏艱難,刻苦求學,勤行精進,將自己的道德與學問充實起來。將來大家都能夠成為優秀的傳統文化教師、和平使者、世界公民,為這個多災多難的世界做出重要的貢獻!
非常の時代には、非常の責任を負う者が必要です!学生に皆さまの発心は漢学院の宗旨と一致しています。すべては「往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」(昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く) ためです。このような志を堅持してこそ、困難を恐れず、刻苦して学問を探求し、勤行精進して、自分の道徳と学問を充実させることができます。将来皆さんは伝統文化を伝える優秀な教師となり、平和の使者となり、世界の公民となり、この災難の多い世界の為に重要な貢献をすることができるでしょう!

  祝福諸位同學,學業順利、道業增上、法喜充滿、前途無量!祝福與會的嘉賓,身心健康、六時吉祥、福慧增長、光壽無量!謝謝大家!
学生の皆さまの、学業順利(学業が順調に進む)、道業増上(仏道修行に力が加わる)、法喜充満(法の喜びに満ち溢れる)、前途無量(洋々たる前途)を祝福致します!ご臨席の皆さまの、身心のご健康、六時吉祥、福慧増長、光寿無量を祝福致します!ありがとうございました!

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『神は世人を愛す』を学ぶ 09

2020-08-16 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 09

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第九集)
2018/10/18 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0009

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》四十四頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは!『神は世人を愛す』の四十四頁をご覧ください。

  【一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。】
【一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり。】

  這四句話很重要!是真話,不是隨便說出來的,我們要牢牢的記住,希望這一生有緣能夠契入這個境界,這個境界就成佛了。
この四句は重要です!真実の話です。勝手に話したのではありません。私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。この一生でこの境界(きょうがい:境地)に入るご縁がある事を願います。この境界とは仏に成ることです。

  這是《華嚴經》上的經文,『一切諸佛身,唯是一法身』,說明一切諸佛是一法身變現出來的。什麼是法身?什麼是佛身?佛身是示現在人間,經過修學,達到大徹大悟。悟什麼?就是悟這句話,原來一切諸佛身就是一法身,「唯是」就是「就是」,法身是一。法身之外,有應身、化身,應化身無量無邊。
これは『華厳経』の経文です。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身なり」(一切諸仏身,唯是一法身)とは、一切諸仏は一つの法身が変化して現れたことを意味します。法身とは何でしょうか?仏身とは何でしょうか?仏身とは人間界に示現して、修学を経て大徹大悟に達します。何を悟るのでしょうか?正にこの言葉を悟るのです。もともと一切諸仏の身は一つの法身なのです。「唯是」とは「ただ、正に」のことです。法身は一つです。法身の他に、応身、化身があります。応化身は無量無辺です。

  我們常說的六道輪迴、常說的十法界依正莊嚴,從哪裡來的?法身變現的。法身沒有形相,真的是「言語道斷,心行處滅」,你沒法子說,說不出來;說什麼都不像,無法形容,是一切法,一切法包括六道輪迴、包括十法界。十法界、六道輪迴無量無邊,太大了、太多了,都是這一個法身變現的。好比我們作夢,醒來的時候還記得很清楚夢中的境界,這夢從哪裡來的?心現的,識變的。真心,真心裡面什麼都沒有,真心就是法身,能現十法界、能現六道輪迴。所以,六道、十法界只是一法身,是一不是二。
私たちがよく言う六道輪廻、十法界依正荘厳とはどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。法身に形相はありません。本当に「言語道断(ごんごどうだん)心行処滅(しんぎょうしょめつ)」です。あなたは話しようがなく、話せません。何を話してもそれらしくありません。形容しようがありません。一切法です。一切法とは六道輪廻や十法界も含みます。十法界、六道輪廻は無量無辺であり、果てしなく大きく、果てしなく多いものですが、すべて一つの法身が変化して現れたものです。ちょうど私たちが見る夢のように、醒めた時はまだ夢の中の境界をはっきりと覚えています。この夢はどこから来るのでしょうか?心が現したもの、識が変化したものです。真心の中には何もありません。真心とは法身であり、十法界を現すことができ、六道輪廻を現すことができます。ですから六道、十法界はただ一つの法身なのです。一であり二ではありません。

  下面說得很好,『一心一智慧,力無畏亦然』。「力」是教化眾生的能力。「無畏」,在十法界、在六道,甚至於在十方世界一切諸佛剎土當中,現身說法,幫助眾生回頭,一樣也能證得佛身、法身。佛身是相,法身就像我們今天所講的時間、空間。時間、空間從哪裡來的?法身變現的。
次の言葉は良いものです。「一の心、一の智慧なり。力・無畏(むい)も亦(ま)た然(しか)なり」(一心一智慧,力無畏亦然)。「力」は衆生を教化する能力です。「無畏(むい:衆生の恐怖心を取り除くこと)」は十法界、六道において、更には十方世界一切諸仏刹土の中において、身を現身して説法し、衆生が改心するのを助け、同じように仏身、法身を証得させることです。仏身は相、法身とは私たちが今日言うところの時間と空間です。時間と空間はどこから来るのでしょうか?法身が変化して現れたものです。

  下面的註解我們念一遍:「所有證得究竟大覺的聖者們」。包括我、包括你、包括一切眾生,都在這一句經文裡面,全都說到了—「乃至於必定會於未來徹底覺悟宇宙人生之真相的所有一切眾生們,他們的本體與真身,都是周遍宇宙、相互含容、乃至於是究竟一體的。那些大覺者們的真心,以及所有眾生們的真心,都是同一個真心」。
次の註解を一度読みましょう。「あらゆる究極の大覚を証得された聖者たち」。自分も、あなたも、一切衆生も含めて、すべてこの経文の中に全部言及されています、「ひいては未来に宇宙・人生の真相を徹底して悟る一切衆生たち。彼らの本体は真身であり、すべて宇宙を行き渡り、互いに寛容で、ひいては究極の一体なのである。それらの大覚者たちの真心、及びあらゆる衆生たちの真心はすべて同じ一つの真心なのである。

  在這段經文裡頭我們看到,同一個,都是同一個真心,不能分別、不能執著,那就是大圓滿。你分別、你執著,你就偏了,你沒有見到全部,只見到侷限的一部分。所以一定要知道,遍法界虛空界,上到諸佛如來,下到一切眾生,最下面是無間地獄眾生,都是同一個真心變現出來的。
この段の経文の中に見ることができます。すべて同じ一つの真心であり、分けることも執著することもできません。それこそが大円満です。あなたが分別し、執着すれば、あなたは偏ります。あなたは全部を見ていません。ただ限りのある一部分を見たに過ぎません。ですから必ず知っておかなければなりません。遍法界虚空界、上は諸仏如来、下は一切衆生、一番下は無間地獄の衆生たち、すべて一つの真心が変化して現れたものなのです。

  怎麼變現的?大乘經上說得好,唯心所現,唯識所變。能現的就是此地講的真心,大乘經上說的真如、說的真性,自性的性,名詞很多,都是說的這一樁事情,是一不是二。所以我們跟諸佛如來、我們跟一切眾生同一體,體就是真心。真心在哪裡?真心能現十法界,妄心是所現的,真心能現,是一不是二。
どのように変化して現れるのでしょうか?大乗経には良い言葉があります。「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変)。現すことができるのは正にここで説かれている真心です。大乗経で説かれる真如、真性、これは自性の性です。名詞はたくさんありますが、すべて同じことです。一であり二ではありません。ですから私たちは諸仏如来と一切衆生と同じく一体なのです。体とは真心です。真心はどこにあるのでしょうか?真心は十法界を現すことができ、妄心は現れたものです。真心は現すことができます。一であり二ではありません。

  宗教教育裡頭,應該是以這句話做為核心,我們稱之為宗教。宗教是神聖的教育,是一個人一生當中不能不學的功課。這門課,它告訴我們,整個宇宙萬事萬物是一體,一個真心所現。識是什麼?識是妄心。
宗教教育の中に、この言葉を核心に据えなければなりません。私たちは宗教と称しています。宗教は神聖な教育です。人の一生の中で学ばなくてはならない科目です。この科目は私たちに説きます。全宇宙の万事万物は一体であり、一つの真心が現したものです。識とは何でしょうか?識とは妄心です。

  真心現相,相現了,什麼樣子?於一切相當中,沒有一樣不明瞭,樣樣都明瞭,沒起心、沒動念、沒有分別執著,這是真心見,見到宇宙的真相。妄相也是真相,真妄是一不是二。所以同一個真心、同一個自性,自性就是真心,是一不是二。如果你能夠相信,你能再不懷疑,入這個境界了,也沒有起心動念,也沒有妄想分別執著,這叫證得,這叫見性,見性就稱他作佛陀。佛陀這個名詞是從印度梵文翻譯過來的,意思是明白了、覺悟了,徹底覺悟了,一絲毫懷疑都沒有,這叫佛。
真心は相を現します。相が現れると、どんな様子でしょうか?一切の相において、一つとして不明瞭なものはなく、すべて明瞭で、心が起こらず、念は動かず、分別・執著がありません。これが真心で宇宙の真相を見る様子です。妄相もまた真相であり、真と妄は一つであり二つではありません。ですから同じ一つの真心であり、同じ一つの自性であり、自性こそが真心であり、一であり二ではありません。もしあなたが信じることができれば、二度と疑うことはなくなり、この境界(きょうがい:境地)に入ります。やはり心を起こさず念を動かさず、妄想・分別・執著はありません。これを証得と言います。これを見性(けんしょう)と言います。見性すればその人を仏陀と言います。仏陀と言う名詞はインドのサンスクリット語を翻訳したもので、意味は理解した、悟ったということです。徹底して悟り、ほんの僅かな疑いさえありません。これを仏と言います。

  比佛次一等的稱菩薩,菩薩覺了,沒有圓滿,還要親近佛陀,向佛陀請教。像《華嚴經》上所說的,菩薩有五十一個等級,真的有大菩薩、小菩薩。這五十一個就是十信、十住、十行、十迴向、十地、等覺,《華嚴經》上所說的。什麼時候你用真心不用妄心?會用真心的人是初地以上,我們稱為大菩薩。他還住在人間,幫助佛教化眾生、接引眾生,為初學人做一個最好的榜樣。《華嚴經》講得非常詳細,大乘不能不讀。
仏の次の等級は菩薩です。菩薩は悟っていますが円満ではありません。まだ仏陀について教えを請います。『華厳経』で説かれているように、菩薩には五十一の等級があり、本当に大菩薩、小菩薩がいます。この五十一とは十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚です。『華厳経』に説かれているものです。いつになったらあなたは真心を用いて妄心を用いなくなるのでしょうか?真心を用いる人は初地以上の人です。私たちは大菩薩と言います。その人はまだ人間界にいて、仏が衆生を教化するのを助け、衆生を導き、初学者に最も良い手本を示します。『華厳経』には非常に詳細に説かれています。大乗は読まなくてはなりません。

  「大覺者們的智慧,以及一切眾生自性本具的真實智慧,都是同一種究竟圓滿的智慧。那些大覺者們對於宇宙萬法徹底無礙的認識與理解,他們那種究竟解脫的境界,以及他們化導眾生、演說正法時所具備的那種決定無礙、決定無畏的境界與能力,也都是彼此相同不二。」這段話很重要。下面說:「乃至於,在一切眾生的真心自性之中,也都擁有著同樣不二的境界與能力」,也都是彼此相同不二的境界、能力。
大覚者たちの智慧、及び一切衆生の自性がもともと具えている真実の智慧は、すべて同じ究極円満の智慧である。それらの大覚者たちは宇宙万法に対して徹底無碍の認識と理解があり、彼らのその究極の解脱の境界、そして彼らが導く衆生に正法を説く時に具える絶対的な無碍、絶対的に無畏の境界と能力、それらもまたそれぞれ同じであり一つのものである」。この言葉は重要です。次に説かれています。「ひいては一切衆生の真心・自性の中に、同じ境界と能力を具えているのである」。それぞれ同じ不二の境地であり、能力です。

  這些話是大乘教的大乘經中之王《大方廣佛華嚴經》,我們學的這個經文是《華嚴經》上的,經只有四句:「一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。」說明我們每個人跟諸佛如來有沒有兩樣?沒有,是一樣。佛有法身,我們有法身;佛有應化身,我們也有應化身;佛現十法界,我們的心也現十法界,我們跟佛沒兩樣。所以佛教裡面跟一般宗教不相同,一般宗教有真神、上帝,人能不能跟真神一樣?不能。能不能跟上帝一樣?不能。上帝至高無上,我們是他的子民,要依靠他。佛不然,佛,人人都能成佛,人人學佛最後必定成佛。
これらの言葉は大乗教の大乗経の中の王『大方廣佛華厳経』の中のものです。私たちが学んでいるこの経文は『華厳経』のものです。経は四句だけです。「一切諸仏の身は、唯(ただ)是(これ)一の法身にして、一の心、一の智慧なり。力・無畏も亦(ま)た然(しか)なり。」(一切諸佛身,唯是一法身,一心一智慧,力無畏亦然。)。私たちはどの人も諸仏如来と異なる所があるのでしょうか?ありません。同じです。仏には法身があり、私たちには法身があります。仏には応化身があり、私たちにも応化身があります。仏は十法界を現し、私たちの心もまた十法界を現します。私たちと仏は何も違いません。ですから仏経の中では一般の宗教とは異なります。一般の宗教は真実の神がいます。人は真実の神と同じになれるでしょうか?なれません。神は至高・無上であり、私たちは神の子であり、神に頼らなければなりません。仏はそうではありません。人は誰でも仏に成ることができます。誰でも仏に学んで最後は必ず仏に成るのです。

  所以佛,我們不稱他真主、不稱他作上帝,我們稱他作老師。他是佛陀教學裡面根本的老師,就是這個學校他創辦的,這個學校主要是他來上課的。也有諸佛如來跟他的弟子到這個地方來代上他的課程,這種情形很多。所以學佛終極的目標是成佛,跟諸佛如來無二無別,這是一般宗教裡面沒有的,只有大乘佛法講得究竟徹底明白。
ですから仏のことを私たちは神とは言いません。私たちは仏のことを老師(先生)と言います。仏は仏陀の教学の中の根本の老師です。この学校は彼が創立したものです。この学校は主として彼が授業をするものです。また諸仏如来とその弟子がそこに来て彼の代わりに授業をします。このような状況が多いのです。仏法を学ぶ最終目標は仏に成ることであり、諸仏如来と区別はありません。これは一般の宗教の中にはありません。大乗仏法だけが究極的に説かれ、徹底的に明白なのです。

  我們再看下面一段經文,在四十六頁:
さらに次の経文を見ていきます。四十六頁です。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得;若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  我們就說這一句。學佛有什麼好處?如來的智慧是圓滿的、是無礙的、是無邊際的,過去、現在、未來,無所不知、無所不能。佛在此地告訴我們,他所有的智慧德能,我們每個眾生都有,跟他沒有兩樣。但是現在,本來沒有兩樣,現在不止兩樣,太多了。什麼原因?這一句說出來了,『但以妄想、顛倒、執著而不能證得』,變成六道凡夫,變成這個樣子。我們要覺悟,我們本來跟佛一樣,為什麼淪落到這裡?怎麼辦?
私たちはこの一句を言います。仏法を学ぶことは何か利点があるでしょうか?如来の智慧は円満であり、無碍(むげ:妨げのないこと)であり、果てがありません。過去、現在と、「知らざる所無く、能はざる所無し」です。仏はここで私たちに説かれています。仏が具えている智慧と徳能は、私たちどの衆生にもあるのです。仏と何も異なりません。しかし今、本来は同じなのに、今は違うどころではありません。違いすぎます。原因は何でしょうか?この一句で説かれています。「但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ」。六道の凡夫に変わり、このように変わったのです。私たちは悟らなければなりません。私たちは本来仏と同じなのに、なぜここで零落しているのでしょうか?どうすれば良いのでしょうか?

  我初學佛的時候,二十六歲,跟章嘉大師第一次見面,我就向他請教:我跟方先生學哲學,方老師把大乘佛法介紹給我,告訴我「佛經哲學是世界哲學的最高峰」。我能相信、我能接受,但是我有疑惑,佛菩薩覺,我迷了,這就不一樣。章嘉大師告訴我,看破、放下是真修行。我們過去行的是什麼?起心動念、妄想分別執著。錯了!我們要把這個放下,徹底放下,為什麼?它是假的,它不是真的。我們受這個假的這個害太大了!我們本來自性裡頭,真心、自性裡頭有跟如來同樣的智慧德能,為什麼現在變成這個樣子?平常人講的神通,六種神通,佛具足、菩薩具足、阿羅漢也具足,人天沒有。二十八層天有神通,小通,不是大通,他有礙,不是無礙。
私は仏法を学び始めた頃、二十六歳で章嘉大師と初めてお会いしました。私は大師に教えを請いました。私は方先生に哲学を学んで、方先生が大乗仏法を紹介して下さいました。私に「仏経哲学は世界の哲学の最高峰です」と言いました。私は信じ、受け入れることができました。しかし私には疑問がありました。仏菩薩は悟り、私は迷っています。これでは同じではありません。章嘉大師は私に言いました。看破(かんぱ:物事の真相を見極めること)、放下(ほうげ:一切の執著を捨てること)が本当の修行であると。私たちが過去に行ったのは何でしょうか?心を起こし念を動かし、妄想し、分別し、執著していました。これは間違いです!私たちはこれを放下しなければなりません。徹底して放下します。なぜでしょうか?それは偽りだからです。それは本当ではありません。私たちはこの偽りに大きな害を受けています!私たちは本来、真心・自性の中に如来と同じ智慧と徳能を具えています。なぜ今このように変わってしまったのでしょうか?一般の人が言う六種類の神通は、仏は具えています。菩薩も具えています。阿羅漢も具えています。人天(人界・天界)にはありません。二十八層天には神通がありますが、小さなものです。大きなものではありません。彼らには障碍があり、無碍ではありません。

  老師教給我,看破、放下,把修行的方法告訴我了。什麼叫修行?行就是我們日常起心動念、言語造作,行為,迷而不覺,佛菩薩是覺而不迷。我們要看破、放下,為什麼?全是假的。《金剛經》上說了多次,不是一次,「凡所有相,皆是虛妄」,告訴我們所有的現相都是假的,都不是真的,不要上當,沒有一樣是真的。那怎麼辦?放下起心動念,在一切境界當中學習不起心不動念,修心。我們眼見色,會起心動念,接著又分別執著,這錯了;如果眼睛接觸這個色相,不起心不動念、不分別不執著,對了。真正懂得修行的人知道在這用功,真功夫。耳聽聲音,聽得清清楚楚,了了分明,聽了怎麼樣?不起心不動念、不分別不執著。
先生は私に看破、放下を教えました。修行の方法を私に教えました。何を修行と言うのでしょうか?「」とは私たちの日常の心の起こりと念の動き、挙措動作、行為です。「迷って覚らず」。仏菩薩は「覚って迷わず」です。私たちは看破、放下しなければなりません。なぜでしょうか?すべて偽りだからです。『金剛経』には何度も説かれています。一度ではありません。「およそ姿形のあるものは、すべて偽りであり実体がない」(凡所有相、皆是虚妄)。あらゆる現相(現れている相)はすべて偽りであり、すべて本物ではありません。騙されてはなりません。一つも本物はありません。それではどうすれば良いのでしょうか?心の起こりと念の動き(起心動念)を放下します。一切の境界において心を起こさず念を動かさないことを学び、心を修めるのです。私たちは目で色(しき:物体)を見ると、心を起こし念を動かします。続いてまた分別し、執著します。これは間違いです。もし目で色相を見たら、心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しない。それで良いのです。本当に修行を理解している人はここに努めることを知っています。真の技量です。耳で音を聞き、はっきりと聞こえていて、すべて明らかです。聞いてどうなのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しません。

  你用耳根的根性,你用眼根的根性,諸佛、大菩薩他們就是這樣成就的。我們見色聞聲起心動念,引起來的自私自利,妄念、雜念太多了,錯了,愈陷愈深、愈墮愈重。不像羅漢,羅漢頂多起心動念、分別,下面就壓下去了,不執著,對了。我們這一起心動念,妄想分別執著,再下去就不必說了,什麼樣的煩惱都起來,貪瞋痴慢疑統統起來,造業。
あなたは耳根の資質を用い、眼根の資質を用います。諸仏、大菩薩たちは正にこのように成就したのです。私たちは色・聞・聲に心を起こし念を動かして、私利私欲を引き起こし、妄念、雑念が多すぎるのです。間違いです。ますます深みにはまり、ますます堕落していきます。羅漢とは違います。羅漢はせいぜい起心動念と分別だけで、その他は抑えています。執著しません。これで良いのです。私たちは一たび心を起こし念を動かすと、妄想、分別、執著が起こり、その続きは言うまでもありません。どのような煩悩もすべて起こします。貪瞋痴慢疑(貪り、怒り、無知、傲慢、懐疑)がすべて起こり、業を作ります。

  佛教跟其他宗教不一樣,我們稱佛為老師、稱菩薩為老師,對了。我們在向他們學習,希望學習跟他一樣,也成菩薩、也成佛陀,這就對了。
仏教はその他の宗教とは異なります。私たちは仏を老師(先生)と呼び、菩薩を老師と呼びます。そうです。私たちは彼らに学び、彼らと同じように菩薩に成り、仏陀に成ることを願います。これで良いのです。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 08

2020-08-14 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 08

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ (第八集)
2018/10/17 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0008

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》第三十八頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』三十八頁をご覧ください。

  【讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中;我們應當要有共同的意念……我們當要不懈地去實踐那些對於人類有利益的事,無論受益者是老是少,也無論他們的地位是高是低。】
【我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる。我々は共通の認識を持つべきである。・・・・・・我々はそれらの人類の利益に適うことにおいて怠らず実践すべきである。利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない。】

  今天我們從這一段經文學起。感謝同學們抽出時間,把這些經典裡面重要的經句提出來給我們學習,這一段我們看了,確實每一段都重要。都是上帝的兒女、上帝的使者,派遣下來幫助上帝教化眾生。今天的社會,頭一句說得很好,『讓我們共同團結在上帝、先知的忠告與勸言之中』。這句經文很重要。上帝的經典、先知的忠告,日常生活當中我們遇到了,都是互相勸告,要跟上帝學習。學習什麼?學習上帝的「愛」。上帝愛世人,是上帝可以說天天講的,經典裡面我們天天讀到,句句話都是好話、都是經典、都是忠告,也都是勸告。
今日はこの経文から学習します。学生の皆さんが時間を割いて、これらの経典の中の重要な経文を取り上げ、学ばせて下さることに感謝します。この一段を見ると、確かにどの一段も重要です。すべて神の子、神の使者であり、派遣されて来ると神を助けて衆生を教化しています。今日の社会において、最初の一句は良い言葉です。「我々を神、先覚者の忠告と勧めの中において共に団結させる」。この経文は重要です。神の経典、先覚者の助言、日常生活の中で私たちはそれと向き合い、お互いに助言し合い、神に学びます。何を学ぶのでしょうか?神の「愛」を学びます。「神は世人を愛す」とは、神が毎日説くものと言って良いでしょう。経典の中で私たちが毎日読むものです。どの一句もすべて良い言葉であり、すべて経典であり、すべて助言であり、すべて勧告でもあります。

  勸告,讓我們聯想到,上帝很著急,不願意看到人與人之間的對立、鬥爭;不願意見到,在我們現前社會裡面,天天見到、時時見到。每一次我們見到了,同樣的,上帝也見到了。我們能不能在這個短暫剎那之間想起這段經文,認真的反省、認真的學習,把彼此對立、彼此不和改正過來,要做上帝聽話的兒女、實踐的信徒。把他的話記住,要在我們身體日常生活當中,處事待人接物,真正的做到了。
勧告(という言葉から)は、神が焦り、人と人との対立と闘争を見たくないということを私たちに連想させます。私たちの現前の社会では、毎日目にします。いつも目にします。毎回私たちは目にします。同じように神もまた目にしています。私たちはこの刹那の間にこの経文を思い出して、真剣に反省し、真剣に学んで、互いの対立、互いの不和を改善できないものでしょうか。神の聞き分けの良い子、(神の教えを)実践する信徒にならなければなりません。神の話を覚えて、私たちの身体・日常生活において、人間関係において、本当に実践しなければなりません。

  這個話說得好!我們是不是時時刻刻想著,去做一些對人類有利益的事?今天擺在面前的,沒有利益的,是對立、是批評,不是讚歎。特別告訴我們,無論受益者是老是少,無論他們地位是高是低。有時候要用言語,有時候要用行為,中國古人所說的,言教是用言語,做出一個好榜樣給他看。看到這個人毀謗,我們給他講的是讚歎,做出榜樣給他看,看久了,一定會有一天他回頭了。這經文我們就學到了。
これは良い言葉です!私たちは常に考えて、人類の利益になることをしているでしょうか?今日では目の前に並べて利益にならないものであれば、対立し、批判します。称賛ではありません。わざわざ「利益を受ける人が年寄りであろうと若者であろうと、また彼らの地位が高かろうと低かろうと関係はない」と言っています。ある時は言葉を使い、ある時は行動します。中国の古人が説く所の「言教」とは言葉を使い、人に手本を見せることです。人を誹謗するのを見たら、私たちは称賛することを説いてその人に手本を見せます。久しくそれを見れば、必ずいつの日かその人は改心します。この経文の学習はここまでです。

  看第四十面,四十面文比較長一點:
第四十頁を見てください。四十頁の文は比較的長いです。

  【那位一體不二、具有崇高榮耀的真神,祂把自己展現給了人類,為的是要讓人類去反觀到自己最內在的真實自我——其心地中的寶藏。所有不同的宗教教派,以及各種不同的信仰體系,它們彼此之間絕不可以去引發人與人之間的對立,這就是在此一時代之中,對於上帝,及其宗教之信仰的根本理念。】
【その一体不二、崇高と栄誉を具えた真実の神はご自身の姿を人類に示された。それは人類に自身の最も内側の真実の自己――心の中の宝物――を異なる角度から見せるためである。あらゆる異なる宗教の教派、及び様々な異なる信仰の体系、それらが相互に人々の対立を起こしてはならない。これがこの時代における、神とその宗教に対する基本理念である。】

  特別記住,信仰根本的理念,是對上帝那種尊敬、仰慕,落實上帝經典裡面的教誨。中國古人所說的信、解、行、證,真信,你就決定不會毀謗,你決定不會跟其他宗教對立;這都屬於根本理念,屬於信。信了之後,有時候做不到,毛病還是照犯,這什麼原因?解得不夠透徹;深信要深解,解要講深度,深解,真信;之後變成我們日常生活當中的行為,這才叫修行。修行怎麼講法?修正錯誤的行為。得利益了,佛法裡面講的,福德、功德同修。
特に覚えておいてください。信仰の根本的な理念は、神に対する尊敬と敬慕であり、実際には神の経典の中の教えです。中国の古人が説く所の信、解、行、証(信じる→理解する→修行する→証得する)、本当に信じていれば絶対に誹謗することはありません。また絶対に他の宗教と対立することはありません。これはすべて根本理念であり、信に属します。信じた後でも時には実行できません。過失を犯します。これは何が原因でしょうか?透徹して理解していないからです。深く信じるには深い理解が必要です。理解は深さが大切です。深く理解すれば本当に信じます。その後私たちの日常生活の行為に変えていきます。これを修行と言うのです。修行とはどう説明したら良いでしょうか?誤った行為を修正することです。ご利益が得られるなら、仏法で言う福徳、功徳を同時に修めています。

  累積福德跟功德,自自然然就改造命運。得到了什麼?方東美先生早年把大乘佛法介紹給我,非常愛護的口吻,老師的年齡跟我父親差不多,我們都看作父輩一樣的看待,恭敬。老師告訴我:「學佛是人生最高的享受。」這句話很中聽!哪一個人活在世間,不希望得到最高的利益、享受?最高的享受從哪裡來的?從學佛來的。
福徳と功徳を積むと、自然に運命が変わっていきます。何を得るのでしょうか?方東美先生はかつて私に大乗仏法を紹介されました。非常に思いやりのある話し方でした。先生の年齢は私の父親とほとんど同じです。私たちは父の世代と同じように接し、敬いました。先生は私に「仏法を学ぶことは人生最高の享受である」と言いました。この言葉は聞き心地が良いものです!世間を生きて、最高のご利益と享受を望まない人がいるでしょうか?最高の享受とはどこから来るのでしょうか?仏法を学ぶことから来るのです。

  我接受了,用了半年的時間,我聽一些高僧大德講經,能聽得懂,聽了生歡喜心。要想得到享受,靠全聽懂了還不行、還不夠。聽懂了,解門,有信、有解,最高的享受還達不到,最高享受還要向上再踏一步。踏一步是什麼?行,要把我所知道的,變成我自己的起心動念、生活行為,這人生最高的享受你就嘗到了。嘗到最後證,證什麼?證明老師告訴我這句話是真話,證明經典裡面的教訓是真言,確確實實上帝說的。為什麼?不是上帝說不出來,只有上帝才能說出來。為什麼?上帝是大聖大賢,大聖大賢哪有不愛眾生的道理!他用什麼來愛眾生?經教,我們不能不知道。
私は受け入れました。半年の時間を使って、私は高僧大徳の講経を聞きました。聞いて理解できました。聞くと歓喜心が生まれました。享受したいと思えば、聞いたことを全部理解できるだけでは駄目です。それでは足りません。聞いて理解するのは「解門」です。(信心)があり、(理解)がありますが、最高の享受には達しません。最高の享受は更に上に一歩踏み出さなければなりません。一歩踏み出すとは何でしょうか?(ぎょう:修行)です。自分が知ったことを、自分自身の心の起こり念の動き(起心動念)、生活の行為に変えなければなりません。これで人生最高の享受を味わえます。味わったら最後は(証得、証明)です。何を証明するのでしょうか?先生が話された言葉は真実の言葉だということ、経典の教訓は真実の言葉だということを証明します。間違いなく神が語ったものです。なぜでしょうか?神でなければ話せません。神だけが話せることです。なぜでしょうか?神は大聖大賢であり、大聖大賢が衆生を愛さないという道理があるでしょうか!何を用いて衆生を愛するのでしょうか?経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)です。私たちは知っておかなければなりません。

  這個後面,有幾句話幫助我們解決問題,什麼問題?疑慮。學習宗教是真有好處嗎?懷疑、顧慮,這東西有用嗎?有,我給你做證明,真有。一直好好的學下去,依教奉行,慢慢怎麼樣?智慧開了。你到智慧開了,你自己就得到證,證明了真的,不是假的,是正確的,不是錯誤的,你明白了。
この後の幾つかの言葉は私たちが問題を解決するのを助けてくれます。何の問題でしょうか?疑いです。宗教を学ぶことは本当に利点があるのでしょうか?ここに疑いと心配があります。これは役に立つのでしょうか?役に立ちます。私があなたに証明します。本当に役に立ちます。しっかりと学び続け、教えの通りに実行します。少しずつどうなるでしょうか?智慧が開きます。あなたは智慧が開けば、あなた自身が証得します。真実であり偽りではないこと、正しい事であり間違っていないことを証明します。あなたは理解します。

  為什麼世界上宗教這麼多?傳教師給我們講經,彼此講的不一樣,甚至於產生對立,自讚毀他:我學的這個法門,我拜的這個上帝是真神,你那個靠不住。這種現象不少,我們遇到怎麼辦?這裡就告訴我們,時代之中,對於上帝及其宗教之信仰根本理念:
なぜこの世界には宗教がこれほど多いのでしょうか?布教する先生が私たちに講経(こうきょう:経を講じること)すると、それぞれ話が違います。甚だしきに至っては対立を生みます。自分を称賛して他人を誹謗します。私が学ぶ法門、私が拝むこの神が本当の神で、あなたのは当てにならない。このような現象は少なくありません。私たちはこのような状況に遭遇したらどうすれば良いでしょうか?この中で説かれています。この時代における、神とその宗教の信仰に対する根本理念です。

  【那些各宗教的教理原則以及戒律,那些被堅固樹立、具有強大力量的各種信仰體系,它們都擁有著同樣的源頭,都是來自於同一道的真光;而它們彼此會有差異,那是為了順應不同時代之人們的不同需求之緣故。】
【各宗教の教理原則及び戒律、それらの強固に確立された強い力を具えた様々な信仰の体系、それらは同じ根源を有しているのであり、すべて同じ真実の光から来ているのである。それらは相互に違いがあるが、それは異なる時代の人々の異なる需要に応じるためである。】

  給我們解釋了。不同的說法,遇到的人不一樣,根性不相同,你教他,你一看就明白了從哪裡教起。所以學習的人,一個老師,兩個人去學習,學習的時候不一樣,兩個學生程度不相同,應機說法。
私たちに解釈してくれています。異なる説法、出会う人は異なり、資質も同じではありません。その人を教えるのに、一目見ればどこから教えるべきかが分かります。ですから一人の先生に二人が学ぶなら、学習する時間も違います。二人の学生の程度も同じではありません。資質に応じて説法するのです。

  一部經書有沒有這個現象?也有。那我們就明白了,我跟另外一個同學,同學一部經,有些經文上我有我的看法,他有他的看法,甚至於看法完全相反,這時候怎麼辦?各人說的都有道理,如果老師在,請教老師;老師不在,讀誦,我把這個經文念上一百遍、念上二百遍,就融化了。
一部の経書にこの現象があるでしょうか?やはりあります。それで分かります。自分ともう一人の学生がいます。同じ経書を学んで、ある経文は自分には自分の考えがあり、別の人にはその人の考えがあります。甚だしきに至っては考え方が完全に異なります。この時にはどうすべきでしょうか?各人の言うことには道理があります。もし先生がいれば先生に教えを請います。先生がいないなら声に出して読みます。その経文を百回読み二百回読めば、(問題は)溶けていきます。

  如果你要懂得,聖賢的教誨沒有一樣不是應機而說的。你看中國《論語》,孔老夫子的,同樣一個問題學生發問、提出來,孔子的答覆不一樣,對甲的說法跟對乙的不相同。一個聖人教的,為什麼會這樣?根性、程度不一樣,根性不相同。於是我們明白了,這樣的事情在經典裡面非常之多,都是正確的;某一個程度正確,他超越這個軌道了,那另外一個講法。
あなたが理解できるなら、聖賢の教えは「資質に応じて説法する」ものでないものは一つもありません。中国の『論語』を見てください。孔夫子は同じ質問を学生にされて、答えは同じではありませんでした。甲に対する説法は乙に対するものと同じではありません。一人の聖人が教えるものが、なぜこうなのでしょうか?資質、程度が異なるからです。資質が同じではありません。それで理解できます。このような事は経典の中に非常に多く、すべて正しいのです。ある水準においては正しく、その人がその段階を越えたら別の言い方があるのです。

  這是在聖教經典裡面常有的事情,不足奇怪,你依你的解去修行,他依他的解門去修行,統統得利益。我們學習,經過老師的指點,幾十年的經驗、修學的歷程,幫助我們認識這個問題。
これは聖教経典の中によくあることです。怪しむに足りません。あなたはあなたの解法(理解の仕方)で修行し、他の人はその人自身の解法で修行して、すべてご利益があるのです。学習は先生の指導を経て、あとは数十年の経験と修学の過程とが、この問題を理解する助けとなります。

  所以下面這段說,說得好,說得好親熱:
次の段は良い言葉です。とても親しみが持てます。

  【我真正的同伴法侶們啊!所有的人類都是同一所學校裡的孩子,……那些帶來神聖啟示的一切使者,則都是這所學校裡的老師。這些老師們令眾人驚歎,無人可與之比擬。在這所屬於真理的學校中,老師們依照上帝的誨諭,來教導上帝的這些學生子女們,並以慈恩撫育他們……一直到他們把這個世界變成了一面廣大的鏡子,並讓那永恆不滅的另外一個世界,明現在此一大鏡之中。】
【私の本当の道を共にする者たちよ!すべての人類は同じ学校の子どもであり、・・・神聖な啓示をもたらす一切の使者は、すべてこの学校の先生である。これらの先生方は人々に驚嘆され、誰もそれと比較することはできない。ここは真理の学校に属し、先生方は神の教えに照らして神の学生たちを教え導き、慈恩(じおん:慈しみのある恩恵)で彼らを育成します。・・・彼らがこの世界を広大な鏡に変え、永久不滅のもう一つの世界を、この大きな鏡に映すまで。】

  這個地方,另外的世界是天堂、是極樂世界。你的功夫成熟了,極樂世界你見到了。有,念佛同修們我就遇到幾個;還有前一輩的善知識,像黃念祖老居士、李炳南老居士,或在定中、或在夢中見到極樂世界。真的,不是假的,這我們應當學習。
この部分、もう一つの世界とは天国であり、極楽世界です。あなたの技量が熟せば、あなたは極楽世界を見ます。あります。(極楽世界を見た)念仏修行者に何人かお会いしました。また一世代前の善知識、黄念祖居士、李炳南居士のような方々は、或いは定(じょう:禅定)の中で、或いは夢の中で極楽世界を見ています。本当です。偽りではありません。私たちはそれに学ぶべきです。

  今天時間到了,我們把巴哈伊的經典重要的經句學習到此地。謝謝大家。
今日は時間になりました。バハーイー教経典の重要な経文の学習はこれで終わります。皆さまありがとうございました。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 07

2020-08-11 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 07

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第七集)
2018/10/16 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0007

  諸位法師、諸位同學,大家好。這一堂我們接著前面第三十六頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。引き続き前の三十六頁を進めます。

  【上帝所派遣的一切神聖使者們,他們出現在這個世間,顯然是為了要在人類之間建立起仁愛、建立起和諧的共識……上帝的神聖宗教不是(也不應是)造成人類紛爭與分歧的原因……因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨,因為這些教誨乃是我們全體人類現狀的解救之道。】
【神が派遣された一切の神聖な使者たちは、この世間に現れると、明らかなのは人類の間に仁愛を打ち立て、調和の共通認識を打ち立てるため・・・・神の神聖な宗教は人類を紛争や分裂させる原因をつくるものではない・・・・そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない。なぜならこれらの教えは我々全人類の現状を救う道だからである。】

  這段話說得好,正是把我們當前無法解決的問題,連它的根源都拔出來了。確確實實,像經上所講的,一切宗教都是依上帝、依真神、依上主,我們說這些名詞,實際上是一個名詞,在各種不同的宗教有不同的說法。而實際,上帝只有一個,他有這麼多不同的形相、不同的名號,那是他的大慈大悲,應機說法。眾生喜歡什麼樣的人種,他就現同樣的人種;眾生喜歡什麼樣的老師,他就現什麼老師身分。恆順眾生,隨喜功德。這只有神能做到,一般人做不到。
この段は良いことを言っています。正に私たちが今解決できない問題の根源を引き出したのです。確かに経典に説かれているように、すべての宗教は神、真の神、主に基づいていますが、これらの名詞は、実際には一つの名詞なのです。様々な異なる宗教において異なる言い方があります。しかし実のところ神はただ一人であり、神には様々な形や名前があります。それは神の大慈大悲というものです。状況に応じて説法します。衆生がどのような人種を好むかによって、神はそれと同じ人種で現れます。衆生がどのような先生を好むかによって、神はそのような先生の身分で現れます。衆生に従って、嬉々として功徳を積みます。これは神だけができることで、一般人にはできません。

  他怎麼會是人類爭執的根源?不可能。人類互相競爭,與他沒關係,不能把這個加在他的身上,那是很大的罪過。所以經上講得清楚,上帝的神聖,這是指的宗教,所有宗教都是上帝建立的,所有不同的神聖都是一個上帝。大家疏忽了、忘了,沒有從這方面去認識、去理解,以為上帝很多,每個宗教都有,上帝不一樣,我喜歡這個上帝,我不喜歡那個上帝,這是不可能的。所以才說神聖的宗教,不是造成人類紛爭與分歧原因,這講不通。
神が人類の論争の根源になることがあるでしょうか?あり得ません。人類の相互の争いは、神とは無関係です。これを神の身の上に被せてはなりません。それは大きな罪です。ですから経典にも明確に説かれています。神の神聖、これは宗教を指します。あらゆる宗教は神が打ち立てたものです。あらゆる異なる神聖はすべて一つの神なのです。皆が疎かにしています。忘れています。この方面から認識し、理解しようとしません。神はたくさんいると思い、どの宗教にもあって、神は同じではないと思っています。自分はこの髪が好きで、あの神は好きではないと思っています。これはあり得ません。だからこそ神聖な宗教と言うのです。人類の紛争と分岐の原因を作るものではありません。これは話が通りません。

  『因此,當今人類必須努力去認識上帝遺留給我們的教誨』,這指的是經典。每一個宗教創始人、上帝的使者都不在人間了,留給我們的就是經典的教誨。我們讀經,是聽他們在說話;我們在學習經教,是依照神聖的教誨去學習。佛教裡面稱為修行,行代表思想、行為,思想行為錯了、偏差了,把它修正過來,叫做修行。所以修行這兩個字,是把神聖的教誨,落實在我們起心動念之處,落實在我們日常生活當中。這才是真正修正一切錯誤的行為,這叫修行。
「そのため、今人類は神が遺された教えを認識しなければならない」、これは経典を指しています。どの宗教の創始者も、神の使者はみな人間界にいなくなると、私たちのために経典の教えを遺します。私たちは読経することで、彼らの話を聞きます。私たちが経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)を学習するのは、神聖な教えに照らして学習します。仏教の中では修行と言います。「行」は思想、行為を表します。思想と行為が誤っていれば片寄りが出ます。それを修正することを修行と言います。ですから修行と言う二字は、神聖な教えを私たちの心の使い方において実行し、日常生活の中において実行します。これこそが真に一切の誤った行為を修正することであり、これを修行と言います。

  這個地方接著也說得好,『因為這些教誨』,記住,這句話指的就是,因為這些遺留在世間的經典,基督教的《新舊約》、伊斯蘭教的《古蘭經》……,是指這些。這些教誨我們要把它認清楚,『是我們全體人類現狀的解救之道』,這句話說得好,我們要記在心上。我們遇到困難了,怎麼解救?解救之道在哪裡?在這些聖賢教誨我們的經典當中。
この箇所は続けて良いことを言っています。「なぜならこれらの教えは」。覚えておいて下さい。この言葉が指すもの何でしょうか。なぜならこれらの世間に遺された経典は、キリスト教の『新約聖書』『旧約聖書』、イスラム教の『コーラン』・・・、これらを指します。これらの教えを私たちははっきりと認識しなければなりません。『我々全人類の現状を救う道だからである』、この言葉はよく言ったものです。私たちは心に留めておかなければなりません。私たちは困難に遭ったら、どのように救助するのでしょうか?救助の道はどこにあるのでしょうか?これらの聖賢の教えは経典の中にあります。

  我每天讀這些經,不是不用功,有人讀三遍、有人讀五遍,還有《無量壽經》從頭到尾念三千遍的、念五千遍的、念一萬遍的,我都見過,我對他很尊敬。他有沒有問題?有。什麼問題?自以為是。就是這裡所說的,他沒有得救,他沒有辦法解決他自己問題,總的原因,就是我們常說的,放不下!
私は毎日これらの経典を読みます。努力しない訳ではありません。ある人は三回読み、ある人は五回読みます。また『無量寿経』を最初から最後まで三千回読む人、五千回読む人、一万回読む人、私はすべて見たことがあります。私はその人を尊敬します。その人に問題はないでしょうか?あります。何の問題でしょうか?自分が正しいと思い込んでいます。正にここで説かれています。その人は救われません。その人は自分の問題を解決しようがありません。すべての原因は私がよく話している、放下(ほうげ:執著を手放すこと)できないということです!

  放不下的人,學習宗教,初級的,在宗教裡面他是初級班的學生,小學。為什麼不得其用?他沒有透徹的了解,他沒有辦法落實在他自己起心動念之處,沒有用在自己日常生活言談舉止之間,所以他不得解救之道。我們遇到了,講解給他聽,有沒有用處?沒用。為什麼沒有用?他的看法、他的想法他認為他是正確的,不能接受別人建議,這才是根源。
放下できない人は、宗教を学ぶのは初級です。宗教の中でその人は初級班の学生であり、小学です。どうして役に立たないのでしょうか?その人は透徹して理解していません。その人はその人自身の心の起こりと念の動きにおいて実行することができません。自分の日常生活で、言葉や立ち居振る舞いにおいて用いることができません。そのためその人は救いの道を得ることができません。私たちは会ったことがあります。講釈してその人に聞かせました。役に立ったでしょうか?役には立ちません。なぜ役に立たないのでしょうか?その人は自分のものの見方、考え方を正しいと考えています。他の人の提案を受け入れることができません。これこそが根源です。

  老師,會教的老師,懂得教育的方法,跟那個不懂方法的不一樣。懂得方法的,依照古人留下來的方法,要把一個人教好,要做好的榜樣給他看;也就是做樣子,做出榜樣,讓他看到,讓他豁然大悟。不容易!要做多久?什麼時候開悟了,你做這個樣子可以改變方法了。如果毛病、習氣放不下,錯誤的見解很深很厚,堅固的執著,難!
教えることのできる先生は、教育の方法を理解しています。方法を知らない人とは違います。方法を知っている人は、古人が遺した方法に照らして、一人の人をしっかりと教えます。しっかりした手本をその人に見せなければなりません。手本を示し、手本を演じてその人に見せ、その人に豁然と大悟させるのです。容易ではありません。どれくらい示すのでしょうか?いつか悟りを開いたら、この手本を示す方法を改めても良いでしょう。もし癖や習気(じっけ)を手放せないなら、誤った見解は深く厚く、堅固な執著があります。これでは難しい!

  喚醒一個人,菩薩慈悲,不捨眾生,生生世世追著他,一直追著他,到他覺悟為止;第一個階段。第一個階段圓滿了,目的達到了,第二個階段;第二個階段是幫他提升,榜樣還是離不開的。墮落很容易,跳出來可不簡單。所以稱諸佛菩薩大慈大悲,對眾生無比的恩德,只有得到經教教誨利益的人,他才知道;沒得到利益,難!
人を覚醒させるのは菩薩の慈悲であり、衆生を捨てず、生まれ変わり死に変わりその人を追いかけます。その人が覚醒するまでずっと追いかけます。これが第一段階です。第一段階が円満になり、目的が達成されます。第二段階はその人の向上を助けます。手本となる人とはやはり離れることはできません。堕落するのは容易であり、飛び越えるのは簡単ではありません。ですから諸仏菩薩は大慈大悲と言います。衆生に対して無比の恩徳があります。経教の教えのご利益を得た人だけが知っています。ご利益を得られなければ(菩薩の大慈大悲に気づくのは)難しいでしょう!

  所以佛家教導我們,學習,信、解、行、證四個字。第一個,對老師要有信心。第二個,要一門深入。這是現在人大病,學了這個法門、學了這部經典,不錯了,才學了幾遍,聽說別人告訴他,還有比這個更好的經,功德更大的,開悟最快的,他把這個放棄去學別的;幾年來大概也學了十幾部經,一竅不通。這樣的人不少,我們常見,我看到很痛心。什麼原因?不能一門深入。
仏家では、学習において信、解、行、証の四字を教えています。一つ目は先生に対する信心がなければなりません。二つ目は、一門に深く入ること。これは今の人の大きな病です。この法門を学んで、この経典を学んで、ようやく数回学んだところで、更に良い経典がある、功徳が大きく早く悟れると人から聞くと、それまでのものを放棄して別のものを学ぼうとします。数年で十数部の経を学んで、何一つちんぷんかんぷんです。このような人は少なくありません。私たちはよく見かけます。見て心を痛めています。原因は何でしょうか?一門に深く入ることができないからです。

  學別的經典可不可以?可以。什麼時候?我這部經真學通了,這部經典畢業了,我可以再選一部;畢業了,又可以選一部。不是同時,同時學兩部以上的,成就的人很難。有一等天才可以,他看到他同時學兩部、三部,他真有成就。我們不行,我們一部學多少遍還學不會,怎麼可以選擇很多部?這個道理不深,想想能想得通。
別の経典を学んでも良いのでしょうか?それは良いのです。それはいつでしょうか?この経典に本当に精通して、この経典を卒業したら、更にもう一部を選ぶのです。卒業したらまた一部を選びます。同時ではありません。同時に二部以上のものを学べば、成就するのは難しいものです。ある種の天才なら良いでしょう。その人は同時に二部、三部を学んで、本当に成就します。私たちは駄目です。私たちは一部をある程度学んでも学びきれません。多くの経を選んで良いことがあるでしょうか?この道理は深くありません。少し考えれば合点がいくことです。

  所以要記住,一門深入,一門沒有學好,不能學第二門,要專注、要扎根。怎麼扎根?經典要背誦,儒的經典要背誦,佛典也要背誦,巴哈伊教的經典還是背誦。所以你要懂方法,一部經、一個方法;能背誦了,求解;大開圓解,那就開悟了。為什麼要這樣做法?你要懂得它的道理,一接近真心,二是妄心。每個宗教神聖所說的經典,都是從一個真性或者說真心流露出來的,二心不可能。
ですから覚えておいて下さい。一門に深く入ることです。一門を学びきれないうちは、次の一門を学ぶことはできません。集中して取り組み、根を下ろさなければなりません。どのように根を下ろすのでしょうか?経典は暗唱しなければなりません。儒教の経典は暗唱です。仏典もまた暗唱しなければなりません。バハーイー教の経典もやはり暗唱です。ですから方法を理解しなければなりません。一部の経、一つの方法です。暗唱出来たら、解を求めます。円満に理解できれば、悟りを開きます。なぜこのようにするのでしょうか?その道理を理解しなければなりません。一は真心に近く、二は妄心です。どの宗教の神聖が説かれた経典もすべて一つの真性、或いは真心から流露したものです。二心ではあり得ないことです。

  真心的功德大。佛教有宗門、教下,宗門是先開悟再學經。開悟學經快!為什麼?自性、本性的般若智慧現前,一聽就明白,一看就懂。妄心沒有這個能力,跟著妄心起來的是雜念、是妄想分別執著,煩惱跟著來,智慧不見了。但是宗門難,禪宗難,必須得清淨心之後才有受用。清淨心怎麼得到?看破、放下,六根接觸六塵境界,清清楚楚、了了分明。真心對他是什麼樣子?不起心不動念、不分別不執著,有人來問,對答如流,你都能講給人聽,你有這個本事。為什麼?一切諸佛如來的經教,都是從自性流出來的,你見了自性,你流出來的跟佛沒有兩樣,是這麼個道理!
真心の功徳は大きなものです。仏教には宗門(しゅうもん:禅宗)、教下(天台、法相、賢首)があり、宗門では先に開悟してから経を選びます。開悟は教を学ぶより速いのです!なぜでしょうか?自性、本性の般若の智慧が現れれば、聞けばすぐに分かり、見ればすぐに理解できるのです。妄心にはこの能力はありません。妄心に従って起こるのは雑念であり、妄想・分別・執著です。煩悩が後から後からついてくると智慧はなくなります。しかし宗門は難しいものです。禅宗は難しい。必ず清浄心を得なければならず、その後でようやくご利益を受けます。清浄心はどのように得られるのでしょうか?心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しないことです。人が質問に来ても流れる如くに答えます。人に説いて聞かせることができます。その能力があります。なぜでしょうか?一切の諸仏如来の経教はすべて自性から流露したものだからです。あなたが自性を見極めれば、あなたに流露するのは仏と同じです。このような道理なのです!

  教下,不是頭等根機還是用妄心,頭等根機用真心。用妄心的人,就要返妄成真,在妄的上薰修,一遍一遍薰修。這部書讀一百遍、讀一千遍、讀一萬遍,這就是用時間來薰習。把不好的淘汰掉,清淨心讓它現出來。清淨心現出來就好辦了,一看懂了、一聽也就懂了,六根一接觸六塵境界,完全明白了。什麼原因?他放下了,徹底放下了。
教下は最上の根機(こんき:資質)ではなく妄心を使っています。最上の根機であれば真心を使っています。妄心を使っている人は、「妄」を翻して「真」としなければなりません。妄において薫修(くんじゅ:香の薫りが染みつくように深く修行すること)します。一回また一回と薫修します。この書物を百回読み、千回読み、一万回読み、時間をかけて薫修します。良くないものは淘汰され、清浄心が現れてきます。清浄心が出てくればやりやすくなります。一目見れば理解でき、聞いてもすぐに理解できます。六根が六塵の境界に一たび触れれば、完全に理解できます。原因は何でしょうか?その人は放下(ほうげ:執著を捨て去ること)したのです。徹底的に放下したのです。

  佛說,上帝也說,常常說:假的,世間一切法,如夢幻泡影。這個比喻《金剛經》上的,儒跟道用這個比喻的人很多。它不存在!現在人學科學,科學也證明了。整個宇宙的現象從哪裡來的?「唯心所現,唯識所變。」現相是心,變化是識;識是妄心,心現是真心;能現萬法的是真心,把萬法變成這個樣子是妄心,叫識心。沒有這兩種心,就沒有這兩種樣子,到哪裡去了?回歸自性了。好!回歸自性就成佛了。這個我們不能不懂,真正懂得,就肯放下了。
仏は説かれました。神も説かれています。よく説かれています。世間の一切は偽りであり、夢幻、泡や影のようなものであると。この譬えは『金剛経』のものです。儒教や道教でもこの譬えを用いる人は多くいます。(この世間は)存在しません!現代人は科学を学んで、科学的にも証明しています。全宇宙の現象はどこから来るのでしょうか?「唯だ心の現るる所、唯だ識の変ずる所」(唯心所現,唯識所変) 。相を現すのは心です。変化するのは識です。識は妄心です。心が現すのは真心です。万法を現すことができるのは真心です。万法をこのように変えてしまうのは妄心です。識心と言います。この二種類の心が無ければ、この二種類のことは無くなります。どこに行くのでしょうか?自性に回帰します。それで良いのです!自性に回帰すれば仏に成ります。これを私たちは理解しなくてはなりません。本当に理解すれば、放下する気になります。

  我學佛學了七十年了,七十年怎麼樣?七十年才搞懂。我跟的三個好老師,沒有好老師很難,有好老師。老師一針見血,教導我入門。我向他老人家請教,佛門裡頭有沒有方法教給我們很快就契入?我剛學佛的時候,向章嘉大師請教。大師看到我真誠,看著我,我也看著他,我們看了半個小時,老師說一個字:有。我心裡一振奮,他又不說了。原來傳授你法的時候,你心裡頭乾乾淨淨、一塵不染,給你講的全進去了,管用;如果你有雜念、你有懷疑,你還有分別執著,給你講沒用,這個耳朵進去,那耳出去了,沒效。所以老師用的方法高明,他看到學生整個心心平氣和、一心專注,就教你,就管用。這樣的學生到哪去找?找不到就沒傳人。
私は仏に学んで七十年になります。七十年どうだったでしょうか?七十年でようやく理解できました。私は三人の良い先生につきました。良い先生がいなければ難しいということです。(私には)良い先生がいました。先生はずばり核心に触れて、私を入門に導かれました。私はご老人に教えを請いました。仏門には私たちを早く境地に入らせる方法はありますか?私は仏法を学び始めた頃、章嘉大師にそう教えを請いました。大師は私の真誠を見ました。私を見ていました。私も大師を見ていました。私たちは三十分見ていました。先生はひと言「あります」と言いました。先生はまた話さなくなりました。なるほど法を授ける時、心の中がきれいで一塵の曇りもなければ、話したことがすべて入っていき、役に立つのものです。もし雑念や疑い、分別や執著があれば、あなたに説いて聞かせても役には立ちません。こちらの耳から入り、あちらの耳から出ていきます。効き目がありません。ですから先生が用いた方法は卓越しています。先生は学生の心が平静で穏やかになり、心を集中していれば、あなたに教えます。役に立ちます。このような学生はどこに探しに行けば見つかるのでしょうか?見つからなければ伝承者はいなくなります。

  所以我們要了解,理論、方法、境界面面都要顧到,希望在一生之中能有個成就;最低的成就,念佛往生極樂世界,沒有白學。極樂世界不能往生就難了,不能不重視淨宗這個法門。
ですから私たちは理解しなければなりません。理論、方法、境界(きょうがい:境地)のどの面にもすべて配慮しなければなりません。この一生での成就を願ってのことです。最低の成就は念仏して極楽世界に往生することです。無駄に学んだことにはなりません。極楽世界に往生できなければ(成就するのは)難しいでしょう。浄土宗という法門を重視しない訳にはいきません。

  今天時間到了,我們學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 06

2020-08-10 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 06

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第六集)
2018/10/15 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0006

  諸位法師、諸位同學,大家好。請看《神愛世人》這個小冊子,第二十九頁:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』この小冊子の二十九頁をご覧ください。

  【你們的上主——那位至慈的真神,祂的那顆真心,總要將全體人類都視為是一個靈魂,都視為是一個身體。】
【あなた方の主、あのこの上なく慈悲深い真の神、その御方の真心は、全人類を一つの魂として見なし、一つの体として見なしている。】

  這兩句話非常重要!六道凡夫的知見跟上主確實不一樣,今天我們要跟上主學習,就應當很認真的向他學習,把人類看成一體,而且都看為是一個身體。
この二句は非常に重要です!六道凡夫の知見は神とはまったく異なります。今日私たちは神に学んでいます。ですから真剣に神に学び、人類を一体と見なし、その上一つの体と見なさなければなりません。

  【只有當每個人的內心都願意為全體人類獻上祝福時,真正的和平與安寧才能夠實現。】
【各人の内なる心が全人類のために祝福を捧げたいと願う時にだけ、真の平和と安寧が実現するのである。】

  這句也非常非常重要,我們現前迫切需要的。要學上主,真正的和平、安寧就在這個世界實現了。
この句も非常に非常に重要です。私たちが今切迫して必要なことです。神に学べば、真の平和と安寧はこの世界で実現します。

  【上帝的人類子孫們,個個都是親兄弟。……一個人所欣求的事物,就應當為所有的兄弟們都盼求。】
【神の人類子孫たちは、どの人も皆兄弟である。・・・一人が求めるものは、すべての兄弟たちが望むものである。】

  這個話是上帝說的。每個宗教都有一個上帝,上帝只有一個;他跟佛經上所說的一樣,應以什麼身得度,他就現什麼身,應機說法,普度眾生,一個都不漏。眾生喜歡基督,就現基督身;喜歡真神,就現真神身;喜歡佛陀,現佛陀身……乃至於在中國,中國人文化悠久,上古時代,中國人最尊重的聖人,上主、上帝在中國就現聖賢,堯舜禹湯、文武周公,來教化這個地區的眾生。
この話は神が語ったものです。どの宗教も一人の神がおられます。神はただお一人だけです。これは仏経で説かれているのと同じです。どの衆生を救うかによって(その衆生にふさわしい姿で)自在に現れます。衆生を済度して、一人も漏らすことはありません。衆生がキリストを好むなら、キリストの姿で現れます。真の神を好むなら、真の神の姿で現れます。仏陀を好むなら、仏陀の姿で現れます。乃至は中国においては、中国人の文化は悠久であり、上古時代(商・周・秦・漢)中国人は聖人を最も敬いました。神、天帝は中国では聖賢として現れました。堯・舜・禹・湯、文公・武公・周公は、この地域の衆生を教化しに来たのです。

  這個概念我們在此地學到了,一切時、一切處,是真的不是假的,我們是同一棵大樹的樹葉、同一個大海的一滴海水。我們所喜歡的事情,希望人人都喜歡;我們厭惡的事情,人人都厭惡;我們所求的,就應當為所有兄弟們去祈求,而不是止於自私自利。
この概念は私たちはここで学びました。あらゆる時、あらゆる所。これは本当です。嘘ではありません。私たちは同じ一本の大樹の葉であり、同じ大海の一滴の海水なのです。私たちが好むことは、皆に好んでもらいたい。私たちが嫌うことは、皆が嫌がることです。私たちが求めることは、すべての兄弟たちが請い願うはずであり、私利私欲にとどまるものではありません。

  底下一句非常重要的話:
次の一句は非常に重要な言葉です。

  【要願意為全體人類服務,要徹底放下凡事只為自己的念頭……無論在何處,敵意與對立都只會給人類帶來黑暗;無論在哪裡,愛都必將會為我們帶來光明。】
【全人類に奉仕することを願い、およそ自分のためだけという思いを徹底して手放さなければならない。どこにいようとも、敵意と対立は人類に暗黒をもたらすだけである。どこにいようとも、愛は必ず我々に光明をもたらすであろう。】

  現在的社會混亂,地球上的居民,絕大多數,甚至於可以說是全體,都有敵意、都有對立,帶給我們社會相爭,不是相愛,彼此不能相容,給社會帶來的動亂。怎麼辦?宗教的信徒、神聖的學生,我們常常說,必須要把上帝的愛心找到。找到之後,放在自己的心上,我們代表上帝,我們讓上帝的愛心在我們身上發光;謙虛一點,不敢說教化眾生,影響大眾。我是一個真正宗教信徒,我信哪一個教,就跟哪個上帝學習,要學得像,不要求別人,要求自己;每個人都回頭,都能要求自己,效果就出來了。
今の社会は混乱しています。地球上の住民の大多数、甚だしきに至っては全体と言っても良いですが、皆が敵意を抱き、対立し、社会に争いをもたらしています。お互いに愛し合わず、お互いに相手を認め合わず、社会に動乱をもたらしています。どうすれば良いのでしょうか?宗教の信徒、神聖な学生は、私たちはよく話していますが、神の愛に気づかなければなりません。気づいた後は自分の心に留め、私たちは神の代表として、神の愛を自分の身をもって輝かせなければなりません。少し謙虚であれば、衆生を教化するとは言えません。大衆に影響を与えるのです。自分は真の宗教信徒で、信じる教えをその神に学びます。それらしく学ばなければなりません。人に要求してはなりません。自分に要求するのです。どの人も改心して、すべてを自分に要求するようになれば効果が出てきます。

  像經上所說的,敵意只會帶給人類黑暗,無論在哪裡,愛都必將會為我們帶來光明。我們要知道,敵意、看不順眼、我不喜歡,這些概念會帶來災難;小是個人,大災難像戰爭,太恐怖了!過去沒有這些科學武器,人還不能夠毀滅地球;隨著科學的進步,現在核武戰爭,人有能力毀滅地球。地球上這些苦難眾生,我們是用慈悲心去看他、對待他,還是用厭惡的態度來相對——這兩條路不能不清楚,不能沒有選擇。
経典に説かれているように、敵意は人類に暗黒をもたらすだけです。どこにいようとも、愛は必ず私たちに光明をもたらします。私たちは知っておかねばなりません。敵意、目障りに思うこと、好きでないこと、これらの概念は災難をもたらします。小さいものは個人に、大きな災難は戦争などです。恐ろしいことです!昔は科学的な武器はないので、人は地球を壊滅させることはできませんでした。科学の進歩に従って、いま核戦争が起これば、人は地球を壊滅させる力を持っています。地球にいる苦難の衆生に対して、私たちは慈悲の心で見て、接するのか。或いは嫌悪する態度で接するのか。この二つの道をはっきりさせなければなりません。選択しなければなりません。

  所以,有不少人問過我,今天世界社會混亂了,怎麼辦?關心的人愈來愈多。關心不能解決問題,要有行動,那些經典的教訓是最好的資料。
ですから多くの人が私に質問します。今日世界は混乱しています。どうしたらよいのでしょうか?関心を持つ人は増えています。関心は問題を解決しません。行動が無ければなりません。それらの経典の教訓は最高の資料です。

  【不要對任何人強加我們自己所不願意承擔的負荷;要做到己所不欲,勿施於人;這是我對你們最完善的勸誡,願你們都遵守。】
【如何なる人にも我々自身が引き受けることを望まない負担を無理強いしてはならない。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」を実行しなければならない。これは私のあなた方に対する最高の忠告と戒めである。あなた方が遵守すること願う。】

  這個經文裡頭有一段話,用的是中國成語翻譯的,『己所不欲,勿施於人』。我們自己不願意的,絕不加之於人,這就是恩德,這就是神聖的學生、是上帝的兒女。幫助上帝教化眾生,幫助眾生回頭,向上帝學習,這就對了。經上用的字好:『這是我對你們最完善的勸誡,願你們都遵守。』
この経文の一節は、中国の慣用句を用いて翻訳した「己の欲せざる所を、人に施すことなかれ」です。自分自身が望まないことは、絶対に人にしてはなりません。これこそが恩徳です。これこそが神聖な学生であり、神の子です。神が衆生を教化するのを助け、衆生が改心するのを助け、神に学ぶ。これで良いのです。経文の言葉は良いものです。「これは私のあなた方に対する最高の忠告と戒めです。あなた方が遵守することを願う。」

  下面一段:
次の一節です。

  【藉由你的仁慈,你讓我抵達了您那神聖的地境。並允許我安住在那信仰的情誼之殿,直到我在那裡看見了關於您的慈悲的明晰徵相,觀察到了關於您無礙一體的種種明證,體會到了您莊嚴之體的光輝壯麗、您那圓融不二的根源,以及您那統治萬有的超然境界。】
【あなたの仁慈により、あなたは私をあなたの神聖な場所に到達させました。そしてあの信仰の友情の宮殿に安住することをお許しになりました。そこで私があなたの慈悲の明確な徴相を見るまで、無碍一体の様々な確証を見定めるまで、そしてあなたの荘厳な本体の輝き、あなたの円融不二の根源、そしてあなたの統治する万有の超然たる領域を体得するまで。】

  每一個宗教,仁慈的上主,都是這樣教導我,這樣的盼望著。效果從哪裡產生?從我們產生,我們要認真努力讀這些經文。第一,用經文來治自己的毛病,用經典的經文認真的學習,務必把經典的這些經文放在心上、放在日常生活裡,待人接物、起心動念、言談舉止,能夠跟上主的教誨相應就對了。
 どの宗教でも仁慈の神はこのように教え導き、このように待ち望んでいます。効果はどこから生じるのでしょうか?私たちから生じます。私たちは真剣にこれらの経文を読まなければなりません。第一に、経文を用いて自分の欠点を治します。経典の経文を用いて真剣に学びます。経典の経文を必ず心の中に置き、日常生活の中に置かなければなりません。人と接するにも、心を動かすにも、言葉や立ち居振る舞いについても、神の教えにかなっていれば良いのです。

  中國古人,做學問要求信、解、行、證四個字,順序。第一個,對老師信任、對父母信任、對長輩信任。這些人生我、養我、教導我,我們做學生的,要以至誠恭敬的心來對待。唯有誠敬才能建立信心,才能接受經文、經典的教訓。
中国の古人は学問をするのに「信、解、行、証」の四字を要求しました。順序です。第一は先生に対する信頼、父母に対する信頼、年長者に対する信頼です。これらの人は自分を生み、自分を育て、自分を教え導きます。私たち学生は、至誠恭敬(きょうけい:つつしみ、うやまうこと)に心で接しなければなりません。誠敬(せいけい:真心をもって敬うこと)があってこそ信心を打ち立てることができ、経文と経典の教訓を受け入れることができます。

  古人說得好,一分誠敬得一分利益,十分誠敬你得十分利益。這本經書擺在我們面前,《上帝愛世人》,我們在這個小冊子裡,看到所有宗教的上帝,或者叫所有宗教的上主,都可以,他們對我們是什麼樣的期望,我們要能體會到;然後你才見到真神的大慈大悲大愛,見到了、體會到了、相信了。
古人は良いことを言っています。一分(いちぶ)誠敬は一分のご利益を得、十分(じゅうぶ)の誠敬は十分のご利益を得る。この経書は私たちの目の前に置かれています。『神は世人を愛す』、私たちはこの小冊子の中にあらゆる宗教の神、或いはあらゆる宗教の主を見ることができます。彼らは私たちに何を待ち望んでいるのか、私たちは体得できなければなりません。その後あなたはようやく真の神の大慈大悲を見ることができます。見て、体得して、信じるのです。

  經典所說的,多多的讀誦,讀得熟,熟透了,在日常生活當中,處事待人接物、起心動念,與經文相不相應。古人講,「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」,這兩句話重要!我們能學多少,能跟古聖先賢讀聖賢書,有沒有做到聖賢,完全在看你有多少分的恭敬。所以,從哪裡下手?從誠敬,真誠恭敬下手。我有一分真誠恭敬,只得到一分,有兩分,那你只得到兩分,真的,不是假的。
経典に説かれているものは、何度も読み、熟読し、透徹して熟知して、人間関係や心の働きが経文と相応しているかどうか。古人の言う「一分(いちぶ)誠敬は一分のご利益を得、十分(じゅうぶ)の誠敬は十分のご利益を得る」というこの二句は重要です!私たちがどのくらい学ぶことができるのか、古聖先賢の書を読んで、聖賢になれるのかどうかは、完全にあなたにどのくらい恭敬があるのかにかかっています。ですから、どこから着手すれば良いでしょうか?誠敬、真誠・恭敬から着手することです。自分に一分の真誠・恭敬があれば、一分だけ(ご利益を)得ます。二分あれば二分だけ得るのです。本当です。嘘ではありません。

  中國五千年的文化,上面可以推到黃帝,堯舜禹湯就有文字、文獻流傳到後世了,不是假的。老祖宗世世代代一直承傳下來,一代傳給一代,到我們這一代發生問題了。我上一代,問題有了,還不是很嚴重;到我這一代,問題就很嚴重了。我們常常想,還是必須向經典學習,人變了,經典沒變。再過個十年、二十年,我們擔心的事情可能爆發,經典出問題了。現在人註經,給經做註解,不是古人的意思,是他自己的意思,這問題重了!這樣以後文獻、經典就不可靠了,這多可怕的事情!
中国五千年の文化は、先は黄帝にまで遡り、堯・舜・禹・湯の頃には文字、文献があり後世に伝えられました。嘘ではありません。ご先祖様が代々ずっと伝承して下さり、一代一代と伝えて、私たちの代になって問題が生じました。私の一世代上は問題はありましたが、まださほど深刻ではありませんでした。私の世代になると問題はとても深刻になりました。私たちは常に思っています。やはり経典を学習すべきです。人は変わりますが、経典は変わりません。更に十年、二十年と過ぎれば、私たちが心配していることが起こるかもしれません。経典に問題が生じます。現代人が経の註釈をし、註解をするのは、古人の意味ではありません。その人自身の意味なのです。この問題は深刻です!このようでは今後文献、経典は頼りにならなくなります。これは恐ろしいことです!

  所以我們希求,真神要派使者到人間、要派先知到世間,當老師,來教化人民,這是我們懇求的。希望夢想成真,希望我們年輕底下一代認真努力學習經典;讓經典不至於失傳,還是一代傳下一代去;這個功德第一大,這個貢獻第一大。還有什麼好事能在它之上的?找不到了。所以,「為往聖繼絕學,為萬世開太平」,這是世間頭等功德,我們要認真、要努力,其他的都是假的,都不是主要的。
ですから私たちは願っています。真の神が人間界に使者を遣わして、先覚者を世間に遣わして、先生となって人々を教化しなければなりません。これは私たちが切に願うところです。夢が真になることを願います。私たちの次の世代が真剣に努力して経典を学ぶことを願います。経典の伝承を途絶えさせてはなりません。やはり一代また一代と伝えなければなりません。この功徳は一番に大きなものです。この貢献は一番に大きなものです。まだこれ以上何か良いことがあるでしょうか?見つかりません。ですから「往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」(昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く)、これが世間の第一等の功徳であり、私たちは真剣に、努力しなければなりません。その他のことはすべて偽りであり、主要なことではありません。

  所以我們真正希望像此地所說的,經典上說的:
ですから私たちは本当にここで経典に説かれていることを願っています。

  【那宛若大海的神聖連體,如果您是這一體,汪洋城市中的居民的話,那麼您就會認識到,真神所派遣的所有先知與使者們,他們全體就是一個靈魂,就是一個身體,是同一道光明,是同一個精神;您會認識到,那位最初出現的使者,並不異於最後到來的那位,最後的那位也就是最初的那位。】
【その大海の神聖な繋がりとよく似ている。もしあなたが一体で、広大な都市の住民であるなら、真の神が派遣するあらゆる先覚者や使者たちは、彼ら全体が一つの魂であり、正に一つの体であり、同じ光明であり、同じ精神であることを、あなたは認識するだろう。最初に現れた使者は、最後に来た使者と異なるところはなく、最後の使者もまた最初の使者なのである。】

  我們能理解,不難懂,諸佛菩薩、眾神的使者常常來到世間。起不起作用?不起作用。為什麼?世間人對他不尊重,沒有恭敬心。那我們就曉得了,今天我們迫切需要的,教育。什麼教育?兒童教育,小學教育。我們把中國五千年來的小學,私塾裡面的教科書,一共有二十多種,印成一套。小孩從兩歲開始教,教到五、六歲,倫理道德根扎下去了,根深蒂固,那才叫真正人才。我們趕緊幹,不能不幹。
私たちは理解できます。難しくはありません。諸仏菩薩、神々の使者は頻繁に世間にやって来ます。影響を及ぼすでしょうか?影響はありません。なぜでしょうか?世間の人はその人を尊重しません。恭敬の心をもちません。それなら私たちは理解できます。今日私たちに最も切迫して必要なことは、教育です。何の教育でしょうか?児童教育、「小学」の教育です。中国五千年来の「小学」、私塾の教科書、合わせて二十種類以上あるものを一つにまとめて印刷しました。子どもは二歳から教え始めます。五、六歳まで教えれば、倫理道徳は根をおろします。根が深く張れば、それが真の人材というものです。私たちはすぐにでもやります。やらない訳にはいきません。

  中學六年,學四書五經、學十三經,這個漢學才能發揚光大,普度眾生。大學六年,教科書一部,唐太宗所編輯的《群書治要》。這部書的內容是什麼?古聖先賢教訓太多了,幾萬冊的圖書,在這個裡面選,精挑細選,選了六十多種。把有關於修身、齊家、治國、平天下,這四樁事情需要的智慧、需要的知識、需要的教誨,都在《群書治要》裡面,讀這一部書夠了。
中学は六年です。四書五経を学び、十三経を学びます。これで漢学は大いに発揚することができ、衆生を救うことができます。大学は六年です。教科書は唐の太宗(たいそう:李世民)が編纂した『群書治要』です。この書物の内容は何でしょうか?古聖先賢の教訓はたくさんあります。数万冊の図書から精選して、六十種余りを選びました。修身、斉家、治国、平天下に関する、必要な智慧、必要な知識、必要な教えがすべて『群書治要』の中にあります。この書物を読めば事足ります。

  今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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常に両親と先生を安心させる

2020-08-10 | 聴師父説
 
時時刻刻讓父母老師放心 / 常に両親と先生を安心させる
台南極樂寺會客談話 2019/12/27 台灣台南極樂寺 檔名:32-264-0022

  小孩你自己不管做什麼事情,都要向父母報告,讓父母都要知道你現在在哪裡、你在做什麼,這是應該的。父母擔心,你不知道,你不牽掛父母,父母牽掛你。所以東方人,父母對兒女的愛護是永恆的。從生到死,一切時、一切處,父母都要知道兒女在哪裡、在幹什麼。中國人對老師跟對父母一樣,老師愛學生,時時刻刻掛念在心。
子どもはどのような事であろうと両親に話します。両親に自分がどこにいるのか、何をしているのかを知らせなければなりません。それは当然のことです。両親が心配します。子どもは知りません。子どもが両親を気に掛けなくても、両親が子どもを気に掛けています。ですから東洋人は、両親の子どもに対する愛護は永久不変です。生まれてから死ぬまで、あらゆる時、あらゆる場所で、両親は子どもがどこで何をしているかを知ろうとします。中国人は先生に対しても両親と同じです。先生は学生を可愛がり、常に気に掛けています。

  中國人講關心,關係的關,關心就是牽掛、掛念。念念沒有忘記,天天都想到,這就是愛。要關愛,關心、愛護他,他現在在做什麼。所以做兒女的、做學生的,每一天行為要報告老師,以免老師掛念;我今天一天過得很好,讀書、念佛沒有缺課。
中国人は関心を重んじます。関係の関です。関心とは気に掛けることです。いつも心に置いて忘れません。毎日気に掛けています。これこそが愛です。その人は今何をしているのかを思いやり、関心を持ち、愛護します。ですから子どもや学生は、「私は今日良い一日を過ごしました。書物を読み、念仏も欠席していません」と毎日の行動を報告して、先生に心配をかけないようにします。
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子どもをしっかり教えれば、世界は平和になる

2020-08-10 | 聴師父説

教好孩子 天下太平 / 子どもをしっかり教えれば、世界は平和になる
聽師父說有聲書 203
法國巴黎會客談話—教好孩子 天下太平(第五十五集)2019/10/6
法國巴黎精舍 檔名:32-298-0055

  世界為什麼這麼亂?想錯了!誰想錯了?孩子想錯了。孩子不曉得孝順父母,怨恨父母,天下就大亂了。為什麼?都說別人的爸爸會賺錢,他的爸爸比不上人家會賺錢,怨恨他。不孝父母、不敬老師,這就是危機。如果你有能力能夠讓大家安定下來,懂得孝順父母、孝敬老師,這就是福報。為什麼?這是安定社會。安定社會的人是修大福報的人,你能教大家都得福報、都得安穩,這個功德很大。換句話說,決定不能夠挑動紛爭,找別人麻煩。
世界はなぜこれほど乱れているのでしょうか?思い違いをしているからです!誰が思い違いをしているのでしょうか?子どもが思い違いをしています。子どもが両親を大切にすることを知らず、両親を恨んでいれば、世界は大きく乱れます。なぜでしょうか?他人の父親は稼ぎが良い、自分の父親はよその父親より稼ぎが悪いと言って親を恨みます。親不孝で、先生を敬いません。これこそが危機です。もしあなたに皆を安定させる力があるなら、両親を大切にし、先生を敬うことを理解しているはずです。これこそが福報です。なぜでしょうか?これは社会を安定させるからです。社会を安定させる人は大きな福報を修める人です。あなたは皆が福報を得、安定を得ることを教えることができます。この功徳は大きなものです。言い換えれば、紛争を起こしたり、人に迷惑をかけることは絶対にできません。

  學佛,像我這樣的年齡,早就應該走了。有一點點機會,勸勸大家,修這麼一點點小福報。讓世界能夠得到安定、和平,這大福報!怎麼個做法?《聖學根之根》,這個東西能救社會,勸人安定。心安,一切都安了;心不安,在那裡動晃的,製造很多糾紛,那個不是修福,那是造業。
仏に学んで、私のような年齢であれば、ずっと前に逝っていてもおかしくありません。少しばかり機会があり、皆さんにお勧めして、少しばかり福報を修めました。世界に安定と平和をもたらすこと、これは大きな福報です!どうすれば良いのでしょうか?『聖学根之根』、この書物は社会を救い、人に安定を勧めます。心が安定すれば、すべてが安定します。心が不安定で揺れ動いていれば、多くの紛糾を作り出します。それは福を修めることはなく、業を作ることです。

  古時候社會亂了,人家問我怎麼辦?回家教小孩,社會就安定。你要問老祖宗怎麼辦,老祖宗會教你,你回家去把孩子教好。妙極了!人家一說頭昏了,找不到頭,怎麼辦?教小孩。「建國君民,教學為先」,你抓到這一句,你就能治國平天下。建國君民,教學為先,人人、家家都把孩子教好了,社會就安定了,天下就太平。不知道問題出在哪裡,問題出在小孩不懂教育。你說重不重要?到小孩問題出來了,動亂的現象出來了,怎麼辦?要自己跟孩子合作,就看到太平現象。
昔は社会が乱れたらどうしていたのか、人は私に質問します。家に帰って子どもを教えれば、社会は安定します。あなたがご先祖様にどうすれば良いかと質問すれば、ご先祖様は「家に帰って子どもをきちんと教えなさい」と教えるでしょう。絶妙この上ありません!人は迷走して問題の根源が見つかりません。どうすれば良いのでしょう?子どもを教えることです。「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」。この一句にたどり着けば、国を治め天下を平らかにすることができます。「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」、どの人も、どの家でも子どもをしっかり教えていれば、社会は安定し、世界は平和になります。(しかし多くの人は)問題がどこから生じているのかを知りません。問題は子どもの教育に対する無知から生じています。あなたは重要だと思うでしょうか?子どもに問題が生じて来て、動乱の現象が出てきたら、どうすれば良いのでしょうか?自分が子どもに協力することで、平和の現象を見ることができるでしょう。
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仏説大乗無量寿荘厳清浄平等覚経(浄空老法師)

2020-07-04 | 仏教経典

淨空老法師讀誦 佛說大乘無量壽莊嚴清淨平等覺經
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