浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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『神は世人を愛す』を学ぶ 12

2021-12-20 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 12

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十二集)

※翻訳文は後日掲載します。
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お礼

2021-08-10 | 参考資料
F様
ご指摘ありがとうございます。
仕事が忙しく更新が滞っておりますが、ご指摘いただいた個所をよく検討していきたいと思います。お気づきの点があればまた宜しくお願いします!ありがとうございました!

管理人
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『神は世人を愛す』を学ぶ 11

2021-07-15 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 11

學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十一集)
2018/10/20  聯合國教科文組織淨空之友社  檔名:21-786-0011

  諸位法師、諸位同學,請坐。請看《神愛世人》這個小冊子第四十六頁,前面講到這個地方,四十六頁。前面說到一句很重要的經文,我們回顧一下,在四十六面:
法師各位、学生の皆さま、お座りください。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。前回ここまでを講じました。四十六頁です。前回とても重要な経文についてお話ししました。振り返ってみましょう。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。】

  佛給我們講的話都是事實真相,我們迷了,一無所知;佛菩薩覺悟了,什麼都知道,所以稱為一切智。自然智,不必學的,這就是自然的。為什麼?自性本來如是,我們講自覺。換句話說,真心就是這樣的,真心充滿了智慧,一切智、自然智、無礙智,沒有障礙的智慧,統統有。怎麼沒有了,完全失掉了,丟得乾乾淨淨,什麼原因?佛給我們說出來了,妄想、分別、執著障礙了。如果我們能把這些煩惱放下、障礙放下,我們自性裡面的般若智慧,跟諸佛如來沒有兩樣,跟觀音、勢至也沒有兩樣。
仏陀が説かれた話はすべて事実の真相です。私たちは迷い、何一つ知りません。仏菩薩は悟り、何でも知っています。ですから一切智と言います。自然智とは、学ぶ必要がないものです。これは正に自然なのです。なぜでしょうか?自性は本来そのようなものであり、私たちは自覚(自ずから覚る)と言います。言い換えれば、真心とは正にこのようなものです。真心は智慧に満ちています。一切智、自然智、無礙智、障礙のない智慧が、すべてあるのです。どうして無くなったのでしょうか?完全にきれいさっぱり失った原因は何でしょうか?仏陀は私たちに説いてくださいました。妄想、分別、執著が障礙になっているのです。もし私たちがそれらの煩悩を放下し、障礙を放下できれば、私たちの自性の中の般若の智慧は、諸仏如来と何も変わりません。観音菩薩や勢至菩薩と何も変わりません。

  學佛學了幾十年,還不止,還要接上前輩、再前輩,過去無始,生生世世學佛,往生極樂世界都沒有拿到,什麼原因?六根接觸六塵境界起心動念,錯了。眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味、身體的覺觸,六根接觸到六塵境界就起心動念,這是用一句話總說;要分開來說,眼在見色的時候起心動念,耳在聞聲的時候起心動念……起心動念就迷了。
仏に学んで数十年、それだけにとどまりません。前世、そのまた前世と続いて、過去に始まりがなく、生まれ変わり死に変わり仏に学んで、極楽世界に往生することさえかないません。何が原因でしょうか?六根【注1】が六塵【注2】に触れて心を起こし念を動かす、これが間違いです。眼で色(しき:物質)を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で接触して、六根が六塵の境界(きょうがい)に触れると、すぐに心を起こし念を動かします。これがひと言で言う総括です。分けて言うなら、眼で色を見た時に心を起こし念を動かし、耳で声を聞いた時に心を起こし念を動かし・・・・心を起こし念を動かせば迷います。
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【注1】六根(ろっこん)・・・眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のこと。
【注2】六塵(ろくじん)・・・色・声・香・味・触・法の六つの境界のこと。
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  佛菩薩比我們高明在哪裡?就是高明在他眼見色,看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念;耳聞聲、鼻嗅香,無不如是,都能做到不起心不動念、不分別不執著,所以他的一切智現前。一切智從哪裡來的?自性本來具足的,一點都不稀奇。一切諸佛如來具足,一切菩薩摩訶薩具足,一切眾生具足,我們個個人都具足,你要相信;你不相信,你學佛是白學了。
仏菩薩が私たちより優れているのはどこでしょうか?それは正に、眼で色を見て、はっきりと明瞭に見えていて、起心動念がありません。耳で声を聴き、鼻で香りを嗅ぎ、――それに及ぶものはありません――すべて心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。ですから彼の一切智は現前します。一切智はどこから来るのでしょうか?自性に本来具足(ぐそく:十分に備わっていること)しているものです。少しも奇妙なことではありません。一切の諸仏如来は具足しています。一切の菩薩摩訶薩は具足しています。一切衆生は具足しています。私たちはどの人も具足しています。あなたは信じなければなりません。信じないなら、仏に学んでも無駄です。

  相信怎麼辦?我們還是會起心動念,起心動念在我們已經養成習慣了,不是這一世,過去世中就已經養成習慣,生生世世、無量劫來,這個妄想、雜念根深蒂固,把我們降到六道眾生。人天還稍微好一點,還有一點善業,其他的四惡道(一般講三惡道,修羅我也把它說成惡道),時間久了,回不了頭,沒有福報。什麼叫沒有福報?沒有機會接觸到佛法;有機會接觸到佛法是他的福報大。
信じてどうするのでしょうか?私たちはそれでも起心動念します。起心動念することがすでに習慣になっています。この一世だけでなく、過去世の中でも習慣になっていました。生まれ変わり死に変わり、無量劫(むりょうごう:限りなく長い時間)において、この妄想、雑念が深く根を張って、私たちを六道の衆生に落としているのです。人天はまだ良いほうです。まだ少しの善業があります。その他の四悪道(一般的には三悪道と言いますが、私は修羅道も悪道としています)、長い時間を経て、改心できなくなり、福報がありません。福報がないとはどういうことでしょうか?仏法に触れる機会がないということです。仏法に触れる機会があるのは、その人の福報が大きいからなのです。

  今天得人身,在這個世間,很難得。接觸到佛法,他就能相信,他不懷疑,他很尊重,他能理解,這個難得,接著再修。修的裡面最重要的是什麼?放下;解門裡頭最重要的是看破。淨宗歷代不少大德,出家在家,主修,淨土五經一論;助修,很多人都用《金剛經》、《心經》,它不太長,很適合初學,不但適合初學,老修也適合。這個經教我們什麼?教我們看破、放下。看破跟我們講「凡所有相,皆是虛妄」、「一切有為法,如夢幻泡影」,這是真的,不是假的,與科學家所說的完全相同。既然是假的、既然是虛妄的,就不應該起心動念。
今日人身を得て、この世間にいるのは得難いことです。仏法に触れ、その人は信じることができ、疑いません。その人は(仏法を)尊重し、理解することができます。これは得難いことです。(過去世から)引き続き修めるのです。修めることの中で最も重要なことは何でしょうか?放下することです。解門の中で最も重要なのは(この世の真相を)看破することです。浄土宗の歴代の多くの大徳は、出家も在家も、浄土五経一論を専攻していました。補助として多くの人は『金剛経』、『心経』を用いました。それはあまり長くないので初学者に適しています。初学者に適しているだけでなく、長年修めた人にも適しています。この経は私たちに何を教えてくれるのでしょうか?看破、放下です。看破は「凡(およ)そ相(そう)有る所,皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」、「一切(いっさい)有為(うい)の法、夢・幻・泡・影の如し」と説かれています。これは本当です。偽りではありません。科学者が言うことと完全に同じです。(この世のすべてが)偽りであり虚妄であるからには、心を起こし念を動かすべきではありません。

  所以,你的過失錯在哪裡?錯在六根接觸六塵境界,一接觸就起心動念,麻煩在此地。你要問這是什麼原因?我可以老實告訴你,無始劫以來的習氣所造成的。現在怎麼辦?現在這一生遇到佛法,搞清楚、搞明白了,功夫,功夫深淺、功夫大小,完全在你能夠看破多少、放下多少,這是真功夫。徹底放下,就能往生,臨命終時,一句佛號,求阿彌陀佛來接引,承如來的威德,接引往生極樂世界。多!不少,我這一生見到的就十幾個。我很感恩,他來做榜樣給我看,在我面前表演,讓我深信不疑,我們感恩戴德。
ですからあなたの間違いはどこにあるのでしょうか?間違いは六根が六塵の境界にひとたび触れると、心を起こし念を動かすことです。面倒なのはここなのです。あなたはこれは何が原因なのかと質問するでしょうか?私は真面目に答えます。これは無始劫以来の習気(じっけ)によって作られたものです。今どうすれば良いのでしょうか?今この一生で仏法と出会い、はっきりと理解しました。技量の深浅、技量の大小は、完全にどれだけ看破できるか、どれだけ放下できるかにあります。これが本当の技量です。徹底して放下すれば往生することができます。臨終の時、一句の仏号で阿弥陀仏がお迎えに来て、如来の威徳を受けて、極楽世界に往生することを求めます。たくさんいます!少なくありません。私はこの一生で十数人見ています。私は感謝しています。その人たちはお手本を見せてくれたのです。私の目の前で演じて下さり、私に信じて疑わせません。有り難いことです。

  所以《大方廣佛華嚴經》這一段,我們要常常記在心裡,句句是真話,沒有一個眾生不具有如來智慧。記住,他沒有說「沒有一個人」不具足如來智慧,他說眾生,眾生包括了所有的生物。畜生是不是眾生?是的;野外樹上、草上那些小爬蟲是不是眾生?是眾生。牠也具足如來智慧嗎?是,你可別輕視牠。所以,要愛護眾生,說不定牠成佛在我之前,很難說。畜生道裡頭有沒有佛菩薩?有,應以什麼身得度,佛菩薩就現什麼身。所以佛菩薩現餓鬼身、現畜生,大的現牛馬這些大畜生,小的,蚊蟲螞蟻,今天我們講的生物。眾生就是現在名字叫生物,統統具有如來智慧,我們要把牠看作什麼?看作如來、看作佛、看作菩薩,不能輕慢,培養我們謙卑的、禮讓的心態。對蚊蟲螞蟻都恭敬,何況對一切眾生,何況對於人類,何況對一切宗教的神聖,真誠恭敬心就生得起來。否則的話,對一切眾生來講,生起恭敬很難,對人都不容易生起,何況對一切生物,都沒有看在眼裡,這是我們的過失。
ですから『大方廣佛華厳経』のこの一段は、私たちは常に心に留めておかなければなりません。どの言葉も真実であり、いかなる衆生も如来の智慧を具えていないことはありません。覚えておいてください。彼は「いかなる人も」如来の智慧を具足していないことはないとは言っていません。彼は衆生と言っています。衆生とはあらゆる生物を含みます。畜生も衆生でしょうか?そうです。野外の樹木や草の上にいる爬虫類も衆生でしょうか?衆生です。彼らも如来の智慧を具足しているのでしょうか?そうです。あなたは彼らを軽視してはなりません。ですから衆生を愛護しなければなりません。彼らは自分より先に仏に成るかもしれません、何とも言えません。畜生道には仏菩薩がいるでしょうか?います。どの衆生を救うかによって、仏菩薩はその衆生にふさわしい姿で現れます。仏菩薩は餓鬼身、畜生として現れます。大きいものは牛馬などの大きな畜生、小さいものは蚊・虫・蟻などです。今日私たちは生物と言います。衆生とは今でいう生物です。すべて如来の智慧を具えています。私たちは彼らをどう見たらよいでしょうか?如来として、仏として、菩薩として見ます。侮ってはなりません。謙遜し、礼儀を厚くして譲る心を養うことです。蚊・虫・蟻に対して敬うのですから、ましてや一切衆生、ましてや人類に対して、一切の宗教の神聖なものに対して、真誠(しんせい)恭敬(きょうけい)の心を起こすのは尚更のことです。そうでなければ一切衆生を敬う気持ちを持つことは難しく、人を敬うことさえ容易ではありません。ましてや一切の生物など眼中にもありません。これが私たちの誤りです。

  怎麼會變成這個樣子?記住,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、執著而不能證得。這一句經文把它念熟,早晨起來念幾遍,晚上睡覺之前念幾遍,提醒自己:我今天有沒有妄想?有沒有分別執著?有,趕快丟掉;沒有,很好、很難得,繼續精進。自作還要自度,靠別人是不行的,要靠自己,一切時一切處,要把自己的虛妄顛倒妄想分別執著統統放下。
なぜこのように変わってしまったのでしょうか?覚えておいて下さい。自分の虚妄(きょもう:事実でないこと)であり顛倒(てんどう:道理にそむく考え)した妄想・分別・執著によって証得(しょうとく:真理を悟ること)できないのです。この一句の経文をよく読んで、朝起きたら数回読み、夜寝る前に数回読んで、自分に注意喚起します。自分は今日妄想したでしょうか?分別や執著はあったでしょうか?あるなら、すぐに捨て去ります。ないなら、それで良いでしょう。得難いことです。引き続き精進します。自分で取り組み、自分を救わなければなりません。人に頼っては駄目です。自分に頼ります。いつでも、どこでも、自分の虚妄・顛倒した妄想・分別・執著をすべて放下しなければなりません。

  我們把下面這個文念一遍就懂了。「當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時,他們便會完整地獲得那圓滿智慧的真實受用;而這種眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,無礙智現前,「這也是一切眾生真心本具、不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一切智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染」,這種智慧乃是本自清淨無染的,就是前面所說的一切智。這三種智慧成就了。
私たちは以下の文を一度読めば理解できます。「衆生が自分の妄念・煩悩を徹底して放下した時、彼らは完全な形で円満なる智慧の真実のご利益を獲得する。しかもこの種の衆生が本来具えている円満なる智慧は、正に宇宙万法に徹底して通達した無礙(むげ:妨げのないこと)の智慧である」。無礙智が現前します。「これも一切衆生の真心に内在し、外から得られない真実の智慧である」。これを自然智と言います。「この種の智慧は、正に如来大覚者の智慧である。ここにおける一切の智慧の中で、覚者たちが究極的に認識するに至った自己の真心は、正に本来自ずから清浄で穢れがありません」。この種の智慧は本来自ずから清浄で穢れがないもので、正に先に話した一切智です。この三種類の智慧が成就します。

  一切智、無礙智、自然智是自己本有的,並沒有丟掉,是我們被起心動念、妄想執著障礙住。怎麼辦?修行。行是行為,起心動念、言語造作叫做行,錯了、出了問題了,把它修正過來,叫修行。用什麼修?放下、看破。看破是理明白了,智慧現前;智慧現前還不夠,必須要徹底放下,放下是事上的修行,真修行;就那麼簡單的兩句話,看得破、放得下。
一切智、無礙智、自然智は自分がもともと具えているもので、失った訳ではありません。私たちの起心動念、妄想・執著に障碍を受けているのです。どうすれば良いのでしょうか?修行です。行(ぎょう)とは行為です。起心動念、言葉や行為を行というなら間違いです。問題が出てきます。それを修正するのが修行なのです。何を用いて修めるのでしょうか?放下、看破です。看破は道理が明らかになることで、智慧が現前します。智慧が現前するだけでは足りません。必ず徹底して放下しなければなりません。放下とは実際の修行、真の修行です。正にとても簡単な二句の言葉、「看破することができれば、放下することができる」です。

  我是這兩句話,二十六歲的時候,章嘉大師教給我的。我的看破是從方東美先生那裡得來的,放下是從章嘉大師這得來的。起了一點作用,這六十年來講經教學,接觸不少的朋友,各個階層,社會各階層的人都有,跟他們往來的時候,我所談的,他們所提問的都能解答。我沒讀那麼多書,能夠解答,還沒解錯,這是什麼?一切智、自然智、無礙智自然現前。
私のこの二句の言葉は、二十六歳の時に、章嘉大師が教えてくださったものです。私の看破は方東美先生から得たものです。放下は章嘉大師から得たものです。少しばかり役に立ち、この六十年来講経・教学をして、多くの友人と接しました。様々な階層、社会の様々な階層の人がいました。彼らと交流する時、私が話したことに対する彼らの質問にはすべて答えることができました。私はそれほど多くの書物を読んでいませんが、答えることができて、解釈を間違えていません。これは何でしょうか?一切智、自然智、無礙智が自然に現前したのです。

  好,今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりました。学習はここまでとします。
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『神は世人を愛す』を学ぶ 10

2021-06-20 | 『神は世人を愛す』を学ぶ
Learning of God Loves All Beings 10
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十集)
2018/10/19 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0010

  諸位法師、諸位同修,大家好。請看《神愛世人》第四十六頁,我們把文念一遍:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。文を一度読みます。

  【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】

  這段經文把佛教圓圓滿滿的為我們講出來。佛教是宗教,為什麼是宗教?中國「宗教」兩個字,它給我們所表的這種教育,是人類。範圍再擴大一點,它包括了六道、十法界,在六道十法界裡面,它是主要的教育、重要的教育、尊崇的教育。宗教兩個字可以包括佛教,佛教確確實實符合。這段經文,《華嚴經》上的,跟給我們把這樁事情講明白了、講清楚了。
この経文は仏教を円満に語っています。仏教は宗教です。なぜ宗教なのでしょうか?中国の「宗教」の二字が表すのはそのような教育です。人類の教育です。範囲を更に拡大すれば、それは六道、十法界を含みます。六道、十法界の中で、それは主要な教育、重要な教育、尊崇な教育です。宗教の二字は仏教を包括します。仏教は間違いなく適合します。この経文は『華厳経』のものです。この事を明白に、はっきりと説いています。

  第一句說明『無一眾生不具有如來智慧』。一切眾生跟如來關係是什麼?是一體。所以如來對於虛空法界、過去未來無所不知、無所不曉,他都曉得,這是如來的智慧,圓滿的智慧。過去現在未來,此界、他方,此界他方講空間,過去未來講時間。無量無邊際的空間,這裡面無論是什麼事、是什麼理,道理,佛都知道。
第一句は「一衆生として如来の智慧を具有せざるは無し」を説明しています。一切衆生と如来とはどのような関係でしょうか?一体です。ですから如来は虚空法界、過去未来において知らないことは無く、暁(さと)らないことはありません。彼はすべて理解しています。これは如来の智慧、円満の智慧です。過去現在未来。この世界、あの世界。この世界あの世界とは空間のことです。過去未来とは時間のことです。無量無辺の空間、この中にどのような事、どのような理があろうと仏はすべて知っています。

  佛家稱「如來」,本來的意思,今佛如古佛之再來,所以稱作如來,今佛跟古佛是一不是二。這些有一些經教裡頭沒有,經教裡頭共同有的就是「神愛世人」。我們今天需要這一句,希望每位宗教的傳人、宗教的信徒、宗教的傳教師,都有正確的認識,今佛如古佛之再來。今佛的智慧跟古佛的智慧是一不是二,究竟圓滿的大智慧,佛法講開悟,明心見性、大徹大悟就成佛了。這是真的,不是假的。
仏家では「如来」と言いますが、本来の意味は「今仏は古仏の再来の如し」です。それで如来と言うのです。今仏と古仏とは一であり二ではありません。これらはある経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)にはありません。経教の中に共通してあるものは「神は世人を愛す」です。私たちは今日この言葉が必要です。どの宗教の伝承者、宗教の信徒、宗教の布教者も正しく理解することを願います。今仏は古仏の再来の如し。今仏の智慧と古仏の智慧は一であり二ではありません。究極円満の大いなる智慧です。仏法は悟りを説きます。明心見性、大徹大悟すれば仏に成ります。これは本当です。偽りではありません。

  我們現在跟佛比,佛有圓滿智慧,我們有圓滿的顛倒。這什麼原因?是因為我們有妄想,妄想讓我們顛倒了,執著讓我們不能證得。現在學了佛,佛教我們什麼?佛教給我們的,把妄想、顛倒放下,就行了。
私たちは今、仏と比べると、仏には円満な智慧がありますが、私たちは円満に顛倒(てんとう:逆行すること)しています。これは何が原因なのでしょうか?私たちには妄想があります。妄想は私たちを顛倒させます。執著は私たちを証得させません。今は仏に学んでいます。仏は私たちに何を教えるのでしょうか?仏が私たちに教えるものは、妄想・顛倒を放下することです。それで良いのです。

  所以早年間我向大師,章嘉大師請教,佛法裡面有沒有最簡單、最容易,讓我們也能夠很快契入境界,像佛陀一樣?老師告訴我兩句話:「看得破,放得下。」看得破不容易,放得下也不容易,這是關鍵。
ですから昔私は大師に質問しました。章嘉大師に教えを請いました。仏法の中には最も簡単に、最も容易に私たちを早く境界(きょうがい:境地)に入らせ、仏陀と同じようになることはできますか?大師は私に「看破することができれば、放下することができる(看得破,放得下)」と仰いました。看破するのは容易ではなく、放下するのも容易ではありません。これが鍵です。

  放下看破難!為什麼放不下?我們對於一切事物都起心動念、都想佔有,包括壽命,希望長壽,希望有大福報、有大財富,過著人間天上的生活。哪一個眾生不想這個?所以迷了。每一個眾生都有如來德相,現在我們跟如來走的是兩條路,他是圓滿大覺,生活在圓滿智慧當中;我們是妄想、分別、執著,對於境界,無論是現前、過去、未來,全迷失了!無論對人、對事、對萬物,完全迷失了,還以為自己是對的,以為自己的妄想分別執著是對的。將來壽命到了,墮落到三途,才知道錯了,後悔來不及了。
放下、看破は難しいものです!なぜ放下できないのでしょうか?私たちは一切の事物に心を起こし念を動かし、占有したいと思います。寿命も含めてです。長寿を願い、大きな福報があり多くの財産があることを願い、人間界天上界の生活を送ることを願います。どの衆生がこれらを望まないでしょうか?だから迷うのです。どの衆生も如来の徳相を具えています、今の私たちと如来が進むのとは別々の道です。如来は円満に覚っています。生活は円満な智慧の中にあります。私たちは妄想、分別、執著です。境界に対して現前、過去、未来のどれに関わらず、すべて見失っています!人に対しても、物事に対しても、万物に対しても、完全に見失っています。まだ自分が正しいと思い込んでいます。自分の妄想・分別・執著は正しいと思っています。将来寿命が来て、三途に堕落してみて、はじめて間違いを知ります。後悔しても遅いのです。

  我們的如來智慧迷了多久?過去,過去還有過去,生生世世都是迷惑顛倒,不是今天才迷。愈迷愈深,愈迷愈嚴重,這一生不開悟,來生迷得比這一生要加倍,前途一片黑暗,怎麼辦?佛給我們講真話,真話很難相信、很難接受;如果騙我們,我們反而容易接受,還認為是對的。
私たちの如来の智慧はどのくらいの期間迷っているのでしょうか?過去には更に過去があり、生まれ変わり死に変わり迷惑顛倒しています。今日になって迷い始めたのではありません。迷えば迷うほど深くなり、迷えば迷うほど深刻になっていき、この一生では悟りを開けません。来世の迷いはこの一生より倍増します。前途は一片の暗黒です。どうすれば良いのでしょうか?仏は私たちに真実の話をされました。真実の話は信じ難く、受け入れ難いものです。もし私たちを騙しているなら、私たちはかえって受け入れやすく、また正しいと思うものです。

  這一段,佛教給我們怎麼樣回歸自性,怎麼樣把跟如來一樣的智慧找回來;找回來就是要學佛,這是大事!本來有,不是本來沒有,這個要相信。你要能真相信,得到很大的鼓勵,我有機會成佛,跟釋迦如來一樣。釋迦講經四十九年,今天我們看到的佛教學的教材經典《大藏經》,分量那麼大,古時候用紙印出來字都很大,一套《大藏經》要一棟樓房去裝它才能容納得下。人一生能不能讀得完?能讀得完,學不到,它內容太豐富了,像一個完整的大學,什麼科系都有。於是我們知道,我們遇到難關,在大乘經典裡面,就像《群書治要》一樣,找到答案,知道怎麼樣應付。
この一段は、仏が私たちにどのように自性に回帰するのか、どのように如来と同じ智慧を取り戻すのかを教えています。取り戻すには仏に学ばなければなりません。これは大きな事です!もともとあるのです。もともとないのではありません。これを信じなければなりません。あなたがもし本当に信じるなら、大きな励ましを得ます。仏に成る機会があります。釈迦如来と同じようにです。釈迦牟尼仏は四十九年講経しました。今日私たちは仏教学の教材経典『大蔵経』を見ることができます。分量はあれほど多いのです。昔は紙を使って印刷したので字が大きく、『大蔵経』ひとセットは一棟の建物であればやっと収めることができるほどです。人は一生で読み終わることができるでしょうか?読み終わるとしても、学べません。その内容があまりにも豊富だからです。ちょうど総合大学がどの学科もすべてあるようなものです。そこで私たちは理解します。私たちは困難に直面した時、大乗経典の中に、ちょうど『群書治要』と同じように、答えを探し当てます。どのように対処すれば良いかが分かります。

  我們有『一切智』,無所不知,『無礙智』,沒有障礙。你講經教學,聽眾很多,有許許多多問題提出來問你,你有無礙智,你都能夠講明白、講清楚,讓這些人覺悟。『自然智』,自然智是不需要學習的,一問,本來也沒有想到,這一問問出來了,自自然然就解答了。阿羅漢、菩薩、佛陀他們都有,都有這種智慧。
私たちには『一切智』があります。知らないことはありません。『無礙智』があり、障礙(しょうがい)はありません。あなたが講経・教学して、聴衆が多くいれば様々な質問をされます。あなたには無礙智があり、明瞭にはっきりと語り、それらの人を悟らせます。『自然智』。自然智は学ぶ必要がありません。問われると、もともと思いもよらないのに、問われることによって、極々自然に答えることができます。阿羅漢、菩薩、仏陀にはすべてこのような智慧があります。

  是不是老師教的?不是;老師教你個原則,就像此地一樣,告訴你,你的智慧現在不能現前,是什麼原因,是你有妄想分別執著。所以像佛那樣圓滿的智慧,你本有的,失掉了。你現在必須重學,學的怎麼樣?學的是錯誤的,不是智慧,知識;知識解決問題有限,智慧解決問題是無限的。所以我們要牢記住,我們丟掉的,是妄想顛倒執著而不能證得;如果我們能夠離開妄想,一切智、自然智、無礙智則得現前,智慧就現前了。
老師が教えたのでしょうか?違います。老師はあなたに原則を教えます。ちょうどここでしているように。あなたに言います。あなたの智慧が現前しない原因は何でしょうか。それはあなたに妄想・分別・執著があるからです。ですから仏のような円満な智慧をあなたは本来具えていて、失ったのです。あなたは今再び学ばなければなりません。学んでどうでしょうか?学んだものは間違っています。智慧ではなく知識だったのです。知識では問題を解決するのに限界があります。智慧で問題を解決するのに限界はありません。ですから私たちはしっかりと覚えておかねばなりません。私たちが失ったのもの、妄想・分別・執著のために証得できないのです。もし私たちが妄想を離れることができれば、一切智、自然智、無礙智がすぐに現前し、智慧が現前します。

  下面有白話解釋,我們把它念一遍,「究竟圓滿的智慧是每一個眾生本來就具有的」,一定要承認,我跟佛沒有兩樣;「但是,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、以及執著等煩惱所障礙與纏縛,所以,一切眾生雖然本自具足究竟圓滿的如來智慧,但卻對其不覺不知,不能得其受用。」佛陀、菩薩、阿羅漢應用得很自在,我們望塵莫及。
次に口語の解釈があります。それを読んでみましょう。「究極円満の智慧はどの衆生も本来具えているものです」。必ず認めなければなりません。自分は仏と何も変わりません。「しかし自分の虚妄顛倒たる妄想、分別、そして執著等の煩悩により障礙となり縛られています。ですから一切衆生は本来究極円満の如来の智慧を具えていますが、それを覚らず知らず、それを活用することができません」。仏陀、菩薩、阿羅漢は自在に応用できます。私たちは足元にも及びません。

  所以下面我們就要記住,修行修這個,「然而,當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時」,這話是真話,一點都不錯,徹底放下時,「他們」,他們就是講的這些智慧,一切智、自然智、無礙智,無量無邊的智慧,你就完整的獲得,那是圓滿智慧的真實受用。佛法是完全講平等,佛所有的我們都有。
ですから次のことを覚えておかなければなりません。修行はこれを修めるのです。「しかし衆生が自分の妄念・煩悩を徹底的に放下した時」。この話は本当です。少しの誤りもありません。徹底的に放下する時、「彼ら」、彼らとはこれらの智慧のことです。一切智、自然智、無碍智、無量無辺の智慧をあなたは完全な形で獲得します。それが円満なる智慧の真実のご利益です。仏法は完全に平等を講じています。仏にあるものは私たちにすべてあるのです。

  智慧怎麼能得到?我在這裡再補充一點,告訴大家。睜開眼睛我們要不要看?看到些什麼?看了以後起了什麼作用?起了妄想;起了妄想,佛法裡面叫做起心,這是妄心,不是真心。起心動念就把我們的真心變成了妄心,本來知道的、完全了解的真實智慧,這一起心動念,智慧就變成了煩惱習氣。煩惱是什麼?分別、執著,麻煩就是此地。你有沒有聽懂?你要真聽懂了,我問你,什麼叫修行?你答不出來,或者你答錯了,這是自然的現象,不足以奇怪。起心動念、分別執著起來了,全迷了。應該要跟佛學習,學習什麼?不起心、不動念。眼睛睜著,看到一切山河大地、樹木花草,沒有起心動念,對了,你這個就是如來知見。要一直保下去,念念都保下去,不能是一閃讓它過去了,不能起心動念,又起心動念了。
智慧はどのように得られるのでしょうか?私はここでもう一度補足して皆さんにお話しします。目を見開いて私たちは見たいのでしょうか?何が見えるのでしょうか?見た後でどのような作用が起こるのでしょうか?妄想が起こります。妄想が起こることを仏法では「起心」(心を起こすこと)と言います。これは妄心であり、真心ではありません。起心動念(心を起こし念を動かすこと)で私たちの真心は妄心に変わります。本来知っている、完全に理解している真実の智慧は、一たび起心動念すれば智慧が煩悩の習気(じっけ)に変わります。煩悩とは何でしょうか?分別、執著、面倒なのはここです。あなたは聞いて理解できるでしょうか?あなたが本当に聞いて理解できるなら、私があなたに「修行とは何か」と問えば、あなたは答えられないか或いは答えを誤るでしょう。これは自然な現象です。怪しむほどのことではありません。起心動念、分別、執著が起これば、すべて迷いなのです。仏に学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか?心を起こさず、念を動かさないことです。目を見開いて、一切の山河大地、樹木や草花を見て、起心動念を起こさない。それで良いのです。それこそが如来の知見です。ずっと維持し続けなければなりません。絶えず保ち続けます。それをさっとやり過ごすことができず、起心動念してはいけないのに、また起心動念してしまいます。

  修行,在見色,一切眼所見到的,你要問問,釋迦如來他是怎麼對應的?他是看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念。菩薩呢?菩薩比佛差一等,有起心動念,沒有分別執著。所以他起心動念是有限制的,一剎那之間,馬上掉過頭來不分別不執著,他守住這一點。我們凡夫,起心動念之後,馬上分別執著就現前,愈陷愈深;菩薩陷進去一點點,他就明白了,他就跳出來。我們不但起心動念、分別執著,執著來了,跟著的貪瞋痴慢疑全出來了,愈迷愈深。這是凡夫,你怎麼迷的。
修行は(例えば)色(しき:物質)を見ます。一切の目で見えるところのものを見ます。あなたは釈迦如来はどのように対処していたのかと質問するでしょうか。彼ははっきりと見えていて、心を起こさず念を動かしません。菩薩はどうでしょうか?菩薩は仏より少し劣ります。心を起こし念を動かしますが、分別と執著はありません。ですから菩薩の起心動念には制限があります。刹那の間に転じて分別せず執著しません。菩薩はこの一点を守ります。私たち凡夫は、起心動念した後、すぐに分別と執著が現前します。ますます深く陥ります。菩薩は少しばかり陥ると、彼はすぐに理解してすぐに飛び出します。私たちは起心動念するばかりか、分別・執著します。執著すれば貪瞋痴慢疑(貪り・怒り・無知・傲慢・真理に対する疑い)がすべて出てきます。ますます深く迷います。これが凡夫です。あなたはなぜ迷っているのでしょうか。

  佛是怎麼成的?他就是覺。為什麼?自性清淨心裡面,講照見,沒有說起心動念見;他沒起心動念,像鏡子照外面,他就是能照,照得很清楚,他就不起心不動念。我們要學這個本事,學這個本事的人沒煩惱。煩惱從哪裡來的?從妄想分別執著來。他沒有妄想、他沒有分別、他沒有執著,用真心不用妄心,這就對了。
仏はなぜ成就したのでしょうか?仏は覚りました。自性・清浄心の中に、照見を重んじました。心を起こし念を動かして見るとは言っていません。仏に起心動念はありません。鏡が外界を映すように、仏は映すことができます。はっきりと映して、心を起こさず念を動かしません。私たちはこの技量を学ばなければなりません。この技量を学んだ者に煩悩はありません。煩悩はどこから来るのでしょうか?妄想・分別・執著から来るのです。仏には妄想が無く、分別が無く、執著がありません。真心を用いて妄心を用いません。これで良いのです。

  這段文,第四十七面還有一大片,講到究竟圓滿的智慧,是每一個眾生本來就具有的。「眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,叫無礙智。下面跟著起來的,一切智、自然智統統能現前。「這也是一切眾生真心本具,不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染的」,返妄歸真。
この文章は四十九頁にまだたくさん続きます。究極円満の智慧を講じています。どの衆生にももともと具わっているものです。「衆生がもともと具えている円満なる智慧、つまり宇宙万法に徹底して通達する無礙の智慧」のことを、無礙智と言います。その次に続いて起こる一切智・自然智はすべて現前します。「これは一切衆生の真心が本来具えているものでもあり、外から得られない真実の智慧」、これを自然智と言います。「この種の智慧は、如来大覚者の智慧である。ここでの一つの智慧の中で、覚者たちは自己の真心はもともと清浄にして穢れのないことを究極的に認識します」。妄を転じて真に帰ります。

  所以修行人搞錯了,什麼叫真修行?看破、放下叫真修行。看破就是統統明白了、明瞭了,眼見色不迷,不起心不動念,耳聞聲不迷、鼻嗅香不迷、舌嘗味不迷,六根對六塵境界完全沒有迷失;就是說你用六根對六塵境界,沒有起心動念、沒有分別執著,樣樣清楚、樣樣明瞭,這就對了,這真會修。
ですから修行者は思い違いをしています。何を修行と言うのでしょうか?看破、放下を真の修行と言います。看破とはすべて明らかに、明瞭になることです。目で色を見て迷わず、心を起こさず念を動かさず、耳で音を聞いて迷わず、鼻で香りを嗅いで迷わず、舌で味わって迷わず、六根は六塵の境界(きょうがい)に対して完全に迷うことがありません。つまりあなたは六根を用いて六塵の境界に接しても、起心動念は無く、分別・執著は無く、すべてが明瞭です。これで良いのです。これなら真に修めることができています。

  總的來說,宗門常說的,總的來講,修行是六根對六塵境界不起心不動念而已。起心動念有幅度的,佛是圓滿證得,菩薩是多分證得,阿羅漢是少分證得。證得叫真心,沒有證得不能說真心。
総じて言えば、宗門がよく説いているように、修行は六根が六塵の境界に触れて心を起こさず念を動かさないことに尽きます。起心動念には幅があります。仏は円満に証得しています。菩薩は多く証得しています。阿羅漢は少しだけ証得しています。証得は真心と言います。証得していなければ真心と言うことはできません。

  好,今天我們就學習到此地。學會了真管用,進步很快。好,謝謝大家。
今日の学習はここまでにします。学んで身につければ本当に役に立ちます。進歩も早いでしょう。皆さまありがとうございました。
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西行忌

2021-03-27 | 参考資料
栞して山家集あり西行忌
高濱虚子


高濱虚子の俳句です。
西行忌は旧暦2月15日、新暦の今日(3月27日)がその忌日だそうです。
西行法師のお名前は「西(西方極楽浄土)に行く」と書くのですね。
管理人
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仏教とは仏陀の教育である ~台南 極楽寺の教育現場~

2021-03-17 | 参考資料
佛教是什麼?弘法六十年的淨空老法師,對佛教的詮釋顛覆你想像!

修身を本と為し、教学を先と為す。(修身為本,教学為先)
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成德法師 - 談淨空老法師九十四歲住世的目的

2021-03-14 | 参考資料
 

談淨空老法師九十四歲住世的目的
成德法師 (蔡禮旭老師)
地點 : 馬六甲精舍
時間 : 2020年1月29日
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悟道法師 - 老亦苦痛 開示節錄 (談淨空老法師 表什麼法?)

2021-03-14 | 参考資料
 
悟道法師 - 老亦苦痛 開示節錄 (談淨空老法師 表什麼法?)

時間 : 2020年11月27日
地點 : 三重淨宗學會
節錄自 無量壽經選講—三十三品至三十七品 (第13集) 老亦苦痛

  「老亦苦痛」,人老了也很苦、痛,這裡痛那裡痛,眼睛花了,牙齒掉了,體力衰了。如果老,老而不衰,身體好,身體健康,那老就沒有問題。如果老,老本身就有老苦,再加上有病,那就更苦。「病極苦痛」,我們生病的時候很痛苦,不管什麼病都是苦,大病大苦,小病小苦。

  最近我們淨老和尚,今年二月他老人家就跟大家講,他要往生了,召集大家到佛堂跟他一起念佛。後來台南極樂寺他們這些同修,祈請老和尚長久住世,老和尚也同意了,再留下來,今年九十四歲了。二月那個時候我接到電話,台南那邊打電話給我說,老和尚說要往生,我趕快下去,我到了台南,他們說我們把老和尚留下來了,現在不往生了,繼續住在世間。現在又九個多月了,現在他老人家體力衰了,腳就沒有力量。所以去年在法國巴黎,晚上起來上廁所跌了一次,那個時候我不知道,我是六月中老和尚緊急把我叫過去巴黎,到了那邊聽他們講才知道。原來是晚上有一個人值班照顧老和尚,後來就變兩個人了。回到台南這一段時間,最近晚上起來上廁所又跌倒一次,跌倒腿骨裂開,送到嘉義大林慈濟醫院去治療,而且又有一點肺發炎。所以昨天上午我去看,現在回到極樂寺,極樂寺也是有一個醫療團隊,他們有一些同修學醫、護理的。所以我去看老和尚,他是表法給我們看,表什麼法?老苦、病苦。不就表這個法嗎?老很苦、病也很苦,是表這個法給我們看。表這個法,就是我們要覺悟,看了,我們如果不覺悟,那就白表了。所以表這個法,就是我們看了要警覺到生老病死苦,這一生遇到淨土法門要求解脫,不要再輪迴了。老和尚表這個法,大慈大悲給我們看,提醒我們,我們每一個人都會遇到的。所以人,我們如果看到這樣,實在講,前面經文我們也讀到,佛給我們講「世人共爭不急之務」,世間人共同在爭那個,不急就是不重要的事情。什麼是不急、不重要?世間這些名利。爭那個,佛說那個不急,你好不容易六道輪迴生到人道來,你還不趕快想求解脫,還在爭那個,就迷惑顛倒;還造惡業,那就更迷惑了。都是勸我們要覺悟的,趕快信願念佛求生淨土,這一生往生到淨土就一了百了了,就永遠不再受這些苦了。

  人老而不衰,長壽就沒有問題。長壽,他身體不衰,像韓西友(韓老)他不衰,現在九十八了,他比老和尚還要老,每一天五點多就來這裡開門,他一個人,他也不用人陪,他自己坐公車來,頭腦還清楚得很,像他那樣就沒問題。如果你老了有病,吃也不能吃,走也不能走,實在講,我們修淨土法門,不如去極樂世界換一個蓮花化身,那是無量壽,永遠沒有生老病死。在這個世間,縱然你身體再好,你不求生極樂世界,你還是會死。縱然你生到天上壽命長,時間還是會到,這個怎麼跟極樂世界相比?極樂世界是無量壽,不能相提並論。所以老和尚表演老苦、病苦給我們看。我自己也老了,所以這個老苦、病苦我也是嘗了不少,眼睛花了,牙齒掉了,都掉光光了,體力也不如年輕了。所以我們看到這些現象,都是佛在說法,說什麼法?苦、空、無常、無我,說這些法。苦、空、無常、無我,我們都不能控制,這個身體我們不能控制,你不要它老,它偏要老;不要它病,它偏要病;不要它死,它偏會死,你有什麼辦法?這就是無我。極樂世界是常樂我淨,所以佛勸我們念佛求生淨土,就是這個道理。「生老病死均極苦痛」,世間只有苦,沒有快樂。大家如果進醫院去看,現在醫院生意可好了,人滿為患。你看醫院那些病人,重症的病人,各式各樣的病,人間煉獄,你就可以想像到三惡道是什麼樣的苦。所以我們還是要理性的來看待這個事情。

  我們淨老和尚這樣的表演,也是在給我們出考試卷,平常你們聽經到底聽得怎麼樣?他就示現老苦、病苦給我們看。我看大概通過考試的,好像可能一二個、二三個,其他大概統統不太及格。老和尚講這個淨土經典,特別晚年都講淨土經典,不是一天到晚勸我們信願念佛、求生淨土嗎?結果老和尚一病,大家都勸他不要去淨土,長久住世,你就不要去,不是這個意思嗎?老和尚二月要往生,大家把他留下來,留下來,他老人家就表演給我們看,好,你把我留下來,我就表演這個給你們看。表演到現在,大家還是不覺悟,還是師父趕快好起來,長久住世。身體很好,長久住世,當然沒問題;如果身體不好,吃也不能吃,走也不能走,你說長久住世不也是折騰、折磨嗎?所以也沒有一個人敢勸老和尚,師父,不然你就先去西方極樂世界。如果哪一個人這樣講,就會變成大家指責的對象,你要師父趕快死。大家想一想,到底誰對?有沒有違背老和尚平常的教導?實在講,好像是為老和尚好,其實都是違背老和尚平常的教導,遇到這個節骨眼,一考試,有沒有及格就看出來了。但這個話也不能講,講了,人家就跟你講一個情緒話了。所以我去,現在我們有兩個出家眾,女眾悟性師跟悟勤師,她們從澳洲回來,發心照顧老和尚。悟性師很細心,她照顧白天的,女眾照顧白天,晚上是男眾。二月的時候,他們晚上找不到人照顧,我就請莊行師、莊霖師兩個去支援。莊行師他也老了,他七十二歲,大我兩歲,他身體也不是很好,常常在按原始點,因為老了。霖師比較年輕,四十幾歲。他照顧了兩個月,他就瘻管發炎,發燒。侍者組長,鄒居士,他是負責照顧老和尚的,他說你再撐一撐。後來霖師跟他講,他說再撐下去,恐怕你要多照顧我一個。後來就我大哥的大兒子從香港回來,隔離十四天,去支援照顧。後來我大哥的第二個兒子,他發心說要去照顧,他去換霖師回來。我說好!你去,要聽班長的話。他們去照顧大概半年了,也不容易,照顧半年,去支援,去照顧。所以悟性師,在醫院我也跟她講,我說人總是有生老病死,我們一定要去面對的。她聽到我這樣講,她就哭了,難道師父這麼快就要走了嗎?她就哭了。我說這個也沒辦法,每一個人都要經歷過,佛陀都要示現般涅槃,何況我們凡夫!

  所以人老的時候,什麼最重要?念佛往生淨土最重要,沒有比這個更重要的。最好念到像海賢老和尚這樣最好,人家說要幫他助念,他說不用,人家給我助念不可靠,我自己念就可以了。所以他往生前一天晚上還在菜園挖地,挖到很晚,人家勸他,師父,這麼晚了,你就不要做了,太辛苦了。他說好了好了,這些做完就不做了。第二天大概凌晨三點他就走了,早上人家看師父沒有出來吃飯,去請師父出來吃飯,一進去看他躺在床上,衣服穿得整整齊齊,旁邊衣服也摺得整整齊齊,他走了。一大早,大家都在睡覺還沒起來,安安靜靜,走了。這個是最理想的,也不會給人家吵。如果跟人家說要往生,這個哭、那個哭,那就很麻煩了。所以鍋漏匠,也是什麼時候走,大家也不知道。當然這個是最好,但這個要有功夫,所以諦閑老法師的徒弟鍋漏匠,他念佛往生,站三天。諦閑老法師他這個徒弟是不認識字的,只會念一句南無阿彌陀佛。師父教他念累了就休息,休息好再念,他念佛往生,站了三天。他的師父諦閑老法師是天台宗祖師,一代講經大法師,講經講到口出蓮花,你看那個講經講得有多感應,誰能跟他比?但是諦老他往生的時候,不如他那個不認識字的徒弟鍋漏匠,諦老往生的時候也是病苦。他們是修天台宗的,他臨終也是示現病苦,他的徒弟說,師父,你平常不是都教我們空假中三觀嗎?天台宗修三止三觀,觀空、觀假、觀中,觀一切法是空的、是假的、是中道。他徒弟就跟他講,師父你是祖師,你都教我們止觀,現在你生病,把那個病觀空,不就沒病了嗎?諦老說,觀是假的,病是真的。

  倓虛老法師,我們大家有看過一本《影塵回憶錄》,倓老是跟諦老學講經的,他是東北人,他也是活到九十幾歲。講經,常常給人家講,鍋漏匠那個故事也是他講的,鄭錫賓居士自在往生也是他講的。還有修無法師,去哈爾濱,那個出家人他也是大老粗,就是要去做護法,倓老去那邊主持傳戒,他發心去做義工,結果第二天就跟倓老說他要告假。倓老修行比較好,修養好,沒有怪他。當家師,定西法師就責備他,你這個發心,第二天就要走,戒都還沒有開始,你就要走,你這個發什麼心?他說我不是回家,我是回極樂世界老家。大家一聽,那不一樣。他就要求給他弄一個地方讓他往生,結果第三天,就坐在那裡坐化了。這個都是倓老講故事,講經的時候講給大家聽的。倓老晚年是在香港往生的,八十九歲。在香港有主持過一次佛七,有錄音帶,他那個東北口音很難聽得懂,我們請東北的同修聽,老和尚他也聽,後來把它打成文字稿。

   倓老他是學中醫的,以前還沒有出家在東北開中藥鋪,他懂得醫道,臨終的時候也是病苦。他的徒弟說,師父,你平常講怎麼站著往生、坐著往生,師父你現在大概要躺著往生了,你爬不起來了。倓老說,我還是可以坐著往生,你們把我扶起來。所以扶起來坐著,就往生了。都是講經大法師,修天台宗的,那個功夫都很了得的。你看諦老去讚歎他那個鍋漏匠徒弟,他說講經大法師、天下主持大道場的方丈,那些都不能跟你比。真的一點都不假,他的師父都輸他。大家從這個地方,講經是信解,念佛是行,信願行,可見得他念這句佛號的功德。所以有人就去請問印光祖師,諦老講經講得這麼好,講到口出蓮花,那種感應,但臨終好像瑞相不是很稀有。這問的是比較含蓄,臨終還是示現有病痛。印光祖師就說,他就是講的比較多,用在念佛就比較少,所以不如他那個徒弟。如果明白這個道理,大概什麼都不要了,你就好好抓住這句佛號,那真的是第一大善,念佛是第一大善。但是可惜大家就是不知道,所以這些祖師大德都示現給我們看,我們從這個地方要覺悟。現在我們老和尚也示現這樣給我們看,我們現在這個時代,講經說法誰能跟老和尚比?連他的老師講的都他少,所以我們老和尚一生講經,那個講記我們現在在整理。講經是信解,行還是你要加強念佛,所以夏老居士講「搶救一句是一句」。這句話很有含義的,我們聽起來,怎麼叫搶救?你搶救一句是一句,可見得一句都不要讓它空過,要搶救。大概看到我們都不認真念佛,所以說要搶救。如果像海賢老和尚,「片刻不丟失」,時時刻刻不忘記念佛,那個沒問題。所以念佛還是很重要。講經、聽經幫助我們信解,幫助我們斷除疑惑。信解行證,信解之後,你行才能夠去證,證就是往生。所以佛菩薩、祖師大德,有示現自在往生的,有示現病苦的,統統是在啟發我們,啟發我們要覺悟,知道世間苦。
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【資料】渋沢栄一『論語と算盤』

2021-02-11 | 参考資料
【論語と算盤①】〜中田敦彦史上No.1書籍!〜
2019/10/25

【論語と算盤②】〜成功に必要なのは常識と習慣〜
2019/10/26

【論語と算盤③】〜何を志し誰のためにどう生きるか?〜
2019/10/27

管理人曰
渋沢栄一の著書『論語と算盤』。
『論語』は「道徳」、算盤は「経済」。道徳を重んじつつ、同時に経済利益を追求することは可能なのか。大河ドラマの渋沢栄一を通して、中国の古代哲学が見直されるかどうか。漢学の道徳観・人生観・世界観を学んだ人が果たした社会貢献は計り知れない。
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中田敦彦が語る「ヴィーガン」生活

2021-01-11 | 参考資料
【ヴィーガン①】世界中のセレブやスポーツ選手が注目している完全菜食主義(Vegan)

【ヴィーガン②】日本人は元々ベジタリアンだった(Vegan)

中田が1日1食のヴィーガン生活を始めた理由は?
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