Learning of God Loves All Beings 10
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十集)
2018/10/19 聯合國教科文組織淨空之友社 檔名:21-786-0010
諸位法師、諸位同修,大家好。請看《神愛世人》第四十六頁,我們把文念一遍:
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。『神は世人を愛す』の四十六頁をご覧ください。文を一度読みます。
【無一眾生而不具有如來智慧,但以妄想顛倒執著而不證得。若離妄想,一切智、自然智、無礙智,則得現前。】
【一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以て証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智は、則ち現前するを得る。】
這段經文把佛教圓圓滿滿的為我們講出來。佛教是宗教,為什麼是宗教?中國「宗教」兩個字,它給我們所表的這種教育,是人類。範圍再擴大一點,它包括了六道、十法界,在六道十法界裡面,它是主要的教育、重要的教育、尊崇的教育。宗教兩個字可以包括佛教,佛教確確實實符合。這段經文,《華嚴經》上的,跟給我們把這樁事情講明白了、講清楚了。
この経文は仏教を円満に語っています。仏教は宗教です。なぜ宗教なのでしょうか?中国の「宗教」の二字が表すのはそのような教育です。人類の教育です。範囲を更に拡大すれば、それは六道、十法界を含みます。六道、十法界の中で、それは主要な教育、重要な教育、尊崇な教育です。宗教の二字は仏教を包括します。仏教は間違いなく適合します。この経文は『華厳経』のものです。この事を明白に、はっきりと説いています。
第一句說明『無一眾生不具有如來智慧』。一切眾生跟如來關係是什麼?是一體。所以如來對於虛空法界、過去未來無所不知、無所不曉,他都曉得,這是如來的智慧,圓滿的智慧。過去現在未來,此界、他方,此界他方講空間,過去未來講時間。無量無邊際的空間,這裡面無論是什麼事、是什麼理,道理,佛都知道。
第一句は「一衆生として如来の智慧を具有せざるは無し」を説明しています。一切衆生と如来とはどのような関係でしょうか?一体です。ですから如来は虚空法界、過去未来において知らないことは無く、暁(さと)らないことはありません。彼はすべて理解しています。これは如来の智慧、円満の智慧です。過去現在未来。この世界、あの世界。この世界あの世界とは空間のことです。過去未来とは時間のことです。無量無辺の空間、この中にどのような事、どのような理があろうと仏はすべて知っています。
佛家稱「如來」,本來的意思,今佛如古佛之再來,所以稱作如來,今佛跟古佛是一不是二。這些有一些經教裡頭沒有,經教裡頭共同有的就是「神愛世人」。我們今天需要這一句,希望每位宗教的傳人、宗教的信徒、宗教的傳教師,都有正確的認識,今佛如古佛之再來。今佛的智慧跟古佛的智慧是一不是二,究竟圓滿的大智慧,佛法講開悟,明心見性、大徹大悟就成佛了。這是真的,不是假的。
仏家では「如来」と言いますが、本来の意味は「今仏は古仏の再来の如し」です。それで如来と言うのです。今仏と古仏とは一であり二ではありません。これらはある経教(きょうぎょう:経文に説かれている教え)にはありません。経教の中に共通してあるものは「神は世人を愛す」です。私たちは今日この言葉が必要です。どの宗教の伝承者、宗教の信徒、宗教の布教者も正しく理解することを願います。今仏は古仏の再来の如し。今仏の智慧と古仏の智慧は一であり二ではありません。究極円満の大いなる智慧です。仏法は悟りを説きます。明心見性、大徹大悟すれば仏に成ります。これは本当です。偽りではありません。
我們現在跟佛比,佛有圓滿智慧,我們有圓滿的顛倒。這什麼原因?是因為我們有妄想,妄想讓我們顛倒了,執著讓我們不能證得。現在學了佛,佛教我們什麼?佛教給我們的,把妄想、顛倒放下,就行了。
私たちは今、仏と比べると、仏には円満な智慧がありますが、私たちは円満に顛倒(てんとう:逆行すること)しています。これは何が原因なのでしょうか?私たちには妄想があります。妄想は私たちを顛倒させます。執著は私たちを証得させません。今は仏に学んでいます。仏は私たちに何を教えるのでしょうか?仏が私たちに教えるものは、妄想・顛倒を放下することです。それで良いのです。
所以早年間我向大師,章嘉大師請教,佛法裡面有沒有最簡單、最容易,讓我們也能夠很快契入境界,像佛陀一樣?老師告訴我兩句話:「看得破,放得下。」看得破不容易,放得下也不容易,這是關鍵。
ですから昔私は大師に質問しました。章嘉大師に教えを請いました。仏法の中には最も簡単に、最も容易に私たちを早く境界(きょうがい:境地)に入らせ、仏陀と同じようになることはできますか?大師は私に「看破することができれば、放下することができる(看得破,放得下)」と仰いました。看破するのは容易ではなく、放下するのも容易ではありません。これが鍵です。
放下看破難!為什麼放不下?我們對於一切事物都起心動念、都想佔有,包括壽命,希望長壽,希望有大福報、有大財富,過著人間天上的生活。哪一個眾生不想這個?所以迷了。每一個眾生都有如來德相,現在我們跟如來走的是兩條路,他是圓滿大覺,生活在圓滿智慧當中;我們是妄想、分別、執著,對於境界,無論是現前、過去、未來,全迷失了!無論對人、對事、對萬物,完全迷失了,還以為自己是對的,以為自己的妄想分別執著是對的。將來壽命到了,墮落到三途,才知道錯了,後悔來不及了。
放下、看破は難しいものです!なぜ放下できないのでしょうか?私たちは一切の事物に心を起こし念を動かし、占有したいと思います。寿命も含めてです。長寿を願い、大きな福報があり多くの財産があることを願い、人間界天上界の生活を送ることを願います。どの衆生がこれらを望まないでしょうか?だから迷うのです。どの衆生も如来の徳相を具えています、今の私たちと如来が進むのとは別々の道です。如来は円満に覚っています。生活は円満な智慧の中にあります。私たちは妄想、分別、執著です。境界に対して現前、過去、未来のどれに関わらず、すべて見失っています!人に対しても、物事に対しても、万物に対しても、完全に見失っています。まだ自分が正しいと思い込んでいます。自分の妄想・分別・執著は正しいと思っています。将来寿命が来て、三途に堕落してみて、はじめて間違いを知ります。後悔しても遅いのです。
我們的如來智慧迷了多久?過去,過去還有過去,生生世世都是迷惑顛倒,不是今天才迷。愈迷愈深,愈迷愈嚴重,這一生不開悟,來生迷得比這一生要加倍,前途一片黑暗,怎麼辦?佛給我們講真話,真話很難相信、很難接受;如果騙我們,我們反而容易接受,還認為是對的。
私たちの如来の智慧はどのくらいの期間迷っているのでしょうか?過去には更に過去があり、生まれ変わり死に変わり迷惑顛倒しています。今日になって迷い始めたのではありません。迷えば迷うほど深くなり、迷えば迷うほど深刻になっていき、この一生では悟りを開けません。来世の迷いはこの一生より倍増します。前途は一片の暗黒です。どうすれば良いのでしょうか?仏は私たちに真実の話をされました。真実の話は信じ難く、受け入れ難いものです。もし私たちを騙しているなら、私たちはかえって受け入れやすく、また正しいと思うものです。
這一段,佛教給我們怎麼樣回歸自性,怎麼樣把跟如來一樣的智慧找回來;找回來就是要學佛,這是大事!本來有,不是本來沒有,這個要相信。你要能真相信,得到很大的鼓勵,我有機會成佛,跟釋迦如來一樣。釋迦講經四十九年,今天我們看到的佛教學的教材經典《大藏經》,分量那麼大,古時候用紙印出來字都很大,一套《大藏經》要一棟樓房去裝它才能容納得下。人一生能不能讀得完?能讀得完,學不到,它內容太豐富了,像一個完整的大學,什麼科系都有。於是我們知道,我們遇到難關,在大乘經典裡面,就像《群書治要》一樣,找到答案,知道怎麼樣應付。
この一段は、仏が私たちにどのように自性に回帰するのか、どのように如来と同じ智慧を取り戻すのかを教えています。取り戻すには仏に学ばなければなりません。これは大きな事です!もともとあるのです。もともとないのではありません。これを信じなければなりません。あなたがもし本当に信じるなら、大きな励ましを得ます。仏に成る機会があります。釈迦如来と同じようにです。釈迦牟尼仏は四十九年講経しました。今日私たちは仏教学の教材経典『大蔵経』を見ることができます。分量はあれほど多いのです。昔は紙を使って印刷したので字が大きく、『大蔵経』ひとセットは一棟の建物であればやっと収めることができるほどです。人は一生で読み終わることができるでしょうか?読み終わるとしても、学べません。その内容があまりにも豊富だからです。ちょうど総合大学がどの学科もすべてあるようなものです。そこで私たちは理解します。私たちは困難に直面した時、大乗経典の中に、ちょうど『群書治要』と同じように、答えを探し当てます。どのように対処すれば良いかが分かります。
我們有『一切智』,無所不知,『無礙智』,沒有障礙。你講經教學,聽眾很多,有許許多多問題提出來問你,你有無礙智,你都能夠講明白、講清楚,讓這些人覺悟。『自然智』,自然智是不需要學習的,一問,本來也沒有想到,這一問問出來了,自自然然就解答了。阿羅漢、菩薩、佛陀他們都有,都有這種智慧。
私たちには『一切智』があります。知らないことはありません。『無礙智』があり、障礙(しょうがい)はありません。あなたが講経・教学して、聴衆が多くいれば様々な質問をされます。あなたには無礙智があり、明瞭にはっきりと語り、それらの人を悟らせます。『自然智』。自然智は学ぶ必要がありません。問われると、もともと思いもよらないのに、問われることによって、極々自然に答えることができます。阿羅漢、菩薩、仏陀にはすべてこのような智慧があります。
是不是老師教的?不是;老師教你個原則,就像此地一樣,告訴你,你的智慧現在不能現前,是什麼原因,是你有妄想分別執著。所以像佛那樣圓滿的智慧,你本有的,失掉了。你現在必須重學,學的怎麼樣?學的是錯誤的,不是智慧,知識;知識解決問題有限,智慧解決問題是無限的。所以我們要牢記住,我們丟掉的,是妄想顛倒執著而不能證得;如果我們能夠離開妄想,一切智、自然智、無礙智則得現前,智慧就現前了。
老師が教えたのでしょうか?違います。老師はあなたに原則を教えます。ちょうどここでしているように。あなたに言います。あなたの智慧が現前しない原因は何でしょうか。それはあなたに妄想・分別・執著があるからです。ですから仏のような円満な智慧をあなたは本来具えていて、失ったのです。あなたは今再び学ばなければなりません。学んでどうでしょうか?学んだものは間違っています。智慧ではなく知識だったのです。知識では問題を解決するのに限界があります。智慧で問題を解決するのに限界はありません。ですから私たちはしっかりと覚えておかねばなりません。私たちが失ったのもの、妄想・分別・執著のために証得できないのです。もし私たちが妄想を離れることができれば、一切智、自然智、無礙智がすぐに現前し、智慧が現前します。
下面有白話解釋,我們把它念一遍,「究竟圓滿的智慧是每一個眾生本來就具有的」,一定要承認,我跟佛沒有兩樣;「但是,由於被自己虛妄顛倒的妄想、分別、以及執著等煩惱所障礙與纏縛,所以,一切眾生雖然本自具足究竟圓滿的如來智慧,但卻對其不覺不知,不能得其受用。」佛陀、菩薩、阿羅漢應用得很自在,我們望塵莫及。
次に口語の解釈があります。それを読んでみましょう。「究極円満の智慧はどの衆生も本来具えているものです」。必ず認めなければなりません。自分は仏と何も変わりません。「しかし自分の虚妄顛倒たる妄想、分別、そして執著等の煩悩により障礙となり縛られています。ですから一切衆生は本来究極円満の如来の智慧を具えていますが、それを覚らず知らず、それを活用することができません」。仏陀、菩薩、阿羅漢は自在に応用できます。私たちは足元にも及びません。
所以下面我們就要記住,修行修這個,「然而,當眾生把自己的妄念煩惱都徹底放下時」,這話是真話,一點都不錯,徹底放下時,「他們」,他們就是講的這些智慧,一切智、自然智、無礙智,無量無邊的智慧,你就完整的獲得,那是圓滿智慧的真實受用。佛法是完全講平等,佛所有的我們都有。
ですから次のことを覚えておかなければなりません。修行はこれを修めるのです。「しかし衆生が自分の妄念・煩悩を徹底的に放下した時」。この話は本当です。少しの誤りもありません。徹底的に放下する時、「彼ら」、彼らとはこれらの智慧のことです。一切智、自然智、無碍智、無量無辺の智慧をあなたは完全な形で獲得します。それが円満なる智慧の真実のご利益です。仏法は完全に平等を講じています。仏にあるものは私たちにすべてあるのです。
智慧怎麼能得到?我在這裡再補充一點,告訴大家。睜開眼睛我們要不要看?看到些什麼?看了以後起了什麼作用?起了妄想;起了妄想,佛法裡面叫做起心,這是妄心,不是真心。起心動念就把我們的真心變成了妄心,本來知道的、完全了解的真實智慧,這一起心動念,智慧就變成了煩惱習氣。煩惱是什麼?分別、執著,麻煩就是此地。你有沒有聽懂?你要真聽懂了,我問你,什麼叫修行?你答不出來,或者你答錯了,這是自然的現象,不足以奇怪。起心動念、分別執著起來了,全迷了。應該要跟佛學習,學習什麼?不起心、不動念。眼睛睜著,看到一切山河大地、樹木花草,沒有起心動念,對了,你這個就是如來知見。要一直保下去,念念都保下去,不能是一閃讓它過去了,不能起心動念,又起心動念了。
智慧はどのように得られるのでしょうか?私はここでもう一度補足して皆さんにお話しします。目を見開いて私たちは見たいのでしょうか?何が見えるのでしょうか?見た後でどのような作用が起こるのでしょうか?妄想が起こります。妄想が起こることを仏法では「起心」(心を起こすこと)と言います。これは妄心であり、真心ではありません。起心動念(心を起こし念を動かすこと)で私たちの真心は妄心に変わります。本来知っている、完全に理解している真実の智慧は、一たび起心動念すれば智慧が煩悩の習気(じっけ)に変わります。煩悩とは何でしょうか?分別、執著、面倒なのはここです。あなたは聞いて理解できるでしょうか?あなたが本当に聞いて理解できるなら、私があなたに「修行とは何か」と問えば、あなたは答えられないか或いは答えを誤るでしょう。これは自然な現象です。怪しむほどのことではありません。起心動念、分別、執著が起これば、すべて迷いなのです。仏に学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか?心を起こさず、念を動かさないことです。目を見開いて、一切の山河大地、樹木や草花を見て、起心動念を起こさない。それで良いのです。それこそが如来の知見です。ずっと維持し続けなければなりません。絶えず保ち続けます。それをさっとやり過ごすことができず、起心動念してはいけないのに、また起心動念してしまいます。
修行,在見色,一切眼所見到的,你要問問,釋迦如來他是怎麼對應的?他是看得清清楚楚、明明白白,沒有起心動念。菩薩呢?菩薩比佛差一等,有起心動念,沒有分別執著。所以他起心動念是有限制的,一剎那之間,馬上掉過頭來不分別不執著,他守住這一點。我們凡夫,起心動念之後,馬上分別執著就現前,愈陷愈深;菩薩陷進去一點點,他就明白了,他就跳出來。我們不但起心動念、分別執著,執著來了,跟著的貪瞋痴慢疑全出來了,愈迷愈深。這是凡夫,你怎麼迷的。
修行は(例えば)色(しき:物質)を見ます。一切の目で見えるところのものを見ます。あなたは釈迦如来はどのように対処していたのかと質問するでしょうか。彼ははっきりと見えていて、心を起こさず念を動かしません。菩薩はどうでしょうか?菩薩は仏より少し劣ります。心を起こし念を動かしますが、分別と執著はありません。ですから菩薩の起心動念には制限があります。刹那の間に転じて分別せず執著しません。菩薩はこの一点を守ります。私たち凡夫は、起心動念した後、すぐに分別と執著が現前します。ますます深く陥ります。菩薩は少しばかり陥ると、彼はすぐに理解してすぐに飛び出します。私たちは起心動念するばかりか、分別・執著します。執著すれば貪瞋痴慢疑(貪り・怒り・無知・傲慢・真理に対する疑い)がすべて出てきます。ますます深く迷います。これが凡夫です。あなたはなぜ迷っているのでしょうか。
佛是怎麼成的?他就是覺。為什麼?自性清淨心裡面,講照見,沒有說起心動念見;他沒起心動念,像鏡子照外面,他就是能照,照得很清楚,他就不起心不動念。我們要學這個本事,學這個本事的人沒煩惱。煩惱從哪裡來的?從妄想分別執著來。他沒有妄想、他沒有分別、他沒有執著,用真心不用妄心,這就對了。
仏はなぜ成就したのでしょうか?仏は覚りました。自性・清浄心の中に、照見を重んじました。心を起こし念を動かして見るとは言っていません。仏に起心動念はありません。鏡が外界を映すように、仏は映すことができます。はっきりと映して、心を起こさず念を動かしません。私たちはこの技量を学ばなければなりません。この技量を学んだ者に煩悩はありません。煩悩はどこから来るのでしょうか?妄想・分別・執著から来るのです。仏には妄想が無く、分別が無く、執著がありません。真心を用いて妄心を用いません。これで良いのです。
這段文,第四十七面還有一大片,講到究竟圓滿的智慧,是每一個眾生本來就具有的。「眾生本有的圓滿智慧,乃是一種對於宇宙萬法徹底通達無礙的智慧」,叫無礙智。下面跟著起來的,一切智、自然智統統能現前。「這也是一切眾生真心本具,不從外得的稱性真實之智慧」,這叫自然智。「這種智慧,就是如來大覺者的智慧;在此一智慧之中,覺者們能夠究竟地認識到自己的真心乃是本自清淨無染的」,返妄歸真。
この文章は四十九頁にまだたくさん続きます。究極円満の智慧を講じています。どの衆生にももともと具わっているものです。「衆生がもともと具えている円満なる智慧、つまり宇宙万法に徹底して通達する無礙の智慧」のことを、無礙智と言います。その次に続いて起こる一切智・自然智はすべて現前します。「これは一切衆生の真心が本来具えているものでもあり、外から得られない真実の智慧」、これを自然智と言います。「この種の智慧は、如来大覚者の智慧である。ここでの一つの智慧の中で、覚者たちは自己の真心はもともと清浄にして穢れのないことを究極的に認識します」。妄を転じて真に帰ります。
所以修行人搞錯了,什麼叫真修行?看破、放下叫真修行。看破就是統統明白了、明瞭了,眼見色不迷,不起心不動念,耳聞聲不迷、鼻嗅香不迷、舌嘗味不迷,六根對六塵境界完全沒有迷失;就是說你用六根對六塵境界,沒有起心動念、沒有分別執著,樣樣清楚、樣樣明瞭,這就對了,這真會修。
ですから修行者は思い違いをしています。何を修行と言うのでしょうか?看破、放下を真の修行と言います。看破とはすべて明らかに、明瞭になることです。目で色を見て迷わず、心を起こさず念を動かさず、耳で音を聞いて迷わず、鼻で香りを嗅いで迷わず、舌で味わって迷わず、六根は六塵の境界(きょうがい)に対して完全に迷うことがありません。つまりあなたは六根を用いて六塵の境界に接しても、起心動念は無く、分別・執著は無く、すべてが明瞭です。これで良いのです。これなら真に修めることができています。
總的來說,宗門常說的,總的來講,修行是六根對六塵境界不起心不動念而已。起心動念有幅度的,佛是圓滿證得,菩薩是多分證得,阿羅漢是少分證得。證得叫真心,沒有證得不能說真心。
総じて言えば、宗門がよく説いているように、修行は六根が六塵の境界に触れて心を起こさず念を動かさないことに尽きます。起心動念には幅があります。仏は円満に証得しています。菩薩は多く証得しています。阿羅漢は少しだけ証得しています。証得は真心と言います。証得していなければ真心と言うことはできません。
好,今天我們就學習到此地。學會了真管用,進步很快。好,謝謝大家。
今日の学習はここまでにします。学んで身につければ本当に役に立ちます。進歩も早いでしょう。皆さまありがとうございました。