用因果救世間 / 因果の教えで社会を救う
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五十九集)2010/6/16
中國傳統文化三個根,這是大家都承認的。儒家《弟子規》做到了,還要學道家的《太上感應篇》,為什麼?因果教育。近代佛門的大印光法師,這在近代中國佛教界大家推崇的、仰慕的、敬重的。他老人家一生特別推崇因果教育,指定三本書,學佛的人不能不讀,這三本書,《了凡四訓》、《感應篇彙編》、《安士全書》,他一生是極力宣揚。
中国の伝統文化には三つの根があります。これは皆が認めていることです。儒教の『弟子規』が実行できたら、さらに道教の『太上感応篇』を学ばなければなりません。なぜなら因果の教育だからです。近代仏門の大徳・印光法師は近代中国の仏教界では誰もが評価し、敬慕し、尊敬しています。彼は一生の中で特に因果の教育を重んじて、三冊の本を指定しました。仏教を学ぶ者は読まなければなりません。その三冊とは、『了凡四訓』、『感応篇彙編』、『安士全書』です。彼は一生をかけて宣揚しました。
為什麼?他告訴人,用周安士的話說,「人人信因果,天下大治之道也;人人不信因果,天下大亂之道也」。大概印光法師在那個時候已經看到現前社會的亂象,用什麼來救?因果,倫理道救不了。為什麼?懂得倫理道理的人不是沒有,如果境界裡面現出高名、重利,他心就變了,就是禁不起誘惑。
それはなぜでしょうか?彼は周安士の言葉を使って、「人々が因果を信じれば、天下が治まる道である。人々が因果を信じなければ、天下大乱の道である」と説いています。おそらく印光法師は、その時にすでに目の前の社会の乱れが見えていましたが、何を用いて救おうとしたのでしょうか?それは、因果です。倫理道徳では救えません。なぜでしょうか?倫理道徳が分かる人が居ないわけではなく、もし境界の中に名誉や利益が入れば、心が変わってしまい、誘惑を禁じ得ないからです。
但是懂因果的人害怕,眼前這種榮譽、這種利益你得到了,你能享幾天?你來世怎麼辦?想到這個問題,不敢要,不是我應該得到的決定不要,不會去爭名逐利。所以古人講得好,有倫理道的修養,這個人恥於作惡,他不會作惡,為什麼?他知道羞恥,禮義廉恥的恥,他知道羞恥,他不做;可是懂因果的人不敢作惡,為什麼?後頭有果報。
しかし因果を知る人は恐れます。目の前の栄誉や利益を得たとしても、それを何日享受できるでしょうか?来世はどうなるのでしょうか?この問題を考えれば受け取ろうとはせず、私が得るべきでないものは絶対に受け取らないし、名誉や利益を争ったりはしません。ですから古人は良いことを言っています。倫理道徳の修養があれば、悪を行うことを恥として不正を犯しません。なぜでしょうか?彼は恥を知っているからです。礼儀廉恥(心が清らかで恥を知る心が強いこと)の恥です。彼は恥を知って不正を行いません。しかし因果を知っている人は悪を行おうとしません。なぜかといえば、後に果報があるからです。
在行門上,學習到十善業道,這才真正達到圓滿。《十善業道》只有十條,諸位要曉得,這十條展開是什麼?《弟子規》裡面的一百一十三樁事情都離不開這十條,《感應篇》裡面字字句句也沒有離開這十條。小乘聖者把它展開,三千威儀,你看十條變成三千條;大乘菩薩更不得了,把它變成八萬四千條,細行。八萬四千條都做到了,是什麼人?佛,大乘教裡面講諸佛如來、法身大士,他們做到了。
学習を進めて行く上で、『十善業道』まで学んだのなら、真に円満に達したといえます。『十善業道』は、たった十か条です。皆さんはよく理解しておかなければなりません。この十か条は何を展開したものでしょうか?『弟子規』の中の百十三の事はこの十か条から離れません。『感応篇』の中の一字一句もまたこの十か条から離れません。小乗の聖者はそれを展開して、三千としました。十か条が三千か条に変わりました。大乗の菩薩はさらに大変です。それを八万四千か条に変えて、細かくしました。八万四千か条をすべて実行できたのは誰でしょうか?それは仏であり、大乗仏教の諸仏如来、法身大士、彼らは実行できました。
你在他們起心動念、言語造作找不到一絲毫的缺陷,我們用一句話來形容他,純淨純善。這是學!真這樣學,他才有法喜,學而時習之,他才有,喜,在大乘教裡面法喜充滿。這種歡喜不是從外頭來的,是從自性裡面透出來的。這個法喜是最殊勝的磁場,對我們人身來講是最好的養分,諺語所謂「人逢喜事精神爽」,一天到晚歡喜,他怎麼會生病?
あなたは彼らの起心動念(心や意念を動かす)や、言語動作の中にまったく欠点を見いだせません。私たちは彼をある言葉を使って形容しています。純浄純善。これが学びです!本当にこのように学んでこそ、彼は仏の教えに喜びを覚え、学びて時に之を習ってこそ、喜びを覚えます。大乗教でいう“法喜充満”です。このような喜びは外から来るものではなく、自性の中から出てくるものです。この喜び(法喜)は最も殊勝な磁場であり、私たち人身にとっても最も良い養分となり、諺に言ういわゆる「人喜事に逢いて精神爽なり」です。一日中喜びに満ちていれば、どうして病気になどなるでしょうか?
可見得他沒有憂慮、沒有煩惱,現在人講沒有壓力。為什麼?他無我,所以也不會有對立。他心目當中,不但是人物,連山河大地,他心目當中都是諸佛如來、都是清淨法身。托事顯法,事事皆是,法法皆是。
彼には憂いがなく、煩悩がないことが分かります。現代人の言うストレスが無いのです。なぜでしょうか?彼は無我の境地にあるので対立しないからです。彼の心の中には、人物であろうと山河や大地であろうと、彼の心の中はすべて諸仏如来であり、すべてが清浄法身だからです。法を明らかにするなら、すべてが道理に適い、すべてが法に適うのです。
<解説>
浄空法師は近年“扎根教育”(人生の基盤となる根本の教育)の重要性を繰り返し説かれています。
法師は『弟子規』を儒教の基礎、道教の『太上感応篇』を因果教育の基礎、『仏説十善業道経』を仏教の基礎と位置付けて、これら古代聖賢の教育基準を人間教育の基礎とすることを提唱されています。
三世因果 / 三世因果
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二十七集)2010/5/2
今天社會這麼亂,災難這麼多,真正的原因是什麼?我們把教育丟掉了,所以才出了麻煩。這個教育,諸位一定要知道,這個教育是倫理教育。倫理教育真正明白了,人會愛人,人會自愛,倫理是講關係,你關係都搞清楚、搞明白了,你會愛他。他是我父母,我怎麼能不愛他?關係搞好了;他是我子女,怎麼會不愛護?
今日社会はこれほど乱れ、災難はこれほど多くあります。その真の原因は何でしょうか?私たちが教育を疎かにしたことです。そのために問題が出てきたのです。皆さんは知っておかなければなりません。この教育とは倫理の教育です。倫理の教育を本当に理解すれば、人は人を愛し、自分を愛します。倫理は関係を説きます。関係が分かり、明らかになれば、あなたは人を愛するでしょう。その人は自分の両親です。どうして愛さずにいられるでしょうか?関係を良くします。その人は自分の子どもです。どうして大切にしないでいられるでしょうか?
大乘佛法搞通了,你才真正覺悟過來,就像佛在經上所說的,「一切男子是我父,一切女人是我母」。真的嗎?真的,為什麼是真的?生生世世,三世因果。現在催眠,發生過這個事情,過去是他的母親,現在變成他的女兒,他又回來了。我還遇到一個,最近遇到的,也是學佛的一個同修,他夫妻兩個都知道。
大乗仏教に通じていれば、あなたは本当に目が覚めるでしょう。仏は経典において、「一切男子是我父,一切女人是我母」(すべての男性は私の父、すべての女性は私の母)と説かれています。これは真実なのでしょうか?真実です。なぜ真実なのでしょうか?生生世世(しょうしょうぜぜ:生まれ変わり死に変わる多くの世)、三世因果(過去・現在・未来の因縁)があるからです。現代では催眠(の実験)でこのような事例があります。過去生で彼の母親だった人が、今では彼の娘に変わったというものです。また戻って来たのです。私はもう一つある事例を最近知りました。ある仏門の人で、彼ら夫婦は二人とも知っています。
他的女兒結婚,生了一個孫女兒,是他媽媽再來的,就是她的祖母,她祖母非常喜歡這個孫女,你看又回來了,做她的女兒。人與人之間的關係真的是這樣的,無量劫來,我們都做過這樣親密的關係,這一轉世都忘掉了。如果你的記憶力,阿耶裡面統統恢復了,你都能記得,你就曉得所有一切人跟你是什麼關係。
彼の娘は結婚して孫娘を産みました。それは彼の母親の再来でした。つまり彼女の祖母です。かつて祖母は孫娘をとても可愛がっていましたが、また彼女の娘として帰って来たのです。人と人との関係は本当にこのようなものです。計り知れないほど長い間、私たちは皆親しい間柄だったことがあるのです。転生すればすべて忘れてしまいます。もしあなたの記憶力が、阿頼耶識の中ですべて回復すれば、すべて覚えているはずです。あなたはすべての人が、あなたとどのような関係なのかが分かります。
佛講的話是真的,不是假的。不但一切人跟我們是這樣關係,所有動物跟我們也是這樣關係,《楞嚴經》上講,「人死為羊,羊死為人」。六道裡哪一道我們都待過,而且時間都很長,而且都很多次,不是一次、兩次,關係密切。
仏が説いているのは本当です。嘘ではありません。すべての人と私たちの関係だけでなく、すべての動物との関係もこのようなものです。『楞厳経』には、「人は羊の為に死に、羊は人の為に死す」とあります。六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の中は、私たちはどの道も経験したことがあるのです。しかも非常に長い時間、それも何度もです。一度や二度ではありません。関係は密接です。
再有,這是佛家講倫理,樹木花草跟我們有關係,山河大地跟我們有關係,為什麼?是我們的心性所生,是我們的阿耶所變。跟我什麼關係?太密切了,一體,一個自性清淨圓明體。所以,佛家講倫理才真正講到究竟圓滿,沒有一個是例外。這個關係要想不通,佛經上常常用比喻說法,好!
それから、これは仏家が説いている倫理ですが、樹木や草花と私たちには関係があります。山河や大地と私たちには関係があります。なぜでしょうか?私たちの心性がそれらを生み出し、私たちの阿頼耶識が変化したものだからです。私とどのような関係なのでしょうか?非常に密接です。一体です。一つの「自性清浄円明体」です。ですから仏家の説く倫理こそ、真に究極の円満といえます。一つの例外もありません。この関係が理解し難いなら、仏典にはよく良い比喩が用いられています。
比喻用得最多的是講作夢,「夢幻泡影」,主要的比喻是作夢,幻泡影是陪襯的。我們都有作夢的經驗,諸位記住,什麼時候作夢醒過來,想一想,剛才夢中那些人、那些物、那些樹木花草、那些山河大地、那些虛空,從哪來的?現在人講意識心變現的,說得也不錯,意識是第六意識,第六意識能分別,種子呢?種子在阿耶識裡頭。真的全是自己變現的,夢中境界全是自己變現的。
比喩で最も多く用いられるのは夢です。「夢幻泡影」(夢、幻、泡、影)。主な比喩は「夢」です。「幻泡影」はおまけです。私たちは誰でも夢を見た経験があります。覚えておいて下さい。夢から醒めたときに、考えてみて下さい。夢の中で見た人たち、それらの物、それらの樹木や草花、山河や大地、それらの虚空(空間)はどこから来たのでしょうか?現代人は意識が変化したものだと言っています。なかなか良い解釈です。意識は第六意識【注1】です。第六意識は分別することができます。その種(たね)はというと、阿頼耶識【注2】の中にあります。本当にすべて自分が変化して現れたものです。夢の中の境界は、すべて自分が変化して現れたものです。
<注>
1.第六意識(だいろくいしき)・・・・唯識学派で立てる八識の六番目、意識のこと。前五識が感覚知であるのに対し、分別判断の働き。
2.阿頼耶識(あらやしき)・・・・唯識説で説く八識のうち第八。宇宙万有の展開の根源とされる心の主体。無没識、蔵識、種子識ともいう。
第一回更新 2011-06-26
第一回訂正 2014-09-26
深信因果 / 因果を深く信じる
(2009-08-12 修華嚴奧旨妄盡還源觀第七十二集)
善業決定有善果,惡業決定有惡報,你不願意受惡報,你就不會造惡業,你要對於因果的道理、現象、利害很清楚。佛教凡夫、教六道眾生,在六道裡要把因果擺在第一,才真正能收到教學的效果,因為在六道裡頭首先要幫助眾生不墮三惡道。這要靠什麼教育?就是因果教育,以因果教育為主,以倫理道為輔助。
善業(ぜんごう)には必ず善果があります。悪業(あくごう)には必ず悪報があります。悪報を受けたくないのであれば、悪業を犯すことはありません。因果の道理、現象、利害について、よく理解しなければなりません。仏は凡夫を教え、六道【注1】の衆生を教えます。六道の中では因果を第一に置いてこそ、本当に教学の効果を得ることができます。なぜなら六道の中では、まず衆生が三悪道【注2】に堕ちないように助けなければなりません。これは何の教育に頼れば良いでしょうか?それが因果の教育です。因果の教育を主として、倫理道徳を補助とします。
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【注1】 六道(ろくどう)・・・地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。生死を繰り返す迷いの世界。
【注2】 三悪道(さんあくどう)・・・地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。(=三悪趣、三途)
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到什麼時候才以倫理道為最重要,因果可以不必再談?阿羅漢以上,四聖法界裡可以不必談因果。為什麼?他們都是正覺以上。聲聞緣覺他們證到正覺,往上去的菩薩、佛是正等正覺,見思煩惱斷了,塵沙煩惱斷了。就像我們在學校教書、念書一樣,小學最重要的課程是因果教育,中學、大學的課程教完了,他已經學得很好,已經養成習慣,所以他要往上提升,基礎的東西不用再教。這些理不能不知道。
いつになったら倫理道徳を最も重要なものとして、因果を説く必要がなくなるのでしょうか?阿羅漢以上、四聖法界【注3】の中では因果を説く必要はありません。なぜでしょうか?彼らは皆「正覚」【注4】以上だからです。声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、彼らはすべて正覚を証得しています。更に上の菩薩、仏は正等正覚です。見思煩悩【注5】を断ち、塵沙煩悩【注6】を断っています。
ちょうど私たちが学校で教えたり、学んだりするのと同じです。小学校で最も重要なのは因果の教育です。中学、大学の課程を教え終われば、すでにそれが習慣として身についています。ですからその人は更に向上しようとします。基礎的なことをもう一度教える必要はありません。このような道理は知っておかなければなりません。
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【注3】 四聖法界(ししょうほっかい)・・・仏、菩薩、縁覚(えんがく)、声聞(しょうもん)の境界。
【注4】 正覚(しょうがく)・・・迷いを断ち切った正しい悟り。
【注5】 見思煩悩(けんしぼんのう)・・・「見思」とは見惑(けんわく)と思惑(しわく)のこと。「見惑」は仏教の真理について迷いを覚えること。「思惑」は貪嗔痴(貪り・怒り・愚かさ)などの煩悩のこと。「惑」は煩悩の意味。
【注6】 塵沙煩悩(じんさぼんのう)・・・「塵沙」とは、塵や砂のこと。見思煩悩より微細な煩悩。
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第一回更新 2011-05-30
第一回訂正 2014-07-17