Learning of God Loves All Beings 02
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第二集)
2018/8/25 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0002
諸位同學、諸位朋友,今天我們開闢這個單元——《神愛世人》。為什麼要開這個單元?便利於對宗教諮詢的同學們。這些年來,我們做宗教團結的工作,有一點成就,現在大家都知道,宗教團結是有必要的,因為它能夠幫助我們化解衝突、化解對立、促進社會安定和諧。
学生の皆さま、友人の皆さま、今日私たちは『神は世人を愛す』という単元を始めます。なぜこの単元を開かなければならないのでしょうか?宗教の質問をする学生の皆さまのためです。ここ数年来、私たちは宗教を団結させる仕事をしており、少しばかり成就しました。今では皆が、宗教の団結が必要であることを知っています。なぜならそれは衝突を解消し、対立を解消し、社会の安定と調和を促進する助けとなるからです。
我是從二十六歲,遇到方東美先生,我跟他學哲學。最後一個單元,他給我講佛經哲學,我感到很詫異,我說佛是宗教,它怎麼會有哲學?老師告訴我:你還年輕(那年我二十六歲),你不知道,釋迦牟尼是世界上最偉大的哲學家,大乘經典是全世界哲學的最高峰。確實我沒聽說過,第一次聽方先生講。
私は二十六歳から、方東美先生と出会い哲学を学びました。最後の単元は、方先生は仏経哲学を講じて下さいました。私はいぶかしく思いました。私は「仏教は宗教です。それにどうして哲学があるのでしょうか」と言いました。先生は「君はまだ若いから知らないのです。釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な哲学者であり、大乗仏典は全世界の哲学の最高峰です」と私に言いました。私は(そのような話は)聞いたことがありませんでした。方先生から初めて聞いたのです。
我接受他的教誨,在最後,總結我們的課程,他提出來,佛教是哲學,學佛是人生最高的享受。這句話很動聽,對我們年輕人來說是很契機,我們聽了很喜歡。真的學佛能帶給我們一生幸福快樂嗎?人生最高的享受?我今年九十二歲,通過六十年的學習,證明老師的話是真的,我佩服到五體投地。
私は方先生の教誨(きょうかい:教え諭すこと)を受け入れました。最後に、課程の総括をする段になると、方先生は提起されました。「仏教は哲学である」「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。この言葉は人を引きつけました。私たち若者にとっては契機となり、私たちはそれを聞いて喜びました。本当に仏に学ぶことは私たちに一生幸福と喜びをもたらすのでしょうか?人生最高の享受なのでしょうか?私は今年で九十二歳になります。六十年の学習を通じて、先生の話が本当だったことを証明しています。私は五体投地(ごたいとうち:仏教の最敬礼)するほど敬服しています。
世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。這是我跟方先生,他為我開了這門課,我非常感謝他!這堂課時間並不很長,才三、四個月,我重新認識宗教,肯定世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。方老師教我這些,我通過六十年的學習,肯定他的話是正確的。
世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者です。方先生は私のためにこの講義を開講して下さったのです。私は方先生にとても感謝しています!この講義は時間としてはさほど長くはなく、三、四ヶ月ほどです。私は宗教を再認識し、世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者であると認めました。方先生は私にこれらの事を教えました。私は六十年の学習を経て、先生の話は正しかったと思います。
「明心見性」是佛教的術語,佛教修學最高的境界就是明心見性,明心見性就叫成佛。佛陀的教育它有四個層次:信、解、行、證。第一個是講信仰,你對它要有真誠的信心,才能夠得到利益。這個道理,在中國過去,不是宗教的,是教育裡面所要求的,中國古人非常重視教育。
「明心見性」とは仏教の術語(じゅつご:専門用語)です。仏教修学の最高の境界(きょうがい:境地のこと)とは明心見性です。明心見性のことを成仏(仏に成る)と言います。仏陀の教育には四つの段階があります。信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)。一つ目は信仰です。あなたはそれに対する真誠(しんせい:まこと)の信心がなければなりません。それでこそご利益を得ることが出来るのです。この道理は、中国では昔、宗教ではなく教育の中で要求されました。中国の古人は非常に教育を重視していました。
兩千多年前,孔子可以說是開私人教學的,用現在的話說私人辦學,做得很成功。從此之後,歷代讀書人都重視教學。而讀書人,幾乎他們唯一的前途,將來怎麼生活,多半靠教學,私塾裡面的老師。教的學生不多,少的五、六個,多的二、三十個;二、三十個就很多了,通常十幾個學生,一個老師,私塾教學。教什麼?教倫理、教道德、教因果、教聖賢承傳下來的智慧,這是私塾教學的內容、教材。
二千年余り前、孔子は個人の教学をしました。今の言葉で言えば私塾を開いて成功したのです。それ以降、歴代の読書人は教学を重視しました。また読書人は、ほとんど彼らの唯一の前途、将来どのように生活するか、その大半は教学に頼っていました。私塾の先生です。教える学生は多くはありません。少なければ五、六人。多ければ二、三十人。二、三十人では多いほうです。通常では十数人の学生に一人の先生です。私塾の教学です。何を教えたのでしょうか?倫理、道徳、因果、聖賢が伝えた智慧を教えました。これが私塾教学の内容、教材です。
一千多年前,我們的老祖宗,世世代代,從生活經驗體會當中,觀察小孩要受什麼教育─—童蒙教育——應該教些什麼。小孩從什麼時候開始教?一般是三歲,上私塾。古人編的這套教材,現在我們把它蒐集起來,總共有二十三種,把它印成一套,《聖學根之根》。根之根就是扎根教育,像一棵樹一樣,根深蒂固才能夠長成大樹,所以中國人重視扎根教育。
一千年余り前、私たちのご先祖様は、代々、生活経験の中から、子どもに何の教育を受けさせるか――童蒙教育(幼児教育のこと)――では何を教えるべきかを観察していました。古人が編纂したそれらの教材、私たちはそれを集めました。合わせて二十三種あり、それを一つにまとめたものが『聖学根之根』(という本)です。根本の根本とはつまりは根(基礎)を張る教育です。ちょうど樹木のように、根を深く張ってこそ大樹に育つことができるようなものです。ですから中国人は根を張る教育を重視していました。
對小孩教育從什麼時候開始?更早的從胎教開始;也就是說,母親懷孕,懷孕這十個月之間,就要注意怎樣能養一個好兒女。母親的責任很重,這十個月期間,心沒有妄想、沒有雜念,因為妄想、雜念會影響嬰兒的智慧、德行,會影響。所以,凡是負面的言行、思想都不能有,要重視倫理道德,把這個影響傳給下一代。小孩出生之後,母親是第一任的老師,在嬰兒面前,言行舉止都要端莊,沒有邪思、沒有惡念。言行舉止都要合乎規矩,規矩是我們自己從小學的,現在要用來教下一代。所以中國古時候的教育,大概從三歲正式入學,就入私塾,由老師教了;從出生到三歲是母親教、父親教。
子どもの教育はいつから始めるのでしょうか?更に早く胎教から始めます。つまり母親が妊娠して、妊娠している十ヶ月間に、どのように良い子を育てるかに注意を払わなければなりません。母親の責任は重いです。この十ヶ月の期間、心に妄想をせず、雑念を持ちません。なぜなら妄想、雑念は胎児の智慧、徳行に影響するからです。ですからおよそ良くない言行(ごんぎょう:言葉と行為)、思想があってはなりません。倫理道徳を重視しなければなりません。これは次世代に影響します。子どもが生まれた後、母親は最初の先生になります。子どもの前では、言行、振る舞いを正さなければなりません。邪(よこしま)な思い、悪い念があってはなりません。言行、振る舞いは規律正しくなければなりません。規律は私たち自身が子供の頃から学んだことです。今それを次の世代に教えなければなりません。中国の昔の教育は、だいたい三歳から正式に入学します。私塾に入ります。先生が教えます。生まれてから三歳までは母親が教え、父親が教えます。
童蒙養正的教科書,古人編寫的這個,在中國用了一千多年。最晚的,明清時候編的,也有七百多年。成功了,這教學成功了。小學學業完成了,向上提升,我們今天做為中學。中學學什麼?學四書五經,這個裡面講求的,修身、齊家、治國、平天下。儒家講得多,經驗非常豐富。所以聖賢教育!
幼児を正しく育てる教科書について、古人はこれを編纂しており、中国では一千年余り用いられました。最も遅いもので、明、清代の編纂され、それでも七百年以上です。成功しました。この教学は成功しました。小学校の学業が完成したら、上に上がります。私たちは今日中学としています。中学では何を学ぶのでしょうか?四書五経【注】を学びます。この中で求めるものは、修身(しゅうしん:自分の身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下太平の世を築くこと)です。儒家は多くを説いており、経験も非常に豊富です。ですから(教えるものは)聖賢の教育です!
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【注】 四書五経(ししょごきょう)・・・・儒教の基本書とされる書物。
四書・・・・『大学』 『中庸』 『論語』 『孟子』
五経・・・・『易経』 『詩経』 『書経』 『礼記』 『春秋』
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養小孩,無論是男的是女的,都希望他長大成聖人、成賢人,是以這個為目標。跟現在不一樣,現在的教育重視知識,是為了將來自己生活。古時候不是這個,古時候聖賢教育是學聖人、學賢人;像學佛,希望自己能證得阿羅漢、菩薩,當然最高的是希望能成佛。確實如此。
子どもを育てるのに、男であろうと女であろうと、成長したら聖人、賢人になることを願いました。それを目標としました。今とは違います。今の教育は知識を重視して、将来の自分の生活のために学んでいます。昔はそうではありません。昔の聖賢の教育は聖人に学び、賢人に学ぶのです。仏に学ぶように、自分が阿羅漢、菩薩の境地を証得したいと願いました。当然最も高いものは仏に成ることです。間違いなくこのようでした。
所以可以說,世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家,跟現在教學的目的不一樣。東方有儒釋道,西方宗教教育,宗教教育裡面,我們看西方宗教的經典,也都是至善圓滿的教育。我們能夠肯定,東西方教育,西方教育是宗教,宗教教育裡面補足了東方的倫理、道德、因果、智慧。都是一個時代偉大的社會教育家。
世界のあらゆる宗教の創始者は、すべて明心見性した社会教育者だったと言えます。今の教学の目的とは違います。東方には儒教・仏教・道教があり、西洋は宗教教育です。宗教教育の中には、西洋の宗教の経典を見ますと、この上なく円満な教育があります。私たちは東西の教育を肯定することが出来ます。西洋の教育は宗教であり、宗教教育の中に東方の倫理、道徳、因果、智慧の教育を補足するのです。すべて一つの時代の偉大な社会教育者です。
湯恩比說過一句話,說得好,他說:宗教教育確實是人類不能缺少的根本教育。我們學習宗教六十年了,我覺得湯恩比這句話說得非常好,是他一生研究人類文明歷史的心得總結。他也說過,當人們失去對於既有宗教的信仰時,那就是文明走向崩潰。
トインビー【注】はある言葉を述べています。よく言ったものです。彼は「宗教教育は間違いなく人類が欠かすことのできない根本教育である」と言いました。私たちは宗教を六十年学習しました。私はトインビーのその言葉は素晴らしいと思います。これは彼が一生涯人類の文明と歴史を研究して得られた総括です。彼はまた「人々が宗教の信仰を失った時、それは正に文明が崩壊に向かっているのである」と言っています。
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【注】 アーノルド・ジョセフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)(1889-1975)・・・・英国の歴史家・文明批評家。歴史の基礎を文明におき、文明の消長の一般法則を体系づけ、独自の歴史観を展開した。著書に『歴史の研究』、『試練に立つ文明』などがある。トインビー氏は「21世紀の人類社会を救うのは、中国の儒教思想と大乗仏教しかない」との見解を示している。
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今天我們有憂慮。二O一五年,我跟威爾士大學校長見了面,我談到我有憂慮。他問我什麼憂慮?我擔心東方的漢學會失傳,東方是儒釋道,就是中國傳統文化。為什麼?現在沒人學了。老一代,我年輕的時候,還能找到二、三十個人,對中國國學有根柢的人,一些老教授;現在這些人都走了,剩下恐怕十個都不到。再過十年,他們全都走了,你要想學,沒人教你了,這太可怕了!世界、社會為什麼這麼混亂?與教育的關係太大了!東方人修的,確實學做人,怎麼樣做一個好人,怎麼樣做一個真正對於社會、對人類有貢獻的好人,我們學這個,現在沒有人學了。我這個顧慮,校長有同感,我們談了很長的時間,談了三個多小時。
今日私たちは憂慮しています。二〇一五年、私はウェールズ大学の校長とお会いした時、私には憂慮していることがあると話しました。彼は私が何を憂慮しているのかと聞きました。私は東方の漢学の伝承が絶えることを心配しています。東方は儒教・仏教・道教、つまり中国の伝統文化です。なぜでしょうか?今では学ぶ人がいないからです。一つ上の世代、私が若い頃には、まだ二、三十人はいました。中国の国学に対する造詣が深い人、老教授たちです。今これらの人はこの世を去りました。残っているのは十人にも満たないかもしれません。更に十年も経てば、彼らは全員世を去ります。あなたが学びたくても、教える人がいなくなります。これは恐ろしいことです!世界、社会はなぜこれほど混乱しているのか?これは教育と大いに関係があります!東方の人が修めるのは、間違いなく人としての身の処し方です。如何にして良い人になるか。如何にして真に社会に対し、人類に対して貢献できる良い人になるか。私たちはこれを学ぶのです。今では学ぶ人がいません。私はこのような心配があります。校長も同感されていました。私たちは長い時間話しました。三時間余り話しました。
我回到香港,過了一個月,校長帶了他們學校的兩位教授到香港來看我,我們就談這個問題。他很積極,提出一個方案,我們共同來辦一個漢學院,這就是今天的英國的漢學院。現在是第二個學期,第二個學期結束之後,下面就第三個學期。我們招收一批年輕人,給他獎學金,勸他來讀書,我們希望他們這批人,能夠繼承中國儒釋道的聖賢教育,不能讓它斷掉。
私は香港に帰りました。一ヶ月が過ぎると、校長は彼らの学校の二人の教授と共に香港にやってきました。私たちはこの問題を語り合いました。彼はとても積極的で、ある提案を出されました。共同で漢学院を作ることです。これが今日のイギリスの漢学院です。現在第二学期です。第二学期が終わった後、次は第三学期です。私たちは若者を募集しました。奨学金を出して、学習することを勧めたのです。私たちは彼らが中国の儒教・仏教・道教の聖賢教育を継承して絶やさないことを願っています。
他們也想到宗教,校長想到宗教,提出了一個方案,辦一個宗教傳教師的博士班。招收二十五個學生,三年畢業,宗教傳教師。把宗教傳教師的學位提升,現在拿到博士學位的人不多,希望將來每個傳教師都有宗教博士學位。好事情!我贊成。這個也開班了,非常難得。
彼らは宗教にも思い至りました。校長は宗教に思い至り、一つの提案をしました。宗教の伝教師の博士コースを作ることです。二十五人の学生を募集して、三年で卒業です。宗教の伝教師です。宗教の伝教師の学位を引き上げます。現在博士号を取得する人は多くありません。将来どの伝教師も宗教の博士号を持っているようにします。良い事です!私は賛成しました。これもまた開講しました。非常に得難いことです。
只要有後繼,繼承傳人,我們心就安了。希望世世代代,把宗教教育,宗教一定要回歸教育,把東方的中國傳統文化復興起來。為什麼?衝突可以化解。人學過聖賢、讀過聖賢書,決定在一生不會跟任何人發生衝突,別人惡意的對我,我以善意回報。絕大多數的人都被感化了,惡人變成善人,壞人變成好人。
後継がいさえすれば、継承者に伝えさえすれば、私たちは安心です。代々宗教教育を――宗教は必ず教育に回帰しなければなりません――東方の中国伝統文化を復興させることを願っています。なぜでしょうか?衝突が解消されるからです。人は聖賢に学んだことがあり、聖賢の書を読んだことがあれば、必ずや一生で如何なる人とも衝突せず、人が悪意を持って接してきても、自分は善意で報いるものです。大多数の人は感化され、悪人は善人に変わり、悪党は良い人に変わるのです。
宗教師。中國教小朋友的,私塾,這童蒙老師,三家村的私塾老師,他們講求信解行證,相信聖賢教育,對自己有大利益。用它來修身、用它來齊家,家庭幸福;用它來創業,你的事業有著正面的發展,好啊!如果再提升,我們用現在的話說大家容易懂,小學小私塾課程畢業之後,提升,中學,跟小學相彷彿,學四書五經。這個裡面有很多講的是治國、平天下的這些學問、知識,學了以後,可以貢獻給社會、貢獻給國家。你懂得治國,現在的社會,你是很好的議員;你懂得平天下,你是很好的領導。難得!
宗教の先生。中国で子どもを教える人、私塾の幼児を教える先生、田舎の私塾の先生。彼らは信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)を求めます。聖賢の教育を信じることは、自分にとって大きなご利益があります。それを用いて身を修め、それを用いて家を整え、家庭を幸せにします。それを用いて仕事をすれば、あなたの事業はまっすぐに発展します。良い事です!今の言葉で言えば皆さん理解しやすいでしょう。私塾の小学の課程を卒業した後、上に上がり、中学では小学と同じように四書五経を学びます。この中には国を治めること、天下を平らかにするといった学問、知識がたくさんあります。学んだあとで、社会に貢献し、国家に貢献することができます。あなたが国を治めること、今の社会を治めることを理解していれば、あなたは良い議員です。あなたは天下を平らかにすることを知っています。あなたは良いリーダーです。得難いことです!
所以宗教是什麼,我們現在搞清楚了,宗教是教育。教什麼?所有宗教經典裡面,我們去讀它,哪一個字出現得最多?愛。所以我肯定,宗教教育是愛的教育。我們向上帝學習,學習祂的大愛;學習了之後,代表上帝,愛世人,愛地球上所有的生物;這是上帝的子女、上帝的學生。所以宗教要回歸教育,宗教要辦學,像現在辦這個大學,好啊!學什麼?學這些課程,學會愛世人、學會化解衝突。
宗教とは何か。今明らかになりました。宗教は教育です。何を教えるのでしょうか?あらゆる宗教経典の中に、私たちはそれを読んでみて、どの字が最も多いでしょうか?愛です。ですから私は宗教教育は愛の教育であると認めています。私たちは神に学び、神の大いなる愛に学ぶのです。学んだ後は、神を代表して世人を愛し、地球上のすべての生物を愛すのです。これが神の子、神の学生です。ですから宗教は教育に回帰しなければなりません。宗教は学校を創立しなければなりません。ちょうど今この大学のように。良い事です!何を学ぶのかと言えば、世人を愛すること、衝突を解消するといった課程を学ぶのです。
今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。