浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

私利私欲は禍(わざわい)の本源

2015-04-19 | 【因果の教育】

自私自利 禍之本源 / 私利私欲は禍(わざわい)の本源
(佛說十善業道經 2000-04-21 新加坡淨宗學會 檔名:19-014-0001)

《感應篇》的文字雖然不長,但是古人所彙編的這些歷史公案因緣、感應故事,卻非常豐富,有理論、有事實,若詳細介紹,永遠說不盡。過去有很多感應的事實,現在更多,無論中國、外國,在報紙、電視等資訊中,常常能看到。這些報導確實長了我們的信心,決不可說我沒有親眼見到,就不承認。李老師曾比喻說:「你的父親、祖父你見過,你承認;你的曾祖父、高祖父也許沒見到,難道就不承認?」我們見不到的事情太多了,現代科學家說,我們眼睛的功能很有限,所見到的光波,只能在適合的波度才能看到,比我們能見光波長的就見不到,短波也見不到,但是用科學儀器測量,確實有長波、短波。我們見不到的,不能說它不存在,不能說它不是事實,否則就是迷信、武斷。
『太上感応篇』の文字数は長くはありませんが、古人が編纂したこれらの歴史、公案、因縁、感応の故事(物語)は非常に豊富で、理論があり、事実があり、もし詳細に紹介しようとするなら永遠に語り尽くせません。過去には多くの感応の事実がありますが、現在では更に多く、中国・外国に関わらず、新聞やテレビ等の情報で頻繁に見ることができます。これらの報道は確かに私たちの信心を深めてくれるもので、「私は自分の目で見ていないから認めない」と言うことはできません。李老師はかつてこう譬えて仰いました。「あなたは父親や祖父は見たことがあるので認めます。曾祖父や高祖父は見たことがないかもしれませんが、まさか認めないということはないでしょう?」
私たちには見えない事がたくさんあります。現代の科学者は言っています。私たちの目の機能には限界があり、目に見える光波(こうは:光の波動)は、適度な光波だけを見ることができます。私たちが見ることができる光波より長い波であれば見えず、短い波でも見えません。しかし科学の測定器で計測すると、長波と短波は確かにあるのです。私たちに見えないものは、存在しないと言うことはできません。それは事実ではないと言うことはできません。そうでなければ迷信、独断というものです。

佛是非常科學的,他讓我們去證明,宇宙之大,無奇不有。科學家知道空間有不同的維次,有三度空間、四度空間、五度空間;在理論上講,空間是無限度的。而與我們不同維次的空間,我們見不到,也無法接觸。科學家了解有不同維次空間的存在,但是無法突破。佛法不僅了解這個事實,而且也清楚其由來與演變,所以佛法有理論、有方法突破空間。佛法講不同維次的空間,是由一切眾生妄想、分別、執著造成的,眾生的妄想、分別、執著無量無邊,所以空間維次也就無量無邊。知其根源所在,只要消除根源,問題就解決了。
仏は非常に科学的です。彼は私たちに、宇宙の大きさ、あらゆる不思議なことを証明させます。科学者は空間には異なる次元の空間があることを知っています。三次元空間、四次元空間、五次元空間があります。理論上では空間は限りなくあります。私たちと異なる次元空間は見ることができません。また接触することもできません。科学者は異次元空間の存在を理解しています。しかし突破することはできません。仏法では、異次元空間は一切衆生の妄想、分別、執着によって作られたものだと説かれています。衆生の妄想、分別、執着は無量無辺なので、空間の次元もまた無量無辺なのです。その根源の所在を知り、根源を取り除きさえすれば、問題は解決します。

佛法用禪定的方法,降伏一切妄想、分別、執著,於是不同維次空間就突破了。放下得愈多,突破的層次愈深。心愈清淨,接觸的境界也愈廣大;妄念煩惱愈多,生活的空間就愈小,也就無法突破。佛法講八萬四千法門,就是八萬四千種不同的方法,然而這種種法門,皆是修禪定的不同方式而已。換言之,皆是以消除妄想、分別、執著,以恢復自性真心為目的。真心是「心包太虛,量周沙界」,「無所不知,無所不能」。我們學習佛法,就是學習「看破、放下」。真心、本性是我們的根本,現在染上自私自利,才產生問題。
仏法は禅定の方法を用いて、一切の妄想、分別、執着を降伏させ、異次元空間を突破します。たくさん放下【注1】すればするほど、突破する階層はより深くなります。心が清浄であればあるほど、接触する境界も広大になります。妄念の煩悩が多ければ多いほど、生活の空間はより小さくなり、突破できなくなります。仏法は八万四千の法門を説いています。八万四千種類の異なる方法です。そしてこの種々の法門は、すべて禅定を修める異なる方式に過ぎません。言い換えるなら、すべては妄想、分別、執着を取り除いて、自性【注2】の真心を回復させることを目的としているのです。真心は「心は太虚(大宇宙)を包み、量は沙界(しゃかい:無量無辺の世界)を周(めぐ)る」(心包太虚,量周沙界)、「知らざる所無く、能はざる所無し」(無所不知,無所不能)です。私たちが仏法を学ぶのは、要するに「看破、放下」を学ぶのです。真心、本性は私たちの根本です。今は私利私欲に染まっているので、問題が生じているのです。
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 【注1】 放下(ほうげ)・・・・(執着を)捨て去ること。手放すこと。
 【注2】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
 【参考】 仏法は空間を突破する: http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b2be31a023ea2b4e34ae4c17c7c10ecf
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真心是什麼樣子?大乘經講:「真心離念」。換言之,無妄念的心就是真心,有妄念的心就是妄心。最嚴重的妄念就是我執,起心動念以「我」為中心,自己的利益至上,這種錯誤的觀念,縮小了自己的生活空間,也帶來了痛苦與煩惱。現代人甚至連夫妻之間都不能坦誠相見,還有個人祕密,這麼嚴重的我執!除我之外,全世界沒有一個可靠的人,一生不敢與人說真話,這種人生活在世間,就是經上講的「可憐憫者」。而學佛人沒有自私自利,對待任何人都坦誠公開,沒有絲毫祕密。
真心とはどのようなものでしょうか?大乗経には、「真心は念を離れる」(真心離念)と説かれています。これを言い換えれば、妄念の無い心、それが真心です。妄念のある心、それが妄心です。最も重い妄念は我執(がしゅう)です。心の働きは自分の「我」が中心で、自分の利益に最高の価値を置いています。このような誤った観念は、自分の生活空間を狭め、また苦痛と煩悩をもたらします。現代人は甚だしきに至っては、夫婦の間でさえ正直に接することができず、更に個人の秘密を持ちます。これほど深刻な我執です!自分の他には、全世界に誰も頼れる人がおらず、一生人に本音を話すことができません。このような人の世間における暮らしは、正に経に説かれている「可憐憫者」(かれんみんしゃ)です。仏法を学ぶ人に私利私欲はありません。如何なる人に対しても正直に公開して、秘密はまったくありません。

所以,學佛要想有成就,要想求生西方極樂世界,親近阿彌陀佛,如果有私心,即使念佛念得再好,也是枉然。何以故?西方極樂世界是「諸上善人俱會一處」,不但是善,而且是最善、上善,我們不善如何去得了?何謂上善?就是決定沒有自私自利,為虛空法界一切眾生,有如此大的心量,才是上善。有自私自利,即使再大的福報,也只能享受一生。因此,首應拓開心量,絕不為自己,一切為正法久住。正法是教化眾生,幫助眾生覺悟,這是第一等的好事。
ですから仏に学んで成就したいと思い、西方極楽世界に生まれて阿弥陀仏に親しみたいと思っても、私心があるのであれば、どれほど上手に念仏しても徒労に終わります。なぜでしょうか?西方極楽世界は「諸上善人、倶(とも)に一処に会す」(諸上善人俱會一處)であり、善というだけでなく、最善であり、上善なのです。私たちが不善であれば、どうして行くことができるでしょうか?上善とは何でしょうか?それは決して私利私欲を持たず、虚空法界一切衆生の為にという、これほど大きな度量を持っていてこそ上善です。私利私欲があろうと、どれほど大きな福報であっても、ただこの一生で享受するだけのことです。そうであるなら度量を大きく開いて、決して自分の為にすることなく、一切を「正法久住」(正法がこの世に末永くとどまること)の為にすべきです。正法は衆生を教化し、衆生が悟ることを助けます。これが第一等の善事です。

要想社會安定,世界和平,眾生和睦相處,平等對待,互相尊重,互助合作,整個世界是一個大家庭,如何才能落實?政治、武力、經濟、科學、技術均無法辦到,幾千年的歷史,使我們明白,能達到這個目的唯有教育。釋迦牟尼佛是王子出身,武藝超群,可以作國王、作將軍,然而他都捨棄了,終身從事於多元文化的社會教育。用現代的概念來講,釋迦牟尼佛是「多元文化社會教育的工作者」,而且是義務教學,不收學費。每天三衣一缽,過最簡單的生活,清淨自在,快樂無比。
社会の安定、世界平和を思うのであれば、衆生が仲睦まじく、人と平等に接し、相互に尊敬し合い、互いに助け合うことです。全世界は一つの家族です。どうすれば具現化することができるのでしょうか?政治、武力、経済、科学、技術ではどうにもなりません。数千年の歴史で、私たちには明らかです。この目的を達するには教育しかありません。釈迦牟尼仏は王子の出身でした。武芸に秀で、国王になり、将軍になることができました。そして彼はすべてを捨てて、生涯多元文化の社会教育に従事されました。現代の概念で言えば、釈迦牟尼仏は「多元文化社会教育の活動家」です。しかも奉仕の教学で、学費は取りません。毎日、三衣一鉢【注3】で、最も簡単な生活をされていました。清浄自在にして、この上なく満ち足りていました。
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 【注3】 三衣一鉢(さんえいっぱつ)・・・・「三衣」は僧が着る三種の袈裟(僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会)。「鉢」は托鉢に用いる食器の鉢。
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世尊當年在世,遊學五印度(當時的印度與中國周朝一樣,尚未統一),用教學化解了國與國之間的矛盾、衝突。我們在書上常看到,當時十六大國的國王都皈依佛法,依釋迦牟尼佛做老師。在佛教未傳到中國之前,古聖先賢也懂這個道理,所以提倡孝道,提倡師道。漢武帝制定國家教學的方針,也就是國家的教育政策,是根據《禮記‧學記》來實施。《學記》云:「建國君民,教學為先。」這是中國古老的教育哲學。
世尊がご在世の頃、インド各地を遊学され(当時のインドは中国の周朝と同じように、まだ統一されていなかった)、国家間の矛盾、衝突を、教学を用いて解決されました。私たちは書物の中に見ることができます。当時十六の大国の国王はすべて仏法に帰依して、釈迦牟尼仏を老師としていました。仏教がまだ中国に伝わる前、古の聖なる先賢もこの道理を理解していたので、孝道【注4】を提唱し、師道【注5】を提唱しました。漢の武帝は国家の教学の方針を制定しました。国家の教育政策は『礼記』の「学記」に基づいて実施しました。「学記」には、「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」(建国君民,教学為先)と説かれています。これが中国の昔からの教育哲学です。
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 【注4】 孝道(こうどう)・・・・父母に仕える道のこと。親孝行の道。
 【注5】 師道(しどう)・・・・①師に仕えて学ぶ道。②人の師として守り行うべき道。
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國家之治亂,在於教育;家庭之興衰,亦在教育。家能不能興,端父母對小孩的了解,並能及時加以引導,糾正其錯誤的思想。讀書學習志在培養其操守行,智慧、技能是為社會、為國家、為全世界人類而服務,並不是為自己家庭賺錢。諺語說:「一家飽暖千家怨」,若是你一家很富裕,不照顧別人,別人都是你的冤家債主,到你運衰的時候,群起而攻之,你這個家就滅亡了。所以,要學會布施恩於人,自己有能力、有財富,要布施貧窮的人,你的家道永遠不衰。為什麼?貧窮人擁護你,「你是好人,你肯幫助別人,我們希望你發大財」。因此,我們一定要學會幫助別人,幫助社會。我們幫助別人,自己遇到困難時,別人才會幫助我們。
国家の治乱(ちらん:治まるか乱れるか)は教育にかかっています。家庭の盛衰もまた教育にかかっています。家が栄えるかどうかは、ひとえに父母の子どもを理解して、機を逸することなく指導を与え、誤った考えを正せるかどうかにかかっています。読書学習の志はその徳行を養うことにあり、智慧と技能は社会の為、国家の為、全世界の人類に奉仕する為であり、自分の家がお金を稼ぐ為ではありません。諺では、「一つの家が飽食暖衣すれば千の家が怨む」(一家飽暖千家怨)と言います。もしあなたの家がとても裕福で、他人を顧みないなら、他人は皆あなたを恨むようになります。あなたの運気が衰えた時、群をなして責め立て、あなたの家は没落します。ですから恩徳を人に施すことを学ばなければなりません。自分に能力、財産があるなら、貧しい人に施すことです。あなたの家は永遠に衰退しません。なぜでしょうか?貧しい人があなたを擁護します。「あなたは良い人です。あなたは進んで人助けをします。だから私たちはあなたに豊かになって欲しいのです」。このことからも、私たちは人を助けること、社会を助けることを必ず学ばなければなりません。私たちが人を助ければ、自分が困難に遭った時、人は私たちを助けてくれるものです。

財是通貨,像流水一樣,大去大來,小去小來,不去就不來。財不可以積,一積就錯了,佛經講「積財喪道」,所以財要用來幫助苦難的人,多做利益社會、大眾的事情,這是真實功。
「財」は通貨です。流れる水と同じように、多く使えば多く来て、少なく使えば少なく来て、使わなければ来ません。財は蓄えてはなりません。蓄えるのは間違いです。仏経には、「財を蓄えれば道を失う」(積財喪道)と説かれています。ですから財は苦難の人を助けるのに使います。社会のご利益、大衆の事に多く用いることです。これは真実の功徳です。

歸根結柢,學佛就是要放下「自私自利、名聞利養、貪瞋痴慢」,只要把這十二個字放下,學佛就能成佛。你學佛不能成佛,這十二個字總有幾個字沒放下,造成了障礙。佛菩薩之所以能成佛菩薩,就是這十二字完全沒有了。
結局、仏に学ぶとは、「私利私欲、名聞利養、貪瞋痴慢」を放下することです。この十二字を放下しさえすれば、仏に学んで仏に成ることができるのです。あなたが仏に学んで仏に成れないのは、この十二字のうち常に何字か放下していない為に、障碍が生じているのです。仏菩薩(ほとけぼさつ)が仏菩薩に成れた理由は、正にこの十二字が完全に無くなった為です。

我們常說佛菩薩乘願再來,何謂乘願再來?發的願力超過業力,當下就是乘願再來。佛菩薩是什麼願?佛菩薩應化在世間,是為大眾服務,不是為自己。我們念念為我,為我就是業力。身體不是我的,身體是為一切眾生服務的工具,你就是乘願再來,與佛菩薩無別。凡夫與佛只在一念之差,一念迷,迷什麼?這個身是我,一切都為我;佛菩薩覺,覺什麼?身體不是我,身體是為眾生服務的工具,盡量發揮這個工具的作用,為一切眾生造福。不為自己,自己的智慧、福報無量無邊。我們在這裡做一百八十度的大轉變,這一生肯定成就。
私たちはよく仏菩薩の乗願再来と言いますが、乗願再来とは何でしょうか?発する願力が業力を超えていれば、その場で乗願再来となります。仏菩薩は何を願うでしょうか?仏菩薩が世間に応化【注6】するのは、大衆に奉仕する為であり、自分の為ではありません。私たちは自分のことばかりです。自分の為とは正に業力です。身体は自分ではありません。身体は一切衆生に奉仕する為の道具です。あなたは正に乗願再来であり、仏菩薩と区別はありません。凡夫と仏とは一念の差に過ぎません。一念の迷い。何に迷うのでしょうか?この身体が自分だと思い、一切を自分の為だけにすることです。仏菩薩は覚っています。何を覚っているのでしょうか?身体は自分ではありません。身体は衆生に奉仕する為の道具です。できる限りこの道具の働きを発揮させ、一切衆生の為に福を造ります。自分の為でなければ、自分の智慧、福報は無量無辺です。私たちはここで百八十度の大転換を成し遂げれば、この一生で必ず成就します。
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 【注6】 応化(おうげ)・・・・仏菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れること。
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