明日への道 40代障がい職歴なしニートの夢

人生100年時代、残りの人生を楽園とするか?地獄とするか?
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読書が楽しい。そして自分も文章を書きたくなる。

2024年10月26日 | ささやかな幸せ

最近なんだか本を読むのが楽しい。ずっと興味を持っていなかった小説を読みだしてからだ。

いつもIT系参考書や資格試験、そして音楽理論の本しか読んできていなかったが、ここ一か月くらい芥川龍之介の小説を読みだしてからなんだか読書が楽しい。

参考書とちがって自己啓発本や小説はなんだか楽しくさせてくれる。それに比べ参考書は内容を憶えなくてはいけないと強迫観念が生まれる。

小説を読んでみたら、いわゆるマニュアルを書くのと違う文章での表現がなんとも斬新に感じる。そして自分も何か空想世界や妄想シチュエーションを小説のように文章で表現したくもなってくる。例えばずっと憧れのバイクで温泉旅に出る話や女の子との学校での淡い生活などと。

もしこうだったらいいなと思う事を小説にしてみるのもいい。自分の様な人間には惨めさを埋めてくれるかもしれない。書くことでさまざまな思いを解消するのだ。

おそらく自分の現実は変わらない。そして悪くなっていくだろう。それはとても辛いことだ。文章を書くことでそれらから逃避していく、一時的にだ。

映画を観ることとも似ているかもしれない。映画に自分をオーバーラップしたり、映画の世界に入り込んで現実を忘れるといったように。

同じ逃避でもお酒やギャンブルに溺れてしまうよりはよいだろう。何かよい作品が書けたらネット小説サイトにて発表してみるのもオツなものだ。

 

 

 

 

 

 

 

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散歩ができるだけでも。何か意味を求めすぎていないか。

2024年10月25日 | 日々精進

散歩へ出かけられるだけでも。この事を忘れていないか?閉鎖病棟での生活では自由に散歩へ出かけられなかった。

やっと病棟の外へ出られて外の空気を吸ったときに思いを忘れていないか?次々と欲望を膨らませていないか?

あの事を思えば今は見違える様子。一人で電車にも乗れた。ラーメン屋へ食事にも行ける。自分は欲深いと思えてくる。人間に嫌な面だ。もっともっととなっているのだ。

欲を満たすことを想像するのが時に楽しくなる。実際に手にしていないが手にしたことを想像するのが快感になる。

何か商品を欲しいと思うとしよう、手にしていない時がその商品の事を思い巡らす。しかし実際に購入したら現実に落ちる。楽しくなくなる。こんな事はないだろうか?

これは脳科学なのだろうか?ドーパミンの分泌だ。楽しいうれしいと思うことは必要だ。しかし溺れてはいけない。自制も大切だ。

 

どこまでの欲望や快感を自分は求めていいのだろか?自分の身分相応にだ。禁欲すぎるのも窮屈だ。ケチもこれもちょっといただけない時がある。

それを考えておこう。年末商戦も来ることなので。

 

 

 

 

 

 

 

 

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抑圧しているのか?意欲がないのか?諦めているのか?

2024年10月24日 | 夢への道

自分はやっぱり意欲は乏しいのか・・・近所へ少しだけ外出したらそう思った。

朝起床して満員電車に乗って会社へ行き8時間働いてまた電車で帰宅する、そんなことはもうできないと言われている。すると経済的に困窮するわけである。

なんだか興味を持つ感覚が芽生えてもすぐに収まる。諦めからの抑圧でないか?と感じる。つまり何か行う経済的余裕がないので意欲を思わないようにしているのだ。

我慢をしているとも言えるがなんだか感覚が変だ。あまりストレスに感じない。むしろ意欲を面倒なものととらえている。

いったいどうしてしまったのか?普通もっと欲望が表れるのでないか。もしかしたらとても満足をしているからかもしれない。老いたからかもしれない。

いつも表情は無表情だ。笑うことはない。他人にも笑わない人と言われることがある。病気の症状かもしれない。

物凄い躁になってたくさんお金を使ってしまったり他人を巻き込んだりはしていないのでまだよいのだろうか?でも少しだけなんだか物足りなさのような感覚を感じている。

自分の本音に素直になれたらいいのだろうか?少しくらい羽目を外してもよいのだろうか?よくわからない。

楽しい、うれしい、わくわくする、やはりこの気持ちが自分には必要で大切なのだろう。

 

 

 

 

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意欲は乏しい。でもなんだか毎日楽しいような。

2024年10月23日 | 大切にしている事

なんだかんだ意欲は乏しい。俗世間の人たちと比べるとだ。

食事もカップ麵やお弁当屋さんのおにぎりをごちそうに思い十分である。美味しい。こんな様子なのでメニューにやる気ないように見えかもしれない。

ここ数日の躁も落ち着いてきた。また布団の上か近所のスーパーへ行くだけになった。時としてブックオフへ行く。

欲しいものは実際としてない。本当にお金を握りしめて購入しようとするまでのものはない。ネットで見ていていいなとは思うはそこまで突っ走らない。

なんだかつまらない様な・・・でも、少し近所を歩くだけでスッキリとして楽しく感じる。今日何かを行ったという気分になるのだ。

今あるもので生きる、そんな風になれてきたのかなと。

こうなりたいといった事を思うというのは、現在に不満があるということ。今までずっと将来こうなりたいそんな事ばかりだった。よっていつもイライラしていた。自分にも他人にも厳しくて心が固くなっていた。そして転落していった・・・

10年前に閉鎖病棟で過ごしていた状態からみると今は本当に見違えるようだ。これでも向上して前に進んだのだと。

就労はできていないが、以前の様に不満やイライラとしていない。今あるもの持っているもので生きようとしている。

なんだか幸せを少し手に入れたという事なのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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どうせニートなのに。平日と土日の過ごし方。

2024年10月22日 | 日々の生活

どうせニートなのに。しかし何故か平日と土日で過ごし方の意識が違う。平日は落ち着いて堅実に土日は開放的にと、なんだか自然とそんな様子になっている。

これは就学や就労をしていた時の習慣が体に残っているせいか。それとも何か脳は覚えていたのが蘇ったのか。

閉鎖病棟に数年間いたときはどんな感覚だっただろうか。あまり覚えていないが病院のスケジュールによって何か週間感覚があった気がする。曜日によって病棟でのスケジュールが組まれりしていたからだ。

閉鎖病棟でも土日はなぜか開放的な感覚があった。特に日曜日の朝はなんだか落ち着いた神聖な雰囲気を感じた。そして始まりの感覚がする月曜日を迎える。

 

人は週間感覚が無くなったら本当に社会性を失ってしまったという事なのだろうか。週間感覚は世の中の常識から生まれ培われるものだと思う。よって無くなってしまうというのはそれこそ世捨て人なのだろう。

今の自分には土日、特に土曜日に解放感が生まれる。パーっと何かが開け開放的になるのだ。土曜日こそが一番好きな曜日だ。だが現在はニート、毎日を土曜日にしてもいいわけだ。でもそれがなれない。変な生真面目さがあるのか。

もっと自分の本音に自分を向け、毎日を土曜日にしたいのだろう。ニートでいいんだ楽しい事をやっていたらいいんだ。

人生は有限、同じ期間を意味のない自責をして悶々と過ごすのはナンセンスだ。少しでも人生をよくしたいならニートを楽しむんだ。その時間がその時間なのだから。

 

 

 

 

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