耳順庵日記

60歳を超えて、生き馬の目を抜く首都圏の生活にカムバックした。
浦安太郎が見た、都会の意外な側面を綴ってみたい。

お正月

2008年12月30日 07時06分23秒 | 都会の風景
 子供の頃、冬休みは忙しかった。
クリスマスが過ぎるとすぐお正月の準備が始まるのだ。
 町は歳末大売出しの幟がはためき、注連飾りの屋台小屋が角々に出来る。
買い物について行き、抽選券でガラガラくじを回す役を兄弟で争った。
魚市場に大きな鰤を一本買いに行ったこともある。子供の目で大きいと思った
だけで、そうでもなかったかも知れないけど。
大晦日は紅白をラジオで聞きながら年越しそばを食べて、台所のお節の準備を
見ていた。風呂に入ったら、新しい下着を枕元に置いて寝たものだ。

 お正月の朝は厳粛だ。起きたらまず初日の出を拝んで、若水を汲んで、家族
揃って干し柿とお茶で新年の挨拶だ。お雑煮は、年の数だけお餅を食べること
になっていて、頑張ったもんだ。「元日や餅で押出す去年xx」と父がおどける。
年賀状を取りに行くのも競争だった。
どういう訳か九州では三社参りの風習があり、小倉の八坂神社、門司港の和布
刈神社あたりに繰り出した。

 お正月と言えばかるたである。母の影響だろうか、小学校の頃から百人一首
をやるようになった。最初は坊主めくりだが、少しずつ歌を覚えて、札を取れる
ようになった。お屠蘇気分の父が読み役で「~~運動会 赤勝て白勝て紫色
勝て」に、少し考えてから「そんな札は無いよ」と文句を言ってから始まった。
始めはちらし、少し大きくなったら源平で得意札を競ったものだ。相手がお手
付きをすると自分の得意札を渡して、それを狙うという高等戦術も親から教わ
った。
 天津風や大江山は母の十八番で、嵐吹くは絵札の能因法師の顔がおかしい
ので、子供たちの人気者だった。私は訳も分からないまま筑波嶺やみかきもり
などを得意札にしていた。

 ゆるゆると孫等と競え歌かるた
 子ら集い歌留多などする夢を見ん
 初夢は孫に教える囲碁将棋    蛙蝉

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