耳順庵日記

60歳を超えて、生き馬の目を抜く首都圏の生活にカムバックした。
浦安太郎が見た、都会の意外な側面を綴ってみたい。

暴力での問題解決

2015年11月17日 09時37分07秒 | この頃思うこと
暴力で問題解決しようとする姿勢には、極めて抵抗がある。



 11.13のパリのテロの翌日に、報復の空爆に出撃したフランスは、
問題解決に一歩前進したと思えるだろうか。やられっぱなしで
我慢すべきとは思わないし、再発防止のために警戒を強め、捜査を
強化するのは当然だが、空爆が解決手段だとも思わない。

 9.11の報復で、中東の混乱とイスラム国を生み出したのは、
ブッシュ率いるアメリカだったでは無いか。


 歴史を振り返れば、平和な民主国家は、大部分が戦争によって
実現している。農民一揆、独立戦争、革命戦争がそうだ。
 封建的な独裁政治が残る地域では、周囲の、利権目当ての先進国を
頼りにしないならば、未だに革命戦争が問題解決の手段かも知れない。
 共産主義の教義にも、暴力革命があるし、国家間の戦争抑止力と
して軍事力を必要だとするのは、常識かもしれない。

 社会の秩序を維持するため、警察はどこの国にも在るが、これも
必要な暴力組織だろう。北朝鮮のような、議論が通用しないならず者
国家は、国際警察としての国連軍に任せるしかないのかもしれない。


 しかし本当にそうだろうか?
今でも、そうだろうか?


 ベトナムでアメリカは何故負けたか。
2-3発原爆を使えば、ベトコンを抑える事はできたかもしれないが、
その前に核戦争で地球は無くなっていただろう。
 核抑止力は幻想であると自覚した米ソは、核軍縮を進めたが、
核兵器は無くなっていない。

 抑圧されていると自覚しているテロ集団は、核兵器を使うことの
危険性を認識している保証はあるだろうか?

 北朝鮮には何らかの対応が必要かも知れないが、中国の脅威に
軍事力で対抗する事に、果たして意味があるだろうか?
 確かに中国は、国内の少数民族や、多くの国境線で小競り合いを
繰り返していて、軍事力行使の常習国ではあるが、尖閣で自衛隊と、
或いは米軍と砲火を交じえる事があり得るだろうか?
そうなる前に何らかの外交交渉の機会がないだろうか?


 繰り返した十字軍でパレスチナの惨状を生み出したのは、左の頬を
打たれたら右を出せ 、と教わっているはずの欧州各国であった。

 何故右の頬を打たれたかを反省して、黙って左側を差し出す事は、
確かに難しいと思う。
 幸いにして、憲法の制約によりそうせざるを得ない国が、報復の
手段を求めて憲法違反の道に突入した事を反省するのは、いつだって
遅くは無い。

 今や、宣戦布告して戦闘行為を始めるような戦争はあり得ない。
ちょっとした小競り合いをきっかけとして、いつの間にか戦闘が
継続していく。国と国の間の戦闘だけでは無い。ゲリラ戦は、
誰が敵かわからない状況で闘う事になる。

 国と国が争う戦争と、国を超越したテロ組織との戦いとの間に、
区別が無くなってきている。戦争には参加しないけど、テロには
対抗する、なんて都合の良い言い訳は通用しない。
アメリカに言われたら、戦争だろうがテロだろうが、おっとり刀で
出ていくことにしてしまって良いのか。



 安易に武力を欲しがるのではなく、武力行使を避ける手段を求める
ことこそが、日本の進むべき道では無いだろうか。
 その為には、実用的な理科系だけでなく、大局的な判断が出来る
文科系の人材が、必須であろう。

 教育のあり方も問われていると思う。

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